株式会社ユーラシア旅行社

フラッシュ・ムービー「古代地中海世界」
第ニ編「謎の民フェニキア人」

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ティルス

現在のレバノンからシリア沿岸部を中心に、南北に細長い歴史的地域「フェニキア」。住民はフェニキア人と呼ばれる人々で、早くも青銅器時代にティルス、シドン、ビブロス、アラドス、ベリトゥスの5都市国家を形成して海上交易で活躍し、のちにはカルタゴなどの海外植民市を建設して地中海沿岸の広い地域に勢力を伸ばした。
フェニキアの都市国家の中でも、最大級にまで発展したと言われるティルス島は、シドンとともに海上交易で栄え、前10世紀のヒラム一世の時に最盛期を迎える。彼の時代にティルス島は要塞として強化され、難攻不落と謳われた程だ。月日が流れ、前332年、マケドニアのアレクサンドロス大王との死闘の末、ティルスも遂には攻め落とされてしまう。なんと7ヶ月にも及ぶ戦いであった。
大王は、本土と島との間を埋め立て、陸続きにしてしまう。現在、ティルス遺跡は海に突き出た半島となった海側と元々の陸側とに分かれているが、これはその名残りである。その後、バビロニアやローマ帝国の支配下に置かれ、12世紀になると十字軍の支配を受けていく。
現在残るティルス遺跡は、フェニキア時代の遺跡は少なく、ローマ時代に建設された神殿などの都市遺跡とネクロポリスを中心とした遺跡の2箇所が見所となっている。特に神殿の列柱街路は戦禍のあとが見られず、今も美しく保存されている。

レバノンのツアーは2008年7月現在休止中です。外務省の安全情報が緩和された後にツアーを再開する予定です。
 

ティルス海側の遺跡

ティルス海側の遺跡

ティルス陸側のネクロポリ

ティルス陸側のネクロポリ

ビブロス
ミノア文明の終焉を告げる頃、紀元前17世紀頃にギリシア本土で興隆したのがミケーネ文明である。ホメロスが謳い上げた一大叙事詩トロイア戦争に登場する、ギリシア連合軍の総大将のアガメムノンが治めたのがミケーネであり、19世紀のシュリーマンの発掘によって実在の都市であったと証明された。
ミケーネ文明は、前15世紀頃にはエーゲ海の彼方のミノア文明を滅ぼすとともに、その技術と文化を引き継ぎ、発展させた。特に線文字Aを改良し、ギリシア語を記した線文字Bの発明は後のギリシア文明の発展の礎となった。また、女性的とも言える優美な文化を誇ったミノア文明に対して、鉄の文明を謳われたミケーネは男性的で重厚な文化が特徴。鉄と血によってギリシアのペロポネソス半島を中心に勢力を広げた。しかしながら、前12世紀頃、ミケーネ文明も忽然と歴史から姿を消す。滅亡の原因はミケーネを治めていたアトレウス家の内紛とも自然環境の変化とも異民族の侵入とも言われている。
今なお発掘途中のミケーネの遺跡では、アガメムノンが暗殺されたという浴室を残す宮殿跡等が見られるほか、博物館には線文字が刻まれた粘土板や、印章を始めとした副葬品の数々が納められている。また、アテネの考古学博物館には、シュリーマンが発見した通称「アガメムノンのマスク」を始めとするミケーネ出土の輝かしい発掘品が数多く並びます。
神話上でも歴史上でも血塗られたミケーネだが、現在の遺跡は、穏やかな果樹園とオリーブ畑の平和な景色に縁取られている。
レバノンのツアーは2008年6月現在休止中です。外務省の安全情報が緩和された後にツアーを再開する予定です。
 
