皇紀2600年
[ 皇紀とは ]初代天皇として神話に登場する神武天皇が日向 ( 宮崎県 ) から東進し大和地方を平定の後、大和の橿原 ( かしはら ) の宮で即位した年を日本書紀の紀年に基づき、 皇紀元年 と定めた紀元をいいます。当時の小学校の国史 ( 歴史 ) 教科書は、すべて皇紀と年号で書かれていました。現在の橿原神宮は奈良盆地の南部にある伝承の地 ( 奈良県 ・ 橿原市 ・ 久米町 ) に、明治 22 年 ( 1889 年 ) に創建されたものです。 国史の テストによく出た仏教伝来の年代である皇紀 1212 年などは、佛教伝来 イチニ、イチニ と覚え、皇紀 1454 年 ( 西暦 794 年 ) におこなわれた平安京への遷都は、平安遷都は 一夜越し( ヒトヨゴシ )と覚えたものです。
皇紀元年とは西暦前 660 年 ( B C 660 年 )であり、私が小学校に入学した 昭和 15 年 ( 西暦 1940 年 ) は、丁度皇紀 2,600 年の年に当たる ので、秋には国威高揚のため各地で式典を行うなど、国を挙げて祝いました。 その年の紀元節 ( 2 月 11 日 ) には、 紀元 2,600 年の勅語 が渙発 ( カンパツ、出される意味 ) されましたが、当時歌われた歌に「 紀元 二千六百年 」 の歌 ( 作詞 : 増田好生、作曲 : 森義八郎 ) があります。
金鵄 ( キンシ ) 輝く日本の、栄えある光、身に受けて今こそ祝へこのあした、 紀元は 二千六百年、ああ一億の胸は鳴る。59 年前のこの歌を知る当時の大人は、今はほとんど生きていないでしょうし、いても多分覚えていないでしょう。覚えているのは 私達のように実際にこの歌を歌ったことのある 、当時の小学校児童だけです。 ところで私達はこんな替え歌を歌っていました。
金鵄 ( キンシ ) 上がって 15 銭、栄えある”ひかり”30 銭、 翼を広げた”鵬翼”( ほうよく ) は、高い高い 50 銭、ああ 一億の カネは減る [ 金鵄 ( キンシ )とは ] ところで金鵄とは、古事記、日本書紀の建国説話に出てくる 金色の トビ のことで、神武天皇の東征に際し、長髄彦 ( ナガスネヒコ ) 征伐の時に、神武天皇が持つ弓の上端に止まり、金色のまばゆい光を発して敵の目をくらまし、天皇の軍を助けたという鳥のことです。 明治 22 年に制定され、武功抜群の軍人、軍属に与えられてきた、 金鵄勲章 、はこの説話に由来するものですが、それには功 1 級から功 7 級までの等級があり、一時金もしくは年金が付きました。 金鵄勲章は法律上戦後も存続していましたが、昭和 22 年 ( 1947 年 ) に廃止されました。 私達は小学 2 年生の修身の教科書で、神武天皇と金鵄のことを習いましたが、右の絵は当時の教科書に描かれていたもので、昭和 12 年 ( 1937 年 ) 以前に生まれた人にとっては、多分見おぼえのある絵です。 正確な歌の題名は忘れましたが、戦時中陸軍の航空部隊の軍人たちが歌った軍歌がありました。一番の歌詞は以下の通りです。
[ 皇紀を定めた計算根拠とは ]古代から中国には 辛酉 ( しんゆう ) 革命説というのがありましたが、これは 60 年 ( 還暦 ) が 21 回巡る 1260 年毎に、大革命が起きるとする思想です。この思想が 5 世紀に中国から百済 ( くだら、朝鮮半島の国 ) を通じて日本に入りました。日本書紀の編者は 大化 ( たいか、645 年〜 ) 以前の日本には年号が存在しなかった 為、日本の 「 古い伝承 」 の形を整えるため、辛酉 ( しんゆう ) 革命説を日本の歴史にも当てはめることにしました。推古朝の辛酉 ( しんゆう )、訓読みでは、「 かのと ・ とり 」 の年を起点にした理由については、
推古朝ハ皇朝政教革新ノ時ニシテ、聖徳太子、大政ヲ執リ給ヒ、治メテ暦日ヲ用ヒ、冠位ヲ制シ、憲法ヲ定メ、専ラ作者ノ聖ヲ以テ自ラ任ジ給ヘル折柄−−−。(上世年紀考)とある如く第 31 代、用命天皇の皇子であり第 33 代推古女皇の摂政となった聖徳太子 ( 574〜622 年 ) は、17 条の憲法を制定し律令政治の基礎を築くなど、目覚ましい政治制度改革をおこなった偉大な政治家でした。 太子の偉業が完成した 推古 9 年 ( 601 年 ) を基点として、その 1,260 年前に日本で大革命があったとしたならば、それは初代天皇の即位に違いないと奈良時代の学者 ( 記紀の編者 ) は考えました。そこから 1,260 年を逆算して日本建国の年を、紀元前 660 年に定めたものです。 日本には古くから正確な暦が無く、応神天皇の頃 ( 4 世紀末から 5 世紀 ) に百済 ( くだら ) から学者が来て初めて暦を知りましたが、確かなところでは、6 世紀の欽明天皇の時に百済から暦博士が来朝したのが暦の始まりでした。 7 世紀の初めに推古朝になって、朝廷が暦を天下に示しましたが、神武天皇即位の建国神話は 「 語り部の伝承 」 に基づくものではなく、8 世紀に記紀が作られた際に 「 創作された 」 ことは明らかです。 考古学や古代史によれば紀元前 660 年とは縄文時代晩期であり、狩猟、漁労、採集をおこなう採集経済の段階にあり、社会階級も未分化で、主に竪穴 ( たてあな ) 住居に住んでいました。天皇らしい権力者も、国家らしい王権も日本には未だ存在しなかったことは、議論の余地がない事実でした。
文部省が定めた後述の国民学校 ( 小学校のこと )令、施行規則によれば、
第 14 条
第 47 条
と定められていました。 式日には児童も先生も晴れ着を着て登校し、校長先生が朗読する教育勅語を聞き、式歌を歌い、終了後は教室で先生から 紅 白 のまんじゅう、あるいは菊の模様の落雁を貰い喜んで下校したものですが、戦争開始後は菓子は貰えなくなりました。教育勅語を聞く際は 「 気を付け 」 の姿勢を取り、頭 ( こうべ ) を垂れて聞いたので、冬など風邪引きが多いせいか講堂では、児童が 「 鼻みず 」 をすする音が必ず聞こえて来ました。
四方拝
年のはじめの、ためしとて、終りなき世のめでたさを、
神武天皇即位の日とされる 2 月 11 日は、敗戦までは 「 紀元節 」 と呼ばれましたが、小学校では毎年式典が行われ、
「 雲にそびゆる高千穂の、高根おろしに草も木も、 なびき伏しけん大御代 ( おおみよ ) を、仰ぐ今日こそ楽しけれ」
という紀元節の式歌を斉唱して祝いました。 この日は現在も、「 建国記念の日 」 として 国民の祝日 になっています。
明治節
天長節
今日のよき日はみひかり ( 御光 ) の、さし出たまひしよき日なり ( 以下略 )
このほかに 地久節 と呼ばれる、当時の良子 ( ながこ ) 皇后陛下 ( 現在の天皇の母 ) の誕生日を祝う日がありましたが、学校は休日ではなかったと記憶しています。
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