国民学校、皇国民教育私が初めて入学した学校は兄達が通う頃から慣れ親しんだ、東京都豊島区巣鴨( 現大塚聾学校の敷地 ) にあった仰高北 ( ぎょうこうきた ) 小学校でしたが、翌年( 昭和 16 年 )の 4 月 1 日から 国民学校令 が施行されて国民学校と名前が変わりました。私達より 1 年後の昭和 16 年以降に入学した新 1 年生達は、学校で次のような唱歌を歌いました。みんなで勉強うれしいな/国民学校1年生それと共に教育内容も天皇制国家主義、軍国主義に基づく皇国民育成を目的とするものに改められ、学校では朝礼の際に毎日 宮城( 皇居のこと ) 遙拝 が行われるようになりました。 (青い枠のある写真は、クリックすると拡大されます。戻るには ブラウザの戻る ボタンをお使い下さい。)
ある時全校生徒が学校近くの中山道 ( 江戸と京都を結ぶ街道 ) の道端に整列して、皇族の通行をお見送りしました。皇族の乗った車が近づくと号令に合わせて最敬礼をしたので、車や乗っている人の様子を見ることもできませんでしたが、その皇族とは私と同じ年齢の、当時学習院初等科 4 年生であった 皇太子明仁殿下( 現在の天皇陛下 )のことでした。
(1)、奉安殿
周囲を柵で囲み、内側には玉砂利を敷き詰めたその建物には、宮内省( 当時 )から東京都を通じて 「 お下げ渡し 」になった、天皇、皇后両陛下のご真影( 写真のこと )や教育勅語、開戦の詔勅などを収納保管していました。 檜皮 ( ひわだ )葺きで、棟( むね )には千木( ちぎ )、堅魚木( かつおぎ ) を載せた、後述する大社( 出雲大社 )造り風の屋根の形に注目。
注:1 )「 御写真( ご真影 )奉安と教育勅語奉置 」とありました。しかし空襲の危険が予想されると、各学校のご真影と教育勅語謄本だけは、いち早く地方のどこか安全な場所に移されました。
注:2 )学校長の自殺これに関連して沖縄特攻に行った戦艦大和の沈没に際しても 「 ご真影 」 の処置が問題になりましたが、庶務担当の第 9 分隊長が 「 ご真影 」 を抱いて自室に入り、内側から鍵を掛けて 「 ご真影 」と共に運命を共にしました。 学校での 「 式典 」 当日の朝には、校長先生が白手袋をはめて 「 ご真影 」 や勅語の巻物をそこから取り出して、うやうやしく捧持して式場に運んだものです。また登下校の際には神社にお参りするのと同じ感覚で、児童はその建物にお辞儀をしました。
注:3 ) 千木、堅魚木 ( ちぎ、かつおぎ ) (2)、英霊室東京の学校にはありませんでしたが、私達が疎開した長野県の村の国民学校には英霊室というのがありました。空き教室の壁に神棚を設け、その下には村の国民( 小 )学校の卒業生のうち、支那事変( 日中戦争 )、大東亜戦争( 第二次大戦 )で戦死した人達の出身部落名、軍隊の階級、名前、年齢を書いた白木の板が個人ごとに飾ってありました。 当時児童の間で流行った歌に 「 勝ち抜く僕ら少国民 」 、がありましたが、その歌詞は
歌詞一番
私と同じ世代の人達はこのような時代の流れの中で育ち、こういう教育を受けて来ました。
(3)、勅語の世代私達が小学校に入学する年の紀元節、2 月 11 日には前述の紀元 2,600 年の勅語が出されました。2 年生の 12 月 8 日には大東亜戦争 ( 第二次大戦 ) が始まり 宣戦の勅語 が出されましたが、幼い私達には戦争になって大変だと親たちが言う意味が、よく分かりませんでした。翌 17 年には 1 月 2 日の閣議で「 開戦の日 」を記念して、毎月 8 日を 大詔奉戴日 と定めて、精神運動を展開することなりましたが、国民学校では毎月 8 日が来る度に、全校生徒を集めて校長先生が 「 宣戦の勅語 」 を読み、講話が行われるようになりました。 勅語の朗読を聞く際は「 気を付け 」 の姿勢で長時間頭を下げたままで聞くので、あちらこちらで、その当時多かった蓄膿症の児童が鼻水を ズルズルすする音が必ず聞こえてきました。それから四年後に長野県の山奥の学童疎開先で、級友と一緒に 「 終戦の詔勅 」 のラジオ放送を聞くことになるとは思いもよりませんでした。 小学校では 2 年生から 「 修身 」 という教科がありましたが、その教科書の最初の頁には「 教育勅語 」が載っていました。 漢字 カタカナ混じり文で句読点や濁点のない読みにくい文体 ( 漢字には ルビ 付き ) でしたが、卒業式、始業式などの学校行事には校長先生が必ず教育勅語を読むので、「 門前の小僧 」 と同じで、意味はともかく文言は自然に覚えました。 4 年生から習う国史 ( 国の歴史 ) の教科書には 「 天孫降臨の、 みことのり 」が第 1 頁にありました。 その次ぎの頁には初代の神武天皇から、当時の今上 ( 昭和 ) 天皇までの 124 代の天皇名 が表にしてありましたが、国民学校 5 年生の国史の テストではそれを順番に、どこまで正確に言えるかでした。私は運が良かったのかテストでは、124 代の天皇名を間違えずに全部言うことができました。 子供の頃に覚えさせられた事はなかなか忘れないもので、60 年近く経った今でも神武天皇から 33 代推古天皇 ( 日本最初の女帝、554〜628 年 ) までならば、天皇の名前を順序正しく正確に言うことができます。
