フランス語は「フランス人」を創出するか:

植民地帝国におけるアリアンス・フランセーズによる言語普及戦略について

西山教行

 

0.はじめに

フランス共和国は「共和国の言語はフランス語である」(共和国憲法第二条)と規定しているが、「フランス語は共和国の言語である」とも、「フランス語はフランス人の言語である」とも規定してはいない。というのも、現代世界の各地において、フランス語は実にさまざまな理由から、さまざまな程度や相違を併せ持って使用されており、フランス語がフランスで生まれたことは間違いないにしても、もはやフランス人の占有するものではないからである。

ところが、フランス語とフランス人の一体性を強く主張し、その一体性の強化を求めたり、フランス語を話すものを「フランス人」とする政策が国策として実践されていた時代がある。フランス植民地帝国におけるフランス語普及・教育は言語同化主義という植民地政策の一環であり、これはフランス語普及・教育により「フランス人」を創出することを究極の目的とするものであった。

本稿は、フランスが帝国主義的領土膨張政策を実施していた時代に、フランス語普及・教育がどのように実践され、「フランス人」の創出がどのように画策されていったのかを検証したい。そこで、この目的を達成するために重要な役割を果たしたアリアンス・フランセーズ(以下AFと略記)を言語普及の媒体としてとり上げる。そしてAFの企図したフランス語普及が「フランス人」の創出にどのように寄与したのかを考察しよう。

 

1.帝国拡大政策の軌跡

    はじめに植民地帝国拡大の軌跡をたどろう。AFが求めた活動の場が、世界に広がる植民地帝国だったからである。

フランス植民地帝国とは何か。それはフランス本国の一部としてのアルジェリア、植民地ならびに保護領全体を包括する帝国の版図を指す名称である。この名称が用いられるようになったのは1890年以降のことで、それも植民地主義の拡大発展を訴えるさまざまな「植民地党」グループのメンバーによるところが大きい [1] 。そして植民地帝国という地政学的名称が一般大衆に知られるようになるのは、フランス植民地主義の絶頂期を象徴する、1930年の植民地博覧会以降といわれている。ところで第三共和政(1870-1940)は、普仏戦争の敗北による第二帝政の崩壊をうけて、フランス大革命の正嫡として共和主義思想の普及に努めることを使命として成立した政体である。この一方で、国外への帝国主義的植民地開発に本格的に乗り出し、領土膨張政策を次々に展開した政体という側面も持つ。

    帝国拡大の歩みは1880年から急速化する。1880年にはコンゴの事実上の保護領化をうけて、ガリエニ将軍(Joseph Gallieni, 1849-1916)はスーダン(現在のマリ)制圧に乗り出した。1881年にはそれまでの植民地アルジェリアを併合し、法的にフランスの延長線上に定め、本国との行政上の同化を実現する。チュニジアを、第三共和政に特有の「保護領」という形態の植民地に変容させるのは同じ年のことである。一方、アジアでは、軍事的征服を完了した植民地コーチシナ、保護領アンナン、トンキンに加えて、カンボジアを統合して、1887年にインドシナ連邦を編制する。さらにラオスを保護領と定めて、インドシナの拡充を図るのは1893年のことである。1891年にはニジェールの占領、1895年にはそれまでに占領していた西アフリカを統合し、仏領西アフリカ(AOF)を編制する。インド洋に面する戦略拠点マダガスカルの保護領化を実現したのも同じ年のことである。翌年にはアフリカ東海岸の仏領ソマリア(現在のジブチ)を植民地と定め、さらに1897年には仏領赤道アフリカ(AEF)を成立させる。その頃フランスはアフリカ西海岸から紅海へとアフリカを東西に横断する植民地帝国創出の願望を持っており、植民地主義のもう一方の旗手であるイギリスはエジプトから南アフリカへとアフリカを南北に縦断する帝国建設の野望を抱いていた。その結果、両者は1898年にナイル河畔ファショダで軍事衝突する。十九世紀の植民地獲得競争が現実の戦闘にまで発展した唯一の事例であった。

    このように、AFが成立した時代とは帝国主義的植民地獲得競争が激化した時代である。

 

