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ムガル帝国の戦い

第一次パーニーパットの戦い ティムール(1336〜1405)の血を引く父とチンギス・ハーン(1167〜1227)の血を引く母を持つバーブル(1483〜1530)は、11歳で父の後を継いで以来各地を転戦しながらもティムール帝国再興を目指し、ウズベク族のシャイバーン朝に支配された中央アジア進出を目指していた。1510年にメルヴ近郊でシャイバーン軍がサファヴィー朝ペルシア軍に大敗を喫しムハンマド・シャイバーニー(1451〜1510)が戦死すると、バーブルはサファヴィー朝のシャー・イスマイール1世(1487〜1524)からの援軍を受けて、翌1511年、サマルカンドを占領した。

 しかし、バーブル軍4万〜5万はペルシアから派遣された遊牧部族キジルバシが主力でバーブル自身の直属部隊が少数であったため脆弱で、1512年のグジュドゥヴァーンの戦いで態勢を立て直したシャイバーン軍3000に敗れ、サマルカンドを奪い返されてしまう。さらに、1514年のチャルディラーンの戦いでサファヴィー朝ペルシアがオスマン帝国に大敗を喫したため、イスマイール1世からの支援を期待出来なくなったバーブルはこれ以後、中央アジア進出を諦めてインド征服を目指すことになる。

 この頃インドでは、デリーを支配するアフガン人のローディー朝を筆頭に、グジュラート王朝、ハルジー朝、バフマニー王国、フセイン・シャー王朝の5つのイスラム王朝と、メワール王国とヴィジャヤナガル王国の2つのヒンドゥー王朝が乱立していた。ローディー朝のスルタン・イブラーヒームは権力の専制化を推進するために貴族に対する過酷な弾圧を行ったため、パンジャブ総督のダウラト・ハーンとイブラーヒームの叔父のアーラム・ハーンは反乱を起こし、カーブルに居たバーブルの許に使者を送り援軍を求めた。

 1524年、バーブルはインド遠征を行い、ラホールとディーパールプルを占領した。しかし、バーブルの目的がインド征服であることに気付いたダウラト・ハーンは、バーブル軍がカーブルに帰還するとイブラーヒームの許へ寝返ってしまう。そのため、翌1525年11月にバーブルは再びカーブルを出発し、長男のフマーユーン(1508〜56)がバダフシャーンから率いて来た軍勢と合流して前回の遠征よりも増強された1万2000の軍勢を率いてインダス川を渡った。

 1526年4月12日、デリー北方約100キロのパーニーパットの平原に進軍したバーブル軍は、イブラーヒーム率いるローディー軍と対峙した。ローディー朝から寝返った兵を加え2万5000強となったバーブル軍と、戦象1000頭を含む10万のローディー軍は約1週間にわたって睨み合いを続けたが、ついに21日早朝、バーブルの挑発にのったイブラーヒームが攻勢をかけた。これに対してバーブルは、2台づつを皮紐で繋いだ約700台の荷車の背後に配備された砲兵と小銃隊によってローディー軍の隊列を崩すと、両翼から騎兵部隊を繰り出して敵を包囲させた。正午頃まで続いた戦闘によってローディー軍はイブラーヒームを含む1万5000の死者を残して潰走し、勝利したバーブル軍はデリーとアーグラを占領して莫大なローディー朝の財宝を手に入れた。

 残されたイブラーヒームの弟マフムード・ローディーを中心とするアフガン貴族達は、ラージプート族のメワール国王ラーナー・サンガと手を組み、西方からバーブルの支配地域を脅かした。しかし、バーブルは2万〜2万5000の軍勢を率いて、1527年3月16日にハーヌアーの戦いで騎兵8万、戦象500頭からなるラーナー・サンガ軍10万をパーニーパットの戦いと同様の戦術を用いて撃破し、翌年にはラーナー・サンガ臣下のメディニー・ラーイの守るチャンデリーの城砦を攻略した。救援に向かったラーナー・サンガは家臣によって暗殺され、隙を突いてデリーとアーグラを襲撃しようとしたアフガン軍も撃退されてしまう。

