☆「沢雉会(石井裕之勉強会)」への参加申し込みは3月2日をもって締め切らせていただきました。再募集の予定はございません。将来的に追加募集をすることになった場合には、「石井裕之オフィシャルメールマガジン」においてお知らせします。

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October 05, 2012

普通のこと

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たとえば、コミュニケーションのセミナーを開催したとします。参加者は、みんな、人間関係をよくしたいと思って来たはずです。それなのに、クラスの人に挨拶もしないで、笑顔ひとつ見せようとせず、黙ってひとりで本を読んでいる人がいる。

もちろん、人と話すのが苦痛だからそういう講座に来ているというのはわかるけれども、自分を変えようと思って参加しているのであれば、せめて、そのセミナーに参加しているときくらいは、がんばってコミュニケーションを取ろうとするのがほんとうじゃないでしょうか。顔が引きつってでも、言葉がうまく出てこなくても。フェイク・イットで。

でも、僕がそういうことを指摘すると、「それができないから参加しているのに、そんなことをやらなくちゃいけないならセミナーに来た意味がない」なんて、ぷく~っと膨れる人がいる。ただでさえ不細工な顔が、もっとみっともないことになる。

潜在意識をテーマに十五年以上もしゃべったり書いたりしてきたわけですけれども、潜在意識という言葉もこれほど日常用語になったいまでも、「潜在意識を勉強すれば、楽をしてすごい魔法が手に入る」だなんて思っている人がいるのには、正直、当惑してしまいます。

ダイエット器具を買えばそれだけで痩せられると思っている馬鹿は、いつになってもいなくならない。自分で努力をしなくちゃいけないのは頭ではわかっている。でも、その努力をしないで済むための代金として高額を支払ったのだと、どこか心の中で開き直っている。そういうズルさがあるのです。コンプレックスにつけこむ業者もズルいけれど、それにひっかかるカモのほうにだってズルさがある。

沢雉会では、「目に見えるところを見てあげないで、目に見えない心をわかってあげられるはずがない」とずっと言い続けてきたし、その考えに共感してくれる人たちが来てくれているはずです。

それなのに、勉強会でも、「あれだけ強調したことを、ぜんぜん聞いてなかったんだな」と、がっかりするというよりも、唖然としてしまうことがいまだにある。「いいですか? 聞いてくださいね!」と、大声ではっきり前置きしてしゃべったのに、それをまったく無視してくれたわけです。無視して聞いていなかったくせに、その分、自分で勝手に話を作って、僕がまったく逆のことを言ったかのように決めつけている。

モチベーションをもって参加しているはずの勉強会にしてそうなんだから、その人は、普段の生活の中ではどれほど人の話を聞いていないかが察せられます。

何度も言うけれど、「目に見えるところも見ようとしない人が、目に見えない心をわかってあげられるはずがない」のです。「はっきり言っていることさえ聞いてあげていないのに、言葉にできない思いなんか理解してあげられるはずはない」のです。

「あなたは空気が読めないのよ」と人に言われて膨れっ面していないで、「そうよ、私は空気が読めないのよ」なんて開き直らないで、まずは、見えるところをちゃんと見てあげる、話していることをちゃんと聞いてあげる。そういうところからスタートしてほしいものだと思うわけです。

普通の人が知らない特別なスキルを学ぶんだから、普通の人がやっている普通のことは普通の人以上に普通にできなくちゃいけない。それだってとても難しいことだけれど、少なくともそういう責任感はもっていてほしいわけです。勉強会に来るくらいのレベルの人には。

October 04, 2012

セクシー秘書

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『ブレーキ』の中で、「感動を行動に変える」という話を書いたけれども、僕はいまでもずっとそれを意識的に実践している。何十万人もの人が読んでくれているベストセラーだ。自分で書いたことは自分で実践し続ける義務が僕にはある。

本を読んでくれた人は、もうすっかりそんなこと忘れちゃっていたとしても、僕はやる。

たとえば、どこかの業者に何かをお願いして、実際に来てくれた人が一生懸命にやってくれたりすると、僕はすぐに本社にお礼の電話をする。

キミの考えてることはわかる。「あちらも忙しいのに、そんなことでいちいち電話するとかえって迷惑かな」なんて思っちゃうんでしょう? 僕もそういうところがありますからよくわかります。

でも、それは行動するのをためらう僕のほうのブレーキ。現状維持メカニズムだ。

お礼の電話をして相手に迷惑そうにされたなんてことは一度もない。むしろ、忙しいところほど、そういう電話をとても喜んでくれるものだ。

若いときはそういうことをするのはなかなか気恥ずかしいものだが、フェイク・イットでやってれば、年齢を重ねるにつれて自然にできるようになってくる。歳をとるってことは、ほんとうに素晴らしいことだ。

