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人生に関わる音楽のパワーが、ケタ違いの時代を生きてきた。
1953年生まれの僕が小学生のころ、音楽はものすごい勢いで日常になだれ込んで来ていました。ポピュラー・ミュージックは、50年代、60年代、70年代と文化の中心を席巻し、特に60年代は、ステレオやLPレコードの出現によって音質が革命的に進化していった時代です。ビートルズに代表されるロックンロールなどが僕らに与えた影響は、いまの若い人には実感しにくいかもしれません。僕はその多感な年代に、浴びるように音楽を聴いていた子供であり、人生で一番大切なものこそ音楽でした。
昔はラジカセもなく、いい音で聞くには自宅でステレオに向きあうしかなかった。だから学校が終わったら走って3畳間の自室に帰ります。一人きりでヘッドフォンから聞こえる曲に集中すると、そこに「小宇宙」が出現する。宇宙の果てまで連れて行ってもらうような深い感動に襲われたものです。中学生の時に買ってもらったソニーの名器インテグレート100というステレオセットで聴きまくり、プロコル・ハルムの『青い影』なんかはレコードがすりきれて、2枚目を買いましたからね(笑)。
中・高と6年間ブラスバンドに在籍して、ドラムとパーカッションは習ったけれど、他の楽器は、ギター、キーボード、歌とすべて独学です。高校に進学した時点では、音楽家になるなんて考えてもいなくて、将来は理系の大学に行きたいと思っていました。そうやって進学コースへ進んだものの、僕らは70年安保という政治争乱に巻き込まれた世代で、学校に行きたくなくてますます音楽にのめり込み、既成の価値観への強い反発もあってドロップアウトしていった。僕があと3年早く、あるいは3年遅く生まれていたら絶対にミュージシャンにはなっていなかったでしょうね。時代の強い力が、僕を音楽の道に引き入れたのですね。高校を卒業しても、もうすでに理系への道はあきらめざるを得ず、音楽著作権か何かの仕事でもと、文化系に進学しましたが、それとてあくまで裏方をイメージしてのことで、自分がステージに立とうなんて思っていなかった。
「自分の表現」で食べていく。それがプロという意味だ
親をやきもきさせながら大学を中退して、結局は音楽で表現活動をする道を僕は選んだ。でも、いくら音楽が3度のメシより好きだといっても、3歳からピアノを習い、作曲の勉強などもして職業音楽家の訓練を重ねてきたような人たちとは、明らかに立ち位置が違います。ドラム以外全部独学の僕が音楽家として成立するにはどうすればいいか。ただひたすら、そんな自分の表現の立ち位置を探すしか無いと感じました。そして今日まで、そうした自分への問いかけを忘れたことはないし、周囲に流されたこともありません。
何度も言いますが、音楽は大好きだけどミュージシャンになりたかったわけじゃない。歌だって、やってみたら歌えてしまったというだけです。有名になりたいとか、金持ちになりたいとかいう動機じゃなかった。でも音楽という仕事で地道に食べていくにはどうすればいいか、ということだけは真面目に考えてきました。僕はアーティストという上から目線の言葉が好きではありません。自分にしかできない表現で黙々と音楽を作り、それが聴きたい人に届けば十分だと思っている人間です。その意味で、自分はアーティストではなく職人だという自意識があります。世の中は、市井の真面目に働く人々で動いている。僕もその一人として、誰かに喜んでもらえる音楽をなりわいにしているだけです。
とはいえ、37年間の音楽活動で、職人ゆえのこだわりや苦しさ、かつ面白さも相当にありました。次回はその話をお聞きいただきたいと思います。
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僕の世界を拡げてくれたアメリカのプロたち
シュガー・ベイブを解散してソロになった1976年、23歳の僕は単身アメリカへ出かけ、ファースト・ソロアルバム『CIRCUS TOWN』を制作しました。ニュー・ヨークの著名なアレンジャー、チャーリー・カレロにプロデュースとアレンジを依頼してレコーディングをするという、当時の僕の知名度からすればかなり背伸びした試みだったのですが、初めてのバンドだったシュガー・ベイブの挫折を機に、自分の音楽の方向性を再確認したいという強い思いもありました。
レコーディングの合間に、チャーリー・カレロから「君はどういう音楽が好きなのか?」と聞かれて、それまで僕は、新譜はもちろん聞いていましたが、60年代の音楽に圧倒的なシンパシーを持っていたので、60年代の有名スタジオ・ミュージシャンの名を列挙したのです。するとチャーリーは、「彼らは67年には一流だった。だが今は違う」と言い捨てた。それは、今生きている音楽、コンテンポラリーなもので勝負しないとダメだという意味に聞こえました。厳しいヒットチャート戦争を生き抜いてきた人間の言葉だったので、説得力があり、それは僕の音楽人生でもとりわけ忘れられない一言となりましたね。
