フランス統治の時代 |
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■フランス統治の時代
サイゴンからダラットへ向かう国道の途中で、延々と続くゴム園の林を見ることができます。いつもこの林を通るたびにフランス統治の時代のベトナム人労働者たちの姿が浮かびます。それまで自分たちの土地を自分たちのために耕してきた人々が、フランス総督の重税のために土地を手放し、ゴム園の小作農として働かされます。少しでも反抗を企てると、たちどころに逮捕監禁、重労働へ従事させられることになります。無理に値段を高くされたアルコールや阿片を吸引することを強制され、体も心も疲れ果て、それでも毎日作業をしなければならない、そんな姿が浮かぶような気がするのです。 ベトナムは中国による千年間の支配に耐え独立した後に、再び近代になってフランスの植民地となり、100年あまりのつらく苦しい時代を過ごさねばならなかったわけです。私たち日本も歴史が少し間違えれば、イギリスやフランスの植民地となりベトナムと同様の苦しみに晒されることになったかもしれないわけで、他人事とばかりは思えないのです。 フランスによる植民地化 ベトナムにキリスト教の宣教師がはじめて訪れたのは16世紀のことでした。1615年にはベトナム中部のホイアンに伝導教会が建設されています。 フランス人宣教師アレクサンドル・ドゥロードは1624年にベトナムへ来ましたが、ベトナム語をとても上手に話したそうです。当時ベトナム語は漢字を使って表記されていましたが、彼はそれをローマ字を使って表記する方法を考案しました。これが現在も使われているベトナム語の表記方法コックグー(国語)の始まりです。 グエン王朝を開いたジャロン(嘉隆)帝グエン・フック・アインは西山グエン氏に戦いで敗れてタイへ逃れていたときに、フランス人宣教師アドラン司教と出会い、西山グエン軍を破ってフエの王朝を開くきっかけを作りました。1784年グエン・フック・アインはアドラン司教に息子を預けフランスへ送り軍事援助を頼みます。結局はフランスの援助はもらえなかったけれど、アドラン司教の個人的な援助で軍勢を整えて、外国勢力の援助で西山グエン氏を滅ぼし、フエで皇帝に即位しグエン王朝を開きます。 フランスに友好的だったジャロン帝は1819年57歳で死去しますが、その後を継いだミンマン(明命)帝はジャロン帝とは正反対にベトナム国内から徹底的に外国勢力を駆逐する政策をとります。日本の尊皇攘夷思想も儒教からきていますが、ベトナムのミンマン帝も同様に儒教にしたがって国内から外国勢力を追い払います。このころの日本やベトナムでは儒教思想がもっとも一般的で、ベトナム政府も儒教の思想に基づいた外国勢力の国内からの駆逐する政策が主流の考え方でした。1833年1月6日にキリスト教を禁止する勅令を出し、国内でのキリスト教の布教を禁止し、信者は死刑、教会は破壊する通達をだします。 その後にフランスに植民地化された原因が、外国勢力の力を借りたジャロン帝の責任なのか、鎖国政策をとって外国の進んだ産業をとり入れずに国力を削いだミンマン帝なのか議論が分かれるところです。 ミンマン帝は1841年に死去、テェウチ(紹治)帝(1841〜1847)が後を継ぎます。ちょうどそのころ中国でアヘン戦争が起こります。清国での阿片取り締まり強化に端を発したアヘン戦争は、1840年〜42年にかけて清とイギリスの間で戦いが行われ、結局戦争に負けた清は南京条約を結び、香港を割譲し多額の賠償金を払わされます。このアヘン戦争がきっかけとなり、英国とフランスのインドシナへの政策が強硬路線へと変わって行きます。 1847年2月26日フランス軍艦エロワースがダナンへ入港し、ベトナムで逮捕され死刑宣告を受けたフランス人宣教師5人の釈放を要求します。テェウチ帝はフランス軍の要求を受け入れて宣教師5人を釈放したので、軍艦エロワースはダナンを去ります。 しかし4月15日別のフランス軍艦グロワールとビクトリユーズがダナンへ入港し、すでに釈放済みの宣教師5人の釈放を要求、ダナン港に停泊中のベトナム軍艦を砲撃し5隻を撃沈してしまいます。ベトナム政府はこの事件に激怒しますが、フランス軍に対抗する軍事力がなく、結局泣き寝入りするしかありませんでした。テェウチ帝はこの年の11月に死去してしまいます。後を継いだ第4代皇帝のトゥドゥック帝(1847〜83)は外国勢力に対する強硬姿勢を強め、フランス人宣教師2名を死刑にしてしまいます。 