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元・従軍慰安婦達が慰安婦となった経緯を確認すると共に、その証言の信憑性を検証するブログです
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◆◆◆ ジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O'Herne) ◆◆◆


※「ジャンヌ・オヘルネ」と表記されている場合もあり


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

オランダ人。オーストラリア在住。
1923年に当時のオランダ領東インド(現インドネシア、ジャワ島)に生まれる。1942年3月、19歳の時に日本軍にアンバラワの収容所に入れられ、2年後の1944年2月にスマランで慰安婦生活を強いられる。3ヶ月後に解放されてボゴールの収容所に入れられ、次に送られたクラマットの収容所で終戦を迎える。

2002年6月に、戦時下における人権や女性の権利を保障するために行った国際的な貢献を称えられてオーストラリア2等勲章を授与される。
2007.2.15米国下院外務委員会アジア太平洋環境小委の「慰安婦聴聞会」にて李容洙、金君子らと共に証言を行う。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

日本軍の収容所からトラックにて慰安所に移される。


【考察】

同女の証言は、インドネシアで行われた「白馬(シロウマ)事件(スマラン事件とも言う)」の話に間違いありません。
「白馬事件」とは、スマラン市内にあった日本軍の幹部候補生隊が17才以上のオランダ人女性を収容所から連行して、スマラン市内に4つの慰安所を開設したものです。開設の2ヶ月後、日本から抑留者の視察にやってきた大佐がこの事実を知ってジャカルタの第一六軍司令部に報告、ただちに慰安所は閉鎖されました。また、この「白馬事件」は、戦後の1948年に女性たちの告発によりBC級裁判の法廷で裁かれ、死刑を含む11名の有罪者を出しており(有罪者の中には軍人の他に慰安所を経営していた日本人業者も含まれていた)、法廷では慰安婦にされた35名のうち25名が強制だったと認定されました。

この事件は、裁判後、長い間、一般には知られていなかったのですが、1992年7月に朝日新聞がオランダに残っているこの戦争犯罪法廷関係の記録を基に報道したことにより、日本でも広く知られるようになりました。

なお、1994年のオランダ政府報告書では、オランダ領インドネシア各地の慰安所で働いていた200~300人の白人女性のうち少なくとも65人を強制売春の犠牲者だと判定しています。(逆に言えば、高額の報酬で慰安婦になることに同意した者もいたということ) 。


下記資料を見ると、2つの中央日報の記事は、意図的な歪曲と捏造に満ち満ちています。オハーンさん本人が書いた書籍と比べてみるとそれは、あまりにも明白です。

《2007.2.9》中央日報
「2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。」
 
 → オハーンさんが慰安婦を強要されたのはスマランでの3ヶ月のみで、それ以外の、ボゴールを含む収容所にいた時に強姦や性交渉を強要されたという証言はありません。むしろ、ボゴールでは強姦未遂事件を起こした日本人衛兵が、収容された人達の前で拳銃自殺を強要されています。また、ボゴールに来た女性100人は慰安所から解放されきた人達です。
「スマラン」を出すと、既にBC級裁判で裁かれた内容だと分かってしまう為、意図的にボゴールに変更したのでしょうか。それとも、単なる勘違いでしょうか。

《2007.2.16》中央日報
「19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。彼は刀を抜いて"殺す”と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。オハーンさんは「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。」

→ 記事では、「収容所に入れられた」の後にオハーンさんの「その日の夜」という言葉を持ってきて、「収容所に入れられた夜に強姦された」と誤読するように仕組まれています。実際には、収容所に入れられた2年後に慰安所に入れられたのであって、それまで強姦はなされていません。
さらに、記事では、その慰安婦生活が「3年半」続いたかのように錯覚させる文章になっています。3年半はあくまで収容所生活も含めた期間であって、慰安所生活は3ヶ月のみです。

意図的に誤読するように仕組まれた卑怯な歪曲文章と言わざるを得ません。


【信憑性】

白馬事件を報道したのが朝日新聞で、裁判がBC級裁判、そして、朝日新聞の報道(1992.7)と同女の証言開始時期(1992年)が一致していることを考えると、若干怪しさを感じなくもないですが、現段階では信憑性ありとしたいと思います。

なお、同女の証言内容は、既にBC級裁判で死刑1名、懲役刑10名の判決が下され裁かれているものであり、また、同女の証言により国際社会が新たに知った事実というわけでもありません(忘れられていましたが)。
少なくとも、韓国の元・従軍慰安婦達の証言と同列に扱うべきではないでしょう。

-------------------以下、2007.6.17追加-------------------
<ご参考>
「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦・新潮選書)には、上記BC級裁判で死刑となった人物の手記が掲載されていますので、参考として引用します。

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 さて、この白馬事件の実態を知るには被告側の言い分も聞いておく必要があろうが、死刑になった岡田慶治少佐は「青壮日記」と題した獄中手記を残している。日中戦争期の戦場体験から書き起こした半自伝だが、事件について次のように書いている。

 将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり……その彼女たちが告訴している。それも嘘八百を並べて……時勢が変わったので我々に協力していたことになっては彼女達の立場がないのかと想像……起訴状を見ると首謀者にされている……「そうか飼犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない」と覚悟した……敵の銃口の前に立って、日本軍人の死に態を見せてやることではなかろうか。