2.アリアンス・フランセーズの結成

AFとは、1883年7月21日に設立された「植民地ならびに外国におけるフランス語普及のための全国協会」(Association Nationale pour la propagation de la langue française dans les colonies et à l'étranger)である。この協会の設立には、当時チュニジア駐在公使で、副会長の一人となるカンボン(Paul Cambon)が深くかかわり、その構想を練ったとされる。カンボンは赴任地である保護領チュニジアにおいてフランス語普及の必要性を痛感し、民間の主導で、特定の宗派に属さない、非宗教性を特徴とする団体の創設を考えた。これは1906年以降に、フランス外務省が政府組織の一環として設立する「学院」(Institut)や「文化センター」(Centre Culturel)とは発想が異なる。AFは翌年の1月より正式な活動をはじめ、次のような錚々たるメンバーを役員に、さらに何人かの名誉会員、ならびに五十人の理事を選出した(SPAETH : 44)。

役職

氏名

職業(1884年当時)

会長

ティソ(Charles Tissot)

元大使

名誉会長

カルノ(Sadi Carnot,1837-94)

フェデルブ(Louis-Léon Faiderbe, 1818-89)

ジュリアン・ド・ラ・グラヴィエール(Jean Jurien de la Gravière, 1812-92)

ラヴィジュリー枢機卿(cardinal Charles Lavigerie, 1825-92)

レセップス(Ferdinand de Lesseps, 1805-94)

代議士

元セネガル総督

海軍少将

 

アルジェ大司教

スエズ運河会社

副会長

ベール(Paul Bert, 1833-86)

カンボン(Paul Cambon, 1843-1924)

デュリュイ(Victor Duruy, 1811-94)

パリウー(Marie-Louis de Parieu, 1815-93)

代議士、元公教育大臣

チュニジア駐在公使

元公教育大臣

元老院議員、元公教育大臣

事務局長

フォンサン(Pierre Foncin, 1841-1916)

公教育視学総監

会計

メラルグ(Alfred Mayrargues)

(ユダヤ人)

会計補佐

ムロン(Paul Melon)

(プロテスタント)

秘書

ベルナール(Antoine Bernard)

イズレ(Jean Izoulet, 1854-1929)

内務省課長代理

ベール秘書官、哲学教師

文書保存担当

シャルムタン神父(abbé Félix Charmetant, 1844-1921)

チュニジア問題担当司祭

ここに挙げた名士たちを結びつける紐帯とは何だろうか。彼らはどのような利害により結びつき、なぜAFを創設したのだろうか。この問いに答えるために、創立者たちを職業により分類してみよう。彼らは地理学者、公教育関係者、宗教関係者、軍人、外交官、植民地司政官、植民地関連財界人などに分類される。これらの要員は植民地攻略に必要な諸条件を見事に代表している。

第一に、ある「未開」の地を征服し、植民地化するには、まず地理学者がその土地の地理を研究する必要がある。たとえばセネガルの地理に関して、フランス人地理学者が他国の地理学者に比べて秀でており、彼らに対して指導的立場にあるとする。この場合、フランスはセネガルの地理に関して、他国を学術面などにおいて知的に制する立場にあるといえる。これはフランスがその土地に対して優先権を有することを意味し、植民地化を知的に準備することになる。彼らの作成する地誌がその後の植民地開発の具体的道具となることはいうまでもない。

次に、キリスト教布教のために宣教師が「未開」の地に進入し、「原住民」と接触することにより、人的交流を図る。キリスト教と植民地主義の関係は実に微妙である(DELAVIGNETTE 1960)。キリスト教が植民地主義を利用したのか、植民地主義がキリスト教を利用したのか、あるいは両者がそれぞれを利用したのか、個々の地域ごとに様々な要因が錯綜している。しかし概して西欧列強は宣教師の利用をはかり、他方宣教師たちも置かれた状況から最大限の利益を引き出すべく、妥協し、たびたび植民地体制に結びついたといえる(エリス:453)。

このような「協力関係」に基づき、外交官は宣教師たちの保護という名目で不平等条約の締結を迫り、その後何らかの「事件」をきっかけに軍事力によりその地を「平定」する。また一方では「独裁君主」の圧政に苦しむ民衆や「奴隷」を「解放」し、その地をフランスの「庇護」のもとに定める。その後、本国より派遣される司政官は軍人とともに土地を実効支配し、他方企業家はその地を「開発する」。植民地化の手順はおよそこのように略述されよう。

この図式に従うならば、AFの代表者はみな植民地化に関与する立場にある。地理学者のフォンサン、宗教家のラヴィジュリー、軍人で元セネガル総督のフェデルブ、チュニジア公使カンボン、そしてスエズ運河の開削によりヨーロッパとアフリカ大陸を支配と被支配の関係に制度化した財界人レセップス(岡倉:184)などは、植民地から利益を得ていた。

