社会の仕組みを変える  

ハイブリッド生活の世界

H O M E 
第   一   章 第   三   章
第   二   章 第   四   章
 

●社会改革の問題● 現代社会の問題


2章 ハイブリッド社会
私たちの身の回りに存在するあらゆる生活必需品は、単体で使用されることは、非常に少ないです。
なぜなら、一つの機能(特性)のものを使用するよりは、二つ、三つの機能(特性)を組み合わせて使用
した方が使い勝手が良いからです。人間は、永い時間をかけて、技術改良を行ってきました。ハイブリッ
ド(複合体)製品として、自動車で考えてみましょう。例えば、自動車の重要部品の一つであるタイヤは
ゴム弾性体とさらに弾性を求めてゴム弾性体をチューブ化し、圧縮空気を充填します。それに加えて、強
度や摩耗の少ない金属と組み合わせて、車輪(タイヤ)として使用します。
そうすることによって走行時の振動を軽減することが出来、長時間走行しても快適さを維持することが出
来るようになったのです。車体にしても同様に、金属やプラスチック、ガラス、布、皮、スポンジなど、
それぞれの機能や特性を集合させて製品化しております。エンジン自動車という製品は、1世紀以上に渡
って進化を遂げ、人間の生活にはなくてはならない存在となり、エンジン自動車の普及は私たちの想像を
遙かに超えました。
しかしその結果、CO₂排出という自動車の欠陥は、登場当時としては大きな問題とはな
らなかったのですが、20世紀後半から地球の存続を蝕むほどの欠陥となってしまいました。
  そのことは、21世紀に入って、CO₂を排出しない電気モーター
自動車が注目を浴びることになるのですが、現在の性能や技術的
問題を総合して、エンジンの持つ特性とモーターの持つ特性をハ
イブリッド化して、過渡的な存在としてのハイブリッド自動車が
出現しました。最終的には、社会的要求特性としての環境性、部
品点数、価格などの面で優れた電気モーター自動車の必然的流れ
となるのでしょう。ハイブリッド化(複合化)について、自動車
と同様に人間の生活という側面で見てみましょう。

20世紀初頭にヘンリー・フォードによってT型エンジンの量産
化に成功し、今までの資本本主義とは一味違ったフォーディズム
を創り挙げました。
このフォーディズムの成功は、利益を求めるために都合の良い単一経済の流れでもあったのですが、その
ことは、1章でも述べましたように商品生産経済の、労働をして、賃金を得て、商品を購入して、生活す
る、という商品を介在した労賃生活様式の単一化した流れを加速させ、同時に欲望の自己調整機能を失う
流れでもあったのです。
このようにエンジン自動車の爆発的普及と同時並行して進んできた労賃生活様式は、労賃生活様式の矛盾
を満載して、時代に合わなくなったエンジン自動車と共に、20世紀に発展を遂げ、役目を終える運命を
迎えようとしています。そして、電気モーター自動車と自給生活様式は、新たな形態として、地球に負担
のかからない、自然に熟れ合った社会の仕組みに変えていく、新しい時の流れを創っていくことになるの
ではないかと考えております。この流れは、理想社会を求めているだけではなく、好むと好まざるとに拘
わらず、その流れに乗らなければならないという社会的責任を含んだ、止めてはいけない流れと言えるの
ではないでしょうか。
 
1929年の世界恐慌の原因を、消費が供給に追いつかなかったとして、経済が失速した際は、政府が喚
起しなければならないとし、消費が増えれば雇用が生まれ、経済が好転するというケインズ理論の経済政
策を現政府は追行しているのでしょうが、20世紀の産物と言われるフォーディズムのメカニズムが壊れ
た現在、ケインズ理論は、競争を強く働かさせることとなり、火に油を注ぐようなこととなっております
その答えは、バブル崩壊後の20年間の社会混迷が証明しているのではないでしょうか。

こうした背景に立って、ハイブリッド社会を緊急性と持続可能な社会発展という視点で具体化して述べて
いきたいと思います。
1 ハイブリッド社会の基本的概念
●ハイブリッド社会の目的
資本主義の暴走を抑え、資本主義を平和的に終わらすことの出来る仕組みを創ることです。
●ハイブリッド社会の構成要素
A 農を中心とした生活(食、エネルギー、ケアーを基本とした自給活動)
B 休日の増加(文化的自由時間の確保と自給活動)
C 商品経済におけるワークシェアリング(雇用拡大と自給活動の不足分としての労賃活動)
● ハイブリッド社会の構造
●ハイブリッド社会の概要説明
私たちが今生活しているAエリアの社会が、なぜ混迷をきたしているのか、もう一度検証してみます。
商品から生み出される競争の働きによって商品過剰現象を起こし、1980年代から起こる極端な商品過
剰現象は、フォーディズムと競争原理のジレンマを引き起こし、大量生産、大量消費、大量棄型市場主
義フォーディズムのメカニズム崩壊を誘発することとなりました。

つまり、フォーディズムのメカニズム崩壊は、中産階級の崩壊を含み、貧困層と富裕層の二極化社会を創
ることとなり、賃金減少と消費減少の繰り返しは、経済をマクロ的に捕らえた時、それは経済の収縮の道
であり、バブル崩壊後の社会混迷の大きな要因と考えられております。
経済収縮の根本原因が競争原理の働きに起因しているとするならば、競争を排除しなければならないとい
うことになるのではないでしょうか。それはつまり、競争原理の排除は、商品生産経済の商品の排除を意
味することとなり、資本主義商品生産経済という制度を変えていかなければならないということに繋がり
ます。ではどのようにして、資本主義商品生産経済という制度を変えていかなければならないという問題
になります。一つには、19世紀から20世紀にかけて起こった革命的で急激な変革の仕方があるでしょ
う。
 
