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視点・論点 「枯葉剤 いまだ癒えぬ傷痕」2011年10月12日 (水)
ドキュメンタリー映画監督 坂田雅子
ベトナムでの枯れ葉剤問題が私の身近に迫ってきたのは8年前、アメリカ人の夫グレッグ・デイビスの急な死によってでした。彼は体の不調を訴えて入院してからたった2週間で逝ってしまいました。
グレッグは1967年から1970年まで米軍兵士として南ベトナムに駐留していました。
彼の死が枯れ葉剤のせいだったのではないかと聞いた私は、その喪失感から何とか立ち直ろう、枯れ葉剤についてもっと知ろうという思いから映画を作る事になりました。
夫をなくしてから枯れ葉剤についていろいろ調べ、ベトナムでは何百万という人が未だに健康上の問題を持っている事を知りました。人ごとのようにしか受けとめなかっただろうこの問題が、今の私たちの生活とも密接に繋がっているのだということを知らされたのです。
初めてベトナムを取材で訪れ被害者に会ったころ、私はとにかく空虚な気持ちでした。自分の悲しみに押しつぶされそうになっていた私でしたが、
貧困と苦悩の中で家族をすごく労りながら生活をしている人たちを目の当たりにして、悲惨さというよりも、温かさと、けなげに生きているところに心を打たれました。
枯葉剤の被害者を撮影している時はカメラをとおして被写体の世界に吸い込まれるようでした。カメラの向こう側にある貧困と苦悩の中に家族の愛を見いだし、何か暖かいものが私のなかにも流れ込んでくるのを感じました。
枯葉剤の被害者に会ったり、その事実を調べていくうちに、遠い過去、遠い国でおこったことも私たちの日々の生活と密接に結びついているということ、
夫の死という個人的な悲しみも連綿と続く歴史の流れの中にあり、私一人の悲劇なのではないという事に気付かされ、そこからあらたな一歩をふみだすことが出来たように感じます。
一作目の『花はどこへいった』をつくったのは個人的な動機からでしたが、製作を通じて個人的な悲しみが普遍的な悲しみとなり、世の中の理不尽な出来事の多くが根を同じくしているという事に気づきました。以前はそれほど真剣に考えなかった環境問題、世界各地で起きている紛争が決して日々の私たちの生活と無関係ではないこと、そしてその他の世の中の矛盾から生まれでている多くの犠牲や不正が見えて来ました。根が見えてくるとそこから派生しているものに惑わされにくくなります。
「花はどこへいった」が出来上がって、私の中では何かひとつの区切りがついたように思い、さあ、これからは何か他の事をしようと、考えたのですが、上映や講演を続ける間に、何度かベトナムの被害者を訪問する機会がありました。そして、まだ、物語は終わっていないと言うことに気づいたのです。私は枯葉剤の問題をもっと広い脈絡で捉える必要を感じました。自分の身近からでた、等身大の問題だったのですが、それをより歴史的な視点、政治的な視点から見ることによって、一作目で捉えることの出来なかったより広範囲の観客に訴える物を作りたかったのです
枯れ葉剤についていろいろ調べている中でであったレイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、ケネディー大統領がベトナムでの枯れ葉剤散布を許可した1961年にはほぼ書き上げられていました。そして大統領は、翌年この本が出版されるやいなや、アメリカでの農薬よる害を危惧し、科学者による調査委員会を設置しました。ところが、同時にベトナムでの散布がどんどん増えていったのです。この符号に私は偶然ではないものを感じ、その理由を突き止めたいと思いました。アメリカでのマーケットを失った農薬製造会社が、アジアでの軍事的使用を思いついたのではないかと思ったのです。
その証拠を見つけることはできませんでしたが、調べていくうちに『沈黙の春』と枯葉剤によってもたらされた環境と人間の破壊がまさにレイチェル・カーソンが50年前に予言していたものだときづきました。
そのうち、アメリカのべトナム帰還兵の子供の中にも障害を抱え苦しんでいる人びとが多くいることを知りました。彼らの多くは私とグレッグに子供がいたら同じくらいの年代です。彼らの父親は既に亡くなっていたり、重い病気やPTSDにいまも苦しめられています。
彼らとの出会いはAgent Orange Legacy というソーシャル・ネットワークを通じてでした。グループの何人かの次世代被害者の方々が喜んで取材を受けたいと聞いた時は、不安と期待が入り交じった気持ちでした。
アメリカは広いです。被害者たちは全国に散らばっています。
入念に無駄のないように旅程をくんで、私は取材旅行にでました。2010年6月のことです。一週間でメイン、オハイオ、フロリダ、テキサス、カリフォルニアをカバーし5人の被害者とあいました。
共通しているのは枯れ葉剤によって人生を大きく変えられたということ。それぞれのひとにほぼ一日がかりでインタビューしました。皆、それまでせき止められていた思いが一度に噴出したかのように、ここ、30年から40年間の枯葉剤よってもたらされた辛い経験を話してくれました。それぞれの話しに圧倒されました。
なかでもことに全身無毛症で、子宮を持たずにうまれた、シャリティーの言葉はいまも心に響いています。
2作目の『沈黙の春を生きて』は彼女たちの思いによって魂をあたえられました。
映画の完成をまじかにした3月11日、あの大震災がおこりました。レイチェル・カーソンは「化学物質は放射能と同じように不吉な物質で世界のあり方、そして生命そのものを変えてしまいます」と警告していましたが、その予言はより厳しい形で、今、ここにある、現実となってしまいました。
私たちはかつてない試練の時を迎えています。
枯葉剤、ダイオキシン、戦争だけでなく、自然災害、環境破壊、原発と私たちの周りには問題が山積しています。その中で一人一人がどう生きていくのかが、今までになく問われていると思います。
私は映画の上映を通して日本各地で、コツコツと平和のため、よりよい支え合う社会を実現するため努力をつづける多くの方々に出会って来ました。「花はどこへいった」や『沈黙の春を生きて』のような、悲しく重いテーマの映画を心を開いて受けとめ、世界の平和について真剣に考える人たちにこの映画の上映を通じて出会ったことによって、私は日本がこれからの国際社会で果たせるであろう役割についても希望を持ち始めています。一人一人は微力かも知れませんが、その草の根の努力がある日世界の流れを変える事ができるということを信じたいと思います。
そして日本は、今度の災害の困苦を乗り越えたとき、人類のあるべき姿について、世界に発信できる国になることを願っています。