子供の頃の思い出(その二)
[ 1: 豊島園 ]東京都内に住む人であれば名前を聞いたことがあるかも知れませんが、子供の頃によく親に連れられて遊びに行った遊園地は、現練馬区にある豊島園でした。省線 ( 鉄道省、現 J R ) の大塚駅から山手線に乗り、池袋で乗り換えて西武鉄道、武蔵野線 ( 現豊島線 ) に乗りました。現在では住宅密集地域を走る電車も、その当時は江古田駅を過ぎると周囲には家がほとんど無くなり、関東平野の外れの山まで遮る建物もない広い農村地帯を走っていました。その当時若い女性の太い足を練馬大根と評しましたが、今では住宅地となってしまった沿線の練馬も、当時は都民に野菜などを供給する農産地として有名で、大根といえば練馬産と 三浦半島 ( 神奈川県 ) の三浦大根が有名でした。終点の豊島園も現在は周囲をすっかり住宅に囲まれていますが、その当時は遊園地以外に何もない畑の中に、駅だけがぽつんとある寂しい駅でした。 釣り好きの父が園内の釣り堀で釣りをする間、三才年上の兄と遊戯具に乗ったり ゲームをしたりして遊びました。ある日園内を流れる 石神井 ( しゃくじい ) 川 の岸で遊んでいた際に、当時小学校 3 年の兄が足を滑らせて川に落ち、流されるという出来事がありました。子供の背が立たない程の深さでしたが幸いなことに兄は泳ぎが少しできたので、10 メートルほど流されてから自力で岸に泳ぎ着くことができました。 その数年後 ( 昭和 18 年 ) に今度は小学校 4 年生だった私が、橋から 3 メートル下の川に落ちるという出来事がありました。父親の実家がある栃木県の田舎にお盆の帰省をした際に、大人の自転車に 三角乗り ( 注参照 ) をして遊びましたが、狭い橋の上で荷馬車とすれ違った際に バランスを失い橋から自転車の ハンドルを握ったまま背の立たない川の中に転落しました。 戦時中には橋の欄干にあった金属製の手摺りが、政府による 金属の回収指示 を受けて取り外されていたためでした。この時も私が運良く泳げたので溺れずに済みましたが、水がきれいな川底の自転車を自分で水に潜って岸に引き揚げ、馬方の人が土手の上まで運んでくれました。
[ 2 : 巣鴨刑務所 ]戦前東京の( J R )山手線池袋駅の近くにあった巣鴨刑務所は後に東京拘置所と名前が変わりましたが、その当時地元では依然として巣鴨刑務所と呼んでいました。家から歩いて 30 分以上掛かる所にありましたが、高い塀の周囲は都内では珍しい雑草が茂る広い空き地になっていたので、オート(とのさま バッタ)や トンボなどが沢山いました。毎年夏になると虫捕りの網や虫かごを手にして年長の子供と一緒に、バッタなどを捕りに行きました。昭和 15 年 ( 1940 年 ) は丁度 皇紀 2,600 年 に当たる年でしたので、全国各地で祝賀行事が行われました。巣鴨刑務所横の空き地でも櫓を組んで提灯を飾り、盆踊りが催されたので見物に行きましたが、周囲には夜店も出て賑わいました。その当時は東京音頭に合わせて踊っていました。 ハア−踊り踊るな−ら、チョイト東京音頭 ヨイヨイ、花の都の、花の都の真ん中で サテ、ヤートナソレ ヨイヨイヨイ−− 敷地の北東の角には東池袋中央公園がありますが、そこはかつて東条首相以下多くの戦犯が処刑された 五基の絞首台があった跡地です。片隅には刑死者の慰霊碑が建てられていて、碑には 永久平和を願って の文字が刻まれています。
第二次大戦後、東京市ヶ谷において極東国際軍事裁判所が課した刑、及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を再び繰り返さないために、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。昭和 55 年 6 月と刻まれています。 昭和 23 年 ( 1948 年 ) 当時、併設中学 ( 旧制中学と同じ ) の 3 年生でした私は、同時通訳された東京裁判の判決の実況放送を自宅の ラジオで聴きましたが、ウエッブ裁判長が東条首相以下 7 名の A 級戦犯に対して、デス ・ バイ ・ ハンギング ( 絞首刑 ) を宣告した時のことを今でも覚えています。 あれから 56 年の歳月が流れましたが、今では国内、海外の国際法学者、研究者の中で、東京裁判が国際法に基づき公正におこなわれたと認める者は、極めて少数にしか過ぎません。裁判で インド代表判事を務めた パル判事がただ 一人、日本は無罪であるとした判決理由書の中で、 時が熱狂と偏見をやわらげた 暁には 、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には−−−−−。といみじくも予言したように、時や理性が 法の衣をまとった正義の仮面 を剥ぎ取り、その下に隠されていた 邪悪な復讐者の素顔 を白日の下に晒しました。敗戦国の指導者を裁き、復讐するという政治目的のために、法の真理である 罪刑法定主義や法の不遡及の原則 ( 注 : 1 ) を踏みにじったのです。占領軍総司令官の マッカーサーでさえも、昭和 25 年 ( 1950 年 ) 10 月 15 日に米国の トルーマン大統領と、太平洋上の ウエーキ島において朝鮮戦争に関する会談をした際に、自己の管理下でおこなったあの裁判は間違いであったと述べました。
注 : 1 ) [ 3 : 第三国人について ]戦前の池袋といえば駅から僅か 600 メートルの距離に、前述した巣鴨刑務所があったほどの場末の さびれた所 でした。敗戦後は駅の西口に闇市が栄えそこを縄張りとする ヤクザの極東組と、電車や バスの無賃乗車をしたり、闇市で品物を買っても代金を支払わないなどの無法な振る舞いをした 第三国人の朝鮮人 との抗争事件が多発しました。( 朝鮮人とは朝鮮半島出身者のこ と)石原東京都知事の第 三国人発言が以前問題になりましたが、敗戦直後の世相を知る同年代の者にとって、第三国人とは朝鮮人に対する差別的発言ではなく敗戦直後には朝鮮人自身が、 俺達は第 三国人だから、日本の法律に従う必要がないと特権を主張した時の言葉です。彼等はあたかも戦勝国の 一員であるかの如く振る舞い、やりたい放題の不法行為 ・ 悪事を重ね、社会の治安を乱しました。しかし占領軍から 「 第三国人は日本の法律に従え 」 という命令が出て、彼等に対する警察の取り締まりが厳しくなり不法行為も次第に陰を潜めました。 戦前のさびれた街、ガラが悪かった戦後の池袋を知る者にとって、現在の三越、西武、東武デパートで賑わう繁華街の姿は、到底想像もできませんでした。
注 : ) 吉田書簡
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