(4)、学校給食学校給食といえば、戦後の食糧事情の悪化のなかで米国の援助で始められたように思われますが、私達の小学校では戦時中の 昭和 18 年 から、給食が行われていました。それはお米の御飯ではなく、コッペパン 1 個に副食の給食でしたが、当時は既に食糧の配給制度が実施されていて、私が住んでいた東京の豊島区以外の学校も給食が実施されていたかどうかは不明です。 当時の義務教育制度では教科書は有料であり、さらに 「 保護者会費 」 として毎月 「 月謝 」 を学校に持参したので、給食も恐らく有料だったと思います。ご飯ではなく、なぜ パン食だったのか分かりませんが、美味しかった給食の記憶があります。
米国の食糧輸出戦略
(1)、ガリオア、エロア、ララ 援助ちなみに敗戦後の小学校では、昭和 21 年 ( 1946 年 )12 月から、 米国産の脱脂粉乳 を中心とする学校給食が始まりました。それが 米国産小麦粉 から作る パンを主食とする完全給食になったのは、大都市では昭和 2 5年 ( 1950 年 ) 2 月からで、全国の都市部では翌年 2 月からでした。
日本に対する援助はこれ以外に国連が管理した ララ LARA ( Licensed Agency for Relief of Asia ) アジア救済機関による援助があり、これにより米国産の粉 ミルクが日本全国の小学校児童に配給されました。 ガリオアによる援助は昭和 23 年 ( 1948 年 ) に エロア 援助に吸収されましたが、基金の性格、その目的 ( 米国における余剰農産物の処理 )から、本来占領地域に対する無償援助の 「 はず 」 でした。
(2)、だまし、と脅し( Bluff )の手法これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助である マーシャル ・ プラン ( 注:1 ) に対応したもので、日本に対しても当初は無償援助と言っておきながら サンフランシスコ講和条約締結を前に、昭和 23 年 ( 1948 年 )1 月に米国政府が突然総額 20 億 ドル ( 注:2、当時の為替 レートで 7,200 億円 )の援助の立て替え代金 (?)を請求したので、日本政府は 「 寝耳に水 」 と驚きました。無償援助ではなく有償でもない、 貸与した とする口実を米国は考えついたのです。品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、占領中には国会で 米国の援助に対する感謝決議 までして来たのです。 もし仮に貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在しませんでした。また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づくものであるならば、その売買契約書が存在し、売買金額 ( トン当たりいくら、または総額いくら ) が当然その契約書に記載されているはずです。 ところが ガリオア、エロア 援助に関する公文書には売買契約に関する文書やそれに関する条項がなく、金額の記載も全くありませんでした。値段も決めずに 何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。 日本は米国から詐欺に遭ったのです。 最初に巨額な金額を要求して交渉相手をひるませる ブラフ ( Bluff、脅し ) と呼ばれる交渉 テクニックは、アメリカでは 弁護士の常套手段 です。相手をひるませて交渉の主導権を握り、次に要求を少し減額して譲歩の姿勢を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。 それにより交渉を有利に進め、最後には 目的とした金額を相手に支払わせる 、とする戦術です。交渉は難航しましたが、昭和 37 年 ( 1962 年 )1 月に、米国が援助の経緯を勘案した結果、当初請求した金額を定石通りに 4 億 9 千万 ドル( 1,764 億円 )に減額して交渉成立に誠意を示した(?)ので、日本は 15 年の年賦での返済に応じることとなり、後にはそれを完済し解決しました。 かなり減額したように思えますが、それまでに日本は占領に要する経費である終戦処理費として、 50 億 ドル もの大金を占領軍の為に ( アメリカの国益のために ) 支出したのです。それはあたかも刑務所の看守の給料を、囚人が負担したようなものでした。 その一方で マーシャル ・ プランによる経済援助を受けた ヨーロッパ の国々で、債務 (?) 返済に応じた国はありませんでしたが、 アメリカ政府は赤子の手をひねるが如く簡単に、支払い義務の無い大金を日本から巻き上げました。