もう一つ考えられることは、二つの生活様式が共存した、機能間相互作用による自己調整的で穏やかな社
会変革の方法が考えられます。一つ目の革命的で急激的な社会変革の方法は、今までに行われてきた方法
で、生産手段を共有化し、社会保障のセーフティネットの充実した理念の制度で、それは社会主義制度で
した。一見よさそうではありますが、資本主義商品生産経済の4つの欲望を内存した労賃生活様式と商品
の形態を残したことです。そして権力構造は、国家と官僚の統制支配という意味では、現在のAエリアの
資本主義制度の根本理念と基本的に変わらないということになるのではないでしょうか。国歌統制によっ
て商品生産の競争を弱めることが出来たとしても、以上述べました労賃生活の形態と商品の形態を生活の
中に残しており、資本主義の戦いと社会主義の内部矛盾によって崩壊していったのではないかと考えてお
ります。
短時間に、そして急激に創りだした何々主義という形態の社会は、過去の文化や知的財産をも失い、短時
間に消滅して元の鞘に収まることとなり、今までの歴史が繰り返してきた、単なる権力の入れ替えに過ぎ
ないということになるのではないでしょうか。二つ目の、二つの生活様式の機能間相互作用を働かせた、
自己調整的で穏やかな社会変革は、Aエリアの競争を原理とした商品生産経済の労賃生活様式の中に、高
度経済背長期まで色濃く残されていた、Bエリアの農を中心とした、自分たちの生活は自らの力で生きる
場を創りながら生活するあり方、つまりそれは、協同協調を基調とした、労働をして、生活する、という
自給生活に含まれる三つの機能と社会を持続的に発展させる四つの要素を導入することです。この穏やか
な変革は、二つの機能と機能の相互作用で自己を調整しながら、弁証法的に混迷した社会を変革発展させ
ることとなります。
例えば、現在起きております先進諸国の共通した財政赤字は、社会制
度等を始めとする、あらゆる社会問題の解決を全てお金で解決すると
いうところに問題があります。
お金で何でも解決しようとする、いや
お金でしか解決できない社会の仕組みの中に、基本的にお金を必要と
しない自給生活様式の機能を導入させて、個人や地域が調整をしなが
ら生活をしていくというハイブリッド化した仕組みを創っていくとい
うことです。
もう一つの先進諸国の共通した病気である高失業率は、
商品生産経済の人間を含む商品の生み出す競争によって、最終的には
人間という商品が過剰となってくるということです。こうした中に、
食、エネルギー、ケアーなどを自分たちの力で作って行くという自給
生活を組み込んでいき、ワーク
シェアリングによって失業のない、貧
困に追い込まれた生活がなくなっていくということです。
 
つまり、二つの病気の根本原因は、商品生産経済のお金で何でも解決しようとする社会の仕組みに問題が
あるのではないでしょうか。
以上がハイブリッド社会の基本的な概念で、Aエリアの競争の働きを調整し
つつ、競争で負けた人間をBエリアのヴァナキュラーな生活に立ち戻れることの出来る場を創ることによ
って、人間の安全保障を地域を含めた自分たちの力で確保することが当面の緊急課題となります。
そして
社会を長期的で持続的発展という視点で捉えた時、ハイブリッド社会の中に占めるAエリアとBエリアの
構成割合は、各地域のコミュニティの成熟度、それは4章で詳述しますが、ロバート・パットナムが述べ
ておりますソーシャル・キャピタル「民度」の成熟度に応じて、Aエリアの物質文明を選択するのか、そ
れとも、Bエリアのモラルを重視した文明を選択するのかは、個人や家族の判断でその比率を決めていく
ことになるのでしょう。
ここで述べておかなければならないことは、農を中心とした自給生活
に対する偏見です。
その偏見は、私たちの頭の中に重く刷り込まれて
いるのではないかということです。
ここで述べる農とは、今までのよ
うに、農産物をお金に変えて生活するのでは、Aエリアからの競争の
作用を受け、農は苦しいのだという考え方になります。ですから、農
産物は基本的に自分が食べる分に限ることです。そして、自給生活で
の不足の補給という意味でのワーク
シェアリングによる労賃活動と位置
ずけることが、Bエリアの根本的考え方となります。
 
 
 

自給生活の偏見については後に詳しく述べますが、生産技術は、この1世紀の間に、これまでの歴史に見
られない、相当の発展をしてきたにも関わらず先進諸国が皆同じように、なぜ財政赤字を生み、高失業率
が進み、生活が困窮していくのかという根本的なことを考えることが先決問題で、そうしたことについて
は、なぜか考えようとはしません。私たちは、そうした根本的なことを考えない限り、資本主義の病気と
言われる財政赤字と高失業率の問題は解決されないし、さらに問題は深化していくでしょう。話題を元に
戻します。ハイブリッド社会内でのAエリアとBエリアの選択については、当初は非常に困難な問題が予
想されると思われます。