しかし、植民地への利害だけがこの一連の人物を結びつけているというわけではない。そもそも、彼らが一つの目的に向かい、協同で事業にあたること自体、異例の出来事なのである。そこでこの協同体制の特殊性を理解するために、第三共和政の社会においてどのようなイデオロギー対立があったのかを概観しよう。

 

3. 第三共和政下のイデオロギー対立

第三共和政を特徴づける対立の一つは、「十字架と三色旗」(谷川1997)に象徴される、カトリック教会と共和は政府との対立であり、これは第三共和政の本質にも関連している。共和派は、大革命に基づく共和主義思想を普及し、フランス人を共和主義的公民として統合し、そのためにカトリック教会の勢力を弱めようとする。この一方で、教権派はこれに対抗して教会勢力の維持をねらい、その戦いの場は主に学校教育に持ち込まれた。フランスではカトリック教会が長い間民衆の教育を担当しており、国内にフランス語が十分に普及していなかった時代に、教会は地域語や方言を用いて宗教教育を行った結果、民衆の心性はキリスト教の影響下にあった。

ところが第三共和政の実質的創設者の一人フェリー(Jules Ferry, 1832-93)は「神も王も存在しない空間としての共和国」を出現させようとしていただけに、共和派にとって教権派が民衆の心性を形成する状況は望ましいものではなかった。そこで共和国成立のために共和派は教会勢力を弱体化させ、規範的なフランス語により共和主義思想を伝播することが必要となる。言い換えるならば、共和国の成立は反教権主義を前提とするものなのだ。それはつまり教育の場へフランス語を導入し、言語による国民の文化統合を進めると同時に、それと平行して教育内容を非宗教的なものと改めることを意味する。そこで、フェリーはベールとともに初等教育の空間から宗教勢力を排除する法案を次々に打ち出す。師範学校の設置(1879年)に始まり、初等教育の無償化(1881年)、初等教育の非宗教化と義務化(1882年)などに見られる一連の教育改革は、同じ時期に成立する非公認の男子修道会に対する解散命令やイエズス会士の追放(1880年)などに通底する反教権主義の現れである。さらにその後共和国政府は反教権主義の徹底化に努め、教皇庁との外交関係断絶(1904年)、政教分離法(1905年)を成立させ、公共空間からの宗教の排除に成功する。

この一方で、教会も政府の一連の措置への対抗策を講じていた。フランス教会は1875年頃より万国聖体大会の構想を練り始める。「この構想は、大がかりな舞台装置によって無関心な集団に聖体の現存を印象づけること、また同時に反教権主義的な政策によって怖気づいているカトリック信者に自らが多数にして強力であるという意識を植え付けさせることをめざしていた。」(オーベール:257-258)この第一回万国聖体大会は1880年にリールで開催されたが、初期の十五回の大会のうち九回はフランスで開催されており、当時のフランス教会が、いかにフランスをキリスト教国の中心として国際的に位置づけようと腐心していたのかがうかがえる。

AFの創設が位置づけられるのは、このように教権と共和派のイデオロギー対立が国内を二分していた時代なのである。

しかしAFの関係者に見られるイデオロギー対立はこれだけにはとどまらず、第二の対立要因としては宗教勢力間の対立があげられる。「(カトリック)教会の外に救いはなし」との命題のもと、当時のカトリック教会は人類の救済や真理の独占を主張しており、その教会論は他宗教やプロテスタントの存在を認めていなかった。またユダヤ人を「神殺し」と定め、彼らに対して反目と対立の姿勢を崩そうとはしなかった。実際、十九世紀後半に台頭しつつあった反ユダヤ主義を支援していたのはカトリック教会の保守層であり、彼らはユダヤ人排斥を積極的に訴えていた(中谷1999)。このような状況の中で、ユダヤ人とキリスト教勢力が、またカトリックとプロテスタントが協同の事業に参画することなど考えられない出来事だったのだ。

それではこれだけ厳しい対立をかかえた人々を調和に導いたものは何か。それは植民地への実利的な利害に加えて、「愛国心」の存在である。この「愛国心」こそが対立する諸勢力をコンコルド(和合)へと導く役割を演じたのである。

 

