日本の将来を考える  

21世紀のあるべき姿

H O M E 
第   一   章 第   三   章
第   二   章 第   四   章
 

●社会改革の問題●   現代社会の問題


 4章 ハイブリッド社会への歩み

1 明治維新後日本が歩んできた道
貴族政治や武家政治という厳しい権力の支配下の中でも、農を中心として自分たちの生活は自らの力で生
きる場を創りながら生活をするあり方、つまり、何千年何百年と積み上げて創られてきた自給文化を江戸
時代に開花させました。こうした素晴らしい文化を断ち切って、欧米の近代化を求め、富国強兵政策を目
指してスタートを切ったのが明治維新でした。力をつけた日本は、1895年に日清戦争。ここで調子づ
いた軍部は、大国ロシアに挑戦したのが1904年。1931年の満州事変。そして、1937年の日中
中戦争へと軍国主義の道を一直線に進めていったのです。
さらに、国全体の国粋主義的思想は、知識人やマスコミを総動員して、ついに大国アメリカにチャレンジ
したのが1941年の太平洋戦争でした。とことん叩きのめされて、1945年に敗戦となりました。
この間、軍国主義の道と軍事産業を軸とした、近代化、工業化、効率化は、財閥の形成と資本主義商品生
産経済の形態を確固たるものとしました。生活形態は、これまで存在していた、労働をして、生活すると
いう自給生活様式の中に、商品生産経済の成長とともに、労働をして、賃金を得て、商品を購入して、生
活するという労賃生活様式が導入されていきました。こうした生活様式の変化は、今までの永い歴史の中
でもあまり見られない大きな特徴と言えるのでしょう。
そして経済以外にも、従属的関係にあるアメリカの軍事基地は、後々
の日本人の自主性に大きな影響を与えていると言われております。
敗戦後は、戦争放棄の平和憲法を制定し、アメリカを目標に、経済大
国の道を目指しました。
敗戦後の荒廃から立ち上がれたのは、日本人
としての勤勉さと努力ということもあったのでしょうが、自給生活様
式がまだまだ根強く残されており、「お金がなくても生活できる」と
いう生活のあり方が大きな要因となっていたと考えられるのではない
でしょうか。
こうして商品生産経済の政策は、1957年(昭32)
に第一次国土計画、1964年(昭39)に第二次国土計画と高度経
済成長の道を着々と進みました。
この経済成長は労働不足を招き、村から都市への人間の大移動で補足、その裏で村の疲弊化が起こり、食
料の自給率は低下していきました。そしてマスコミや御用学者たちが、国際的分業化を唱え始めたのも1
970年代のころでした。経済成長による輸出超過は、アメリカの為替操作を招き、86年の円高不況に
つながり、その時日本の食の自給率は、遂に40%にまで落ち込んでしまいました。「天地雨情の農学」
の著書によれば、70歳代の百姓に、いつの時代がよかったかというアンケートをとった結果、1955
年(昭30)ごろという答えでした。その理由は、家族全員で仕事ができたということでした。
このことは、自給生活が主流であった家族や地域の協同協調の作業を懐かしんでおられ、家族がバラバラ
になり、若者は都会で団地住まい、親は田舎で農業と、核家族化がこの時代に進んだことを意味しており
ます。そして経済成長の中で、大地から離れた根なし草同然の大量労働者が生まれ、賃金に頼る生活にな
ってしまったのも先ほど述べましたようにこの時代でした。そして80年代ごろから強められてきた経済
の自由化と競争を原理とした新自由主義の市場経済競争至上主義は、政治家も官僚も経営者もそして国民
も欲望剥き出しとなり、お金で何でも解決しようとする社会を創り挙げてしまいました。
 