ある有名な自己啓発のセンセイには、そういう「雑用(?)」をやらせるための秘書がいるそうだ。

そのセンセイは「お腹がすいたから、代わりに昼メシ食ってきて」とか秘書に言うんだろうかなあ? ……なんて僕は思ったが、ビジネスの世界では、できるだけ部下とか外注に任せるのが立派なんだそうだ。

自分で「雑用」をやるヤツなんか、成功できないんだそうだ。

経済の奴隷となり、効率だけしか考えられなくなると、そんな発想がまっとうなことに思えるのだろう。

でも、僕は自分でやる。セクシー秘書を何十人抱えていたとしても自分でやる。

October 03, 2012

リズム

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リズムを掴んだほうが勝ちだ。テクニックの側面に限っていえば、リズムがもっとも重要な要素だ。

著者は読者をリズムにのせれば勝ちだ。セラピーもコーチングもセミナーもすべてリズムの勝負だ。

勝ち負けではないという人もいるだろうが、それは表現の問題であって、舞台に観劇にいって自分のほうが勝ったと思えたらむしろがっかりして帰るだろうし、推理小説の四分の一で犯人もトリックもわかってしまったら駄作をつかまされたと腹が立つだろう。

とくにセラピーでは、クライアントは負けまいとして考えうる限りの反発をする。しかし、その反発をプロフェッショナルにエレガントにかわされて、圧倒的な敗北を喫することをクライアントは誰よりも期待している。

勝つことが僕らの仕事である。引き分けにもちこもうなんていう姿勢は、いわば職務放棄である。

「では勝つとは何か?」というと、相手をこちらのリズムにのせることである。リズムを掴んだ者が、勝つのだ。

「ではリズムとは何か?」という問いが出てきたら、半年の勉強会の成果も見えてきている。

リズムが、今シーズンからの沢雉会の裏テーマである。

September 30, 2012

家畜

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わかるかわからないかよりも、「わかりたいと思う気持ち」のほうが本質であろうと僕は思う。

わからないけれども、わかりたい。この気持ちは、必ず自分を高めてくれる。

そのとき大切なのは、「わからないけれども、ここには何か惹かれるものがある」という「予感」だ。

それがあるかないか。感じられるか、感じられないか。

なんど読んでもさっぱりわからない本がある。自分の教養のなさ、頭の悪さがしみじみ感じられる。

それでも、なぜかどうしてもその本を諦めることができない。またぞろ馬鹿な自分と向き合うようにその本を広げる。

なにか「予感」に導かれるかのように。

そうしているうちに、漠然と魂の筋肉みたいなものが鍛えられているのが感じられるようになってくる。

前はさっぱりわからなかったことの、その輪郭がぼんやりといわば「体感的」にわかるようになってくる。

そうするといろんなことの見え方が変わってくる。いままで気にもとめなかったことが、実はとても重要なことなのだと思えるようになってくる。当たり前だと思っていたことも、実は驚嘆せざるを得ない奇跡のようなものだということがわかってくる。

逆に、なんの心配もしていなかったことが、実はものすごく怖ろしいものだということに気づいて、鳥肌が立つこともある。

行動が、変わってくる。

本に向き合うということは人間としての著者に向き合うということだから、本でも人間関係でもこれは同じことだ。

相手が思い通りに動かないときには、すぐにそれを変えようとする。コントロールしようとする。自分の影響力を行使しようとする。でも、ああするべきだとか、こうであるべきだと相手を裁く前に、時間がかかっても、「あなたのことをわかりたい」と思えるかどうか。そうでなければ、相手はあなたにとって家畜であって、人間ではない。だったら最初からそれを「人間関係」などと呼ばないでほしい。

さらっと読んでわかる本ばかり読んでいる人は、人間関係の築き方もどんどん安っぽくなっていくということに気づくべきだ。

前も書いたが、「こうすればこうなる」的な実用書ばかり読んでいると、実用的にしか人間を見られなくなる。

そういう時代に、もうなっている。

September 29, 2012

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みんなが口を揃えて何かを言い出したとき。ひとつの気運が統一的に高まってきたとき。そんなときこそ、立ち止まって考えてみなくちゃいけない。

何か出来すぎていると、感じなくちゃいけない。

誰の利害が裏で働いているのか。疑ってみなくちゃいけない。

「みんながそう言っているから正しい」のではなくて、「みんながそう言っているからこそ間違っているかもしれない」のだ。

「みんながフツーに食べているから大丈夫」なのではなく、「みんながフツーに食べているからこそ危ないかもしれない」のだ。

辛い思いをしたばかりなのに、もう忘れてしまったのか?

