Le
gouvernement français a pratiqué, de 1815 à 1962, une
politique linguistique d’assimilation auprès des «
indigènes » dans son Empire colonial, afin de créer des
Français au moyen du français, langue de civilisation.
Contrairement à la doctrine officielle, cette pratique a connu une
diversité importante en termes de degré de diffusion des langues,
pour des raisons géopolitiques, historiques ou culturelles.
Or la
réflexion sur l’enseignement colonial et/ou des indigènes nous
conduit à révéler « l’idéologie
française » (Balibar), inhérente à l’enseignement / apprentissage
de la langue, selon laquelle la France a une vocation d’éclairer et d’éduquer
l’humanité. A titre d’enseignant-chercheur en FLE, nous sommes
invités à nous interroger sur la déontologie du professeur
de FLE, susceptible de nous transformer en diffuseur de cette idéologie
de la supériorité, comme l’a vécu l’enseignement colonial
en faveur du nationalisme et du patriotisme.
0. はじめに
フランス語の分類法にはさまざまなものがある。フランス語がその社会の中で、また個人にとってどのように使用されているか、このような規準に従って分類するならば、「母語としてのフランス語」français
langue maternelle、「第二言語としてのフランス語」français
langue seconde、「外国語としてのフランス語」français
langue étrangèreに区分することができる。この中でも「第二言語としてのフランス語」は、現在も世界各地で、とりわけアフリカを中心として使用されており、その実践の程度にもさまざまな差がみられる。そしてその使用範囲はかつてのフランス植民地帝国の版図と重なるところが大きい。
フランス植民地帝国ではどのようにフランス語教育が実践されてきたのだろうか。解明すべき点は膨大だが、課題の大きさに比べると、この点に関する研究の進展は必ずしもそれに対応していない。これにはさまざまな原因がある。植民地帝国の解体にあたり、フランスでは植民地で行われてきた事業すべてが忌まわしい失敗として否定される傾向にあったこと。これは凄惨な戦争を体験したアルジェリアに関してとりわけ顕著である。これに加えて60年代以降の旧植民地におけるフランス語教育は過去との断絶の上に成立しているような扱いを受け、現在のフランス語教育の実践を歴史的にとらえようとの気運に乏しかったこともその原因にあげられるだろう。ところが、脱植民地化という政治、社会、文化の大変動にもかかわらず、脱植民地期の言語政策や教育制度は植民地時代の遺産をほぼそのまま受け継いだもので、そこに政治変動などと同じレベルでの変化は認められなかった[2]。
このような状況の中で、旧植民地下での就学状況などに関する、教育学や社会学の立場からの研究は多少進んでいるようだが、フランス語教育の実状に関する研究は端緒を開いたばかりといっても過言ではない。
研究対象に「第二言語としてのフランス語」をも掲げている「外国語ならびに第二言語としてのフランス語史国際学会」Société
Internationale de l’Histoire du Français Langue Etrangère ou
Seconde (S.I.H.F.L.E.S.)は1998年12月11日にフォントネー/サン・クルー高等師範学校で「フランス植民地帝国におけるフランス語普及と教育、1815年から1962年まで」と題する研究集会を開いた。この時代区分は、フランスの国境を1792年のものに復した1814年のパリ条約から、1962年のアルジェリア独立までの時代に対応している。植民地帝国のフランス語普及・教育を論じることはこの領域の学会として初めての試みで、当日はおよそ二十人の参加者を迎えて、五人の研究発表が行われた。本稿はこの研究集会の報告であり、その発表の概要をたどりつつ、植民地帝国のフランス語普及・教育の問題点のいくつかを整理してみようと思う。その上で、日本においてフランス語教育の実践に携わるものにとって、「植民地教育を考える」とは何を意味するのか、若干の原理的な考察を試みたい。
1.