注:1 マーシャル・プラン (3)、パン食導入計画、その影響昭和 29 年 ( 1954 年 )には学校給食法が国会を通過し、「 小麦の粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること 」 が明文化されて、 米作地帯の農村までも コッペパンによる学校給食の普及が進められました。当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パン食普及協議会が作成した小冊子 「 学校給食とパン 」 には、
コメを食べていると身体が弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血になり易いと書かれていました。 実は米国からの農産物援助には 米を主食 とする日本人を、 子供の頃から パン食に慣れさせて 、自国産小麦の輸出を図る アメリカ政府の遠大な戦略があったのです。敗戦後の学校給食の パン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて、日本人の食生活にも次第に パン食が普及して、その計画は見事に成功しました。
昭和 39 年 ( 1964 年 ) に マクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると
米国が スポンサーとなった学校給食 プログラムによって、日本の子供達が米国の ミルクと パンを好むようになり、日本が米国農産物の 最大の顧客 となったと書かれています。具体的には米国産小麦の日本への輸入量は昭和 28 年度 ( 1953 年 )の 168 万 トン から、昭和 39 年度 ( 1964 年 ) には 359 万 トン と 2 倍以上に増加しました。
それ以来パン食が普及するのに伴い主食である米の需要が次第に減少して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。
その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、適正備蓄量 160 万トン のところ、平成 12 年度では 2 倍近い 280 万トン にも達していて、食糧倉庫には古米 ( 生産後 1 年以上経過したもの )、古々米 ( 2 年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける ) が溢れています。 それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから、毎年 600 万トン を超える小麦を輸入していて 世界最大の小麦輸入国 となっていますが、その小麦の 7 割は米国産 です。
つまり米国は自分の カネ ではなく、日本人の税金を使って パン 食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて、大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのです。
(4)、食糧自給率の低下その後、昭和 31 年 ( 1956 年 ) には 「 米国余剰農産物に関する日米協定 」 を結ばせ、農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、食糧自給率の試算を始めた昭和 35 年度 ( 1960 年 ) 当時の 79 パーセント から、平成 14 年度 ( 2002 年 ) では カロリー換算で 40 パーセント まで低下しています。 これほど低い自給率の国は フランスの 135 パーセント、米国の 125 パーセントなどに比べて先進国では日本だけですが、小麦をはじめ、牛肉、大豆など食糧に関する限り、日本は米国の 51 番目の州 になり下がったと言えます。
< 注:1 ) カロリー換算
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