この事件を受けて1858年フランスのナポレオン3世はフランス軍艦隊をベトナムへ派遣します。8月31日フランスとスペインの連合艦隊がダナンに入港しダナンを占領してしまいます。1859年にはブンタウから進攻して南部ベトナムを占領します。 1862年6月5日にベトナムとフランスは講和条約を締結し、ベトナム側はフランス人宣教師の布教活動を認めること、コーチシナ東部の3省とプロンドール島をフランスへ割譲すること、多額の賠償金を払うこと、ダナンとクァンイェンの港を開港することを認めさせられてしまいます。 1883年7月16日に対外強硬路線のトゥドゥック帝が死去するとフランスは後を継いだヒェップホア(協和)帝に迫って、フランスがベトナムの保護国になることを認めるアルマン条約を結んでしまいます。 フランスよりのヒェップホア帝はそれがもとで在位4ヶ月で毒殺されてしまいますが、後を継いだキェンフック(建福)帝も半年で毒殺されてしまいます。そんな混乱の中で12歳のハムギ帝が即位します。 1884年6月6日にフエでハムギ帝とフランス公使パトノウトルがパトノウトル条約に調印します。フランスはベトナムの保護国であること、フランスは外交関係においてベトナムを代表すること、フランスを代表する総督はベトナムの外交を統括し、保護権を行使する、などの項目で、ベトナムが完全にフランスの植民地になることを意味する条約でした。 翌1885年7月5日パトノウトル条約を結んでも一向に条約に従わず、無視したままのベトナム軍とフランス軍がフエで交戦します。この戦いでベトナム側が敗れてしまい、ハムギ帝は王宮を脱出し国境の少数民族の村に3年間隠れ住む生活を送ります。その後1888年11月にフランス軍に発見され逮捕、アフリカのアルジェリアに流刑され、その後の一生をアルジェリアの流刑地で過ごすことになります。 ハムギ帝のいなくなったフエでは、フランス軍により新帝ドンカイン(同慶)帝が即位しますが、わずか4年で死去してしまいます。次のタインタイ(成泰)帝とズイタン(維新)帝はフランスに対するクーデターを起こして失敗し、アフリカのレユニオン島に流刑にされてしまいます。次のカイディン(啓定)帝は10年で死去、その後にグエン朝最後の皇帝バオダイ(保大)帝が1926年に即位し、1945年のベトナム民主共和国の成立とともに退位し143年間の王朝の歴史に幕を下ろします。 フランスのベトナム統治 1887年10月17日フランスの大統領令により、インドシナ全域を総督が統治することになり、殖民大臣のもとに、フランス領インドシナ総督府を置きました。この総督府のもとに、ベトナムはフランスへの徹底した同化政策と理不尽な重税を嫁せられ苦しむことになるのです。 ・それまで使用していた漢字表記をローマ字表記(コックグー)に変えさせられます。 ・ 教育制度の変更。フランス語の履修や、ベトナム独自の文化を否定されます。 ・アルコールの製造販売をフランスが独占し、ベトナムで伝統として各家庭で作られてきた自家製のアルコール(どぶろく)は禁止。また村毎にアルコールの消費量を割り当てられて強制的に消費させられました。アルコールの値段は5倍になり、フランスは暴利をむさぼります。 ・塩の専売権をフランスが独占。塩の値段が5倍になり、市民生活が困窮しました。 ・阿片の販売をフランスが独占し、値段を倍に、阿片吸引者は3倍になりました。 ・開墾した土地をフランスの入植者に勝手に分け与えてしまいます。 フランスの統治は、フランスの官僚が何でも言うことを聞くベトナム官僚を使って統治する方法がとられ、ベトナム市民は非常に苦しめられ、さまざまな反発や反乱が頻発しました。 1899年4月15日フランスはイギリスが後ろ盾のシャム(タイ)からラオスの宗主権を奪い、コーチシナ(南部ベトナム)、トンキン(北部ベトナム)、アンナン(中部ベトナム)、カンボジア、ラオスのインドシナ連邦を植民地化することに成功します。 1940年にはフランス統治下のベトナムに日本軍が進駐してきます。しかし、1945年8月15日太平洋戦争が終結し、ベトナムを占領していた日本軍が連合国に無条件降伏すると、8月16日ベトミンは総蜂起し9月2日にホーチミン主席がベトナム民主共和国の独立宣言を行います。 しかしながら9月23日にはフランス軍がサイゴンを占領し、翌年1946年にはインドシナ戦争が始まり、その後の泥沼のベトナム戦争へとつながって行くのです。 |
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