 1529年、バーブルはビハールとベンガルでマフムード・ローディー率いるアフガン軍に勝利し、ヒンドゥスターン(北インドのガンジス平原)の支配を確立した。バーブルの築いた帝国はモンゴルのアラビア語訛りであるムガルの名称で呼ばれることになる。


フマーユーンの帰還路 1530年12月26日、アーグラでバーブルが48歳の生涯を終えると、4日後の12月30日に嫡男で23歳のフマーユーンが新たなムガル帝国の皇帝に即位した。しかし、フマーユーンは継承した領土を3人の弟に対して、アスカリーにはサンバルを、ヒンダールにはメワールを、カームラーンにはパンジャブとカーブルとカンダハールを、それぞれ分割して与えたためにムガル帝国は弱体化する。さらに、カームラーンは与えられた領土だけでは満足せずにラホールとムルターンへ進軍して占領したが、フマーユーンは兄弟間の争いを避けるためにこれを承認した。

 アフガン人小貴族出身のシェール・ハーン・スール(1472〜1545)は、南ビハールの支配者ビハール・ハーン・ローハーニーの許で為政者としての才覚を発揮して頭角を表し、主人の死後はその領土を支配者となった。1532年、フマーユーンはシェール・ハーンの居城チュナールを4ヶ月に渡って包囲したが、グジャラート王朝のバハードゥル・シャーが急速に勢力を拡大して南からムガル帝国に脅威を与えたため、フマーユーンに忠誠を誓うことを条件にシェール・ハーンの城の所有を認め撤退した。

 1535年、フマーユーン率いるムガル軍は、バハードゥル・シャーの支配するマールワーに侵攻した。バハードゥル・シャーがムガル軍との戦いを避けて退却するとフマーユーンは後を追ってグジャラートも占領し、バハードゥル・シャーはポルトガル人の援助を求めてさらにディブへと逃れた。しかし、フマーユーンは新たに獲得したマールワーとグジャラートの統治を経験の乏しい弟のアスカリーに託したため、バハードゥル・シャーが態勢を立て直すとこの2つの領土は失われてしまった。

 フマーユーンがアーグラを離れている間に、シェール・ハーンはバハードゥル・シャーからの支援を受けて戦象1200頭を含む軍勢を動員し、ベンガルに侵攻して首都ガウルを占領した。ベンガル王ヌスラット・シャーからの助力要請を受けたフマーユーンはベンガルへと進軍するが、弟のヒンダールがアーグラで反乱を起こしたために孤立してしまう。1539年6月26日、ベナーレス近郊のチャウサでムガル軍はシェール・ハーンの軍勢に大敗を喫し、フマーユーンは水運搬人の助けを借りて辛うじて戦場から逃れたものの約7000人のムガル軍兵士が戦死した。この会戦で勝利したシェール・ハーンは、1539年12月にガウルで王位に就いてシェール・シャーを称し、スール朝を樹立した。

 アーグラに逃げ帰ったフマーユーンはヒンダールを許し態勢を立て直そうとするが、1540年5月17日のカウナジの戦いで再びシェール・シャーの軍勢に敗れてしまう。フマーユーンは3人の弟にスール朝に対する共闘を呼び掛けたが、彼等は耳を貸そうとはせずにそれぞれの支配地域へと帰っていった。アーグラを撤退したフマーユーンはサファヴィー朝のシャー・タフマースプ(1514〜1576)の庇護を求めペルシアへと亡命した。

 シャー・タフマースプから提示された、シーア派に改宗すること、シーア派をインドの国教とすること、カンダハールをペルシアに引き渡すことの3つの条件を受け入れて1万4000の軍勢を借り受けたフマーユーンは、1545年9月にアスカリーの支配するカンダハールを攻略し、さらに北進して11月にはカームラーンの支配するカーブルを占領した。アスカリーは降伏してメッカへと追放され、ヒンダールは戦死した。カームラーンは逃走し、その後カーブル奪還を試みたもののフマーユーンに捕らえられ目を潰されたうえでメッカへと追放された。

