天孫降臨の、みことのり(詔勅)

創作の過程

注:1

古事記の神代篇によれば、

天照大神 ( アマテラスオオカミ )が孫に当たる 「 ヒコホのニニギの尊( みこと )」 に謂 ( いい )て曰( いわ )く、

豊葦原千五百秋之瑞穂之国あり、宜しく汝 ( いまし )が往て脩 ( しら )すべし
とあります。

豊葦原 ( とよあしはら ) とは豊かに葦 ( あし )の生い茂る原のことで、日本国の美称です。
千五百秋の瑞穂の国 ( ちいほ、あきの、みずほのくに )とは、豊かに稲などの穀物が実る同じく日本国の美称です。

注:2

日本書紀神代下訓( かみのよの、しものまき )によれば、

天照大神(アマテラスオオカミ)が、天稚彦( アメワカヒコ )に勅( みことのり )して曰( のたま )わく、

豊葦原の中国( なかつくに )は、是( これ )、吾( あ )が兒( みこ )の王( きみ )たるべき地( くに )なり。汝( いまし )先ず往( ゆ )きて平( む )けよ
があります。

天皇に関する 神権君授説 の拠り所

上記の注1、2、から 天孫降臨の、みことのり が、記紀 ( 古事記、日本書紀 )が編纂された時代( 西暦712〜720年 )から存在したものではなく、後世になって、恐らく江戸時代末期から、明治初期までの間に、 王政復古や天皇の神格化 を目論む者が、二つの記述を意図的にまとめて、神権君授説の拠り所となる みことのり を創作したものと思われます。

神話の歴史化

世界には建国神話を持つ国家、民族は数多くありますが、近代国家では神話はあくまでも神話であり、歴史と混同することはありませんでした。

しかし当時の学校では 「 天孫降臨 」 以外にも、皇紀2,600年の紀年のごとく記紀に書かれた 建国神話 を「 神話 」としてではなく、日本の 正しい歴史 として、国定の歴史教科書に基づき教えていました。

天孫降臨のみことのり は、当然のことながら小学校では暗記させられました。敗戦当時 ( 1945年 ) 小学校の高学年であった人は、以下の文章を記憶しているはずです。




豊葦原ノ千五百 ( チイホ ) 秋ノ瑞穂ノ国ハ、是 ( コレ ) 吾 ( ア )カ( が )、ウミノコ( 子孫 )ノ王 ( キミ )タルヘキ( ベキ )国ナリ。

宜 ( ヨロ )シク汝 ( イマシ )、皇孫 ( スメミマ、皇統の子孫 )就 ( ユ )キテ脩 ( シラ )セ、行 ( サキ )矣( ク )マセ、天 ( アマ )ツ日嗣 ( ヒツギ、皇位の継承 )ノ栄エマサムコトマサニ、天壌 ( アメツチ )ト窮 ( キワマリ )ナカルヘシ( ベシ )。



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