しかし、フォーディズムを謳歌し、バブル崩壊の手順を踏んだ先進国の経済は、確実に収縮に向かってい
るということは、この20年間の社会状況が示している通りです。
Aエリアという社会生活の中で、もは
や、労賃だけで国民全体が普通の生活が出来なくなっており、収縮経済と自由競争は、モラルの低下とあ
らゆる競争を激化させ、お金(資本)の集中が進んでおります。
この低迷した20年間の中で、大企業や
優良企業と言われる会社の内部留保金は、300兆円とも言われております。
こうした環境の中で国民の
選択は、おのずと決まってくるのではないでしょうか。
今必要なことは、二つの生活様式の内の一つであ
Bエリアのシステムを創り「出来る人が」「出来るところから」何時でも、誰でもが始められるように
することが重要なことであり、そのためのお金は必要ありません。
私たちの意識の問題だけです。違ったアングルからハイブリッド社
会を捉えてみます。
例えば、B エリアで生まれた子供たちが大きく
なって、競争社会のAエリアの中で働きたい、または、いろいろな
仕事をしたい、芸術を磨きたい、お金持ちになって高級車に乗りた
い、別荘を持ちたいなど、いろいろな生き方が生まれてくることで
しょう。
しかし、Aエリアは競争社会ですから、みんなが勝つこと
ばかりではないのです。
負けてもよいのです、若者は経験し、失敗
することも必要なことなのですから。
負けた人たちは、Bエリアに
戻って、自らの手で、大地からの恵みを得て、生きる場を創りなが
ら生活するという、ヴァナキュラーな生活が、人間本来の生活であ
るということが解って来る筈です。
こうしたことを繰り返せない何
々主義は、一つの論理に特化し、短時間に終えるのです。
生活は、誰かに強要されることではないのです。
自分で決めることが大前提です。
最終的には、少なくなっていく資源を競争で勝ち取って、富を得て生活するあり方と、精神的モラルの充
充実や文化的自由を楽しむ生活のあり方、という選択になるのでしょう。現在は、戻るべきBエリアが存
在しないから、いや、存在を失ってしまったから貧困化し、自殺に追い込まれるのです。
ここで勘違いしていけないことは、精神的モラルの充実した生活とは、物質の否定ではないということで
す。大量生産、大量消費、大量棄の堕落した、欲望剥き出しとなった、というより消費中毒となった生
活の否定です。「自給=貧」という概念を刷り込まれているだけです。
話は変わりますが、人間の欲望は、発揮することは簡単なのですが、いざ抑制しようとすれば、外的環境
の中で制限され、拘束を受けながら、永い時間をかけた調整が必要となってくるのではないかと考えられ
ます。そうしたことから鑑みて、私たち国民が罹っている、欲望から派生する消費中毒という病気の治療
も、相当長い時間が必要となってくるのではないでしょうか。また、私たちが今、山や川や海などで山菜
や魚を採りバーベーキュを楽しむのは、私たちの先祖たちが、何百年何千年と繰り返し山や川や海の恵み
を得て生活してきた、そのことがD N Aの中に刻み込まれており、その記憶の蘇りがえりといえるのでは
ないでしょうか。もうこのあたりで、「G D P信仰」という量と速さを競うことから解放されて、文化的
自由時間と質の成長を楽しむ生活に切り替えていく時期なのではないでしょうか。
ここで、歴史の中で、この二つの生活様式がどのように変化してきたのか、簡単に述べておきます。
●江戸時代後半位までは、Bエリアの自給生活の割合が80%位の割合で、Aエリアの労賃生活様式が2
 0%位の割合で存在していたのではないかと考えられます。

●明治に入って、江戸の自給文化を否定し、近代化を目標に商品生産経済が進み、 B エリアの自給生活
 様式の割合が30%~40%位で、Aエリアの労賃生活様式の割合が60%~70%位の割合で存在し
 ていたのではないかと考えられます。

●敗戦後現代に入って、アメリカの経済を目標にさらに商品生産経済は進み、高度経済成長期には、村か
 ら都市への人間の大移動が起こり、Bエリアの割合が10%~20%位まで減少し、Aエリアの割合が
 80%~90%位へと極端に増加していきました。
 
 
AエリアとBエリアの割合については、多少アバウトなところがあるとしても、極端なまでに生活様式が
変わってしまったことについては、疑問のないところではないかと思っております。
2なぜハイブリッドシステムが必要なのか?
ハイブリッドシステムの必要性については、これまでにも述べてきまし
たが、ここでもう少しまとめてみたいと思います。

1)資本主義商品生産経済という社会制度の制度疲労が生じていること資本主義とは、広辞苑によると、封建制度の跡を継ぐ人類社会の生産様
式、商品生産が支配的な生産形態をとっており、あらゆる生産手段と生
活資料とを資本として有する有産階級(資本家階級)が、自己の労働力
以外に売るモノを持たぬ無産階級(労働者階級)から労働力を商品とし
て買い、その価値とそれを使用して生産した商品との差額(剰余価値)
を利益として手に入れるような経済組織、とあります。
つまり、こうし
た商品経済のメカニズムが壊れ、資本主義という文明の老化が起こって
いるということです。後に4章で詳述します。2)商品生産経済の労賃
生活様式という社会形態の中で、欲望を調節する機能が働かなくなって
いることそれは、労賃生活様式に片寄ることで、1章で述べました、
二つの生活様式の機能間相互作用による自己調整機能の働きが衰え、あ
らゆる欲望のみが現われるようになり、資本主義の暴走が起こっている
ということです。
3)バブル崩壊後、経済の収縮現象が起こっていること
経済が収縮していく過程には、大きく別けて2つの必然的要因が考えられます。
一つの要因としては、商品生産経済の内部矛盾から始まる経済の収縮です。
商品の持つ競争の働きによって、商品過剰現象(モノと労働力)を起こします。
それは、フォーディズムのメカニズム崩壊に繋がり、商品生産経済のフォーディズムと競争原理のジレン
マが始まり、経済の収縮が進んでいくプロセスです。

今、私たちは競争の働きを緩和すべき術を失い、黄昏行く文明の行方を、消費中毒患者となって、夢うつ
つの中で生活しているのが現実なのではないかということです。

二つ目の要因は、経済発展とCO₂放出です。つまり、経済を収縮させなければならないという現実です。
70億人という人口が、競って大量生産、大量消費、大量廃棄の生活を
想像すれば理解は早いと思います。私たち先進国だけが許されるという
問題ではないのです。
化石燃料を200年以上も燃やし続けてCO₂を放
出し、地球を破壊しながら経済発展を遂げてきた現在、地球温暖化はゲ
リラ化した天災で人間に警告を発信している。
しかし、人間たちは、経
済を減速するために臆病というより欲望を持って、口先だけの対策しか
取れないでおります。なぜでしょうか、競争を原理とした商品生産経済
CO₂放出という関係は、三つのことが考えられるのではないでしょう
か一つは、競争の働きによる、止めることの出来ない拡大経済主義とC
O
₂ 放出規制の限界二つには、フォーディズムの大量生産、大量消費、
大量廃棄型経済システムとCO₂放出規制の限界
 