4.イデオロギー対立を止揚する「愛国心」とはなにか

十九世紀後半のフランスにとって、「愛国心」の回復は国家の急務であった。普仏戦争の敗北により自由主義の帝国の威信は国際的に傷つけられただけでなく、アルザス・ロレーヌ地方の割譲という屈辱をも味わった。国民国家形成の途上にあったフランスにとっては国民の解体を招きかねない事態であり、その精神的トラウマは国民感情に打撃を与えた。「祖国の観念」の揺らぎに直面したのである。そこで、愛国心の回復を図るために、国内教育の再編が行われる。「単一にして不可分の共和国」を構築する前提として、フランス語普及が推進され、地理や歴史教育により「祖国の観念」の形成がはかられた(谷川:194)。国内でのフランス語普及は国民の文化統合をはかり、国民意識の形成をめざすもので、国外へのフランス語普及は失われた領土アルザス・ロレーヌ地方を国外、とりわけアフリカの土地によって回復しようという、ナショナリズムの心理に呼応し、フランス人の愛国心を喚起する重要な要因となった。政治的イデオロギー的危機にあるフランスを守り、いとおしむ心情がフランス語=国語への愛に通底することを看取したのだ。そして、愛国心は政治や宗教などのイデオロギー対立を止揚することになる。言い換えると、AFは愛国心こそが国内の分裂や対立をコンコルド(和合)に導くとのプロパガンダを国内において展開したのであり、これこそ創設者たちの思惑にかなうものだった。

 

AFは政治をやるのではありませんが、AFに政策はあります。国内に調和をもたらし、国外では平和裡にフランスの威光を高めることです(FONCIN 1889 : 10)。

 

ファンサンはこのようにAFの政策を説いている。したがって、AFの事業はあらゆる思想や信条のフランス人を糾合できるもので、まさにこれこそがAFの国内へ向けた使命であった。

 

  この事業はまったく愛国的なものであり、あらゆる善意の人、あらゆる意見や信条の人、外交官や船員、兵士、旅行者、宣教師など、外国で暮らし、国際社会の中でフランスがその地位を拡大する努力を倍増させる必要を強く感じている人々すべてに向けられている。(FONCIN La Grande Encyclopédie : « Alliance Française »)

 

    ではこのような使命のもとに結成されたAFはどのようにフランス語普及を実践していったのだろうか。

 

5.AFの言語普及戦略

植民地化に利害を持ち、愛国心というイデオロギーに共鳴して結集した一連の名士たちは次の三点をAFの戦略目標とした。

 

1)植民地並びに保護領に服した国において、われわれの言語を知らしめ、愛させる。なぜならば、それこそが、原住民を征服し、彼らと社会的関係や交易関係を結び、大陸では微増するだけのフランス人種を海外において平和的併合により増加させる方法だからである。

2)いまだ野蛮な国において、諸宗派の宣教師やフランス人教師を支援し、フランス語教育を実施する学校を設立し、維持する。

3)在外フランス人グループと連絡をとり、彼らの間での国語への崇敬の念を維持する [2]

 

5.1.第一の目標:フランス語普及政策

    第一の目標はフランス語を「知らしめ、愛させる」ことであり、それも植民地支配と「フランス人種」の増加に関連して説かれている。言語と植民地支配の相関性はAFの喧伝するイデオロギーを体現する。フォンサンはフランス語普及を植民地の安定的支配に不可欠なものと考え、これを「精神の征服」というイデオロギーとして提示する。「AFとは何か」と題する記事の中でフォンサンは次のように述べている。

 

この偉業(訳注:植民地化)の働き手はほぼすべてAFの高官である。存命中で最も著名な人々だけをとり上げると、ポール・カンボン、ル・ミール・ド・ヴィレール、サヴォルニャン・ド・ブラザ、フェデルブの名前が挙げられる。しかし軍事的征服は精神の征服なくしては無であり、われわれの保護領下にある原住民は、われわれの言語を学んでこそ、こころからフランス人になれるのである。植民地国の原住民に対するフランス語教育の奨励はAFの重要な仕事の一つである。(FONCIN 1889 : 13)

 

    フォンサンは植民地の原住民がフランス語の会話能力を身につけることでフランス人になれると断じ、言語と国民性の相関性を認めている [3] 。しかしこれはフォンサン独自の言語観ではない。フランス社会主義の創始者の一人ジョレス(Jean Jaurès, 1859-1914)も1884年にアルビで行った講演会の中で、類似の発言を行っている。