あの時から、自分がやりたい音楽を、同時代の視点で考えるようになりました。いくら素晴らしい曲を作っても、世の人々に聞いてもらえなければ、それは無いと同じだというのが、冷徹な商業音楽の世界です。そのためにはさまざまな創意工夫や努力が必要です。
当時は人種差別という要素もあり、日本から来たロン毛の若造は、ニュー・ヨークのスタジオ・ミュージシャンには相当甘く見られましたけど(笑)、それでも彼らは確実に僕の世界を拡げてくれた。レコーディングが終わってから、チャーリー・カレロは僕に全曲のスコアをくれました。普通は絶対にしないそうで、どこかで気に入られたのでしょう。それを帰国後に細かく分析して、2枚目のソロアルバム『SPACY』 から自分でスコアを書き始めています。アメリカでの体験がなかったら、この先どっちを向いていいのかさえ分からなかったかもしれません。
オーディオ機器のデジタル化には翻弄された
ほとんどの楽器を自分で演奏する「一人多重録音」などという、ものすごく手間のかかる方法も取り入れてアルバムを作るようになったのは1977年頃からですが、コーラス、とりわけ声だけの音楽「アカペラ」が大好きだったので、それをさらに突き詰めて、1980年、すべてのボーカル・パートを自分一人で歌う「ワン・マン・アカペラ」のアルバム『オン・ザ・ストリート・コーナー』を完成させるまでに、長い時間と訓練を要することになります。でも、そうやって少しずつ自分だけの世界を構築して行きました。
80年代中期に、オーディオ機器が次第にデジタル化され始め、アナログレコードはCDにとって変わられることになりました。その結果、制作の工程も根本的に変えざるを得なくなり、にもかかわらず初期のデジタル機器は、はなはだ未完成で扱いも難しく、以前のようなアナログの温かい響きにならず、メディアの不完全さに何年も翻弄されました。アナログメディアの行き詰まりから起きた変化ではなく、ハードメーカーが新需要開拓の目的でデジタルに無理矢理移行した、あの時代を思い出すと、今も腹が立ってきます。
とはいえ、当時考えたのは、やはり「時代の流れ」ということでした。ポピュラーミュージックは、常に「今」と共にある音楽なので、自分の過去の価値観や経験則にこだわり過ぎると、たちまち時代に取り残される。アメリカで体験したように、時代遅れを避けるための自己改革や技術の習得も重要だと、その結果、否応なしに努力させられ悪戦苦闘したことが、音楽の制作者として今日まで生き続けられた要因の一つかもしれないと思います。
次回は、僕が音楽ファンとして大切にしているレコードコレクションについてなど、こだわりの話をお届けします。
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ラジオ番組のために音質改善を模索する
TOKYO FMで放送中の『山下達郎のサンデー・ソングブック』は、おかげさまで今年の10月で20周年をむかえます。ラジオのレギュラー・プログラムは、それまで長くても3年くらいのものだったので、この番組は自分にとっても大変な長寿番組となりました。最初は1992年、土曜日午後3時の『サタデー・ソングブック』としてスタートしました。僕の前は洋楽と邦楽のベストテン番組で、流れとして音楽中心の時間帯でした。若いころのレギュラー番組では新譜も紹介していたのですが、新譜のチェックはなかなかに手間ヒマを要する作業なので、『サタデー・ソングブック』を始めるにあたり、自分の記憶と手持ちのレコード・コレクションで無理なく成立させられるオールディーズ専門プログラムに特化することにしました。それが意外に聴取率が良かったようで、一年半で日曜日の午後2時枠に移動になったのです。
実は最初、この移動はありがたくなかった(笑)。日曜日の午後は、ラジオの中でも一番難しい時間帯なのです。行楽帰りの家族連れが、カーステレオで聴く時間帯で、リスナーの年齢層が幅広く、絞りづらいわけです。移った直後は、僕の前がキムタクで、後ろがドリカムの番組でした。そこに挟まれて50年代のチャック・ベリーやバディ・ホリーなどをかけても、いかんせん古い音源なので、スマップやドリカムの新譜とでは音圧が勝負にならない。これにはさすがにまいりました(笑)。
そこで、色々と対策を考えました。その頃はまだデジタル機材が高価だったので、アナログ・コンプレッサー(音量圧縮)やイコライザー(音質補正)を買いこんで、自宅で音圧を向上させたものをDATでデータ化し、それを素材としてオンエアしていました。そのうちにPro Tools(プロ・ツールス)という、自宅でデジタル処理ができる機材が登場して、環境が著しく改善したのですが、これが後にデジタル・リマスタリングのノウハウを身に付ける上での大きな助けとなった。結果論とはいえ、レコーディングよりも先にラジオの音源を改善させたくて導入したものが、あとで本業のためにものすごく役立ちました。人生無駄なものは何もないという(笑)。おかげで、オールディーズ専門の番組にもかかわらず、最新新譜と音のガッツが拮抗していることが大きなセールスポイントとなり「最高の選曲と最高の音質」という番組のコピーとともに、安定した聴取率を獲得できるようになり、今日に至っています。