ビブロスの遺跡
ビブロスの遺跡
カルタゴ

カルタゴ、フェニキア人の言葉で「新しい町」を意味する。この町の起源は前9世紀に遡るのだが、ひとつの伝説が残っている。フェニキア王女エリッサは命を狙われて国(現在のレバノン)を脱出、地中海へと船を漕ぎ出す。流れ着いたこの地(現在のチュニジア)で新しい国を興そうと土地を求めた際、先住民に対して「牛の皮1枚分の広さが欲しい」と交渉、聡明な女性だったエリッサは牛の皮を細く切るとそれらを結んで長い紐として広大な敷地を囲い、自分達の土地としたという。その後、カルタゴを中心として地中海交易で勢力を拡大し、特に西地中海においては、ギリシア人達がしたのと同じように、植民都市を築いて勢力を拡大するという手法を展開した。しかし、ローマ帝国が台頭すると、雲行きが変わる。勢力下においていた豊穣なシチリアを巡ってローマと刃を交える事になる。紀元前265年以降、3度に渡ったポエニ戦争の末に、カルタゴはローマの支配に屈することとなった。散々ローマを苦しめたカルタゴは、ローマ人に忌み嫌われ、特に最後の第三ポエニ戦争の敗退後には、カルタゴの地には塩がまかれ、「2度と作物が実らず人が住まわない土地」となった。
現在カルタゴに残る町の遺跡は、約100年後にユリウス・カエサルが再建したローマ領カルタゴだ。町の中心に位置するアントニヌス浴場は、古代ローマの公共浴場の中でも5本の指に入る大きさとされ、地中海をのぞむ贅沢な場所にある。
そして、僅かながらフェニキア時代の遺構も残っている。人身御供の伝説が残るトフェの墓地、フェニキア時代町の中心であったビュルサの丘、そして海洋民族の心臓部であった軍港や商港の跡も残っている。カルタゴの栄光の原点だ。

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カルタゴ/ビュルサの丘
カルタゴ/ビュルサの丘
カルタゴ/アントニヌス共同浴場
カルタゴ/

アントニヌス共同浴場

ケルクアン
フェニキア人が北アフリカに移り住み、カルタゴを中心に栄華を極めていた中、現在のチュニジア北東部のボン岬の近くに建設された都市がケルクアンだ。カルタゴからも目と鼻の先と言える近い位置に立地する。カルタゴをはじめとするフェニキア人の町は、ローマの支配後に完全に破壊され、その上から過去に蓋をするかのように新しい町が建設されていった。そのため、現在では当時の様子をうかがい知ることが難しいのだが、このケルクアンは事情が異なる。ケルクアンは、第1次ポエニ戦争の頃に早々に人々が町を去った後、破壊されることなくただ放置されていたのだ。そのため、1950年代に入り発見された町の遺跡からは、当時のフェニキア人の都市の様子や、彼らがすでに高度な技術を持っていたことをうかがい知ることができる。住居は綿密な都市計画に基づいて建てられており、当時としては珍しく各家庭にお風呂があったようで、その跡も残っている。海沿いの町だったこともあり、排水施設も整えられていたそうだ。ローマの諸都市には公共浴場でさえなかった時代にである。また、住居の中には階段も残っており2階建て以上であったことも見てとれる。ケルクアンは、破壊しつくされ消えてしまったと考えられていたカルタゴ時代の生活が残されている数少ない遺跡として、今も大切に保存されている。
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ケルクアンの遺跡にて
ケルクアンの遺跡にて
ハンニバル・バルカ

ハンニバル(前247-183)は、カルタゴの名門バルカの家に生まれ、父は第一次ポエニ戦争でローマを相手に敢闘した将軍であった。英才教育を受けたハンニバルは、早々とスペインのカルタゴ領を握るまでに出世した。前218年その時が来る。当時カルタゴ領であった南スペインで軍勢を整えたハンニバルは軍事行動を開始した。スペインからローマまでの道のりは、船を利用するか、或いは陸路で海岸線を辿って行くかの二通りのルートがあった。
しかし、約5万の兵と数十頭の象部隊を率いたハンニバルが選んだのはいずれでもなかった。ピレネーを越えてフランスの内陸部を通り、なんとアルプス越えの難路でローマを目指したのだ。アルプス越えは案の定難行軍で途中多くの損害が出たが、大きな戦いを避けてイタリア半島に入る事に成功した。一方のローマと言えば、当初ハンニバル軍の目的がイベリア半島の制圧にあると勘違いしてそちらに軍を派遣したり、フランスでも海岸線の防備を固めて迎撃体制を整えていたが、雲隠れしたように内陸部に消えたハンニバルの動向を掴めずにいた。そしてハンニバルは突然イタリア半島に姿を現した。ローマはいよいよ危急存亡の時を迎える。急遽軍を整えたローマ軍は、各地でハンニバル軍を迎え撃つ。

ハンニバルの胸像(ナポリの考古学博物館所蔵)
第二次ポエニ戦争前半の年表

■前218年-遠征開始
ハンニバルは軍を整え、ローマを目指してカルタゴを出発する。

■前218年-サグント攻略
ローマの同盟都市であったサグントをハンニバルが攻略する事で、第二次ポエニ戦争の火蓋が切って落とされた。

■前218年9月-アルプス越え
ローマ軍の裏を掻くため、ハンニバルは誰もが予期せぬアルプスを越えてのイタリア侵入を敢行する。少なからぬ犠牲を払ったが、まだフランスのどこかにいると思われたハンニバルが目の
前に現れた事でローマ軍を恐怖の底に落とし、迎撃体制を整える時間も与えなかった。

