Groupe A

植民地の言語政策

山田 大輔、 岩月 真也、東郷 美香、米 真由美、滝沢 綾乃、高橋 宗人

2005年10月13日

私たちはフランスによる植民地支配の手段としての言語同化政策というテーマを掲げた。そして、調べていく中で、フランスが植民地でのフランス語教育を目的とした機関であるアリアンス・フランセーズに目をむけ、それが植民地におけるフランス語普及において、大きな役割を占めていることを知った。そこで、それについて今から発表したい。
“Francophonie”という言葉がある。これは「フランス語圏」を意味する単語であり、1880年オネジム・ルクリュが『フランス・アルジェリアと諸植民地』において初めて使用したとされる、比較的新しい単語である。しかし、逆に言えば、この単語が使用され始めた頃、植民地拡大に伴って、フランス国外でのフランス語普及が意識され始めたということの証明にもなる。つまり、フランス語が現在様々な国と地域や文化の中で使用されているのは、この時代にフランス語が多くの国や地域を植民地として、それらの場所で植民地政策の一環としてフランス語教育を行ってきたことに起因するのだろう。キリスト教布教活動と相前後して進められたフランスの海外進出においてフランスは現地の人々の文化的に劣った部分をフランスの文化に同化し、“文明化の使命”という大義名分の上で植民地支配をしていった。この同化主義のひとつの柱となったのが言語同化政策である。
(山田)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%9B%BD.PNG#filehistory



フランスは、共和国憲法において「共和国の言語はフランス語」と規定し、フランス語話者とフランス人との一体性を説いている。しかし、フランス語はフランス本国のみで使われている言語ではない。植民地化政策を推し進めていたフランスにとって、植民地帝国におけるフランス語の普及・教育活動は不可欠であり、言語同化政策の一環であった。フランス語話者=フランス人の構図をもとに言語普及活動を行い、植民地にあらたなフランス語話者=フランス人を創出しようとした。当時、国力を測るバロメーターとして経済力・軍事力のほかに人口が大きく関わっていたことが、この背景にある。当時イギリスは膨大な人口を持つインドを植民地として持っていたため、それに対するライバル関係がうかがえる。実際、ベトナムを植民地としたのは膨大なフランス語話者を獲得するのが目的だったようである。
当初、フランスの言語政策は宗教活動と深く関係していた。キリスト教宣教師らが世界中でキリスト教を布教する際に、フランス語による布教を行っていたのである。しかし教育者は主に宣教師であったため、あまり効率のよい言語政策ができていたとはいえなかった。
(岩月)




19世紀後半の第三共和政期において、植民地主義の台頭とともに、フランス語の普及と教育により植民地を同化させようという言語同化主義が強く主張されるようになった。
そしてその活動の中心となるべく、1883年7月21日に言語普及機関アリアンス・フランセーズ(植民地ならびに外国におけるフランス語普及のための全国協会)が設立された(以下AF)。AFは非宗教性を特徴としており、駐在大使や大臣などの役人・高官によって構成され、国内でパーティーや講演を行い、資金を集めそれを国外で運用する、という形をとっていた。
当時は、教権と共和派が国内を二分していた時代、また、カトリック教会とプロテスタトの対立が激しかった時代であったが、植民地帝国においては利害が一致し、国内で対立する勢力であってもフランス語の普及またはキリスト教の布教の旗の下に協調路線をとっていくことができた。
そしてAFは、植民地においてフランス語の普及と教育を行うことで「フランス人を作る」、また宣教師によって運営されていた既存のフランス語教育施設・学校を支援し、また新たに設立する、という二点を目標にかかげ、活動を推し進めていくことになる。
(東郷)