植民地帝国におけるフランス語普及と教育
研究発表は植民地帝国の版図に対応して、黒アフリカ、チュニジア、インドシナ、ニュー・カレドニアと広大な領域に及んだ。イギリス人研究者のウェイクリーWAKELYは、間接支配を特徴とするイギリス植民地主義と、同化主義に特徴づけられるフランス植民地主義の比較検討を行った。フランス植民地帝国の方針の一つは、植民地人にフランス語を教え、フランス語による教育を施し、フランス市民を創出することにある。言語によるフランスへの同化主義は、大英帝国が植民地において特定の言語政策を持たなかった点と著しい対照をなしている。さらに英仏の相違点は植民地人に対する人種主義にもみられる。イギリス人は、アフリカ人などの植民地人を人種的に劣等とみる傾向が強かったが、フランス人は植民地支配の論理に「文明」の視点を導入し、「文明」の有無を人種の優劣として解釈し、人種主義の根拠とした。
旧植民地からの発表も議論の多角化に貢献した。 チュニジア人社会学者スライエブSRAIEB[3]は十九世紀から二十世紀にかけてのチュニジアにおけるフランス語普及と教育の課題を取り上げ、地政学的観点からの検討を試みた。十九世紀のチュニジアは宗主国のオスマントルコ、対岸のイタリアやフランスといった勢力が拮抗する磁場となっており、それぞれが自国の権益の拡大を策動していた。その一方でチュニジア人は西欧列強の「文明」を利用し、近代化の推進を国益と考えていた。この意味で、フランスの保護領となって以降のチュニジアにおけるフランス語教育・学習は、フランスによる言語同化政策という側面だけでなく、植民地下での国運を模索していたチュニジア人にとって、国益の追求にも役立つ一要因ともなった。ここには、植民地支配における言語普及が、植民地支配の強化や安定を意味するだけでなく、近代化の道具として有利に働くといった両義性があらわれている。
ベトナム出身で現在ニュー・カレドニアにて教鞭を執る社会言語学者トランTRAN[4]の発表は、ニュー・カレドニアにおける植民地支配とフランス語普及およびキリスト教宣教の相関性を厳しく問う内容だった。布教地としてのニュー・カレドニアをめぐるカトリックとプロテスタントの争いは、英仏間の植民地争奪戦の様相を呈しており、さらにどの言語で宣教を行うのかといった言語政策の相違も顕在化していた。プロテスタントのイギリス人宣教師は現地語を用いてメラネシア人への宣教を試みたが、カトリックのフランス人宣教師はフランス語による福音宣教を実施した。その後に島嶼の覇権を制したフランス人は植民地時代を通じて、イギリス人宣教師とは対照的に、現地語の文字化へ関心を示さなかった。これは現地の民族文化を尊重しない姿勢として、メラネシア人の民族文化アイデンティティの否定と受け止められた。アイデンティティの承認をめぐるこの歴史は、現在でもフランスやフランス語への敵視としてメラネシア人のうちに記憶されているという。これが災いしたためか、ニュー・カレドニアにおいてフランス語教育・学習は依然として困難を極めている。海外領土(T.O.M.)としてすでにフランス共和国に統合されていた1962年の段階でも、メラネシア人にはバカロレアの合格者がいなかった。これはメラネシア人に対するフランス語普及に植民地時代の負の遺産が重くのしかかり、フランス語普及が十分に浸透していないことを伝えている。それと同時に、植民地支配に抗するメラネシア人の根強い姿勢のあらわれとも考えられる。
フランス系イスラエル人のスペートSPAETH[5]は十九世紀のフランス領西アフリカ(A.O.F.)における学校の設立を植民地支配との関連から考察した。アフリカにおける学校事業は、主にキリスト教宣教団体、植民地当局ならびに軍隊が取り組んだものだが、中でもスペートはカトリック宣教会・修道会の運営した教育事業の問題点を採り上げた。カトリック教会を中心とした宗教団体はアフリカでの福音宣教の一環として教育事業を展開したが、そこでの教育言語や教授法に関しては特定の方針が定められず、多くは現場の恣意的な決定にまかされたままだった。宣教の一環としての言語教育は現地人の生活の向上を図ることをめざすのではなく、植民地体制に奉仕する植民地人の養成に向けられていたことも珍しくなかった。また派遣された宣教師は母国を代表するのではなく、あくまでもローマ・カトリック教会の代表として働くべきであったが、実際のところは祖国フランスの代表として振る舞い、フランスへの忠誠心や愛国心を植え付け、自らを植民地支配の構造に位置づけることが多かった。
さらにフランス領西アフリカでの教育に関する博士論文を著したブッシュBOUCHE[6]は、共和国政府が植民地帝国の教育をどの程度統制していたかを検証した。結論として、植民地帝国はあまりに広大であり、文化や歴史、経済などあらゆる領域での地域差が甚だしかったために、統合した言語政策を策定することが困難だったことが確認された。同一の植民地官僚が各地を赴任することにより、ある程度均質で整合性のとれた言語政策を実施することが可能だったかもしれない。しかしそれぞれの植民地は教育に関してかなりの自由裁量権を持っていたために、多くは現場の判断に任され、体系的な政策を展開するにいたらなかった。そもそも共和国政府は原住民をどれほど真剣に教化するつもりだったのか、その政策意志も曖昧なままである。このような点でブッシュの発表はこれまで均一とみなされていた言語同化主義に疑問を投げかけ、研究の地平の再検討を促すものだった。
ではいったい植民地当局はどの程度フランス語普及を制度的に推進しようと考えていたのだろうか。今回の発表や議論から考える限り、この疑問はこれまで考えられていたほど明確なものではない。特定の政策を遂行するには関係機関があまりにも多く、利害の一致が容易ではなかったことがその原因の一つかもしれない。その意味で今後の課題は、相互作用に開かれた、いわば複雑系としての植民地をそのダイナミズムにおいて把握することにあるだろう。
2.