そうしたところに、1990年のバブル崩壊、93年の平成の不況、98年の金融危機で山一証券破綻、
日本長期信用銀行破綻、2000年のITバブル崩壊と矢継ぎ早に不況の嵐が吹き、90年から2012年
まで失われた20年と言われ、政治と官僚の腐敗による事件は、ニュースの中心となっていきます。
ここで日本のこの時代の特徴を捉えた新聞記事を紹介しておきます。<子を追い込む親の拝金主義>
ノンフィクション作家柳田邦夫氏 朝日新聞より「何かこの国が変だなと気付き始めたのは、経済大国と
言われ始めた1980年(昭55)代ごろからです。
校内暴力、家庭内暴力などの少年犯罪が大きな社会問題となり、大人は拝金主義的傾向が出てきました。
そんな危うさを一挙に加速させたのが、1990年代のバブル崩壊に進んだ新自由主義的な政策です。
派遣労働の自由化が象徴的で、
競争至上主義、効率主義が金を金で膨らますために人間が振り回され、金
銭欲が全開し、勝ち組、負け組なんて嫌な言葉が出てきた。ついに来るところまで来たと思います。
そのなれの果てに、官僚、企業の不正事件、拝金、成果主義に呑み込まれた親が子供を虐待し、その子供
が10代半ばで反逆に転じる。金融不安に端を発した今の不況の進行がさらに何をもたらすのか、怖いと
ころがある。
完全に正すには、世界を変えなければならない大問題である」この記事は、競争で成り立つ物質文明の社
会問題と一つの文明の黄昏を描写した一面、という意味で紹介してみました。本題に戻りますが、根なし
草となった大量の労働者は、2000年から2010年までの10年間で年収が100万円減少し、年間
の自殺者数は、97年から極端に増加し、この12年間連続で32,000人を超えています。
その主因は、経済問題が根底にあると言われております。 そして、戦後急速に発展した大量生産、大量
消費型経済、つまり、中産階級を育成して大量消費を図る中で利益を得ていくというフォーディズムの合
理性は、明治から数えて百数十年で不合理性を蓄積し、08年のリーマンショックによる世界同時金融危
機を引き金として深く長いトンネルに入りました。
そして、09年8月30日には、半世紀以上に渡って商品経済を担ってきた公明党を巻き込んだ自民党政
権は崩壊し、戦後の繁栄を見せた商品経済のフォーディズムという列車は、自公政権という操縦士の下で
列車をボロボロにさせながら終着駅に到着しました。その後を継いだ、口上が上手でペテン師のような民
主党政権は、国民から完全に見放されており、転覆の時期は何時かと言われております。こうしてみてく
ると、江戸の自給文化を断ち切って進んだ明治維新は、資本主義の形成と軍国主義の道でした。その反省
のもとに平和憲法を制定して進んだ経済大国の道は、大量生産、大量消費のフォーディズムという商品経
済が生み出した、商品という馬鹿でかい化物を育ててしまい、四苦八苦しています。
これまでの社会形態を見てみると、軍国主義は、軍人という化物を創り国民を食い物にして、国を崩壊さ
せました。
社会主義は、官僚という化物を創り国民を食い物にして、国を崩壊させました。
資本主義は、商品経済の商品という馬鹿でかい化物を創り世界中の国民を食い物にして、国を崩壊させよ
うとしています。
そうした化物は、必ず国民を眠らす麻酔薬を準備しております。
軍国主義の化物は、国粋主義という思想を使った麻酔薬でした。社会主義の化物は、ゆりかごから墓場ま
でという社会保障の麻酔薬でした。
資本主義の化物は、消費という人間を中毒させる麻酔薬でした。
  こうして明治維新後の歴史を振り返って見ると、一つの論理に特化し
た何々主義という社会形態は、必ず国民を食い物にして、最後には国
を滅ぼすということを、私たちは学ぶことが出来るのではないでしょ
うか。
今私たちは、国民全体で育ててしまった、この商品という馬鹿
でかい化物を裁かなければならないという重荷を背負ったのであって
ここから逃げるということは、天罰によって、地球上に人間が住めな
くなるということです。
表題にも載せましたように、商品経済の最大
の悲劇は、人間を商品化してしまうことです。
そしてその商品という
化物の
裁き方は、歴史の教訓に基づいた何々主義を超えて、江戸の自
給文化を見習った「崇高な社会への探求」これが21世紀に進まなけ
ればならない道なのではないでしょうかこうした観点に立って、2章
で述べましたハイブリッド生活の形態をシュミレーションしてみたい
と思います。
 
●文明の老化について少し述べておきたいと思います
人間の生命というのは、20歳位までは、急激な成長をし、繁殖期を迎え、老化の道を辿り、その生命は
終わりを告げる。そして、人生は、50歳で終わる人もおれば、100歳の人生を迎える人もおりますが
生、成長、繁栄、老化、死、というプロセスは、皆同じということです。信長時代は、人生50年と言わ
れ、現代は生活環境も良くなり、平均寿命は80年を超えました。しかし、生物は皆、良いのか、悪いの
かは別問題として、寿命が存在します。文明も生物と同じように、寿命の違いはあったとしても、生、成
長、繁栄、老化、死、というプロセスは同じで、歴史が物語っているように、永遠不滅の文明は存在しな
かったということです。そうした宿命的問題と同時に、文明の老化を促進させる問題として、人間のエゴ
イズムの蓄積を挙げておかなければならないでしょう。
つまり、ここで述べたいことは、資本主義商品生産経済の商品で成り立っている文明社会も、繁栄と老化
工程を終え、文明の終焉の工程に入っているのではないかということです。経済成長をいくら叫んでも、
この20年間の現実を見る通り、戦時中の大本営発表と同じで、資本主義経済の中で利益を得ている人間
たちのエゴイズムの上塗に過ぎないということです。それを証明しているのが、経済に敏感な経営者たち
で、海外移転を進めていることからも十分お解りになれると思います。ですから、私たちは、政治家や御
用化されたエコノミストと言われる識者たちに惑わされないで、社会の仕組みを根本から変える、本当の
生活を始めなければならないということを必要以上に述べているのです。
2 社会にとってコミュニティとは
政治学者ロバート・パットナム(ハーバード大学)は、次のように述
べております。
「なぜコミュニティが社会問題の解決に有効なのか」
パットナムは詳細な調査を実施した結果、人々が進んで協力し合い、
全体として住みやすく経済的にも成功し、そのことが一層人々の協力
を生み出している地域がある一方で、伝統的に親分子分の関係が強く
住民同志が非協力的で、かつ相互に不信感を抱き合うという悪環境に
陥っている地域もあることに気が付きました。
その差は一体何処にあ
るのか? 地域コミュニティが蓄積してきた「民度」、即ち、ソーシ
ャル・キャピタルの差が決定的な要因であるという仮説をパットナム
は導き出しました。
 
