なぜ遺書は集められたのか~特攻 謎の遺族調査~ (バラエティ/情報)
太平洋戦争の末期に始められた作戦が、必ず死ぬことを命じられた「特攻」。隊員の多くは10代・20代の若者だった。彼らの思いが込められた遺書が、戦後まもなく行われた特攻隊員の遺族に対する調査の過程で、1000通あまりも回収されていた事が、今回初めてわかった。
特攻隊員達の回収された遺書が保管されていたのは、海上自衛隊第一術科学校の倉庫。誰がどのような目的で戦後に調査をして、遺書を回収したのかは、海上自衛隊にも記録が存在しないという。
資料の写しを元に、戦後に行われた調査の対象となった遺族を取材した。その中の、神風特別攻撃隊の山岸啓祐さんの妹達と弟のもとを訪れた。母親は悲しみから病に倒れ、死の知らせの4ヶ月後に41歳で亡くなった。兄弟は、全国の戦友のもとを訪ねて遺品を探してきたが、名札など僅かなものしか見つからなかった。そこで、調査資料に添付されていた啓祐さんの手紙の写しを見ていただいた。当時10歳だった秀子さんは、兄が自分にあてて言葉をかけていてくれたことを、この時初めて知った。兄弟は喜部一方で、なぜ今まで手元に届かなかったのか疑問を口にした。
実際に、戦後の調査にやってきた人物と直接会ったという遺族の元を訪ねた。志賀五三三さんは、特攻で戦死した兄・敏美さんについて聞きたいと、昭和24年の暮れに見知らぬ人物が訪ねてきたと言う。滋賀さんの父がその日のことを記したメモには、「近江一郎」という人物の名前が書かれていた。特務機関の一員と名乗り、訪問の事実を口外しないよう両親に念押しして遺書を回収していた。
「近江一郎」について調べると、当時の写真が残されていた。近江一郎は、神戸出身の民間人だった。調査資料の日付と場所を調べると、5年間で全国40の道府県、およそ2000の遺族の元をほとんど1人で訪問していた。この調査を陰で支援していた組織は、敗戦後に軍人の引き上げ業務をおこなうために発足した「第二復員省」だったことが書簡に記されていた。
特に、近江一郎と頻繁にやり取りをしていたのは、「猪口力平」。猪口力平は、元海軍大佐で特攻作戦の現地司令部で参謀を務めていた。さらに、猪口元大佐の背後には、海軍の最高幹部の寺岡謹平元海軍中将がいたこともわかった。寺岡元中将は、終戦の日まで特攻作戦を命じていた最高指揮官の1人だった。遺族調査では、追悼文を起草し、近江を通じて遺族に渡していた。
猪口元大佐の長男・詫間晋平さんが取材に応じた。詫間さんは、占領下で、旧軍人の活動が制限されていた当時、父が近江一郎と密かに接触していた様子を記憶していた。詫間さんは、調査や遺書の回収は、亡くなった隊員の慰霊に使うためだったのではないかと話した。
回収された遺書のその後について、ある事実が明らかになった。昭和26年、特攻作戦や軍部への批判が高まっていた当時、それに対抗するように猪口元大佐とその部下が書いた「神風特別攻撃隊」が出版された。その本には、特攻が現場の兵士たちの熱望によって生まれ、出撃の志願者が後をたたなかったと書かれている。それを裏付けるものとして、遺書7通が引用されている。
なぜ回収された遺書がこのように使われたのか調べるため、元海軍大尉・横山岳夫のもとを訪れた。本の中には 現場にいた飛行隊長として紹介されている。自らも部下を特攻で出撃させた、複雑な心境を語った。横山さんは、元海軍幹部が遺書を引用して本を書いたのは、自らを正当化するためだったのではないかと考えていた。
呉市海事歴史科学館の館長・戸高一成 氏は、特攻隊員の遺書が1000通も発見されたことについて、ビックリしたと話した。また、遺族が遺書を手放したことに対して、終戦直後に特攻隊員の遺族が可哀相な環境になった時に、慰霊というかたちで拝ませて欲しいという人が訪れて、家族がこの人なら悲しみをわかってくれたという思いがあって、その流れの中で遺書を頂きたいといわれて、この人ならという思いで渡したのではないかと話した。
遺書を回収した理由については、終戦後10年経てば海軍が復活すると考えられていて、明治以来の立派な海軍を復活させたいという気持ちがあり、軍としても人としてもやってはいけない特攻作戦を実行してしまったという事実を消す為に、遺族のもとから遺書を回収したのではないかと話した。また、本当の目的は回収ではなく、遺族の意識調査だったと語った。
戸高一成氏は、この発見された遺書について、全て公開して多くの人が見て、かつての歴史の中にどういうものがあったのかを知ることが大切だと話した。