 

AFが何よりもわれわれの言語の普及を考えるのはもっともなことです。われわれの植民地は多少なりともフランス語を理解してこそ、知的にも心情的にもフランスとなるのです。(...)フランスにとって、言語とは植民地化に必須の道具なのです(GIRARDET : 94)。

 

言語学習による「フランス人」の創出は言語同化政策の究極であるが、これは当時の国際社会においてフランスが国力の増強をはかるために捻出した方策のひとつであると考えられる。十九世紀の国際社会において、国力の規準の一つは人口にあり、大国とは、経済力や軍事力だけでなく、人口に関してもその規模が重要だと考えられていた(FONCIN 1885 : 15)。この点で、イギリスは膨大な人口を抱えるインドを植民地に編入していただけに、フランスに勝る国力を持つとみなされていた。このように「フランス人」の増加を訴える背景には、イギリスとのライバル関係を読みとることができる。実際、フランスがベトナムを植民地化した理由の一つにはベトナムの稠密な人口への関心があったことがあげられている。

フォンサンにとって、言語は植民地攻略の重要な武器である。軍事力により制圧した土地を植民地として永続させるには、原住民の精神の征服が欠かせない。フォンサンは1891年の『地理学年報』に「国外のフランス」と題する論文を掲載し、その中で植民地支配における精神の征服の意義を次のように認めている。

 

ある国が他国に行使しうるあらゆる支配術の中で、最も永続的で最も強力なものは精神的影響である。我が国は軍事力や行政組織、卓越した交易により支配する。これらは土地や住民を捕捉する物理的方法である。しかしこれは人種や宗教、言語、習俗などによる共同体と同じほどの効力を持たない。すなわち、民族性の絆よりもなお一層強力なものがあるのだ。それは民族や政治、宗派の違いにもかかわらず、こころと意思を同意させることである。愛させるすべを心得ること、これが植民地化という困難な技術に秘められた原理である。(FONCIN 1891 :7)

 

    このように植民地支配の過程にあって、精神の征服は軍事的及び政治的征服の後の段階に位置づけられる。それは植民者のことばであるフランス語、そしてフランス人やその祖国フランスを愛させることであり、これこそは植民地体制の安定化に結びつく。この意味で、AFの第一の目標はイデオロギーとしての植民地主義そのもののあらわれであるといえる。

 

5.2.第二の目標:「教師」への支援と学校の設立

    AFの第二の目標は、既存の施設で働く宣教師などへの支援、ならびにフランス語教育を実践する学校の設立である。現在のAFは世界各地で独立した現地法人として学校を設置し、主に成人に対するフランス語教育を実践しているが、初期のAFは既存のさまざまな教育機関の調整役という側面がはるかに大きかった [4] 。この役割を理解するには、十九世紀末までのフランス国外におけるフランス語普及・教育の歴史を概観しなければならない。

十九世紀後半までのフランス語教育は、ほぼ宗教団体によって独占されていた。カトリック教会は宣教地において病院経営などの社会事業と平行して、教育事業に従事することが多かった。1894年の統計によれば、この頃全世界に展開する宣教司祭七万人のうちその三分の二が、修道士と修道女については五分の四がフランス人であった(SALON 1999 : 423)。そこでは程度や方法に多少の差こそあれ、フランス人宣教師たちはフランス語普及に携わっていた。もちろん彼らの最終目的は原住民のキリスト教化であった。フランス語普及はあくまでもそのための手段としてのものであり、植民地当局のもくろんだフランス語習得を通じて原住民を「フランス人に」変容させ、フランス人の創出をめざしたとは必ずしもいえない。それでも、共和国政府は宗教勢力の有用性を認めており、1882年まで植民地行政を担当していた海軍省は、たとえば1841年から1904年までセネガルでの植民地教育をキリスト教教育修士会とクリューニーの聖ヨゼフ修道女会に委託していた (BOUCHE 1993 : 64) 。つまり「反教権主義は輸出項目にあらず」とするガンベッタ(Léon Gambetta, 1832-82)の発言に見られるように、国内での共和派と教会の争いは国外には「輸出」されず、むしろお互いの利益をはかって協調路線がとられていた。

