試験勉強のお話である。
その内自分の子どもに教えることになるかも知れないシリーズ。思い出したので忘れない内にメモしておく。既出かどうかは知らない。
学生の頃からやっていたことなのだが、選択問題を解く際、ちょっと難しい問題だなと思った時には、5つのステップに分けて勉強していた。で、自分が勉強していたやり方を、家庭教師や塾講師のバイトで教えてみたら、これがそれなりに評判が良かった。
主にセンター試験対策で、現代文・古文の文章題を解く時に使っていた勉強法なのだが、多分ある程度一般化出来ると思う。下のようなやり方だ。
1.選択問題を解く
2.正解がどれだったか、それが何故正解だったのか、を確認する
3.正解以外の選択肢に注目して、「それは何故間違いなのか」を重点的に確認する
4.出題者が、「どういう間違え方を期待して」その選択肢を作ったのか、を考える
5.自分ならばどういう問題と選択肢を作るか?を考える
重要なのは3,4,5である。
2番まではどんな先生も普通に教えると思うが、3番以降を教えていた講師さんは、当時意外と少なかったように記憶している。というか、私がバイトしていた塾(小さな塾である)には私以外いなかった。もっと大きな塾や予備校では珍しくなかったのかも知れないが。
この勉強法の目的は、大きく分けて2 + 1個ある。
・「間違わせ方」のパターンを学ぶ、ということ
・出題者の視点を意識することによって、文章をより深く読むことが出来るようになる、ということ
・出題者の視点を意識することによって、出題者も同じ人間に過ぎないと認識出来る、ということ
まず第一に、選択問題において、「間違わせるパターン」というものは意外と少ない。
長文読解のお題をそのまま書くわけにもいかないので、ちょっと例示が難しいのだが。例えば、現代文の問題で、「下線部の「あいつ」とは誰のことなのか、次の中から選びなさい」という問題があったとする。
これも例えばの話なのだが、この時、選択肢を詳細に見てみると、こういうパターンに分類出来たりする。
・正解の人物
・そもそも下線部の文章近辺には登場しない人物
・正解の人物を「私」とした時、「あなた」の位置に該当する人物
・正解の人物を「私」とした時、「彼」の位置に該当する人物
飽くまで例えばの話なので、細かい点は勘弁して欲しい。ただ、上のようなパターンに分けて、選択問題をいくつか分析してみると、色々な選択問題で似たような分類が出来たりする。「間違わせ方」のパターンは意外と少ないのだ。出題者も人間なのだから、正解の選択肢に意を払うことは出来ても、「間違いの選択肢」にそこまで気を使っていられない、という事情もある。これは、選択問題の大きな弱点である。
で、「間違わせ方」のパターンを幾つか知っていると、他の選択問題にも応用出来る。これは何か間違いくさいな、これは間違いを誘導しているくさいな、というのが分かるようになってくる。
「間違わせ方」のパターンを学ぶと、消去法に強くなる。これが一つ目の目的である。
第二に、出題者の視点を意識することで、文章をより深く読むという習慣が出来る。
「問題を作る」立場というのは、「問題に答える」立場よりも実はかなり厳しい。問題には必ず答えを用意しなくてはいけないし、答えが的外れなものだったら目も当てられない。用意する選択肢は、簡単に分かってしまうものでもまずいし、訳が分からない程難しくてもまずい。
「問題を作る」為には、単に問題を解く以上に、題意に精通していなくてはいけないのだ。これは、文章題である限り、英語でも数学でも社会でも理科でも同じだと思う。
そこで、「自分で問題を作ってみる」という勉強をしてみると、題意のどこが理解出来ていないのか、凄くよくわかる。完璧に理解出来ていないと問題は作れない。そして、「問題を作る程度に文章を理解する為には、どういう読み方をすればいいか」というのが分かってくる。
単に問題を解く側にいるよりも、一段深く文章を読解出来るようになる。これが二つ目の目的である。
第三はおまけ、というか、刺さる生徒も刺さらない生徒もいたのだが。出題者も自分と同じ人間である、ということが分かることによって、試験に「飲まれる」ことが無くなる。これは心理的な問題である。
一般に、テストを受ける生徒というものは、試験問題を何か絶対的なものと受け取ってしまい勝ちである。知識としては「同じ人間が作っているもの」と知っているのだが、認識がそれについていかない。試験問題に対して、「理解が及ばないもの」「自分より遥かに上のレベルの人物が作ったもの」というような壁を作ってしまう。
これによって、なんというか、「試験の雰囲気に飲まれてしまう」という生徒さんが結構いたのだ。授業では良く出来るのに試験では実力が出せない、という生徒さんの中には、そういうパターンの子が少なからずいた。