三つには、消費中毒文明の異常なまでの宣伝による無駄な消費拡大とCO₂放出規制の限界これらのことは
物質文明の欲望から派生してくる問題なのでしょうが、この地球を健康な状態で将来に送ることが出来な
くなるということは、地球に人間が住めなくなるということになります。解決策は、地球の住人である、
特に先進国の人間が決めなければならないことです。経済の減速は、必須事項であり、それに伴って私た
ちの生活形態も変えていかなければなりません。
 
 
これら経済を収縮させていかなければならない要因の根源は、商品経済の競争が原因となっており、資本
主義の構造的で原理的問題であると言えるのではないでしょうか。そして、競争という競い合いで地球を
破壊してはいけないということを強く述べておかなければなりません。
4)自己防衛しなければならないほど社会が困窮していること
その理由を三つほど述べてみます。
一つは、政治経済が国民のためではなく、大企業のために展開しており、大企業が儲かれば下流にお金が
流れるという、流し素麺トリクルダウン理論が大手を振るうようになってしまったことです。

私たち人間は、お零れを貰うために生まれてきたのではない、ということを強く述べておかなければなり
ません。そして、経済はもともと、私たち国民の生活を豊かにすべき筈のものが、いつの間にか大企業が
儲かれば云々という具合に置き換えられてしまったのです。
二つは、最低限の衣、食、住は、自給で確保しなければ自己防衛できな
くなっているということです。それは、労賃だけでは生活が出来なくな
っているということです。
三つは、フォーディズムの行き詰まりで、貧
困層と富裕層のジニ係数が拡大し「99%と1%」という究極的格差が
進み、貧困のプロセスが出来上がってしまったということです。

ではどのようにして社会の仕組みを変えていけばよいのかということに
なるのですが。先に二つの変革の方法を述べましたので、ここでは、社
会変革の視点を再度確認しておきたいと思います。

●競争の働きを調整するという視点、これは二つの方法が考えられます。
 一つには、先述しました。二つの生活の持つ機能と機能の相互作用によって調整をしていく方法と、も
 一つは、競争を生み出す「商品からの離脱」という原理レベルの視点です。

●弱者に対する安全保障という視点
●勝者の論理で社会の仕組みを変えてはいけないという視点
 こうした視点は、この半世紀の中から充分学んできたことです。
  <経済を縮小しなければならない要因を「年収6割でも週休4日」
という生き方、の著書の中に4つ挙げられておりますので紹介して
おきます>
著者は、社員800人、年商200億円のコンピューターソ
フトウェア販売会社、社長ビル・トッテン氏、米国人で日本に帰化した
方です

A
)エネルギー問題
世界の石油生産量は、2006年にピークに達しており、生産を減少し
なければならない状況にあり、代替えエネルギーへの転換には数十
年はかかると言われている。

B)環境と地球温暖化の問題過去過去200年間化石燃料を燃やしCO
を排出し続けてきた。10年以内に化石燃料の燃やす量を70%減らさ
なければ、人類が如何なることをしようとも、今後1,000年間は、
地球の温度は上がり続ける。

「運動エネルギーの法則」によれば、如何なる活動も、それに必要とされるエネルギーは活動速度の二乗
に比例する。化石燃料の消費量を70%減らすためには、活動速度を約半分に減らさなければならない。
そのために少なくとも今後10年間、経済活動を半分に減らす必要があり、そのためには、日本のGDP
500兆円を250兆円に減らす必要がある。
 
C)金融問題
今、世界の金融業界は、1929年の世界恐慌直前の状態にある。
世界恐慌後、厳しい金融規制を創り、永い間金恐慌は起こらなかった。ここ20年間「金融改革」や「金
融規制緩和」でサブプライム問題が発生、ドルの価値を破壊した。今後ドルは大幅に下落すると言われて
おり、1ドル、50円を予想している人もいる。
d)グローバルの問題
グローバル経済そのものが幻想でありバブルである。グローバル経済は、エネルギー問題、環境問題、
金融問題という危うい3点セットの上に成り立っている砂上の楼閣ある。

これら3点セットのうち一つでも崩れてしまえば、グローバル経済ははじけ、萎んでしまう可能性がある
と述べられております。
以上述べてきましたように、資本主義が成熟し、経済が収縮期にはいったヨーロ
ッパや北欧の国々は、競争原理を弱めなければ、国全体が滅びるのではないかと危機感を抱くようになっ
てきております。
イギリスもサッチャーの市場原理主義の失敗を回復するためブレアの「第三の道」、アンソニー・ディギ
ンズが1990年代に提案した道を模索しております。また、1990年初めに高インフレ、高失業率、
低生産性で欧州最大の病人と言われたオランダはワークシェアリングを成功させ、三方一両損という政労
使の痛み分けを行うことで、1990年後半には奇跡的回復を行いました。900百万人口の北欧スウェ
ーデンは、高負担、高福祉の安心社会を求めて、今のところ成功しているようですが、消費税が25%と
高いにも拘らず財政に陰りが出てきております。
ドイツ、フランスなども、高負担、高福祉の安心社会を求めており、欧州を中心とした国々は、良い悪い
は別問題として、競争社会から共生社会の道を模索しております。
日本も政治やアメリカの市場原理主義の呪縛から解き放たれて、自分たちの力で自主的に生活の出来る社
会を模索すべき時期に来ているのではないでしょうか。明治以来、生産効率を求めて進んできた今日、競
争原理さえ弱めることが出来さえすれば、国民全体が、豊かで文化的自由時間に満ち溢れた社会を想像す
るために、多くのエネルギーを必要しないのではないかということです。
  そして、資本主義の原理上の問題と地球温暖化という二つの問題から派
生する収縮経済の方向は、必然性を含んだ、私たちが歩んでいかなけれ
ばならない方向であるとするならば、「競争社会の呪縛」からの解放、
それは「商品からの離脱」という方向になるのではないでしょうか。