「ソーシャル・キャピタル」の概念は、もともと社会学者のジェームス・コールマンらが1980年代末
に提唱したものですが、パットナムは研究成果として、次のように結論付けています。
「どんな社会ににおいてもコモンズの悲劇(共有地のジレンマ)のために、全体をよくするための住民の
協力はなかなか得られない。そして、強制力を持った権威による問題解決も十分ではない。コミュニティ
や住民の自発的な協力を得られるかどうかは、そのコミュニティにソーシャル・キャピタルが豊かに存在
するかにかかっている」と述べられております。「コモンズの悲劇」は、1968年にギャレット・ハー
ディンが提唱した以下のような概念です。
「村人が共有する牧草地の中で、ある不心得者が羊を何匹も連れ込んで
牧草を食べさせ始めると、他の村人も、これに出遅れまいと競って羊
を連れ込むようになり、結果、共有財産の牧草地は丸坊主になり、荒
廃してしまう」
二酸化炭素の排出規制をめぐるグローバルな環境問題
までも、自国さえよければと、一向に温暖化防止に協力しないアメリ
カを始め中国などもフリーライダーと言えます。
「コモンズの悲劇」
を回避するには、フリーライダーを出さないコミュニティのメカニズ
ムをどのように作り上げるかが問題であり、それは「コミュニティ・
ソリューション~ボランタリーな問題解決に向けて」の著書で提唱し
ております。
 
また、パットナムは、フリーライダーの出にくいコミュニティの特徴として、メンバー間の信頼性が高い
ことと、コミュニティとしての社会規範が働くことが重要であるとしています。私見を述べさせてもらえ
るのであれば、人間と人間の相互信頼、そして家族と地域の相互信頼は、どのように生まれてくるのかと
いうことです。それは、人間個人または、家族が経済的にそして精神的に安定していることが、相互信頼
性を生み出す上においても、またそれを保つうえでも最低限必要な条件ではないかと思っております。
ここでの経済的、精神的安定とは、現在のような欲望剥き出しとなった物質的欲望ではなく、生活に必要
な分だけを持つという衣、食、住の確保ということです。もう一つは、競争社会に内存する格差と人間分
断の問題が、相互信頼を喪失させる大きなポイントと考えられます。
 
