「この店を……撤退ですか?」
「おまえのためを思って、俺は言っているんだ」
男がそう言うと、飯島は顔を真っ赤にして、大声で叫んだ。
「それだけは、できません! この店は、私が命をかけて運営しているんです!」
「おまえが命をかけているかどうかは、知ったこっちゃない! 儲からないビジネスを続けることのほうが問題だって、言っているんだ」
「私のことを何も知らないから、気軽にそんなことが言えるんです! 私は……私は、今の嫁さんと駆け落ち同然で小さな町を飛び出して、軽自動車1台でクッキーを販売するところから、スタートしたんです。そこで、嫁さんにはたくさんの苦労をかけてきました。そして、小さな店を構えて、そこからすごい努力をして、とうとう銀座にまで来たんです。そんなことも知らずに、店を、たためなんて……」
飯島が、声を震わせながら話すと、男は静かに、そして落ち着いた声で言葉を返してきた。
「それが、さっきおまえが言っていた、『嫁さんに、お店の経営が苦しい話ができない』っていう理由なのか?」
「はい。うちの嫁さん、当時、凄いお金持ちの婚約者と縁談が進んでいたのに、そこに私が強引に入り込んで、駆け落ちして嫁を実家から連れ出したんです。だから、最初に苦労をたくさんかけたときは、胸が締め付けられる思いでした。そういう理由があって、お金では苦労させたくないと誓ったんです。銀座にお店を出してからは、そういう経営の相談は、一切していません」
男は目を細めながら、話を聞き続けた。そして、飯島の話が終わると、目の前で腰を下ろして「ふーっ」と大きく息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「話はわかった。だがな、あんたの苦労話と売上は、残念ながら関係しないんだよ」
「なんと言われても、私はこの店を続けますよ! 実は、自分なりに対策も考えていたんです」
「対策?」
「はい。今は朝11時から夜8時までしか営業していませんが、これからは、もっとお客さんを取り込むために、営業時間を朝7時から夜11時まで、延長するつもりです」
「そんなことしたら、おまえ、体を壊すぞ」
「壊れたって、構いません! 嫁さんに苦労をかけるよりは、マシです!」
飯島は、目に涙をためながら男に食ってかかった。しかし、男は眉ひとつ動かさず、無表情な顔で、静かに話し始めた。
「その意気込みだけは、買ってやるよ。だが残念ながら、その営業時間延長の作戦は、高い確率で失敗する」
「でも、営業時間を延ばせば、それだけ売上だって……」
「営業時間を延ばして、その時間帯の貢献利益がプラスになれば、確かにいいよ。でもな、何が変動費なのか、もう一度、よく考えてみろよ。固定費だって思っていたものが、変動費ってこともあるんだ」
「うちのお店で、材料費以外で、変動費なんて、あるんですか?」
「周りの居酒屋って、みんながランチをやっているわけじゃないだろ? 材料費以外が、すべて固定費ならば、それを回収するために、ランチはやるべきだって思わないか?」
「それは、純粋に店長のやる気の問題ですよ。居酒屋ならば、ランチで余った材料を夜に使い回せるから……ランチをやれば、お店の貢献利益を大きくできるはずです」
「もっと、よく考えてみろ。水道光熱費や店長以外のアルバイトの給料は、ランチをやらなければかからないから、変動費になるだろ」
「……言われてみたら、そうですね」
「『ランチの売上-ランチの材料費-水道光熱費-アルバイトの給料=ランチの貢献利益』がマイナスだから、その居酒屋は、ランチをやっていないんだ。そこで、売上を伸ばして、賃料や最初の設備投資のお金を回収したいと焦ってしまう経営者は、貢献利益が赤字であることを無視して、ランチをやり続けてしまうんだ」
「つまり……貢献利益を計算できていない私の場合、営業時間を延ばしても、それで、どれだけ儲かるのか、わからないってことなんですね」
飯島は、蚊の鳴くような小さな声で言った。
「早朝と深夜の営業の場合、アルバイトの人数が少ないとしても、昼間よりも時給は高くなる。それに、夜はすべての電気をつけておくから、水道光熱費も高くなるだろ。もともと、銀座のサラリーマンが、出勤前に食べるとは思えないし、夜中に年齢層が高い顧客が、胃がもたれるのに、そんなに菓子を買わないだろう。貢献利益がマイナスになる確率は高いと考えるのが、自然だよ」
男はそう言うと、飯島を縛っていた手と足のロープを、ナイフで切り始めた。
財務会計とは、決算書を中心とする会計情報を、会社外部の利害関係者(債権者、株主、税務署など)に提出することを目的とする会計のこと。一方、管理会計とは、会社内部の管理者(取締役、部長、工場長など)に提出することで、経営の意思決定や業績の評価に役立てることを目的とする会計のこと。経費を変動費と固定費に分けて、貢献利益を計算し、それによって経営を分析することは、管理会計でよく行われる手法である。