http://www.voicenet.co.jp/~afsap/



では、実際に植民地においてはどのような活動をしていたのだろうか。
フランスは、植民地の全ての住民に言語教育を行うことはせず、フランス語教育の対象はエリート層の子供に絞られた。徹底的な言語教育を行うことによって起こると予想される住民たちの反発を恐れ、かつ、現地社会の階層的分断とその対立、そしてエリート層の植民地体制への編入を狙っていたからである。
例として、黒アフリカでのフランス語普及を挙げてみよう。1884年にセネガルに原住民学校を開校することから始まりは一見順調にフランス語普及が進んでいるように思われたが、実際は疑わしいものだった。
まず、フランス本国から正規の教師がほとんど現地に派遣されなかったことが挙げられる。それは黒アフリカの気候が一般のフランス人には厳しすぎると考えられていたことや民間人の呼び寄せには経費がかかることなどによる。
また教育の方法についても問題があった。フランス語による直接教授法に基づく事物教育が導入されたものの、軍隊出身の教師はまったく現地語を理解せず、生徒とのコミュニケーションには現地人通訳が必要だった。
教育内容は「話す」「聞く」の口頭表現力だけであった。というのは、「読み」「書き」を身につけさせることにより、フランス人よりも社会的に高い地位へ昇進する可能性を与えてしまうことをおそれたからだ。さらに学校は全寮制で現地語での会話は禁止されていた。フランス語を日常のコミュニケーション言語として機能させていたのだ。  
とはいえ、このようなフランス語普及に敵対する勢力がなかったわけではない。当時イスラームが黒アフリカに強い勢力を保っていた。彼らはフランス人植民者の推進するフランス語教育が反イスラームの立場からだと看取し子供たちの就学に反対した。また、フランスの植民地支配が暫定的なものだとコーラン学校などで説いていた。当時から言語普及による植民地支配に対する民衆レベルでの抵抗が存在していたのである。
(米)



次に、植民地での言語政策について、フランスと日本の比較をしたいと思う。日本も大戦期に、中国や韓国、台湾、南洋諸島などの植民地で、言語政策を行ったという歴史がある。興味深いことに、フランスの植民地での言語政策と日本のそれではまったくと言っていいほど対照的だ。はじめから、植民地の大人たちの反発に頭を悩ませていた日本は、子供のうちから徹底的な日本語教育を行えば、日本に従順な現地人を育てることが出来ると考えた。このため、現地の小学校で、あるいは、初等教育が整備されていないところでは、それを敷くところから始め、組織的な日本語教育を行った。数多くの日本語教師が活躍し、子供が分かりやすく、また親しみやすい教科書や、内容の充実した日本語辞書、日本語教師のための学習指導書などが作られた。相手の母語や文化を無視し、奪うような教育を行ったということは紛れもない事実であり、非難されるべきところだが、自国の言語を植民地に広めるという点では、フランスより日本の方が成功したといえるだろう。
(滝沢)



これまで述べてきたように、AFは諸勢力の学校を支援するという当初の目的は果たしたものの、フランス語を修得することで「フランス人」を創り出すというAFの野望とも言える言語同化主義は、現地の学校で徹底されることはなかった。フランスの植民地教育の大部分がそれぞれの植民地の裁量に任されていたこともあり、その理念は次第に弱まり、部分的にしか行われなくなってしまったのだ。
現在のAFは世界各地で独立した現地法人として学校を設置し、主に成人に対するフランス語教育を実践している。日本にも1978年に初めて設置され、現在、大阪、名古屋、札幌、仙台、徳島の5都市で活発な活動を行っている。一方フランス政府はというと、対外言語戦略として現在フランコフォニーと多言語主義を二つの柱にしている。これはフランス語が、かつて普遍的文明の名のもとに異文化を支配した帝国主義的論理から、差異を尊重する多言語・多文化の論理に変わってきたことを示している。しかし、これらの政策は単にフランス文化の優位性の回復を目指すものだという批判も多い。フランス語を話す者をその出身に関わらず受け入れる共和国の同化主義は、普遍的な平等原理の究極の表現だが、フランス語への同化を強要して他者の言語を否定するとき、それは容易に言語帝国主義へとすり替わってしまう。フランス語を学ぶものとして私たちは、フランス語が植民地主義の歴史を含んだものであるという事実を今一度考えてみる必要があるのではないだろうか。
(高橋)



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Republique_Francaise.png

参考サイト
http://www.ms.econ.niigata-u.ac.jp/~jnn/kotoba_to_shakai_2000.htm
http://www.ms.econ.niigata-u.ac.jp/~jnn/Imperialismelinguistique.htm
http://www.ms.econ.niigata-u.ac.jp/~jnn/keizaigaku_nenpo_1999.htm

東京外国語大学欧米第2課程
(フランス語専攻)

フランス語UB発表
(2005年度)