 
つまり、商品生産経済の発達とともに、大地から離れていった労働者たちは、90年のバブル崩壊後、相
次ぐ不況の波により、櫛の目から落ちこぼれ、食も得ることが出来なくなり、炊き出しに頼ることになる
そして、毎年、年間自殺者は、経済的な問題が主因といわれており、32,000人を超えています。
こうした貧困や格差の拡大する競争社会のエゴイズムの対立しか見えてこない社会にあって、人間の相互
信頼などという土壌は生まれてこないということになるのではないでしょうか。2章の「自給生活様式へ
の偏見」で述べましたように、江戸の自給文化の中には、「民度」は立派に成熟していたのです。
そうした古い昔の文化に目をそらすのではなく、真摯に対峙するという姿勢が大事なことなのではないで
しょうか。つまり、ソーシャル・キャピタル「民度」は、二つの生活の変化と共に衰退しております。
人間の根源的生活活動である、自分たちの生活は自らの力で生きる場を創りながら生活していくという、
その過程の中で進化されていき、みそ、醤油、酒を創る工程のように、発酵、熟成という永い時間が必要
なのでしょう。現代においては、こうした永い時間をかけた発酵、熟成による「風味」とか「かまろやか
さ」という質の成長を求める余裕がなくなり、量の成長だけを求めた、コップの小さな器の中で必死にな
っている様は、醜いとしか言いようがない。その代表的な舞台が、政治の舞台です。
  ボロボロになった列車の「張り替え」、「継ぎはぎ」の論議に時間
を費やする、そこに政治家のエゴイズムが入ってくるから尚始末が
悪い。
その間に、コップはどんどん収縮をしていく、そうするとま
たもや、「張り替え」がいいのか、「継ぎはぎ」がいいのかの論議
が過熱し、国民の目を誤魔化しながらエゴイズムを入れてくる。
それを面白がって、マスコミは、政局にして面白おかしく喋る。
そこに根本的解決は何も見えてこない。そしてそこから国民は離れ
ていき、無党派層60%となる。
話は戻りますが、社会にとって、
ソーシャル・キャピタル「民度」の成熟は、非常に大事なことであ
るとパットナムは述べられております。
それは、生活の形態の問題であり、人間の根本的生き方の問題でも
あり、問い詰めていけば、商品の扱い方の問題となってくるのでは
ないかと私は考えております。
3 「菜園家族」構想とは
「市場原理至上主義の社会にあって、市場競争の荒波に耐えて家族がまともに生きていくには、生きるた
めに必要なものを、大地から直接、できるだけ自分の手で作ることを基本に据えて、それによって家族に
占める賃金の依存度を最小限にして、市場から受ける作用を可能な限り少なくする。
その社会は、アメリカ型の資本主義でも、イギリス、ドイツ、フランスの資本主義でもなく、また、ソ連
型、中国型の社会主義でもない、まったく新しい社会構成です」。「菜園家族21」より抜粋その社会構
成は、三つのセクターからなる複合社会です。
1つは、理性的に規制され、調整された資本主義セクター(Capital:C 
2つは、3世帯「菜園家族」を構成した家族所経営セクター(Family:F
3つは、行政官庁、国公立機関、NPO、協同組合などの公共的セクター (Public:P構成の運用は、週
休5日制のワークシェアリングで、3世代家族が基本となります。
週労働日数は、資本主義セクターC、または公共的セクターPに2日間、家族小経営セクターFに5日間の
の割合で振り向けることが複合社会の基本的構想です。
また、C,PFに向ける割合を自由に変え、資本主義の市場原理の作動を少ない方向に向けていくことで
す。
CまたはPから得る労賃を多く必要とする場合には、労賃の労働日を多くする。市場からの影響を少
なくする場合は、Fの「菜園家族」で自給活動の割合を多くし、自由な時間を確保することが出来る。
このことは、CまたはPの勤労者としての人格と、Fの自給自足的な人格の2重化された人格の依存によ
って市場原理の作動を自然に抑制する仕組みが社会の中に埋め込まれることになり、そのことで生活基
盤も安定し、精神的にも余裕が出来てくるのです。
 
 
以上のように、「菜園家族」構想をごく簡単にまとめてみましたが、2章で述べましたように、日本をは
じめ先進国と言われる国々の取り巻く社会状況は、商品経済のメカニズムが競争の働きによって壊され、
経済は収縮に向かい、商品過剰現象が起きています。それを解決するため、企業は海外進出を進めている
のですが、先進諸国も同じ方向を向いており、激しい価格競争が残されているだけで、私たちの生活とは
無関係です。この企業の海外進出は、世界的にCO₂拡散の場を創り、その結果の異常気象は、ゲリラ化し
た災害をもたらし、食糧問題を深刻化させております。
つまり、競争を原理とした経済成長の方向性は、食料問題や地球温暖化を伴って、どのような方向から見
見ても最終的には、地球を破壊する方向にしか向かわないということです。競争というアクセルを目いっ
ぱい踏んで猛烈に走り続けている競争社会に対して、ブレーキを掛けることの出来るのは誰か。それは、
「菜園家族」構想を実践することの出来る私たちです。そしてこの構想は、競争にブレーキを掛けながら
21世紀の未来を見つめた構想へと繋がっていく内容となっております。
4 ハイブリッド社会へのシミュレーション
自給活動と労賃活動の割合の推移と休日増加の推移、それによる文化的自由時間がどのように増加し、生
活形態がどのように変化していくのか、シミュレーションしてみました。

2012年代(現在):週休2日制、自給率0、労賃生活100%、自由時間0%、
●会社に勤め、労賃で生活(週休2日は、家庭菜園で子供たちと農的勉強の時期)
●通勤時間が長い
●残業が多く、共稼ぎが多い、また残業が少なくなれば、家計が苦しくなる
●定年退職者の農的仕事が拡大していく時期(借り農園、グラインガルティン等)
●産業の変革の時期(エネルギー、ケアー、情報等)
●消費中毒からの脱皮を模索する時期
2020年代:週休3日制、自給率20から30%、労賃生活70か
 ら80%、自由時間
10から20%
●ワークシェアリングの第一段階(週4日は労賃活動、週3日は家庭
 菜園と農的勉強)