 一方、1540年6月15日にアーグラに入城したシェール・シャーは、短期間に行政機構、軍制、税制、通貨、司法の改革や、交通、通信の整備などを行い、ベンガルからインダス川におよぶ一大王国を築き上げた。マールワーを征服したシェール・シャーは、1544年にはサメールの戦いでマールデーオ率いるラージプート軍を敗りほとんど全ラージャスターンを支配下に収めたが、翌1545年、カーリンジャル城を攻撃中に火薬事故で死亡してしまう。

 シェール・シャーの後を継いで即位した次男のイスラーム・シャーが1554年11月に若死すると、その後継者を巡ってスール朝は混乱する。イスラーム・シャーの12歳の息子ヒールーズが玉座に就いたもののわずか2日後に暗殺されてしまい、スール朝は分裂して周辺の属州は次々と独立ていった。

 インド奪還の時期を窺っていたフマーユーンはスール朝の弱体化を知ると、1554年11月にカーブルを発ってインダス川を渡り、翌年2月にはさしたる抵抗も受けずにラホールを占領した。デリーを支配するスール朝の王位僭称者の一人シカンダル・シャーは、シルヒンドで行われた2度の会戦でムガル軍に敗れて逃走し、1555年7月23日、フマーユーンはデリーに入城して再びムガル帝国の玉座に就いた。


第二次パーニーパットの戦い 1556年1月24日、フマーユーンはデリーの宮殿で階段から転落して死亡する。フマーユーン急死の報がパンジャブ地方でシカンダル・シャーを攻撃していた13歳の嫡男アクバル(1542〜1605)のもとに届くと、補佐役を任されていた宰相バイラム・ハーンは、2月24日、ただちに同地でアクバルをムガル帝国の皇帝に即位させた。

 東インドを支配するスール朝の王位僭称者アーディル・シャーは無能な人物であったが、強力なヒンドゥー教徒の将軍ヒームーによって補佐されていた。幼いアクバルの即位をムガル帝国打倒の好機と判断したヒームーは軍勢を率いて本拠地のグワリオルを出発し、ウズベク族の将軍イスカンダルの守るアーグラを攻略した。さらにヒームーは、騎兵5万、戦象1000頭に加え多数の大砲を伴ってデリーに向けて進軍し、タールディー・ベイ率いるムガル軍1万2000を退けこの町を占領する。アーグラとデリーで手に入れた莫大な財宝によって10万にも達する軍勢を動員したヒームーは、自らの名を刻んだ硬貨を発行して新たな王朝の樹立を試みた。

 ムガル軍に残された兵力は辛うじて2万人程で、アーグラとデリー陥落の報が届くとアクバルの側近の多くはカーブルへの撤退を進言した。しかし、アクバルはバイラム・ハーンの進言に従いヒームーとの決戦を決断し、バイラム・ハーンはデリーから逃げ帰ったタールディー・ベイを処刑してムガル軍の士気を高め規律を引き締めた。

 1556年11月5日、アクバル率いるムガル軍は、かつてバーブルがイブラーヒームを敗ったパーニーパットの地でヒームーの軍勢との決戦に臨んだ。ムガル軍はヒームーの約1500頭の象部隊を投入した攻撃によって両翼を突破され包囲されたが、流れ矢を目に受けたヒームーが意識を失うと指揮官を失った軍勢は総崩れとなる。ヒームーは捕らえられて処刑され、アクバルはデリーとアーグラを奪回した。

 その後、シカンダル・シャーはパンジャブ地方のマーンコットの城砦に籠城して抵抗を続けたが、1557年にアクバルに降伏してその2年後に死亡し、アーディル・シャーはベンガルで戦死した。その他のスール朝の残党も、1574年に行われたムガル軍のビハールとベンガルへの侵攻によって排除され、スール朝復興の道は断たれた。

 バイラム・ハーンはアクバルのいとこのサリーマー・ベーガムと結婚し、自分と同じシーア派の者を次々と高官に任命するなどその権勢は頂点に達したが、アクバルが成長するにつれ二人の関係は冷めていった。1560年3月、バイラム・ハーンはアクバルの乳母マーハム・アナガなどのハーレム勢力との権力闘争に敗れて失脚し、アクバルに命じられてメッカ巡礼に行く途中、私怨を抱くアフガン人によって暗殺された。


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