眠い人の植民地日記

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<<   作成日時 : 2011/09/20 22:52   >>

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今日明日は台風に翻弄されそうな日ですね。
何か、日本全国、満遍なく災害がやって来ている様な気がします。
でもって、例によって東京周辺だけは何も無かったりして…。
いや、その反動が非常に恐ろしいのですが。

さて、今日は英国面について。

英国の植民地支配の方式は、植民地行政官のフレデリック・ルガード卿によって理論化され、実施された、「間接統治」と呼ばれる方式でした。
フランスの方式は、植民地行政官が直接住民を支配すると言う直接統治ですが、英国の場合は、現地の支配機構、即ち、王や首長を温存して住民の支配を行わせ、植民地行政官はその監督に当たるという支配形態です。
これをインドでやって成功を収めた事から、アフリカにも適用した訳ですが、この方式は直接支配が人的にも財政的にも大きな負担になる事から考え出された方法であり、アフリカの伝統的社会機構に敬意を払ってのものではありません。
この為、ナイジェリアのイボ人の社会や、ケニアのギクユ人の社会の様に、元々首長を持たなかった社会に無理に首長制を導入して住民の反発を招く事もありました。

しかし、フランス方式と異なり、現地人の社会をある程度温存しての統治方式である事から、行政用書記言語として幾つかの主要な現地語が採用されました。

それが最も進んだのがスワヒリ語です。
元々、スワヒリ語と言うのは土着言語から発達したものでは無く、東アフリカのインド洋沿岸地方において、7世紀以来アラブ人やペルシャ人商人とアフリカ人との間で行われていた交易言語でした。
早くからアラビア文字を用いた書記伝統を持ち、19世紀にはアラブ・スワヒリ商人による内陸交易を通じて東アフリカ一帯に広がる広域言語となっていきます。
19世紀のベルリン会議でタンガニーカを獲得したドイツは、この広域言語を行政言語として用いる事を決定し、第1次世界大戦後、その支配を引き継いだ英国もこれに倣いました。

更に、スワヒリ語が通じるケニア、ウガンダも領有していた英国は、1925年にこれら総ての植民地に於ける共通語としてスワヒリ語を採用する事にし、その標準語化の為の調査委員会を発足させ、無数の変異形と幾つかの大方言の中から選ばれたザンジバル方言に基づいて、ラテン文字による正書法が制定される事になります。

1930年には領土間言語委員会が置かれ、スワヒリ語の正書法制定、初等教育用の教科書検定、スワヒリ語による出版事業が行われました。
元はと言えば、この言語政策は、行政コスト節約が最大の理由でしたが、スワヒリ語が教育言語、行政言語として整備され、標準化した書記言語となった事は、独立後のタンザニアの言語政策に大きな影響を与える事になります。

植民地住民の教育に関しては、フランス植民地と同様に、英国もキリスト教宣教団に大幅に依存していました。
これもコスト節約が目的で、若干の補助金と保護を与え、植民地行政の為に必要な下級官吏や助手の要請をこれらの宣教師団に任せる事で、植民地行政府が一から住民を教育するコストが抑えられます。

英国領で活動していたキリスト教宣教団は、主にプロテスタント系の宣教団でした。
彼らは、植民地行政府より遙かに植民地のアフリカ人に対する「文明化」に熱心であり、しかも彼らはアフリカ人の歓心を買う為に、聖書の現地語への翻訳と現地語による出版を重要視していました。

宣教団によって書記言語として整備され、標準化された上で教育や出版に用いられて発展した言語の代表的なものは、南アフリカで19世紀初頭から整備が始まり、19世紀後半には多数の出版物を生み出すまでになっていた「コーサ語」です。
元々、「コーサ語」なる言葉は存在せず、言語的にも民族的にも統一されていなかったングニ系の様々な言語変種から、「コーサ語」と言う標準語が切り離され、作り上げられただけで無く、「コーサ」と言うアイデンティティまでもが宣教団によって作り出されていきました。
これが遠因になり、後のアパルトヘイト政策の元でのバンツースタン政策に繋がっていく事になるのですが、取り敢ず、幅広く用いられる標準化された書記言語が作られたのは事実です。

ナイジェリアのヨルバ語も又、19世紀以来の宣教団による書記言語から始まって、1930年代にはヨルバ語による新聞の発行まで行われています。

注意しなければならないのは、これらの言語はあくまでも植民地経営の為のツールとしての存在であり、英語と英語文明の無条件の優位というのは、植民地行政、或いはキリスト教宣教団にとって自明の事でした。
この様な価値序列の刷り込みは、当然のことながら宣教団の学校で西欧式教育を受けたアフリカ人エリートの意識に対しても行われており、間接統治の制度の中で植民地支配に利用され、そこから利益を引き出す伝統的支配層とその言語は、彼ら西欧式教育を受けたアフリカ人エリートにとっては、反動的なもの或いは後進性の象徴と見る様になってしまいます。
これが、その後の植民地解放闘争の過程で、屡々過激な行動を招く切っ掛けになる訳です。

一方、ベルギー領コンゴの場合について見ていきます。

この地は元々瘴癘の地であり、列強の誰も顧みる事が無かったのですが、ベルギー国王レオポルド2世の私的植民地としてこの地を獲得する事に成功します。
しかし、その支配は非常に残虐かつ乱暴なものであり、それに対する国際的非難の結果、私的植民地は取り上げられ、1908年に正式にベルギー領となりました。
そして、その国際的非難に対応する為にベルギー政府が掲げたのが、「アフリカ人の文明化」と言う建前でした。
事実、初等教育にはかなりの力が注がれ、ベルギー系カトリック宣教団の経営する学校に補助金を与える事で、教育を振興すると言う目的に対しては相当な成果を挙げています。
この為、他のどの国の植民地よりも初等教育就学率は上を行っていました。

ベルギー政府の言語政策の基本方針は、フランス語を最上位に置き、同時に地域共通語を標準化し発展させるというものでした。
その方針の下で、特に都市部に於ける初等教育の普及は、フランス語とともにリンガラ語、コンゴ語、ルバ語、コンゴ・スワヒリ語の4つの地域共通語の標準化と普及を齎しました。

とは言え、ベルギー政府が努力したのは初等教育までであり、フランス語に堪能な植民地エリートを育てる中等以上の教育は甚だしく遅れ、1960年の独立時点でも大学卒業者が僅か16名でしかありません。
この植民地エリートの不在が、独立直後から発生したコンゴ動乱の一因になる訳ですが、そもそも、ベルギー政府にとってフランス語は支配者の言語であり、アフリカ人には必要ない、と言う姿勢があったが故の問題でした。
これは逆にアフリカ人にフランス語への希求を育てる事になり、1962年には混乱の中でフランス語を総ての段階で教育言語とすると言う大統領令が出され、1965年のモブツ政権成立以降も、地名や人名始め植民地支配の影響を排除し総てをアフリカ化するという、「オータンティシテ」が唱えられたにも関わらず、フランス語の優位は寧ろ独立後に強まっていきました。

これはドイツ領からベルギーの支配下に入ったルワンダとブルンジでも同じで、ルワンダ語、ルンジ語がそれぞれ教育言語として使用され、書記言語としてある程度整備されましたが、この地の場合は、ツチ人とフツ人を差別する政策が採られた為、同じ言語を共有するにも関わらず、その人々を分断し、遂に1994年の大虐殺を引き起こす遠因になっていった訳です。

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