戦前、日本の農村の地主制度において、小作農は地主(米倉のある家)に対して収穫物の約半分にあたる高率の現物小作料を納めていました。その結果、凶作(きょうさく)、飢饉(ききん)は小作農民の生活を直接的に圧迫し、小作争議(こさくそうぎ)に結びつきました。一方、貧困農民層の増加は、資本家には低賃金で働く労働者を、軍隊には過酷な戦場に耐える兵士を贅沢(ぜいたく)に供給する一因になったと考えられています。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部、日比谷、東京)、 バターン号のタラップを降りるGHQ最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥 (1880~1964,厚木飛行場、神奈川、1945年8月30日、google画像より)
(解説) 戦後、1945年(昭和20年)10月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部、General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers、1945年10月~1922年4月、第一生命本社ビル、日比谷、東京)は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう、1872~1951、第44代 )内閣に対し、日本の民主化のため、次のような五大改革指令を出しました。
①女性参政権の付与(1945.12)、②労働組合の結成奨励(労働三法制定、1945.12~1947.4)、③教育の自由主義的改革(教育三法制定、1947.3~1948,7)、④秘密警察などの廃止(政治犯釈放、治安維持法、特別高等警察廃止、1945.10)⑤経済機構の民主化(財閥の解体、1945.11~1951.7、農地改革、1946.10~1950,7)
これらの五大改革は、ほとんどが実施され、戦後の日本の民主化政策に反映され、日本が民主主義国となる根幹となりました。
戦後、日本の民主化政策の一環として、GHQは、農地改革として、小作農の自作農化を推進(すいしん)し、日本の農村に長く続いてきた地主制度を、3年ほどで崩壊させました。 これには、日本の農村において、地主制度への不満をもつ小作農民が組織化され、社会主義運動が活発となることへの懸念と、低廉(ていれん)な労働力で巨富(きょふ)を獲得した資本家が復活し、軍国主義体制が再燃することを防止するなどのネライもあったと考えられています。
○ 農地改革
農地改革は、第2次大戦後、日本の民主的改革の一環として、日本資本主義の基盤であった地主制の解体を目的として行われた、農地の所有・利用関係の土地改革です。1945年(昭和20年)、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が行った第1次改革は、GHQの農民解放指令に基づく自作農創設の政策でしたが、GHQはその改革を不十分とし、1946年(昭和21年)、「農地改革覚書案」(対日理事会の英国案が骨子)を日本政府に勧告しました。
第2次農地改革(農村を訪れ農地改革について農民と話すGHQ職員、1948年(昭和23年)6月、千葉、昭和毎日新聞、google画像)
(解説) 第2次改革が策定され、自作農創設特別措置法と改正農地調整法が成立し、国による農地買収は1947年(昭和22年)3月から1950年(昭和25年)7月まで、16回にわたって行われました。1948年(昭和23年)末の第10回買収までに、約90%の買収及び売り渡しが完了しました。その頃には、各県の小作地は戦前の15~40%程度に減少しています。
その主な内容は、不在地主制の否定、在村地主の貸付地保有限度の引下げ(1町歩)、農地の移動統制、耕作権の物権化、地主による土地取上げ禁止、小作料の金納化などです。不在地主の全所有地と、在村地主の貸付地のうち都道府県で平均1町歩、北海道で4町歩を超える分とを、国が地主から強制買収して小作人に極めて安く売り渡しました。 その結果、耕作面積の46%を占めた小作地は、10%に減少、地主階級は消滅し、旧小作農の経済状態は著しく改善されました。
また、山林の未解放、地主保有地の残存、零細農経営の存置など不徹底な面もありましたが、農地改革は、農業生産力の発展の契機となりました。そして、改革の成果を維持するために、1952年(昭和27年)、農地法が制定されました。
この農地改革に対し、地主の多くは、先祖から受けついできた土地を取り上げられることに承服しませんでした。そして、地主による異議申し立てや訴願(そがん)、訴訟(そしょう)が全国で相次ぎましたが、1953年(昭和28年)、買収価格に対する違憲訴訟の敗訴(はいそ)によって一応の決着をみました。
○ 農業協同組合(略称、農協、JA)
農民の協同組合は、1900年(明治33年)、産業組合に始まり、第2次大戦中の農業会を経て、戦後、農民の自主的な協同組織として、今日の農業協同組合(略称、農協)が設立されました。農協の設立は任意(行政庁の認可は必要)で、組合員の加入・脱退は自由となっています。
農協のマーク(1992年(平成4年)4月、麦のマークからJAのマークに衣替えしました、google画像より)
(解説) 農業協同組合は、1947年(昭和22年)の農業協同組合法に基づき、農民を正組合員とし、その事業は、信用、購買、販売、共済、福利厚生、生活文化改善などに使用する共同施設の設置、団体協約の締結などとされています。これら事業を兼営する総合農協の割合が高く、農業生産の伸び悩みと競争激化により、農協経営は近年厳しい局面にあり、農協合併の促進、全国・都道府県・単位農協(個別の農協)の3段階制から全国・単位農協の2段階制への移行など、組織再編が進展しています。(JA(農協): http://www.ntour.co.jp/ja.html.)
○ 農地改革の功罪
日本の農地は、農地改革の推進によって民主化され、国から小作人が極めて安い価格で農地を手に入れることができて、自作農家が過半数を占めるようになりました。 一方、農地が細分化され、農業経営が非能率になりました。そして、1961年(昭和36年)、大規模農家を目指した「農業基本法」の制定も、農業生産量は飛躍的に増大しましたが、農業機械の導入などによる労働時間の減少で、農家は兼業化(都会や工業地帯などに出稼ぎに出て行くことなど)へと向かい、規模の拡大は必ずしも進みませんでした。(農地改革(シルバー回顧録): http://homepage3.nifty.com/yoshihito/nouchi.htm.)
戦前、小作農は、活発に労働運動を展開し弾圧(だんあつ)を受けました。が、戦後、自作農は、農業協同組合に参集し、やがて、保守政治家(自由民主党、農林族)の支持基盤を形作ることにもなりました。
敗戦直後、食料不足を克服するため、政府は「食料増産・自給政策」を推進しました。政策の中心は米の増産でした。しかし、食糧管理制度(米など主要食糧を国が管理し、需給や価格調整、流通の規制を行う目的で制定)に守られて米作に励んだ結果、1965年(昭和40年)代前半には、米の生産過剰が表面化し、1970年(昭和45年)には、過剰米720万トンに達し、「減反」へと政策の舵(かじ)を切ることになりました。また、生産者米価が消費者米価を上回る「逆ざや」状態などの問題も生じました。
1969年(昭和44年)、流通に政府が関与しない自主流通米の制度が導入され、1992年(平成4年)、食糧管理制度は撤廃されました。そして、1993年(平成5年)、ウルグアイ・ラウンド交渉で、米の市場開放が決まりました。農民は、休耕や他の農作物への転換を余儀なくされ、また、貿易の自由化とあいまって、日本の食料自給率は次第に低下していき、1970年(昭和45年)では60%となり、昭和末期には50%を切り、2002年(平成14年)では40%となり、先進国中では最低の数値となり、打開策が検討されています。
(参考文献) 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 野島博之(監修): 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 詳説日本史図麓編集員会編: 詳説日本史図麓、山川出版社(2009).