戦時中の生活

[1:自宅で米を搗(つ)く]

七分搗きの米粒 昭和12年から始まった日中戦争により次第に海外からの物資の輸入が不足するようになりましたが、米の配給量を節約しビタミン B-1などの栄養供給に資するために、昭和14年(1939年)11月に勅令第789号によって、米穀搗精(とうせい)等制限令が公布されました。{注:搗精(とうせい)とは、後述する米を精米すること}。

その第二条によれば

業務ニ関シ米穀ノ搗精(トウセイ)ヲ為ス者ハ、玄米ノ重量ニ対スル搗キ上ガリ米ノ重量ノ割合ガ、農林省令ノ定ムル割合ヲ下ラザル限度ニ於イテ、米穀ノ搗精(トウセイ)ヲナスベシ。
と決められ、農林省令によって重量の割合が94パーセント以下にならないうように 指定された結果、米の精米は七分搗(づ)きになりました。これを法定米もしくは七分搗(づ)き米と呼びました。米は搗(つ)けば搗(つ)くほど量が減るので、それを防ぐためでした。ちなみに現在我々が食べている米は籾(もみ)から取った玄米の周囲にある皮を、完全に取り除くまでに十割精白した白米ですが、七分搗(づ)きの米とは玄米の皮が、30パーセント残っている状態でした。口に入れるとぶつぶつした舌触りがして食べにくいし、幼児や年寄りには消化が悪くお腹をこわす場合もありました。

精米業者には7分搗(づ)き以上に米を白く搗(つ)くことが禁止されたものの、個人で搗(つ)くことには支障がなかったので各家庭では「舌ざわりが良く、美味しく食べられる米」を作るために精米を始めました。現在スパーなどで売られている家庭用精米機が戦時中には未だ無かったので、米をビール瓶や1升瓶に入れて上から専用の棒で突いて、米同士の摩擦で米粒の周囲の皮を取り除く精米方法が流行りました。

ちなみに炊飯に際して米をと(研)ぐという言葉は、米を研磨して米ぬかを落とすことから来た言葉ですが、精米機が無かった江戸時代の精米方法とは、玄米を臼に入れて餅をつくように、杵で搗(つ)いて精米をしました。

[2:金魚酒(ざけ)の配給]

酒の配給切符

昭和15年(1940年)になると4月から米、みそ、砂糖、マッチなど生活必需品の10品目が切符制になりなりましたが、左は清酒の配給券ですが、表面の文字は「特殊用途清酒配給票、清酒1升、用途、婚礼に付き入用、有効期限昭和16年11月中、配給場所、受配給者の住所氏名」で、つまり婚礼用に特別に割当てられた酒の購入票でした。6月になると家庭用ビールの配給制が実施され、酒も量を増やす為に水で薄めたアルコール分10度以下のものも販売されるようになり、余りにもアルコール成分が薄いので、飲んでも酔わずに金魚を酒の中に入れても死なずに泳ぐ「金魚酒」と評判になりました。

タバコの手巻き紙 タバコも配給制になりましたが、最初は成人一日当たり「金鵄、(きんし)」5本でした。しかしその後紙巻きタバコ(シガレット)が配給されなくなり、タバコ(葉を刻んだもの)とそれを巻く紙が別々に配給されるようになったので、タバコを吸う人たちは自分でタバコの葉を紙で巻いて吸うようになりました。中にはイタドリ、梅、ツバキの葉などがタバコのような味がすると称して乾燥させて刻み、配給されたタバコの葉を刻んだものに混ぜて量を増やして吸う人もいました。写真は大蔵省専売局から配給された手巻き用の巻紙ですが、戦時中に英語が敵性言語として学習禁止になったので、不要になったコンサイス英和辞典の白い紙が、家庭でのタバコの手巻きに多く利用されました。精製された上質紙なので、紙の味が少ないのだそうです。

[3:米穀配給制度の実施]

米の配給通帳 太平洋戦争が始まる昭和16年(1941年)の4月からは、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の六大都市では左の写真にある米穀の配給通帳制と、外食をする人には外食券制が実施されましたが、米の配給量は一人一日当たり2合3勺(330グラム)になりました。それまで全国のサラリーマン世帯の一人当たりの米の消費量は3合(430グラム)でしたので、従来の消費量に比べて約24%の削減でした。

衣料配給切符

昭和16年当時はこの配給量の不足分を補う為のパン、ウドン、ソバなどの食料品の入手も可能でしたが、その後日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり、主食の米に次いで調味料、魚介類、肉はもとより野菜まで、口に入る物は全て配給制度に組み込まれたので、余分な食料品の入手ができなくなりました。

ジャガ芋の配給 戦争が続くと物資の不足は深刻になり、米の代わりに芋類、大麦、やコーリャン(高粱、中国北部で栽培されるモロコシの一種)が配給されました。左の写真を野菜の配給と間違えないで下さい。隣組単位で米の代用にジャガイモを配給しているところです。最も困ったことは昭和20年の端境期(はざかいき、今年の新米を収穫するまでの期間)に、米の在庫が不足し配給の遅配、欠配が起きたことでした。

私達は長野県の山奥の寺に学童集団疎開をしていましたが、昭和20年のある日のこと食事に赤いご飯が出ました。皆は久しぶりに赤飯かと思って喜んで食べたところ、それはコーリャン飯でした。生まれて初めて見たコーリャンは外皮が赤いので茶碗の中が真っ赤でしたが、飢えた私たちでも不味いのでようやく食べることができた食事でした。 それ以外でも当時の炊事には欠かせなかったマッチ、衣料品、縫い糸、石鹸に至るまで乏しい配給制になりましたが、割り当ての配給切符を持っていても買う品物が店に入荷しなくなりました。昭和20年7月からは米の配給量が更に削減されて、一人一日当たり2合1勺(300グラム)になりましたが、これは米の配給開始前の消費量から30%減に相当しました。

[4:飢えの記憶]

敗戦間近の昭和19年(1944年)の夏に米軍機による空襲を避けるために、各地の大都市から地方に学校ごと集団疎開した子供達が40万人いましたが、私を含めて子供達が戦時中の配給制度の下で体験した飢えの様子については、ホームページのここをクリックすれば知ることができます。


目次へ 表紙へ