量生産、大量消費の商品経済を育て、高度経済成長を支えてきたのは、
国民の圧倒的背景に支えられて進めてきた自由民主党政権であったのは
間違いのなかったことでしょう。そうした自民党は、政治的色分けから
見た時、保守的政党と言われた政党でした。

今そうした自民党が支えてきた、大量生産、大量消費の商品経済のメカ
ニズムが壊れ、困窮している社会の改革は、国民を含む自民党の力で再
生すべきことなのかも知れませんが、高度経済成長の夢よ、もう一度の
儚い夢を追いかけているだけです。

こうしたことは、国民はよく解っており、私は一度も自民党に投票をしたことはありませんが、支持率が
下がっていくのは当然のことで、商品経済の競争社会で敗けた人間の生きていく場がなくなっていくこと
への国民の答えと言えるのではないでしょうか。

自民党の支持率低下と江戸の自給文化に対する国民の関心の高さとの因果関係は、注目に値する現象と捉
えるべきなのではないかと思っております。
 
 
 
最近、江戸の自給文化についての書物が多くみられるようになってきたのも、国民の関心ごとが変わって
きている現れで、バブル崩壊以前にはあまり見られないことでした。
今まで述べてきました、自給生活と
労賃生活をミックスしたハイブリッド生活システムも、革新的な思想と捉えるべきではなく、どちらかと
言えば保守的思想なのではないかと思っております。保守的思想の強い自民党が積極的に進めてもおかし
くはない、国民と対峙した手法と言えるのでしょうが、保守独特のエゴイズムの塊からの解放と経済成長
のみに頼っている政策は、20年間の事実を見れば解ることで、どの政党にも言えることですが国民から
離れた政治となっていくことでしょう。
企業人は、経済成長を求めて、勝手に東南アジア、アフリカなど未開の
国の低賃金を求めて進めばよいのでしょうし、止めることは出来ません
そして、商品経済のメカニズムが壊れていないと思われる方たちは、企
業人たちと一緒に未開の国へ進んでいけばよいことなのでしょう。
これ
らのことは、1章で述べました商品の持つ特性と言えるのでしょう。

商品経済のメカニズムが壊れていると判断するのか、壊れていないと判
断するのかによって、対策の立て方は大きく違ってきます。何れにして
も、労賃だけで生活が出来なくなっている人口が、どんどん増えてきて
いることだけは間違いのない事実です。そして自給文化は、特別なイデ
オロギーで創り挙げていくということではなく、基本的に個人が自分の
生きる場を求めて、熟成させながら崇高な社会を創り挙げていくもので
はまいかと思っております。つまり、なぜハイブリッドシステムが必要
なのかという答えは、単一化した形態の社会は、一方的な方向に進んで
しまい、最終的には、誰も止められなくなるということです。
 
3商品過剰現象とワークシェアリング
先進諸国特有の不合理性を生み出してしまった国々は、経済が収縮に向かっており、生産管理システムを
含む生産技術の向上で商品過剰現象を起こし、価格競争は激しさを増し、失業率は慢性的に高レベルにあ
ります。そこで、ワークシェアリングの必要性が出てくるのですが、労賃生活の高い割合を維持したまま
でのワークシェアリングの採用は、低賃金となるだけで貧困の道となります。

なぜなら、お金だけで生活する社会形態となっているからです。
食や、エネルギー、医療介護、教育など社会保障制度のセーフティネッ
トなどの自給を進めていく中でのワークシェアリングは、たとえ不況とな
って、低賃金が強いられることがあっても、貧困化は防ぐことが出来る
し、商品生産経済のどうしても防ぐことの出来ない周期的不況は、生活
のハイブリッド化が進むにつれて、原理的に見ても不況は起きにくくな
るのです。それは理屈ではなく、自給生活によって商品から離れること
が出来るからです。例えば、現在の週休2日制を3日制、4日制、5日
制へと「出来る人が」「出来るところから」少しずつ、個人や家族の自
主的判断で計画的に進め、ワークシェアリングが確立されて、ハイブリッ
ド生活の中で、生活の安定と文化的自由時間の確保を行います。
そうすることによって労賃生活様式の4つの欲望を、二つの生活様式の
機能間相互作用で自己調整していく、これがハイブリッド社会の概念で
す。そして、自給生活を具体化するためには、自治体などの自給生活に
対する認識が重要となってきます。
 
自治体と地域コミュニティ、NPO、ボランティアなどが一体化し、協同と協調を基調としたインフラ整備
がまず大事になってきます。インフラ整備とは、自給生活に必要な、例えば、農地の確保、農業指導、農
的法整備、そして労賃を得るためのワークシェアリングの環境整備など、地域のボトムアップによる共同
作業が必要となって来るでしょう。今までのように国からのトップダウン的事業は、無駄と利権の温床と
なるだけですし、上からの指示や統制や支配という思想は、自給文化にはそぐわない思想です。
ワークシェアリングのし易さという観点から言えば、地域産業の育成が重要となり、その地域で何が、ど
の程度必要なのか、どの程度の労働力が必要なのか、どのような技術が必要なのか、今必要なこと、将来
必要となってくるものなど、自治体、地域コミュニティ、NPO、ボランティアなどの計画的策定が必要と
なってくるということです。
そしてその中から、協同や協調が生まれて、自給生活をベースとした労賃を得るためのワークシェアリン
グで、ロスの少ない経済活動と安定した持続可能な社会形態が生まれてくるのでしょう。こうした社会形
態が整えられて来れば、経済の収縮に伴う、例えば、公務員などの賃金削減が強いられることとなったと
しても、賃金を下げるだけではなしに、休日の増加を図り、ワークシェアリングで人員を増やし雇用拡大
を計ります。退職者の代わりに、新人社員を週休3日制、4日制の条件で採用し、例えば、退職者の年収
が1、000万円とした場合、新人社員を200万円位の年収で3~4人採用して、自給のための土地や
家を低利子長期ローンで保証します。
 