「植民地教育を考える」とは何か
はじめに「植民地教育」の語義を明らかにしよう。一般に「植民地教育」は二つの意味に解される。第一に、植民地政策を推進する国家が教育制度を含めた公権力やジャーナリズム等の権力装置によって、自国民に植民地政策の正当性やその拡大を訴えるものであり、植民地政策の遂行を有利にする情報のプロパガンダとしての国民教育があげられる。フランス第三共和政下のプロパガンダとしての植民地教育の実態に関してはアジュロンAGERONの研究がある[7]。植民地主義の正当性と推進が「植民地党」を名乗る一連の利益集団によってどのように行われてきたのか、アジュロンは詳細に考証を進めている。そしてその集団の一つにフランス語普及機関があったことは見逃してはならない[8]。国外におけるフランス語普及は共和国政府の対外膨張政策と並行して進められており、植民地の拡大はフランス語普及の拡大を含意したので、アリアンス・フランセーズなどの言語普及機関はフランス国内において植民地主義の推進を世論に訴え、組織の拡大発展を図ったのである。
しかし、研究集会におけるテーマとなり、私がここで考察の対象としているものは、もうひとつの意味での「植民地教育」であり、それは「原住民教育」enseignement
des indigènesとも呼ばれる。これは、ある国家が植民地として獲得した国や地域において、宗主国としての立場から、植民地人に向けて実施する教育を意味し、とりわけ第三共和政以降のフランス植民地帝国において実践されたフランス語教育がここでは考察の対象とされる。
では「植民地教育を考える」とは何を意味するのか。私は植民地主義に関して、冷戦構造の崩壊後に頻発する民族紛争がこれまでの植民地主義の刻印の表面化に他ならないという時代認識を共有する[9]。とりわけ旧フランス領アフリカの各地では依然として民族紛争などが多発しており、安定した国づくりの道が不透明なままである。そのような国においてフランス語は公用語として国家運営の道具となっていることが多い。ところが、国の発展の道具ともなるフランス語は、かつての支配者が同化主義の実現に用いた武器でもあり、その意味で植民地支配の負の遺産をも担っている。開発や近代化のためにフランス語は必要だろうが、フランス語が植民地主義の刻印を刻み込んだものであることは否定できない事実である。そこではフランス語に対して好悪の入り交じった言語感情が発生しやすい。
ところがフランスとは主権国家間の支配や被支配の関係を経験したことのない日本にあって、フランスが歴史的に実践した植民地教育を考察することはいかなる意義があるのだろうか。これはかつての植民地人の陥りがちな告発型の植民地批判とも異なるし、フランス人が自国の歴史を擁護し、正当化するために繰り広げた植民地叙事詩的言説[10]でもない。そこで日本人として、あらゆる利害関係を退けた知的好奇心や真理の追究といった態度を貫いたり、学問の廉直さを訴えることもできよう。しかし、外国語としてのフランス語教育学が植民地主義の文脈のなかで発生し、制度化されてきた歴史を多少なりとも踏まえるのならば、学問的な誠実さだけに満足してよいものか、はなはだ疑問である。そこにはフランス語教師としての職業倫理が関与してくると考える。
支配と被支配の構造が不可逆的な植民地社会において、フランス語教育・学習の形態はきわめて特殊なものだった。というのも、教育の場そのものが支配と被支配の構造に組み入れられていたからだ。そして、支配者の立場に立つ教師にとって、言語教育の目的は言語による植民地人の同化であり、これは植民地支配の強化と安定を目的とする。そこでは、ごくわずかの教育者を除いて[11]、フランス人フランス語教師はフランス「文明」のもとに植民地人の言語や文化を否定し、フランスの優位を説いてきた。少なからずのフランス人フランス語教師は「文明」と「進歩」を信じ、「救世主国家フランス」[12]のために植民地においてフランス語教育に邁進してきた。このような歴史的イデオロギー的文脈において、彼らは植民地主義に奉仕し、植民地主義の媒体ともなった。彼らの何人かは愛国心からこの役割を意図的に担い、またある人々は国威の発揚に陶酔するあまり、植民地体制を無意識的に支援したものもあるだろう。またフランス人宣教師もキリスト教の普遍性や他宗教に対する優越性に全幅の信頼を置き、キリスト教布教により「未開人」を「野蛮」から「文明の」状態に引き上げる努力を払ってきた。この過程で自らの母国であるフランスへの愛国心を植民地人に注入することもあった。これはバリバールBALIBARの唱える「フランス・イデオロギー」の発現の一形態といえる。バリバールによれば、「フランス・イデオロギーは、『人権の国』の文化による人類の教化を普遍的な任務と考えること」にあり[13]、教育はこのイデオロギー実現の重要な手段となる。