とくに感情の波にさらわれてはいけない。

いまこそ自分の頭で考えるべきときが来ているが、その頭の準備がちゃんとできているのかが怪しいところなのだ。

September 28, 2012

芝居上手

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武田鉄矢の歌みたいに、「去りゆくあなたへ贈る言葉♪」なんて、僕にはない。

去りゆくあなたは、僕を必要としていないから去りゆくのであって、だから必要でない僕の言葉なんかを贈ったところで、それはこちらのエゴにすぎない。相手だって、最後だからと聞いてやって感激したような芝居でもすれば自分がいい人間になったような気になれるという、その程度のものだ。相手と自分に対する社交辞令である。

要するに、芝居上手である。

世間の人情劇なんて、そんなものがほとんどで、ほんとうに心と心に熱が流れるような交流なんて実に稀だ。

だが、稀でもいいから、僕はそういうつながりがいい。

自己啓発の世界でも、「温かい人」とか「アツい人」という印象で通っている人がいるけれど、ちょっと係わってみると、意外に冷たい人でがっかりすることがある。

この間も、ある有名な著者から最新刊が郵送されてきた。いつも送ってくださるんだが、「あなたにまっさきに読んでいただきたくて」という手紙が必ず入っている。でも、名前もなにもワープロの差し込み印刷だ。「大切なあなた」の大量生産だ。芝居上手が鼻につく。

……このブログでは最近はこんなふうに自己啓発批判めいた文章が発作のよう続くので、「石井さん大丈夫ですか?」と心配してくれる人もいて、文章で読むと、なんか怒り狂っているように思うらしい。本人としてはすこぶる冷静に上機嫌で書いてるんだけどさ。

要するに言いたいことは、僕をほんとうに必要としてくれる人は、当たり前のようにいつも近くにいてくれるもので、僕はそういう人たちとだけほんとうの心のつながりをもっていきたい。ただ、それだけのことだ。

「俺に惚れてくれる奴を当たり前に愛そう♪」っていうのは、僕の好きな長渕剛の歌(「耳かきの唄」)のセリフだが、そんな心境だな。

必要がなくて去っていく人には何も言うことはない。あれこれ御託も、未練ぶった芝居もいらない。

September 27, 2012

風を積む

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風の積むこと厚からざれば、すなわち其の大翼を負うに力なし。
『荘子<1>』(森三樹三郎 訳・中央公論新社)

翼を拡げれば何千里もあるという、それはもう常識を超えた馬鹿デカい想像上の鳥がいる。その名を大鵬という。とにかくデカいから、九万里もの高さにまでグングン上昇してからでないと、目的地に向かって飛ぶことができない。翼の下に、厚く厚く風を積まなくてはならない。

ヒグラシや小鳩のような小さい連中は、それを見て嘲笑する。彼らは小さいから、壮大な大鵬の志など知るよしもないのだ。

大きい船を載せるためには、その下に深い水が必要だ。ケチな水溜りみたいなところじゃあ、おもちゃの船がせいぜいで、遠い地を目指す立派な船を載せることなんかできない。

志が大きければ大きいほど、その下に厚い風を積むこと。壮大な目標を実現するには、ひたすら翼の下に風を積むこと。

ただ努力しましょうとか、忍耐が必要だよとか、そんなせせこましい教えでないところが、荘子の凄いところだ。

堂々と悠々と迷いなく飛び立つ大鵬の清々しい姿こそ、小さな一歩を踏み出すことの壮大さを僕らに教えてくれる。

September 26, 2012

肩書き

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最初の著書の肩書きは、「催眠療法家」だった。世に知られてもいない者の処女作を、肩書きなしでは出してもらえない。インパクトも必要だ。

次の本では、僕が催眠から離れていたころだったから、肩書きは「セラピスト」になった。当時はまだセラピストという言葉自体がそれほど定着していなかったから、これはこれで興味を引いただろう。

そのうち、本が売れるようになると、名前だけでも通してもらえるようになった。『ダメ本』の表紙に、「石井裕之 著」と、どーんと名前の四文字だけがデザインされたのを見たときは、ちょっと感激したものさ。

肩書きなし、というよりも、石井裕之という名前が、僕の肩書きになった。

……こんな言い方は偉そうかな? 偉そうだな。まあいいか。

いまでもセラピストだのパーソナルモチベーターだのとプロフィールに書くけれども、こんなのはとりあえずの入口にすぎない。セラピストと聞いて、僕を経済評論家だと間違える人はいないだろう。その人の生業のおおよその輪郭がわかればいようなものではないか。肩書きなんて、その程度のものだ。