●通勤時間はまだ長い
●残業が少なくなってくる
●労賃活動と自給活動の割合を検討する時期
●近所の畑や空き地を借りて家庭菜園を拡大していく
●自治体や農家の指導を得ていく
●共生社会へのコミュミティ創りを活性化していく
●労賃は少なくなるが、自由時間が増えたことへの自覚が出てくる
●食の自給はまだ不十分であるが、再生可能エネルギーの自給が増えて
 くる
(再生可能エネルギー産業が拡大し、地域産業が活発化する)
●ケアーの自給が進んで福祉、医療、介護、教育など地域産業が増える
●情報産業が増え、さらに地域産業が進む(ブロ-ドバンドへのインフ
 ラ整備が進む)

●インターネットで会社などの在宅勤務が進み、地域でのコミュニケ-
 ションが活発化し、在宅医療も進む
 
2035年代:週休4日制、自給率70から80%、労賃生活50から60%自由時間50から60%
●ワークシェアリングの第2段階(週3日労賃生活、週4日は農園活動)

●自給生活の自覚が出てきて、適正環境への移住が始まる時期
●地域産業で働くようになり、通勤時間は短くなる
●残業や共働きがなくなる
●核家族から2世代、3世代家族への移行が進む時期(家族の共同体が再現されてくる)
●自給自足のための2,3反の農地(宅地付)を確保し、自治体と協力して、インフラ整備、法整備を行う
 
 
●ケアー、情報、エネルギーなどの自給化が進み、地域産業も充実してくる
●地域通貨の採用が進む(貨幣に利息が付かないようにする)
●共生的コミュニティがかなり進み、モノ、お金に対する欲望が薄れてくる
●モラル文化が深化してくる 
2050年:週休5日制、自給率70から90%、労賃生活10から30%、自由時間50から90
●ワークシェアリングの最終段階(週2日は労賃生活、週5日は農芸生活)

●共生社会が確立され、世界に発信していく時期
●食の農的仕事が、労働としてではなく、農芸的色彩が強くなる
●住民と自治体などとの共同作業が一体化し、共生社会が確立されてくる
●追われた生活は極端に減少し、自由時間が増え、趣味など文化的な生活が拡大する
●ケアーなどのボランティア活動が活発化して、安全、安心の生活が送れるようになる
●再生と循環、自然状態の協同協調である自由、平等、友愛の縄文思想の回帰が目の前に見えてくる
●情報の発信と受信の深化はさらに進んでいく
21世紀後半:自然状態の崇高な文明社会へ
●モノ、お金の欲望が薄れ、商品という概念が薄れる
●労働という意識ではなく、農芸的、趣味的な意識で衣、食、住が存在
 してくる

●縄文時代の思想である再生と循環、自然状態の協同協調を基調とした
自由、平等、友愛への回帰、それは、自給文化の回帰です

●情報の発展で高度な文化社会が存在してくる
●福祉、医療、介護、教育等のセーフティネットの備わった、自給社会
 が確立される

●「共有された責任」の社会が確立される
●「指揮、統制、支配」の原理社会から、自然界の摂理である「適応、
 調整」の原理社会が確立されてくる
以上のシミュレーションは、生活の仕方で生活の質が、大きく変わってくるというイメージを描いてみま
した。何か新しく物事を行うときには、先のことを想像し、夢を描くのではないでしょうか。絵画にして
も、音楽にしても、その創作に対して作者や夢が大きければ、大きいほど、その絵や音楽は、私たち多く
の人々を感動させ、永い間、記憶の中に残すこととなるのではないでしょうか。科学技術の発展にしても
しかり例えば、美しいお月様を見て、月には何が存在するのだろうか、また、月に行ってみたいと太古の
昔から人々は、考えを巡らしていたのです。私たちの先祖たちが描いたかぐや姫の夢は、竹取物語で想像
を膨らまし、その夢に近づこうとしたのです。
  そしてその夢は、20世紀にロケットを開発をして20世紀に実現されま
した。
飛行機にしても同様に、飛んでいる鳥を見て、空を飛んでみたい
という夢は、鳥の形に似せた、たゆまない努力と実験から始まり、世の
中から馬鹿にされながらも実現していったのです。
未来社会のロマンも、このようになりたい、このようになって欲しいと
夢を膨らませることが大事なことなのではないでしょうか。

それが先に描きましたシミュレーションで、崇高な未来社会に近づきた
いという夢、それは、商品から離れることでした。

この未来社会の夢の大敵は、人間のエゴイズムといっても過言ではない
のではないでしょうか。
そしてそのエゴイズムの抑制は、古い江戸時代
の自給文化の中に、成熟した協同協調の交わりの中で、色濃く存在して
いたということです。
 