海外や植民地でのフランス語教育にかかわっていたのは、カトリックの修道会、宣教会だけではない。地中海沿岸諸国に離散していたユダヤ人に対しては1860年設立のアリアンス・イスラエリット・ユニヴェルセル(AIU)がその任務に当たった。この機関は、地中海沿岸のユダヤ人(セファラード)の子弟を中心としてフランス語による初等教育を行っており、AF設立の際のモデルともなった(LEVY 1990)。

これらの教育機関に加えて、本国との法的同化を実現したアルジェリアには、公教育省の設置した学校があるなど、国外における教育はさまざまな機関がさまざまな立場から活動を展開していた。

ここでAFの社会的地位を考え直してみよう。AFが政府組織としてではなく、民間団体として、また一宗派の活動ではなく、特定の宗派に与しない非宗教団体として設立されたのは、これまでのフランス語普及の経緯が招きかねない障害をあらかじめ避けるためなのだ。カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、あるいは公教育の設立した学校を一つの団体に偏することなく支援するには、これらの宗派と無関係でなければならない。さもなければ、世論から特定の宗派よりだとの批判を浴びるだけだろうし、それぞれの宗教勢力の対立に巻き込まれて、支援が困難になるかもしれない。実際、設立当初のAFは教権主義だとか、無神論的だとの非難を浴びたようだ(FONCIN 1884 : 2)。

ではAFが民間団体であることによって得られる利点とは何か。フォンサンによれば、民間団体とは政府事業を補完する団体であり、国策から自由な立場で、批判的活動を行うものではない。むしろ「民間だからこそ、国家が他国に不信感を与えるおそれのあることも実行できる」(FONCIN 1885 : 14)のである。共和国政府が行えば内政干渉などと非難されかねない地域や国に対しても、AFは民間の立場を活用して活動を行うことができる。このように国策を補完するからこそ、共和国政府はAFを国益に貢献する団体と認め、1886年10月23日付の大統領令により公益事業体と認定するのである。これ以降、政府や地方自治体はAFに助成金を交付し、これが活動資金として運用される。具体的活動を裏付ける助成金の支給に関しても、AFは見事に媒体の役割を果たしている。反教権主義や反ユダヤ主義が大きな思潮となっている以上、共和国政府は教会勢力やユダヤ人団体に公的援助を行うことが困難となってくる。そこでAFという「民間団体」を経由させる必要があったのだ。

そこでAF全体の資金の流れに注目し、共和国政府がフランス語普及のためにどのように援助したのか、その過程を検証してみよう。(図参照)

AFの活動はフランスの国内向けと国外向けの二つの局面を持ち、フランス国内で資金を収集し、それを国外で活用する仕組みになっている。資金の収集に関しては、事務局長が統括するプロパガンダ全国委員会の下にあるプロパガンダ地区委員会が直接の任務にあたった。パリを筆頭として、すでに併合されていたアルジェリアまで全国十二に区分された地区委員会は、AFのメンバーによる講演を実施したり、パーティ、スペクタクルなどを開催して資金調達に努めた。AFは会員制度をとっていたため、会費は地区委員会に徴収され、また出版社などからの寄付も加わったようだ。これに加えて、1886年以降は政府や地方自治体からの公的助成も加わる。そこでプロパガンダ全国委員会がこの資金をひとたびまとめる。次に理事会はこのようにして集められた資金を世界各地に広がる活動委員会へと配分し、植民地や外国に散在している活動委員会はパリを経由した助成金を現地の教育機関などへ再配分する。ちなみに1889年の財政状況を見ると、AFは五万フランの繰越金を蓄え、八万フランの年間予算を組み、1883年の創立以来これまでの五年間で十万フラン以上を植民地や外国の学校の支援に当てている(FONCIN 1889 : 3)。

それでは、AFはこのような資金をどのような活動に投じてフランス語普及を進めたのだろうか。AFによる植民地普及・教育を黒アフリカの実態を中心に紹介し、フランス語普及戦略の実相をかいま見たい。

 

6.フランス語普及の実態

AFはフランス語普及の具体的方策として次の事業計画を策定した。

 

1) フランス学校の設立ならびに助成金支給、またフランス語講座が設置されていない学校に対する講座の開設およびその支援。

2) 教師の養成、そのための師範学校の設立。

3) 通学を確保するための報酬の配布。

4) 優秀生徒に賞金、旅行のための奨学金の支給。

5) AFの事業を支援し、フランス語教育を目的とする出版物の刊行支援。

6) 定期刊行物『会報』(Bulletin)の刊行。

    7) 講演などさまざまなフランス語普及の企画や実施。

 