 
 
教員の場合は、1学級2~3人の担任制として、ワークシェアリングを条件とし、ボランティア活動と組
組み合わせる。ボランティアは、土地や家などの保証をし、都市部からの希望者を募るのも一つのアイデ
デアーとなるでしょう。医療介護などについても、都市からの新卒者を週休3日制、4日制とワークシェ
アリングを条件に採用活動していくのもよいのではないでしょうか。特に都市部からの退職者を活用した
3世帯同居の低利子長期ローンも有効になってくるのではないでしょうか。ここに挙げただけでも地域の
活性化には大きな存在となります。
これから経済が収縮していく中で、低賃金に苦しむのではなく、ポジティブに物事を考えていくことが今
必要であり、その結果が持続可能な社会創りとなり、希望に満ちた生活となっていくのではないでしょう
か。特に地域に密着されている、地方公務員や、教員、医療介護関係の方々は、自給活動とワークシェア
リングという生活形態のし易い環境が整っていると言えるのではないでしょうか。国や地方が完全に破綻
してからでは、生活環境を立て直すために相当な大きさのエネルギーが必要となってきますし、貧困化が
進むことは、国民の無力化が進むことになります。そして生活をハイブリッド化することは、自然な形で
資本主義の暴走を抑え、平和的に終わらすことの出来る仕組みが出来てくということになるのでしょう。
  こうした原理的な考え方に対して、御用化した識者たちは、「ユートピ
アであるとか」「社会主義であるとか」「現実にできる訳がない」等と
いう言葉を必ず準備しているのが歴史的常で、彼らのエゴイズム以外に
ほかなりません。
しかし現実は、失業が増え貧困が進み、労賃だけでは
生活できなくなっており、識者を始め政治家たちが先を示すことが出来
ないでいるのですから、私たちは、自給で生活を守っていかなければな
らないという、重大な問題を目の前に抱えているのであって、大それた
ことを考えているのではないということです。

4自給生活様式への偏見

私たちの住んでいる社会形態の中には、基本的に二つの生活様式が存在していることについて述べてきました。
一つは、縄文以来続いてきた、自然と大地からの恵みによる、農的生産を基本とした共生的自給生産経済で、数千年にわたって技術的発展をしながら現代まで続いております。
そして、その根本の生活が自給生活として、現在も細々とではありますが続いております。二つは、中世
に入って、手工業、家内工業を経て、近世の江戸後期から工業生産が始まり、明治に入って近代化を求め
て、資本主義の商品生産経済が育成され、労賃生活様式が自給生活様式の中に導入されてきました。
しかし、この当時は、まだまだ自給生活様式が高い比率を占めており、支流的生活でありました。
生活様式の歴史的大転換は、現代に入って、高度経済成長の始まる1960年代の村から都市への人間の
大移動で始まったのではないかと私は位置づけております。そして、江戸末期に来日したプロシア船乗組
員リュードルフが一つの文明の崩壊を予測したのは、今この時点で考えてみれば、単なる偶然の予測では
なかったと言えるのかもしれません。
  また、自給生活様式に存在する、人間生活に最も重要な三つの機能と、
社会を持続的に発展させるために必要な四つの要素を含んだ生活様式を
否定し、偏見の目で見なければならない事実は、見当たらないのではな
いかということです。
これを否定しているのは、お金(資本)を持った
商品生産経済の商品を介した労賃生活の中で、利益を得ようとした人た
ちだったのではないでしょうか。また、その当時来日したチェンバ
レンは「古い日本は、妖精の住む小さくてかわいらしい不思議な国であ
った」と、またアーノルドは「地上で、天国あるいは極楽にもっとも近
づいた国だ」と称賛しております。しかし、そういう言葉に対して、
当時の日本のち記者たちは、反射的に憤慨するか、頭から冷笑するよう
に条件づけられていて、それはそれとして間違っているばかりか、
それ以前に反動的役割を果たしかねないとも「逝きし世の面影」の著者
渡辺恭二氏は述べられております。
 
この当時の日本の社会情勢と言えば、近代化と富国強兵政策と財閥の確立期にあり、資本主義の確立期の
中で、知識人たちの反動的役割も大きな存在として重要視されたことは間違いのなかったことでしょう。
いつの世も、体制側に立つ御用的知識者は存在するもので、体制側の代弁をもっともらしく喋る情けない
人間が存在するものです。最近の出来事で言えば、3,11の原発事故です。事故当時の、あの御用学者
たちの、目に余るまでの「安全神話」は、事ごとく潰されました。