だが、世間には、これでもかと肩書きを並べ立てたプロフィールが目立つ。どこそこ認定だの、なんとかプラクティショナーだの、なんたらライセンス取得だのと、まあ取りも取ったり下らないライセンスビジネスの民間資格自慢の大行列で、どこまでスクロールさせるんだって感じだ。

「私はこれほどたくさんな権威に認められてますよ」とでも言いたいのだろうけれど、もしその権威に魅力があるなら、僕だったら、あんたよりその権威に直接お願いする。「私はいいお客さんです」って言ってるようなもんで、僕にはカモよりも、カモをひっかけたヤツのほうがまだ魅力的だ。

潜在意識的な効果について語ろう。

資格をたくさんアピールしても、安心するのは本人だけだ。読むほうは、かえって不安になる。

なぜなら、「私は自分の脚で立てない。自分の名前で勝負はできない」という自信のなさが、行間として、読む人に伝わってしまうからだ。いざとなれば、「だってそう教えてもらったし、ちゃんと能力を認めてもらったんだもん。クレームは本部にお願いしま~す」みたいな、自分の逃げ道を用意している姑息さが感じられてしまうからだ。

そんな肩書きなんて、言い訳だ。覚悟のなさの言い訳だ。

セラピストにせよコーチにせよカウンセラーにせよ占い師にせよ、安心させてあげるべきはクライアントのほうだろう。自分の気持ちをまっさきに楽にしてどうする。

September 25, 2012

あの頃

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アグネスラム写真集

このあいだ出たばかりの、アグネス・ラムの写真集を買った。

12歳くらいのころからずっと部屋に貼っていたポスターの、あの大好きな写真もあった。

目が好きだった。涼しげな、あの目が好きだった。

泣けてきた。

グラビアの写真集で泣くなんて、考えもしなかったことだ。

昔のアイドルの懐かしの写真集で泣くおっさんなんて、かなりみっともない。

みっともなくて、どこが悪い?

September 24, 2012

幼稚

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むかし永六輔さんがラジオで、「よく『私、ママさんバレーやっています』なんて言う人がいるけれど、自分のことに『さん』をつけるなんておかしい」とおっしゃっていて、まったくそうだよなあと印象深かったから、もう何十年も前のことなのによく覚えている。

以前、いろんなセミナー講師が出てきてしゃべるイベントに参加させてもらったとき、みんなひとつの控室にまとめられて、僕以外はみんな顔なじみだったらしくて、いかにも自己啓発の馬鹿ポジティブなノリで、「こないだはありがと~」だの「あのときの○○ちゃんの話は素晴らしかった!」だのと大声で褒めあっていて、もううるさくてしょうがなかった。

たいしたレベルの講師でもないのに、一流芸能人気取りで「お付きの者」を何人も連れてきて、そいつらもぺちゃくちゃ騒ぐんだからたまらない。これから講演をするというのに、気持ちの集中とか、そういうものとは無縁の人たちなのだろう。まったく異次元空間で、僕ひとりがなにか眉間にしわを寄せた難しい人になっていた。

まあ、それはいいとしても、初対面の講師たちが自己紹介してくるのだけれど、どういつもこいつも、「僕のことは○○ちゃんと呼んでくださいね!」などと満面の笑みで言うんだ。これにはびっくりした。

いいおっさんおばさんが、自分のことを「○○ちゃん」などといって恥ずかしくないことが、僕には信じられなかった。

親しみをアピールする戦略のつもりなのかもしれないけれど、「あなたのファンはそんなに幼稚な人たちばかりなのか?」とまじめに訊きたくなった。ここはひとつ我慢と思って、ひきつりながらも「そうですか」と答えておいた。我ながらよく我慢したと、自分を褒めてやりたいくらいさ。

少なくとも沢雉会だったら、僕が「ヒロちゃん先生と読んでください」などと言ったら、かわいそうにとうとう石井さんもおかしくなったと涙ぐむくらいのセンスはみんなもっていると思うけど。

まあ、公の場で、「私のお父さんは公務員で、まじめな人なんです」とか「私はお母さんの料理がいちばん好きなんです」なんていって通用するようになったし、自分の婚約者のことを「とても立派な方で・・・」なんて紹介しても失笑を買わない緩い時代になったのだから、僕のような頭が固くて古いおっさんは口を慎んだほうがいいのだろう。

いずれにしても、「レベルを下げれば、それだけ客が増える」というのが、自己啓発業界のホンネだ。「○○ちゃんセミナーでえっす♪」なんていわれて、「馬鹿にするな」と腹を立てるくらいでなくてどうする?

――おっと、口を慎むのだった。

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