そこで、「自分でも問題を考えさせてみる」。すると、出題者も結構苦労するもんだ、とか、出題することも難しいんだ、出題者にもミスがあるんだ、ということが分かる。言ってみれば、「出題者も同じ生き物なんだ」と実感出来る。大したことないんだ、頭のレベルが全然違うわけじゃないんだ、と分かる。
これによって、言ってみれば試験を「なめてかかれる」ようになった生徒さんはそこそこの数いた。心理的な話だが、案外馬鹿にならない。
センター試験については、勿論結果が出た子も出なかった子もいたが、それなりに教え方の評判は良かったと思う。結果、私がバイトを始めて3か月後くらいから、他の講師さんにも取り入れて頂けるようになった。もしかすると今でも教えられているかも知れない。
と、長々書いてきたが。「選択問題」という広い領域についても、勉強法にひと工夫すると結構いい結果が出ることがありますよ、という話だった。
現役受験生の方は受験勉強も佳境かと思いますが。みなさん頑張ってください。
2012年10月05日
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/295598095
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.seesaa.jp/tb/295598095
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
これってまさに「受験のための勉強」でしかないですよね。
特に現代文の場合、課題分の面白さや意味より出題者の意図とか罠を計算するのは浅薄な態度にしか繋がらないと思います。
受験には成功するかもしれませんが、文章がまるで読めない人間に育つと思いますよ。空気は読めるようになるかもしれませんけどね。
受験のための勉強とは違い、論理性を身につけるのに良い手法だと思います。
商品の売り文句を考えた人の立場で考えたり、
恋の悩みを相談してきた人の立場で考えたり、
人生でも応用できますよね。
伊集院光とか、くりぃむしちゅーの上田晋也とか。
「当たり前すぎる答えだと番組として面白くないし、正解VTRで『え〜!』ってなる答えだと思うんだよね。で、『実はスタジオにも用意しました』ってなる展開まで読むと、答えはこれかな?って」という感じで。
…にしても、最初に「試験勉強のお話」って断ってるのに。
"文章がまるで読めない人間"っているんですね。
「試験勉強はゲームである」という風に更に振らないといけないですね。試験合格してもその後へたれるんですよ・・・。
物事が読めない人間もいっぱい居るんですね。
発信者の意図を察する習慣は新聞やTVに目を通す時にも応用が効くので
義務教育時代には学んでおきたい事柄ではないでしょうか。
日頃から文章を読み慣れてないとなかなかこうはいかないと思う。自分が高校生の頃だったらやり方を教わっても無理だったかもしれないな。
受験のための勉強どころか、実社会でも相当応用が効くんじゃないかと思うよ。
意図的に間違った情報を与えられても、既知の情報からその嘘を見抜く訓練になってるし。
(時間や決められたカリキュラム等で)制限のきつい学校教育の中で
教えてくれる教師っているんですかね……
いたとしてもなかなか数がいないのでは。
採点もしづらいでしょうし。
「実社会でも応用が利く、"論理的に読み解けるようになる"能力の訓練を
教えやすい実用レベルにまで落とす」という意味でこの記事は有益であるように思います。
課題文の面白さを重要だと考えていても、
ブログで具体性のない(思います...思います...かもしれない...)偏見に基づいた
レッテル張り攻撃を続けるようでは困りますね。
「試験勉強がうまくいっても、その後へたれる」というのも根拠のない印象、または個人的な体験に基づくものですよね。
そもそも"へたれる"とは何をさしているのでしょうか?
向こう側の立場に立って考えるというのは重要な作業です。有益というよりは、姿勢が身に付くでしょうね。最終的には問題(出題者)を評価できるところに至る(というより、自分に投げかけてきた側を評価する姿勢につながる)のがいいです。
選択肢の誤っている箇所に傍線と×印を付けて選択肢を消し、見直しに使った
だけど4,5までは思いつかなかったなぁ。
アホな書き込みを見つけたので晒しておこう。
本質的に賢くなれる勉強法だと思いますね。
日本の会社ではまさにこのような人材が喜ばれる。
その訓練としてはうってつけ。
自分の導きたい意見しか見えないというか。
それこそ"喜ばせる人材"を生む態度なんじゃないのかと。