そうした人間たちは、日本人の考え出されたオリジナリティーを評価できなくて、国外で評価されると、
得意になって大声で評価する癖があります。
そして、渡辺恭二氏は「滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を忍ぶには、私たちは異邦人の証明に頼らな
ければならない」と述べられております。ではここで近代化効率化が進み、労賃生活様式の中で生活され
ていた欧米人から見て、当時の自給生活様式が支流であった、江戸後期から明治初期の観察記述を渡辺恭
二著「逝きし世の面影」から私のようなものが大変失礼なことと思いますが、自給生活様式の重要性を意
識した立場ということで、勝手ながらお許しを頂き、若干の解説を( )内に紹介させて頂きます。
●ブスケ(仏人、明治5年来日、政府法律顧問)「日本の労働者は、聡
明で用、活動的で我慢強い、必要なものは持つが余計なものを得よう
とは思わない」「大きな利益のために疲れ果てるまで苦労しようとはし
ない、一つの仕事を早く終えて、もう一つの仕事に取り掛かろうとは決
してしない」つまり、自分の生活に必要なだけ稼げばそれ以上働こうと
しない点で、生産性向上を要求する近代産業には全く不適と評価した。
(西洋の効率を求めた労賃生活様式と江戸・明治初期の文化的自由時間
を求めた自給生活様式との大きな違いに戸惑いを感じて、自給生活様式
の特徴を証言したのではないでしょうか。)
 
「どこかの仕事場に入ってみたまえ、人は煙草をふかし、笑い、喋っている。ときどき斧を振るい、石を
持ち上げ、ついでにどういう風に仕事に取り掛かるかを論じ、それから再び始める。日が落ち、ついに時
時間が来る、さあこれで一日の終わりだ。仕事を休むために常に口実が用意されている、暑さ、寒さ、雨
それから時には祭りだ」つまり人々は、自分の
必要性と自主的な必要とリズムに従って働き、商品生産過
程が要求する効率に支配されていなかったのである。そして、生活は簡素だから、ブスケの言うように「
一家を支えるにはほんの僅かしかいらなかった」。簡素な生活が保障する自主性とは、このように自らが
労働の主人公でありうる自由も含んでいた。(自給生活様式の労働をして、生活する、この生活の過程に
個人が自主的に労働を決める自由を持ち備え、加えて文化的自由時間を生み出す機能が備わっていたとい
うことになるのでしょう)
●オルコック(初代英国駐日公使、安政6年来日)
「まったく日本人は一般的に生活とか、労働をたいへんのんきに考えているらしく、何か物珍しいものを
見るためには、たちどころに大衆が集まってくる」ということは、人々が己の時間の主人公であったこと
を意味するのだろう。
(まさに、労働と生活が一体化した中でしか生まれてこない、時間の主人公を言い
あらわしているのではないでしょうか)

●チェンバレン(英人、明治6年来日、東大言語学教授)
「日本には、貧乏は存在するが、貧困なるものは存在しない」また「貧乏人は金持ちに対して、卑下せず
平等精神がいきわたっている」日本に40年間近く住んだ英国人の言葉である。

(自給生活様式の特徴でもある自主的にものを創って生活している精神的誇りと生活の自信がそうさせて
いるのではないでしょうか)
 
 
●モース(米人、明治10年来日、東大動物学教授)
日本では、「貧は非人間的形態をとらない、貧は人間らしい満ち足りた生活を両立するという意味なのだ
(お金や物に頼らない充実した生活があるのだということを言い表しているのでしょう)
●イライザ・シッドモンド(米人、明治17年よりしばしば来日、旅行記作家)
「日本で貧というとずいぶん貧しい方なのだが、どの文明を見渡してもこれ程僅かな収入でかなりの生活
的安定を手に入れる国民はいない」(欧米人から見れば、モノの少なさに驚くのでしょう、しかし、モラ
ルに対する意欲と自主的で自由を求める成熟度の高い環境が整っていたと言えるのでしょう)
●ヒュースケ(米国人翻訳としてハリスに付き添った、下田玉泉寺アメ
リカ領事館、安政4年の日記より)「今私が愛らしさを覚えている国よ
この進歩は本当にお前のための文明か、この国の人の貧僕な習俗と共に
その飾り気のなさを私は称賛する。この豊かさを見て、いたるところに
満ちている子供たちの楽しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なもの
を見出すことが出来なかった私は、おお、神よ。この幸福な情景が今や
終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込
もうとしているように思えてならない」(縄文以来、永い時間をかけて
自給生活様式のこの上もない自主的で自由な文化を創りあげた崇高なこ
の国に、西洋の4つの欲望を内存した労賃生活様式を持ち込むことへの
ためらいを日記にしたのでしょう)
  ●リュードルフ(プロシア船積荷乗組員、安政2年)下田についた彼は
は一つの文明の崩壊を予感した。
「日本人は、宿命的第一歩を踏み出し
それはちょうど自分の家の基礎石を一個抜き取ったと同じで、やがて全
部の基礎石が崩れ落ちることになるだろう、そして日本人はその残骸の
下に埋没してしまうだろう」この時代の日本の死は、個々の制度や文物
や景観の消滅に止まらぬ、一つの全体的関連としての有機生命、即ち一
つの個性を持った文明の滅亡であった。
(彼の言う日本人の踏み出した宿命的第一歩とは、欧米資本主義商品生産経済の労賃生活様式への第一歩
を言い表しているのでしょう、その予言の的中が21世紀初頭のフォーディズムのメカニズム崩壊による
社会混迷なのではないでしょうか)渡辺恭二氏は、滅んだ古い日本文明のあり日の姿を忍ぶには、私たち
は、異邦人の証明に頼らなければならないと述べております。なぜなら文化人類学は、ある特有なコード
は、その文化に属する人間には意識されにくく、したがって記録されにくいことを教えています。