    黒アフリカでのフランス語普及はセネガルから始まる。1884年6月3日には、早くもサン・ルイにAFの地方委員会が設置される。まもなく本部より一万フランの助成金をうけ、AFは原住民学校を開校する。またこの頃セネガル宣教に従事していた聖霊修道会もAFから助成金を支給され、ボケ(現在のギニア領北部の町)などに原住民学校を開いた(FONCIN 1889 :14)

    当時のセネガル、スーダンといった黒アフリカの植民地行政は軍の掌中にあったため、1876年以降植民地スーダンの最高責任者となっていたガリエニ中佐(当時) [5] の指揮のもとに、軍はAFの助成金を仰いで、原住民学校を開いた。ガリエニの転出後スーダンの最高責任者となったアンベール中佐は1891年に各地区の司令官へ当てた通達の中で、言語同化主義の意義を次のように認めている。

 

開発の観点から見ると、フランス領スーダンの将来はそこに暮らす住民を育成する、われわれの多少なりとも好ましいやり方に左右されること大である。そこで、われわれのフランス文明への精神的物理的同化は、そのすべてが原住民の青少年層に教え込みうる教化や教育を基にしている(BOUCHE 1966 : 230)。

 

    このような文書から判断すると、フランスはアフリカにおいて着実に言語普及を展開したとの印象を受けるかもしれない。しかしその実状はかなり疑わしいものだった。黒アフリカの植民地教育において、教師を務めたのは主に宣教師であり、軍の開設した学校では下士官や技師などがその任務に当たり、正規の養成を受けた教師はフランス本国よりほとんど派遣されなかった [6] 。その原因は複雑である。フランス語を話せさえすればフランス語を教えられると考えられていたこと、黒アフリカの気候が一般のフランス人には厳しすぎると考えられたこと、宣教師や軍人以外の民間人の呼び寄せには経費がかかりすぎること、さらにはそもそも植民地当局にはそれだけの予算措置がとられていなかったことなどがその原因にあげられる(BOUCHE 1966)。

   軍の経営する原住民学校に関しては、セネガル総督を務め、AFの副会長となるフェデルブの功績によるところが大きい。植民地が黒アフリカ内陸部へといっそうの拡大を示すに際して、現地語を解さないフランス軍は原住民首長との交渉にあたって、現地人通訳を必要とした。軍はその養成に取り組み、1855年には黒アフリカで初めての「人質学校」という名称の学校が設置される(MARTIN : 284, BOUCHE 1966 : 233)。この学校は1857年に「首長の子弟学校」と改称され、1870年からは財源不足のため一時的に閉校に追い込まれる。1892年になると「首長の子弟ならびに通訳養成学校」として再開される。校名が物語るように、この学校の生徒は、征服した土地の首長や有力者の子弟に限られていた。つまり、植民地教育の対象となる学習者は、植民地における就学年齢に相当する児童すべてではなく、現地エリートの子弟のみだった [7] 。学習者の選抜に関するこの政策判断は、分割統治という植民地主義の原則にのっとったものだ。当局の方針は、フランス語能力という新たな西洋的知を獲得することで、伝統社会の枠からの逸脱者を生まないことにあった。だからこそ、現地社会で既に特権的な地位を占めている首長や有力者の子弟のみをフランス語教育の対象とし、彼らを植民地行政の下級官吏とすることを狙ったのだ。この点に関しては、フランス本国におけるフランス語普及・教育が言語による国民の文化統合をめざしたことと対照的である。植民地帝国におけるフランス語普及・教育は、現地社会のエリート層を植民地体制へ編入させることをめざしており、あくまでも現地社会の階層的分断とその対立を狙っていたからだ。

    原住民エリートを植民地体制に統合する意図は教科内容にも反映していた。フランス語学習・教育の方法については、フランス語による直接教授法にもとづく事物教育が導入されたものの、軍隊出身の教師はまったく現地語を解さず、生徒とのコミュニケーションには現地人通訳が必要だった(BOUCHE 1966 : 237)。教授内容に関して、にわか仕立ての教師となったフランス人には、フランス語を体系的に教えようとの意図は全くなく、教材の圧倒的不足もあって、「話し」「聞く」という基本的な口頭表現力を身につけさせることで充分であった。というのは、「読み」「書き」を身につけさせることにより、フランス人下士官や技師よりも社会的に高い地位へ昇進する可能性を与えてしまうことをおそれたからだ。その可能性を寸断してしまう、「話し」「聞く」だけの限定的で単純な言語教育は、植民地体制の維持に望ましい方策だったに違いない。さらに学校は全寮制で、生徒には衣服住があてがわれたが、学内にはフランス人監督が常住し、現地語による会話は禁じられていた。フランス語のみが教育言語として、また日常のコミュニケーション言語として機能していたのだ。

