1530年12月26日、アーグラでバーブルが48歳の生涯を終えると、4日後の12月30日に嫡男で23歳のフマーユーンが新たなムガル帝国の皇帝に即位した。しかし、フマーユーンは継承した領土を3人の弟に対して、アスカリーにはサンバルを、ヒンダールにはメワールを、カームラーンにはパンジャブとカーブルとカンダハールを、それぞれ分割して与えたためにムガル帝国は弱体化する。さらに、カームラーンは与えられた領土だけでは満足せずにラホールとムルターンへ進軍して占領したが、フマーユーンは兄弟間の争いを避けるためにこれを承認した。
アフガン人小貴族出身のシェール・ハーン・スール(1472〜1545)は、南ビハールの支配者ビハール・ハーン・ローハーニーの許で為政者としての才覚を発揮して頭角を表し、主人の死後はその領土を支配者となった。1532年、フマーユーンはシェール・ハーンの居城チュナールを4ヶ月に渡って包囲したが、グジャラート王朝のバハードゥル・シャーが急速に勢力を拡大して南からムガル帝国に脅威を与えたため、フマーユーンに忠誠を誓うことを条件にシェール・ハーンの城の所有を認め撤退した。
1535年、フマーユーン率いるムガル軍は、バハードゥル・シャーの支配するマールワーに侵攻した。バハードゥル・シャーがムガル軍との戦いを避けて退却するとフマーユーンは後を追ってグジャラートも占領し、バハードゥル・シャーはポルトガル人の援助を求めてさらにディブへと逃れた。しかし、フマーユーンは新たに獲得したマールワーとグジャラートの統治を経験の乏しい弟のアスカリーに託したため、バハードゥル・シャーが態勢を立て直すとこの2つの領土は失われてしまった。
フマーユーンがアーグラを離れている間に、シェール・ハーンはバハードゥル・シャーからの支援を受けて戦象1200頭を含む軍勢を動員し、ベンガルに侵攻して首都ガウルを占領した。ベンガル王ヌスラット・シャーからの助力要請を受けたフマーユーンはベンガルへと進軍するが、弟のヒンダールがアーグラで反乱を起こしたために孤立してしまう。1539年6月26日、ベナーレス近郊のチャウサでムガル軍はシェール・ハーンの軍勢に大敗を喫し、フマーユーンは水運搬人の助けを借りて辛うじて戦場から逃れたものの約7000人のムガル軍兵士が戦死した。この会戦で勝利したシェール・ハーンは、1539年12月にガウルで王位に就いてシェール・シャーを称し、スール朝を樹立した。
アーグラに逃げ帰ったフマーユーンはヒンダールを許し態勢を立て直そうとするが、1540年5月17日のカウナジの戦いで再びシェール・シャーの軍勢に敗れてしまう。フマーユーンは3人の弟にスール朝に対する共闘を呼び掛けたが、彼等は耳を貸そうとはせずにそれぞれの支配地域へと帰っていった。アーグラを撤退したフマーユーンはサファヴィー朝のシャー・タフマースプ(1514〜1576)の庇護を求めペルシアへと亡命した。
シャー・タフマースプから提示された、シーア派に改宗すること、シーア派をインドの国教とすること、カンダハールをペルシアに引き渡すことの3つの条件を受け入れて1万4000の軍勢を借り受けたフマーユーンは、1545年9月にアスカリーの支配するカンダハールを攻略し、さらに北進して11月にはカームラーンの支配するカーブルを占領した。アスカリーは降伏してメッカへと追放され、ヒンダールは戦死した。カームラーンは逃走し、その後カーブル奪還を試みたもののフマーユーンに捕らえられ目を潰されたうえでメッカへと追放された。
一方、1540年6月15日にアーグラに入城したシェール・シャーは、短期間に行政機構、軍制、税制、通貨、司法の改革や、交通、通信の整備などを行い、ベンガルからインダス川におよぶ一大王国を築き上げた。マールワーを征服したシェール・シャーは、1544年にはサメールの戦いでマールデーオ率いるラージプート軍を敗りほとんど全ラージャスターンを支配下に収めたが、翌1545年、カーリンジャル城を攻撃中に火薬事故で死亡してしまう。
シェール・シャーの後を継いで即位した次男のイスラーム・シャーが1554年11月に若死すると、その後継者を巡ってスール朝は混乱する。イスラーム・シャーの12歳の息子ヒールーズが玉座に就いたもののわずか2日後に暗殺されてしまい、スール朝は分裂して周辺の属州は次々と独立ていった。
インド奪還の時期を窺っていたフマーユーンはスール朝の弱体化を知ると、1554年11月にカーブルを発ってインダス川を渡り、翌年2月にはさしたる抵抗も受けずにラホールを占領した。デリーを支配するスール朝の王位僭称者の一人シカンダル・シャーは、シルヒンドで行われた2度の会戦でムガル軍に敗れて逃走し、1555年7月23日、フマーユーンはデリーに入城して再びムガル帝国の玉座に就いた。
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