夏は夏風に、冬は冬風に。自分もいちリスナーとして
若い頃から、レコード収集は僕の数少ない趣味でした。今でもそれは変わりません。レコードを買いたくて仕事してるような部分が今でもあります(笑)。10代のころは、少ない小遣いをやりくりしながら、中古レコード店を回っては欲しいアイテムを一所懸命に探していたものです。インターネットが生まれてからは、世界中のディーラーが集結したサイトがいくつも生まれ、そこにアクセスすれば大抵のものは手に入る便利な世の中になりました。長い間収集生活を続けていますと、欲しいものはかなり限られてくるので、最近はネット中心の収集生活になっています。Want List(ウォント・リスト:欲しいアイテムのリスト)を送って気長に待っていれば、世界のどこから答えがいつか届きます。
『サンデー・ソングブック』はもう放送1040回を超えます。曲選びも、音源の準備もすべて一人でやっているので、たしかに大変ではあるのですが、先ほども申し上げたように、オールディーズに特化しているので、ノルマというよりは、むしろ仕事の息抜きになってます。東日本大震災で一回休みになった以外は、この20年間一度も休んだことはありません。
音楽もそうですが、文化活動とは、人が生きる上での有形無形の励みや癒やしとなるべく存在していると思います。毎日暑いなあと感じているときに流れてくる唄、冬の寒さでキリキリする気持ちを温めてくれる歌、作り手である前に、いちリスナーとして、いちレコード収集家として、今日もレコード棚からひとつかみ。友達と一緒にゴタクを言いながらお茶する感覚かもしれません。これからもお付き合いのほどを。
4回目の次回は、ライブへのこだわりをお聞きいただきます。
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今も昔とほぼ同じ音域で歌える。
テレビのような大きなメディアではなく、みなさんの前に出て歌うのは基本的にコンサートホールでのライブだけでという方式でずっとやってきました。したがって、僕にとってライブは表現の場として最も重要で、会場にわざわざ足を運んでくださるみなさんにどうしたら喜んでいただけるか、若い頃から色々と努力してきたつもりです。
60歳を前にして、幸運なことに今も昔とほぼ同じ音域で全曲を歌うことができています。周囲からは「30代より、今のほうが声が出ている」などと言われます。まあ、それは言い過ぎですが(笑)、30代のころとは節制の度合いが違うので、そう聞こえるのでしょう。
僕のような発声は、意外なことにハイトーンよりもむしろ低域や裏声のほうがキツくなることが多いそうです。年をとったらスモーキー・ロビンソンのような柔らかい裏声と曲でやっていけば、ハイトーンが出なくなっても大丈夫と考えていたら、どうもそうではないようで、今のところシャウトにはそれほど影響がなくてすんでいます。まあ、『煙が目にしみる』の最後のG#が出なくなったら、その時はスパっとやめようと思ってますが(笑)
歌の面でも先生と呼べる存在が僕にはいません。レコードから得た知識と経験が全てです。ボイストレーニングというものもあまり信用していませんが、声は生ものですので、年齢を重ねて来てからのコンディション管理にはそれなりに気をつかっています。呼吸筋を鍛える器具を10年以上使っていますが、若い頃はそういう鍛錬をすること自体がロックじゃないと思っていた(笑)。でも現実は、欧米ではボイストレーナーが付いていないシンガーなんて存在しない。建前と本音(笑)。それだけ昔の日本のロックビジネスは未成熟だったということでしょう。
何人もの同世代の音楽家が、体調を崩したりしてライブなどから遠ざかっていくのを見ていると、僕だっていつ何が起こるか分からない。僕に限らず誰も自分の運命は予測できないけれど、だからこそ、出来るうちにやれるだけのことはやっておきたい。来年はいよいよ「還暦ツアー」です(笑)。
自分の音楽を続けて行くために若手を育てる
バンドでデビューした時はライブ一辺倒の生活でしたが、ソロになって数年は、逆にほとんどライブが出来なかった。1980年に『Ride On Time』でブレークして、ようやくライブを再開、以後はずっとツアーを続けてきました。それが、1990年代半ばから2000年代の半ば頃まで、ライブが思うようにできなかった時期が続きました。メンバーの確保が難しくなったこと、メンバー同士の軋轢や、他のシンガーにバンドが引き抜かれるなど、色々な理由がありましたが、当初はそれでもノンビリ構えていました。