5私の菜園
私ごとになりますが、定年後、百坪ぐらいの借り農園で野菜を創り始めて7年になります。
畑を耕すことは、よい汗をかきストレス発散にもなります。そしてそこに畝をたて、種をまき、春には芽
が出て、成長を楽しみに待ちます。虫に食われないように防虫ネットをかけたり、黒マルチをして雑草防
止、散水用の雨水をためる装置を作ったり、農具を入れる小屋も苦労して作ったりもします。

農園は、自然相手なので大変なことが沢山あります。肥料をどうするか(有機栽培)、病害虫対策(無農
薬)、イノシシ対策など、本を読みながら毎日が勉強です。
70年近く生きてきて、今が一番充実した勉強をしているのではないかと思っております。
それほど農業は大変なことですし、楽しいことです。
種をまいて、発芽し、成長するまで目が離せません
問題が発生すれば、すぐに対処しなければ全滅してしまいます。私がボケている暇はありません。
子育て時期の親ばかみたいなものです。 苦労も多いのですが、収穫物は、また美味しさも抜群です。

例えば、霜の降りた1月、2月ごろの白菜は、シャブシャブにして食べると、甘々で、トロトロで買って
は食べられない農園者の特権みたいなものです。

これが楽しみで、また自然との闘いを始めるのです。
作物は、秋冬物で十七種類位、春夏物で十八種類位、その他薬味類五~六種類、ハーブ類十五~十六種類
柑橘類五~六種類、ブルーベリー八本、花類は、毎年増えていき、畑にその時期の花が咲くのもいいもの
で、切り花にして家に飾るのもいいものです。栽培には色々工夫しており、例えば、トマトは苗木一本を
購入して、側枝を挿し木してクローン栽培をすると、病気にかかりにくくなります。

キュウリ、ナス、トマト等は、畝周りにマメ科(枝豆、ツルなしインゲン等)または、マリーゴウルドを
植えると、ネコブセンチュウにかからず丈夫に育ちます。
葉物野菜は、春菊のような癖のある作物と混作すると虫にやられにくくなります。
玉ねぎなどは、堆肥の中に米糠を混ぜると甘みが出ます。美味しい野菜を作るためには毎年が実験です。
加工品を作るのもまた楽しいものです。
そば打ち、うどん打ち、ワイン作り、ドブロク作り、無農薬発酵液剤、防虫剤作り。
  そして、酒のつまみ用として、ミカンの皮をみじん切りにして、みそ、
砂糖、ゴマで炒める。シソの実を甘辛いためでサンショウ味付け。
ドブロクの粕と白みそを混ぜて、魚を浸けると高級焼き魚に変身します。

午前中2時間ぐらい農作業。午後昼寝。読書、ウォーキング、晩酌。こ
れが私の自然にドップリと浸かった日課です。
ですから、二世代、三世
代分の食の自給のための二~三反は、農繁期を除けば、一日数時間の作
業で充分でしょう。楽しみながら家族で農作業ができますし、自由時間
が沢山出来る筈です。
このような生活をしていると、お金が欲しいとか
モノが欲しいなど、考えたこともありません。ただその時期
の野菜料理で晩酌を楽しみながら、未来社会を想像するのも、楽しいひ
と時です。
もう追われた生活は止めにしましょう。考え方ひとつで、いくらでも自由な生活ができるのです。 
日本の自然は豊かです。農作不耕地を眠らせておく必要はありません。
こうした生き方について、1%の富裕層の人たちは、何を馬鹿なことを考えているのだと、異議を唱える
でしょう。
その人たちは、現在お金で裕福に暮らしているのですから、それはそれでよいのです。
99%と言われる私たちは、貧困に追い込まれてしまうのですから、1%の人たちの言葉に惑わされずに、
自分たちの生活は、自分たちの考え方で生活を守っていけば、どのような経済的、金融的危機が訪れよう
とも、人間本来の生活ができるということが確信できるようになるでしょう。
 
 
 
あとがき
ハイブリッド社会の目的は、資本主義の横暴を食い止め、平和的に終わらせる仕組みを導入し、競争を生
み出す「商品からの離脱」という非常に困難なプロセスを経ながら、永い時間をかけて、持続可能な社会
発展を探求することです。そして短期的には、その仕組みが人間の安全を保障するセーフティネットとな
るのです。私たち国民全体が貧困化しないで、労賃だけで普通の暮らしが永遠にできるのであれば、この
世の中の仕組みを変える必要はないのかもしれません。しかし、この半世紀の間に私たちは、何々主義と
いう一つの論理に特化した、資本主義商品生産経済のもたらす幾つかの現象を経験し、学んできました。
①高度経済成長は、商品に内存する競争の働きによって、商品過剰現象(モノと労働力)を起こす
商品過剰現象による賃金減少と消費減少の繰り返しは、商品生産経済のメカニズムを壊すということ