■前218年12月-トレビアの戦い
この戦争の初の本格的な会戦。軍を分断して、伏兵を用いてローマ軍を挟み撃ちしたハンニバルの快勝に終わる。

■前217年-トラジメーノの戦い
神出鬼没なハンニバルを追ってトラジメーノ湖畔に達したローマ軍は、霧の中で待ち構えていたハンニバル軍の前にほぼ全滅。湖の水がローマ人の血で赤く染まったという逸話がある。

■前216年8月-カンネの戦い
ローマ軍約7万に対し、ハンニバル軍は約5万と数の上では劣勢であったが、ハンニバルは騎兵隊を活用する事で、攻めて押していたはずのローマ軍がいつの間にか囲まれているという状況を
作り出した。ローマ軍は将官級を含めて、5万人以上が戦死し、かろうじて生き残った兵の多くが捕虜にされた。

スキピオ・アフリカヌスの登場とポエニ戦争の帰結
戦えば負ける対ハンニバルの戦争において大きな打撃を受けたローマの賢明な高官達は、ハンニバルに勝つための最上の策を見出していた。すなわち、「戦わない事」である。連戦連勝のハンニバル軍ではあったが、本国から遠い地で兵站の面で不安を抱える事をローマも見抜いていたのだ。そしてハンニバルにも誤算が起きた。ローマを叩けばローマから離反するであろう南イタリアのギリシア人国家が思いの他離反してくれなかったのだ。また、本国でもハンニバル擁護派と反ハンニバル派の内部抗争で、異国の地で戦うハンニバルへの後方支援も充分ではなかった。カンネの戦いの後は、ローマがろくに戦おうともしないおかげで、ハンニバルは十数年の間南イタリアを彷徨う事になる。そしてローマはこの間に戦力を整え、まずイベリア半島やギリシアの親カルタゴ勢力を叩く事に成功する。その時イベリアで指揮を取っていたのが、ハンニバルのライバルとなる若きスキピオである。
ローマの名門に生まれたスキピオは、若い内から才能を発揮し、当時では異例とも言えるスピードで出世を重ね、戦功を挙げた人物であった。また、指揮権のない身分とは言え、ハンニバルとの戦いにも参戦し、敗戦のさなかでその戦術から多くを学んだと言われている。 スキピオは勢いを駆ってカルタゴ本国を急襲する。ローマがハンニバル相手に四苦八苦していると信じていたカルタゴ市民は突然目の前に現れたローマ軍の姿に驚き、ハンニバルも結局本国に呼び戻される。そしてカルタゴ南方にあるザマの地でハンニバル率いるカルタゴ軍とスキピオ率いるローマ軍が相間見える。時は前202年。ハンニバルの出征から既に16年の時が流れていた。戦争は終始ローマ側の優勢の間に進み、ハンニバルの戦術から学んだスキピオがそれを駆使し、カルタゴの大敗に終わった。前線の司令官に戦争の全権が委任されるローマの制度にあってカルタゴを生かすも死なすもスキピオの手の内にあったが、スキピオは生かす道を選んだ。それには敵でありながら、ハンニバルを敬慕していたという理由もあっただろう。後にこの事が原因で中央政界から疎まれ、失脚する事になる。ここで生かされたハンニバルもカルタゴの保守派から疎まれ、同様に失脚する事になり、二人は失意の内に同じ前183年に亡くなった。戦場で戦った二人の本当の敵は、外患よりも内憂であったと言えるだろう。カルタゴを潰したいローマの中央政界の意向で第三次ポエニ戦争後、カルタゴは徹底的に破壊され、ポエニ戦役は幕を閉じる。。
スキピオの胸像(ナポリ考古学博物館所蔵)
第一編「古代ギリシア文明の栄光」
第一編「古代ギリシア文明の栄光」
第三編「ローマの誕生〜王制期〜」(6/10公開予定)
第三編「ローマの誕生〜王制期〜」
第四編「ローマの台頭〜共和制期〜」(6/17公開予定)
第四編「ローマの台頭〜共和政期〜」
第五編「ローマの栄華〜帝政期前半〜」(6/24公開予定)
第五編「ローマの栄華〜帝政期前半〜」
第六編「ローマの終焉〜帝政期後半〜」(7/1公開予定)
第六編「ローマの終焉〜帝政期後半〜」
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