ところが非フランス人という資格でフランス語普及・教育にかかわることは、たとえそれが植民地体制の外にあっても、ともすれば自らを植民地主義的文脈へと還元し、フランス・イデオロギーの媒体となりやすい営みを意味する。そのためフランス・イデオロギーの普及者や媒体となる「誘惑」を克服し、それから自由になることは、職業倫理の次元に通じると考える。そこで「植民地教育を考えること」は自らの職業の意義を省察し、職業倫理の覚醒に少なからず役立つ。なぜならば、この考察はフランス語普及・教育に内在するイデオロギーを否応なく喚起するからである。もちろんフランス語教育に内在するフランス・イデオロギーへの目覚めがただちにその克服に直結するとは限らないが、少なくともイデオロギーの認識こそがその克服や、イデオロギーに奉仕することなく、イデオロギーから自由になる第一歩であることは間違いない。
3.
最後に
本稿は「フランス植民地帝国におけるフランス語普及と教育、1815年から1962年まで」の研究集会の報告であるとともに、一連の発表に触発されて、「植民地教育を考える」とは何を意味するのか、この課題を批判的に検討した方法論的考察の試みである。同化主義の実践としての植民地教育はフランス語普及・教育に内在するイデオロギーを典型的に映し出す。その意味で、「植民地教育を考える」ことは、フランス語教育の実践にあって、フランス・イデオロギーを認識し、それから自由になるための方策の一つであると考える。
このような試論がフランス語教育に内在するフランス・イデオロギーの克服のためのさまざまな議論のたたき台となることを願ってやまない。
[1] 本稿は「ペダゴジーを考える会」(1999年2月20日、上智大学)における報告をもとに加筆修正を施したものである。
[2] cf. Gérard Vigner,
« Compte rendu de la Journée d’études », in La
lettre de la SIHFLES,
no. 39, 1999.
[3] cf. Noureddine Sraïeb, Le
collège Sadide de Tunis : 1875-1956, enseignement et nationalisme, Paris : Editions du CRRS, 1995, 346 p.
[4] cf. Anh Tran Ngoc, « Français langue seconde et
identité biculturelle en Nouvelle-Calédonie », Etudes de
linguistique appliquée, n. 88, 1992.
[5] cf. Valérie
Spaëth, Génélogie de la didactique du français
langue étrangère ; l’enjeu africain, Paris : Didier Erudition, 1998, 210 p.
[6] cf. Denise Bouche, L’enseignement
dans les territoires français de l’Afrique occidentale de 1817 à
1920, tome 1 & 2, Lille : Service de
reproduction des thèses, Université Lille III, 1975, 947 p.
[7] cf. Charles-Robert Ageron, France
coloniale ou parti colonial ?, Paris : Presses Universitaires de France, 1978, 302 p.
[8] 西山教行、「『植民地党』としてのアリアンス・フランセーズ:植民地主義における言語普及」、『新潟大学経済学年報』、24号、2000.
[9] 伊豫谷登志翁、「開発:地球化とナショナリズム」、川田順造・上村忠夫編、『文化の未来:開発と地球化の中で考える』、東京:未来社、1997、282p.
[10] 1930年代に多くみられた植民地支配を正当化する言説で、エキゾティスムを特色とした。
[11] アフリカにおいて現地語を用いた教育を考えた者もいた。セネガルの現地語による教育の先駆者ダールについては次の論文を参照。砂野幸稔、「セネガルにおけるフランス語使用:その歴史Iフェデルブ以前」、『熊本女子大学学術紀要』第46巻、第1号、1994.
[12] cf. Albert Salon, L’action
culturelle de la France dans le monde, Paris : Fernand Nathan, 1983, 160 p.
[13] E.バリバール、I.ウォーラースタイン、若森章孝他訳、『人種・国民・階級:揺らぐアイデンティティ』、東京:大村書店、1997、438
p + vii、参照p. 43.( Etienne Balibar, Immanuel Wallerstein,
Race, nation, classe : les identités ambiguës)