ところが、同じ時期あたりから、ダウンロード配信の増加、さらにはネットで無料で音楽を聞くことが当たり前になり、CDパッケージの売り上げが減少し始め、音楽業界全体に影響が及ぶようになってきました。レコード店の数が減り始め、このまま行けば、我々を支えていたレコード市場は滅びるかも知れない。
そんな時代にミュージシャンはどうすればいいか。私の出した結論は「ライブへの回帰」でした。6年前のことです。そのためにはバンドの演奏メンバーを再編成してコンスタントにツアーが出来る態勢を作らなければなりません。まず、20代の若いドラマーを探しに、人づてに情報を聞いたりライブを見たりして出会ったのが、いまの小笠原君です。1年半かかりました。サックスも20代の宮里くんに代わりました。一緒に演奏するミュージシャンは、腕がいいことはもちろんですが、人間的なウマが合うかもとても重要です。若い世代に教えることは多いけど、逆におじさんメンバーが若い人たちからもらう刺激も計り知れない(笑)。ライブを再開してもう4シーズン目に入ります。おかげさまで老若混成のアンサンブルもいい感じにまとまって来ました。次のライブもお楽しみに。
次回は最終回。9月26日発売の『OPUS ~ALL TIME BEST1975-2012~』について、僕の思いとこだわりをお伝えしたいと思います。
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オールタイム・ベスト・アルバム全49曲CD3枚組み
5回にわたり長々とお付き合い下さいましてありがとうございました。
というわけで、このたび、私山下達郎の全キャリアを俯瞰したオールタイム・ベスト・アルバム『OPUS ~ALL TIME BEST1975-2012~』を、9月26日(水)に発売いたしました。
おかげさまでここ数年、レコード、ライブ共に順調に活動を続けることができております。その勢いに乗じてのベスト・アルバムです。
とはいうものの、今の時代、CD(パッケージ・メディアと呼ばれます)を取り巻く状況はますます厳しさを増しています。そんな中、パッケージの市場がきちんと機能している今のうちに、ちゃんとした形でベスト・アルバムを作っておこうと思いました。
シュガー・ベイブのメンバーとしてレコード・デビューしたのが1975年。以来37年、ソロ・シンガーとなって35周年目をむかえます。
その37年の全キャリアをCD3枚組・全49曲、3時間半を越えるボリュームにまとめたのが、今回のベスト・アルバム『OPUS ~ALL TIME BEST1975-2012~』です。
ベスト・アルバム=ベスト・ヒット集ですので、基本的にはシングル盤中心の選曲です。文字通り私の代表曲を詰め込んでありますが、なにせ37年分、270曲の作品からのセレクトですので、全てを網羅することは到底できず、涙をのんでカットせざるを得なかった曲もたくさんあります。
また、37年のあいだには、アナログからデジタルへと、レコーディングの方式、楽器の種類、あらゆるものが大きな変化をとげました。1975年から2012年まで、どの時代もお互いに違和感なくお聴きいただけるよう、デジタル・リマスタリングには現時点での最大限・最善の努力をはらっておりますが、それでもなお、経年変化によるマスターの劣化や、生産終了となってしまった旧型の再生装置の老朽化などの諸事情により、除去しきれないノイズやひずみがありますことを、何とぞご了承下さい。
初回盤はボーナス・ディスク付き
初回盤はボーナス・ディスク付き4枚組仕様です。ボーナス・ディスクには、キンキ・キッズに提供した「硝子の少年」を自分で歌ったデモ・ヴォーカル・ヴァージョンをはじめ、鈴木雅之さんに提供した「GUILTY」のデモ・ヴォーカル・ヴァージョン、竹内まりやのアルバム『ミスM』のために書き下ろした「EVERY NIGHT」、そして2012年3月11日、東日本大震災1周年の際に私のラジオ番組「サンデー・ソングブック」にてオン・エア、ご好評をいただいた「希望という名の光」2012アコースティック・ヴァージョンなどなど、レアな音源を収録しました。
初回盤CDジャケットは、デジパック三方製BOX仕様。ずっと以前から私のコミキャラをファンクラブ会報に描いて下さっているマンガ家、とりみきさんに書き下ろしていただいたイラストのカヴァーとインナー・ブックレットです。60ページのブックレットには、曲ごとに自筆のショート・コメントが付いております。
レコードというメディアのおかげで、音楽は文化のリーダーとして長く君臨してきました。音楽にとって一番幸福な時代を生きることができ、さらに、みなさんのおかげで今もなお現役で活動が続けられているひとりのミュージシャンの歴史を、このベスト・アルバム『OPUS ~ALL TIME BEST1975-2012~』でお楽しみいただければと思います。
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