幕末から明治初期に来日した欧米人は、当時の文明が彼ら自身のそれとはあまりにも異質なものであった
ために、驚きの目を持ってその特質を記述せずにおれなかったと「逝きし世の面影」の中で述べられてお
ります。
(古代から永遠と積み重ねてきて、想像以上の権力からの圧政を受けながらも、江戸末期から明治初期に
開花させた生活様式を含む文化(自給文化)、協同協調を理念とした自給生活様式、それは農を中心とし
た、自分たちの生活は自らの力で生きる場を創りながら生活するあり方、この中には自主的で文化的自由
を求めた、モラルを形成する成熟した土壌が存在していたと言えるのでしょう。
これらを総じて、江戸末期から明治初期に来日した欧米人たちは、日本の国を「古い日本は妖精の住む小
さくてかわいらしい不思議な国」とか「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいた国」と称賛したので
しょう)私は自給生活を主体に据えた「ハイブリッド社会」を描くために、渡辺恭二著の「逝きし世の面
影」に出逢えたことは、大変幸運であり、私の子供の時代の生活実態を持ってしても、自給生活の本当の
意味での描写は難しかったのではないかと思っており、私自身が自給生活に対する自信を確信に変えるこ
との出来た一冊でもありました。
そして20世紀という物質で創り挙げた文明社会の仕組みは終え、21世紀の新しい社会を創っていかな
ければならないという時期に、この「逝きし世の面影」を読まれることは、混迷した世の中と、間違った
情報を正しく理解することが出来、自給生活は貧しいのだという刷り込まれた誤解は、このような素晴ら
しい生活が存在していたのだという考え方に変わっていくことでしょう。
 
 
5「天地雨情の農学」の概念と「菜園家族」構想の概念とヴァナキュラーな生活の概念との相関性
農業が生産するのは、食べ物だけではなく、自然だけでなく、精神世界を含み、農が生みだす金にならな
いもの(自然、文化、地域…)は、輸入できない、自給しかないとする。

農地も地域社会も自然環境も文化も過去からの「贈りモノ」であり、未来への「送りモノ」である、自分
たちの欲望だけに消費してはならないとする。しかし、現代は農業を近代化が苦役労働から解放したので
あれば、近代化を批判したりはしない。農業を近代化のみで捉えるから、楽しい労働も重労働になるとす
る。自然破壊のほとんどは近代化が人間の欲望達成によるもので、生産性を上げる産業の近代化は、圧倒
的な国民の支持を追い風にして、農村の風景を壊し続けたとする。
現代の倫理観の喪失は、金にならない仕事への眼差しを失った社会の当然の帰結であるとする。
農業の意義と農業の持つ計り知れないスケールの大きさと未来に送らなければならない大地の破壊を近代
化という人間の欲望達成のために、あってはならないことをしてしまっていると「天地雨情の農学」の著
者、宇根豊氏は述べられております。現代社会の倫理観の喪失、社会の混迷は、金にならない仕事への眼
差しを失った社会の帰結とする宇根豊氏の概念。資本主義の後の新しい進路を見据えた小貫雅男らの「菜
園家族」構想。それはつまり、農作物を商品としてではなく、3世代家族の協同と協調を理念とした自給
生活の農として、そして自給の補足としてのワークシェアリングによる労賃活動をベースとして、その中
で文化的自由時間を確保していくという概念。
そして、イヴァン・イリイチの言う、自分たちの生活は自らの力によって生きる場を創りながら生活する
あり方の概念。これら共通した概念は、農を中心として協同協調を理念とした、自主的で自由な生活を創
り挙げていくことを基調としており、近代化と商業主義による大地の破壊と人間の精神破壊への憂いに対
する思いと言えるのではないでしょうか。
6ヴァナキュラーな側面から捉えた自由と自主性
商品生産経済において、商品を自由に選択するのが自由であるのなら、江戸末期から明治初期の古い日本
にはそのような自主性はなかった。古いその当時の日本の自由と自主性は、人々が協同と協調の交わりの
中で、自分たちの生活を創造的に形成していく自主性であり、自由であった。そうした自由とか自主性と
かは協同と協調の環境の中で人間と自然の融合から生まれるものであるから、そこには他の人間との意見
意志の違いの中で今までとは違った生活が生まれてきたり、互いに調整されて独創的なものが出現された
りするものです。そして、協同とか協調の中から生まれた自由とか自主性の中には、一定の制限や拘束も
当然含まれているのであると渡辺恭二氏は「コモンズが支えた平等」の中で述べられております。
また小貫雅男らの「菜園家族」構想は、人間の尊厳回復を自給に求めております。1章で述べましたよう
に、私たち人間は、商品経済の中で商品化され、モノ扱いにされてしまったということです。それは、人
間は商品経済の中で労働力という商品を売って生活しているのですから、扱われるという自由は持ち備え
られているのですが、何処かへ行きたいとか、誰かに扱ってもらいたいとかという能動的意思は持ち備え
られてはいなく、自主的行動は出来ないということになるのです。こうしたことが、人間が人間でなくな
ったと言われる所以で、人間の尊厳喪失ということになるのではないでしょうか。人間は商品なのですか
ら、モノと同様に市場で競りに掛けられ、価格が決められ、売られていくのです。
そして最終的には、「99%と1%」という究極的格差社会が出来てしまうということです。
ここまで人間が商品化され、歪められた社会は、19世紀まで存在した奴隷制時代の人身売買の構図と全
く同じと言えるのではないでしょうか。ただそこには、人権が存在したか、しなかったかという違いが法
の下に存在しただけで、奴隷には無関係な存在でしかなかったのです。
 
 
そして現代においては、大量生産、大量消費という商品経済の大量の商品に希釈され、消費中毒という夢
遊病者となって、人間の尊厳を失っているということにも気が付かなくなっているということです。

「菜園家族」構想が自給に求めた人間の尊厳回復とか「コモンズへの接近が支えた平等」で述べられてい
る、協同と協調の環境における自由とか自主性は、二つの生活様式のうちの一つである、農を中心とした
自給生活の人間の根本的生活の中、つまり、基本的に商品の介在の薄い生活形態の中にしか存在しないと
いうことになるのではないでしょうか。そして、そうした自由とか自主性とかは、時代の転換期にはどう
しても考えておかなければならないことなのでしょう。
 

社会問題 コンサルタント
代 表 小貫 昭男

Tel 0465-63-4563

静岡県熱海市泉276-86

 

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