③高度経済成長は、商品生産経済の単一生活を含む単一経済社会を創り
 挙げたということこの単一生活を含む単一経済は、一部の人間や一部
 の企業が利益を得るために都合の良い経済システムであったのですが、
 同時に人間社会の自己調整機能を失うシナリオでもあったこと
④私たち労働者は、労働力という商品を売って、自分たちが作った商品
 を買って生活をするという二つの矛盾した仕事をしているということ
経済成長政策は、商品を増産し、商品の流通を活発にすることによっ
 て、商品という化物が大きくなり、競争が激化するということ
⑥高度経済成長で一つの生活様式を失い、バブル崩壊でもう一つの生活
 様式を崩壊させたこと、
つまり1980年代半ばまでは、商品の持つ競争の働きによって起こる、
資本主義商品生産経済特有のサイクル的不況は、その都度商品過剰現象
を解消することが出来、ケインズ理論が通用してきました。
 
20世紀終盤から以上述べてきました20世紀終盤からの矛盾によって、商品経済の労働をして、賃金を得
て、商品を購入して生活する、という労賃生活のメカニズムが壊れ、国際的価格競争の激化とお金(資本
)の集中と生産管理システムを含む生産技術の猛烈な発展で、皮肉にもコストの高い人間を使わなくなる
方向へと進まざるを得なくり、競争原理と経済成長のジレンマに陥ることになったのです。

そしてそのことによって、経済が収縮に向かい、21世紀に入った今日、日本をはじめヨーロッパ、アメリ
カなどの先進諸国が、財政赤字と高失業率という資本主義商品生産経済の本質ともいえる、共通した病気
に罹ることになったのです。
それに加えて、政治と官僚の堕落と社会形態の中に、社会を持続的に発
展させる要素の欠落が、さらに社会を行き詰まらせる結果となっている
のではないでしょうか。戦前の単一思考を支配した軍国主義、資本主義
の欠点をついたと云える社会主義、自由競争を標榜する資本主義。何々
主義という一つの論理的特徴に特化した部類の社会は、一時的社会発展
を見せるのですが、そこには必ず特定の人間が、国民を食い物にして最
終的には国を滅ぼすということです。そして目的化し、単一化した社会
は、多様性という想像力の欠落と商品経済の内部矛盾によって、社会か
ら自己止揚を喪失させ、停滞と衰退の道を辿っているのがバブル崩壊後
の現実です。
 
つまり、世界的に起きている資本主義の行き詰まりの要因について、競争を生み出す商品の特性と特定の
目的のために、生活形態を含む経済形態を単一化したこと、それに伴う政治を含む社会形態の中に、社会
を持続的に発展させる要素を欠いたという、大きく分けて3つの要因を述べてきました。
もう一度ここで
述べます。商品経済の最大の悲劇は、人間を商品化してしまうことです。

何千年何百年と自然界と人間が熟れ合って築き上げてきた自給文化を、単に人間の欲望を持って、貧しい
生活とか、生産性が悪いなどと抽象的概念に属するのは、あまりにも悲しい出来事と言えるのではないで
でしょうか。
そうした古い自給文化を支えていたのは、一つには、必要以上のモノを持つ必要のない、安定した生活環
境と協同協調という自然と熟れあった環境が存在していたことを挙げることが出来るのではないでしょう
か。いずれにしても、何々主義というような人造的に創られたような文明は、繁栄してもやがて、崩壊の
道を辿るのであるという歴史観で捉えれば、過渡期に差しかかった資本主義という社会生活の中で、私た
ちは、崇高な社会概念の探求という大きな時の流れを察知することが重要なこととなってくのでしょう。
もし、商品がこのように充満したこの世の中に、崇高な社会概念の探求に執念された法然聖人や親鸞聖人
が生存されていたとしたら、「商品からの離脱」を説かれたのではないでしょうか。
 
 
 
なぜなら、崇高な社会概念の探求には、競争を生み出す「商品からの離脱」は、必要不可欠なことと説か
れたのではないかと思います。そして、商品を「善」「悪」という視点で捉えた時、人間生活の発達に伴
う分業化において、適度な拘束や制限を受ける通貨の介入した「善」と、人間の欲望と利益を生み出す、
お金の介入した「悪」という、商品の持つ、二つの意義を説かれたのではないかと思います。