    とはいえ、このようなフランス語普及に敵対する勢力が存在しなかったわけではない。黒アフリカに強い勢力を保っていたイスラームには聖者(マラブウ)がおり、コーランの暗唱を中心としてムスリムの信仰教育を行っていた。彼らはフランス人植民者の推進するフランス語教育が植民地政策の中核であり、とりわけキリスト教宣教師による教育が、反イスラームの立場から、原住民のキリスト教化をねらうことにあると看取し、子供たちの就学に反対していた。と同時に、フランス人による植民地支配が暫定的なものにすぎないとコーラン学校などで説いていた。言語普及による植民地支配に対して、民衆レベルでの抵抗も存在していたのだ(FONCIN 1900 : 141)。

 

7.最後に

フランス植民地帝国は版図の拡大に伴い、世界各地でフランス語普及を推進し、その調整機関としてAFが創設された。AFの活動は、国内にコンコルド(和合)を、国外に平和的拡大を実現するものだったが、前者についてはフランス語普及というプロパガンダが愛国心により諸勢力の統合を可能にした点で成功を収めたといえよう。しかし後者については、諸勢力の学校を支援するとの初期の目的は達成されたものの、現地の学校は言語同化主義を徹底するにいたらなかったといえよう。フランス語の運用能力を体得することにより、「フランス人」を創出するという、フォンサンの野望ともいえる言語同化主義は部分的にしか機能しなかったのだ。それに言語同化主義を文字通り徹底するのであれば、支配と被支配という不可逆構造に抵触するだけに、植民地体制の存続そのものが困難になりかねないからだ。植民地当局はイデオロギー上の難点を漠然と感じていたのだろうか、フランス植民地帝国におけるフランス語普及の実態は当初より空洞化し、言語同化主義は散発的に実施されたにすぎないといえよう。この言語同化主義はフランス共和主義の本質にも関連するのだが、これが法的にもまた教育環境の面でも整備されるのは、第四共和政を待たねばならない。さらにフランス語を話すアフリカやアラブ諸国の「フランス人」の実質的な創出にはフランコフォニー(Francophonie)運動の興隆を待つ必要があるだろう。

 

 

引用文献

 

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[1] AFには植民地党の側面も少なからず存在した。これについては、拙論、「『植民地党』としてのアリアンス・フランセーズ:植民地主義における言語普及」、新潟大学経済学年報、第24号、2000年参照。

[2] これは、新大陸やヨーロッパ諸国でフランス人共同体ネットワーク構築に当たることを意味したが、本稿の関心と異なるためここでは取り扱わない。

[3] 同時代の思想家ルナン(Ernest Renan, 1823-92)AFの名誉会員でもあり、AFにおいてフランス語に関する講演を行うなど、AFとの社会的親和性を示している。しかしルナンは国民の条件を「日々の人民投票」に求めた講演、「国民とは何か」のなかで、国民の条件を言語に求めないとする立場を明確にしている(ルナン:56)。ルナンとフォンサンの言語観は対照的である。

[4] AFがみずから成人向けにフランス語のクラスを開講するのは1889年のことで、それはアルジェから始まった(BRUEZIERE : 21)

[5] マダガスカルにおいてガリエニはマラガシ語(マダガスカルの現地語)の整備に努め、マラガシ語の教科書を編修した。これはマダガスカルの独立にいたるまで使われ、七版を数えた。

[6] 数少ない派遣教師の中でも現地語による教育を試みたダールの事績は特筆に値する。このフランス人教師については、次の論文を参照。砂野幸稔、「セネガルにおけるフランス語使用:その歴史Iフェデルブ以前」、『熊本女子大学学術紀要』第46巻、第1号、1994.

[7] 宣教師たちの経営していた学校には、首長の子弟の他に解放奴隷がいた。後者を教育する目的は、キリスト教化であり、それには現地の社会の最底辺にあって、現地社会から切り離されている解放奴隷が望ましかったのだ。しかし、植民地教育の対象に関しては稿を改めたい。