これまでに述べてきました、商品によって引き起こされる矛盾とその矛盾によって歪められた社会を根本
的に解決できるのは、私たちの目線で出来るということです。
その目線は、1章で述べました、社会を持続的に発展させる要素を唯一含んだ自給生活を「出来る人が」
「出来るところから」少しずつ始め、自然な形で商品から離れ、私たち人間も自然な形で自然界に溶け込
んだ、時の流れに乗ることが出来るのではないかということです。この世の中を見渡してみれば、世界の
人口は、70億人となりました。その内の%の富裕層のために、99% の人口が苦しめられ、これか
らも益々格差が広がっていく歪んだ社会を目のあたりにして、社会の仕組みを根本的に変えようとする姿
は見えてきません。 それどころか、政治家を始め、御用化した識者たちが盛んに述べている、経済のテ
クニック的論議と当てもない経済成長と消費税増税で国民の目を曖昧にしようとしています。
  彼らの述べている消費税増税の理由として、今後経済成長はあり得ない、
だから消費税を上げなければ、社会保障は崩壊すると脅かしております
また一方では、経済成長なくして日本の発展はないと、曖昧なことを述
べております。
確かに、商品経済のお金で何でも解決するという社会シ
ステムの中だけで考えれば、そのような発想となるのかもしれません。
そうした人たちは、ほかの仕組みを絶対に考えようとはしません。
なぜなら、答えは簡単です、それは、政治家の中には、富裕層の人たち
から選ばれた人間が圧倒的に多いからです。

消費税増税論者のほとんどの政治家を始め、識者と言われる人たちは、
商品経済のメカニズムが壊れていることを知って語られているのか、知
らずに語られているのか、いずれにしても、その場限りの理由を語って
おり、テレビや新聞等のマスコミも同じ論調です。
消費税についてもう少し言及すれば、先進諸国の消費税が1520%と高い国々でさえも、財政赤字と高
失業率で苦しんでいます。
そして、消費税を上げたとしても、それは一時的な気休めで、また財政赤字に
追い込まれるというのが、先進諸国の共通した重い病気と言えるのでしょう。

また、先進諸国の共通した政策は、国民の豊かさとは無関係に、国民に対して出来ない経済成長を掲げな
ければならなくなっていることで、それは、消費税増税と賃金削減、年金をはじめとする社会保障費の削
減という、発熱している患者に発熱を促進させる毒薬を投与せざるを得なくなっています。
  つまりこれらのことは、商品経済の大量生産、大量消費というフォーデ
ィズムの根本的なメカニズムを壊す方向にしか進まないということです。
それは、簡単な理屈です。国民にお金を与えず、国民からお金を吸い上
げるから、消費が出来なくなるだけです。もう一つの病状的側面は腐敗
した政治と政治家の保身によるサービス政策と官僚たちの甚だしいエゴ
イズムで、さらに財政赤字という病気を重くしています。
この共通した病気と政策は、ギリシャの貧困のプロセスとメカニズムが
同じです。病気の進み方が、早いのか、遅いのかの違いに過ぎないとい
うことです。ギリシャを非難しているところではないのです。
いずれ日本も、このまま進んでいけば、同じ運命(病気)を辿るという
ことになるのではないでしょうか。そして、貧困が進み、国の政策が一
方方向を向きだした国は、独裁国家同様に国民全体の思考停止状態が起
こり、戦前の思想統制化の日本のように、行くところまでいかなければ
解らないという、文明の末期的症状が国民全体に起こるということです。
資本主義の飽くなき戦いを、如何に平和的に終わらせていくのか、今人
類が知恵を絞らなければならない時なのではないでしょうか。
 
その特効薬は、何回も述べるようになりますが、社会を持続的に発展させる要素を唯一含んだ自給生活を
「出来る人が」「出来るところから」少しずつはじめ、静かにお金の介在した商品から離れていく以外に
道は残されていないのではないでしょうか。
それは、お金に片寄った生活ではなく「お金と心の調和のと
れた社会」を求めて、生活していくことになるのでしょう。
自給生活も、貧困生活も商品から離れていく
ということには変わりはありません。
一方は、自分の力で生活の道を切り開いて行きながら商品から離れ
ていく、もう一方は、自分の力では生活が出来なくなり、食も家も友達も失いながら商品から離れていく
私たちは、どちらかの選択をしなければならない時期に来ています。
経済学や社会学などの学問を学ぶ側に位置する私のような素人が、未来
社会について、思い上がったように述べるなど、大変おこがましい振る
舞いをお許し願います。文明の終盤に現れると言われる、もの言わず、
静かに選択の自由が奪われていくこの世の中で、私がこれまで述べてき
ましたことが、若者たちの選択の幅と形成の幅の一助となれば、無能で
恥知らずの私の努力が少しは報われるのかも知れません。崇高な自給文
化の建設に向けて、出発できるのは、99%の私たちです。
最後に小貫雅男らの著書である「菜園家族21」の中に記載されておりま
ます一部を紹介して終わりにしたいと思います。「人間は、自然の一部
であり、人間そのものが自然であるのです。本当の意味での持続可能な
循環型共生社会とはまさに、人間社会の生成発展を律する原理レベルに
おいて、この壮大な自然界への回帰を成し遂げることにほかなりません」
 

2012410  小 貫 昭 男

社会問題 コンサルタント
代 表 小貫 昭男

Tel 0465-63-4563
静岡県熱海市泉276-86

 
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