 開き直ったとも思えそうな論旨だが、それなりの情状は存在したようである。
 岡田手記によると、発端は、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうとする構想を聞いた能崎少将が、内務官僚出身の宮野スマラン州長官に話をつけ、上官の池田大佐、大久保大佐から命じられて実施面を担当させられたのだという。
 個々の選定にはタッチせず、将校クラブが開館する前々夜に集まった女性と初顔合わせして色々な注文を聞き入れてやったので「(彼女たちは)とても朗らかで若い将校と心中でもしてくれなければいいがと、心配しているくらいです」と視察に来た参謀へ報告したという。(P.220)
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なお、この岡田慶治少佐が関わった慰安所は、ジャン・ラフ・オハーンが入れられた慰安所とは別のようです。
-------------------以上、2007.6.17追加-------------------


【資料等】
年月 資料名等 著者 出版社
内 容 等
1993.5 アジアの声 第7集
世界に問われる日本の戦後処理①
「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録
国際公聴会実行委員会 東方出版
 私の名前はジャンヌ・オヘルネです。オランダ人です。一九四二年、私が一九歳の時、オランダ領東インドを侵略した日本軍によってジャワにある捕虜収容所に入れられました。第二次世界大戦中、三年半にわたって日本の捕虜収容所で生活させられました。~(中略)~
 私は最初、アンバラワ収容所に、母と二人の妹といっしょに入れられました。約二年間そこにいました。一九四四年二月のことでした。収容所の重労働から戻る途中でした。突然収容所が騒がしくなりました。日本の軍人たちが大勢トラックで到着したのです。最初、点呼のために呼び出されるのだと思いました。しかしそうではなく、「一七歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。私たちはこの命令に不吉な感じを受け、何か変だと疑わしい気持ちになりました。「あなたもそうよ、ジャンヌ」、母が言いました。その声は震え、目は恐怖に満ちていました。
 収容所全体が恐怖ですっぽり包まれ、中には隠れようとする少女もいました。私たちは長い列に並ばされ、何人もの軍人が列に向かって歩いてくるのを見て、怖くて震えました。軍人たちの顔つきに不吉な予感がしました。上から下までじろじろ見て、お互いに笑ったり、私たちの誰かを指さしたりしていました。若い私たちはおびえ、うなだれ、顔を上げる勇気もなくそこに立っていました。日本人は列にそってゆっくり歩きながら、時々、私たちの顔を見るため無理やりあごをあげさせました。
 彼らは歩きながら、にやにや笑ったり、指をさしたり、私たちの体に触ったりしました。何か話し合った後、半分が帰ってよいと言われました。私は長い列に残されたままでした。恐ろしさで体全体が震えていました。そこからまた誰にするか選び、最後に十人の少女が前に出ろと言われました。その他の少女たちは心配する母親の元に帰ってゆきました。私は残った十人の内の一人でした。
 女性たちの泣き声や叫び声が聞こえてきました。勇敢に日本人にはむかい、私たちを取り戻そうとしているのです。
通訳を通して、所持品を一つのバッグに詰めて、ただちに正門に集まるよう言われました。そこには私たちを連れて行くトラックが待っていました。詳しいことは何も聞かされませんでした。少女たちと母親たち、収容所にいる全ての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声、泣き声に包まれました。
 しかしすべては無駄でした。凶暴な敵の前に押え付けられ、力なく従うしかない私たちは、まるで屠殺場に連れて行かれる羊のようでした。わずかな荷物を詰めている間も監視の目は続きました。私は聖書、祈祷書、十字架を鞄に入れました。その時、私にとってこれらが一番大事に思えたからです。私を守って強くしてくれる武器のように思えました。
 看守に付き添われ、私たちは正門へ行きました。そこでそれぞれ母親や家族に別れを告げました。母と私は言葉もなく、ただお互いの目を見て抱き合いました。その瞬間、二人は互いの腕に抱かれたまま、まるで死んでしまっているように感じられました。
 みんな泣きながら無理やりトラックに入れられました。六人の少女が、新たに私たちのみじめなグループに加えられました。結局一六人の少女が、不本意にもアンバラワ収容所から連れてゆかれたのです。
 私たち一六人は、恐怖におののく動物のように、かたまってうずくまりました。どこに連れて行かれるのか想像もつきません。
 しばらくして、セマランへ通じる幹線道路を走っていることが分かりました。市街地近く来ると、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入りました。トラックは一軒の大きな家の前で止まりました。七人が降りろと言われました。私もその一人でした。連れてこられた家がどんな目的で使われているのか、その後すぐに分かりました。一人ひとりに部屋があてがわれました。その夜、私も他の少女たちも眠ることができなかったので、みんなで大きなベッドに集まり、恐怖の中で抱き合って、祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。
 次の日、多くの日本人が家にやって来て、私たちは居間に呼ばれました。日本人の性の慰みのためにここにいるのだと、彼らは説明しました。つまり売春宿に連れてこられたのです。いつでも彼らの言う通りに従わなければならず、家から出ることは許されませんでした。事実、家は監視されていて、逃げようとしても無駄でした。私たちがこの家にいる目的はただ一つ、日本人のセックスの相手をすることです。強制売春の奴隷にされたのです。(P.80~83)

(※2007.7.27 追加)
1993.7 写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち 伊藤孝司 風媒社
 私はオランダ人です。私が19歳だった1942年、オランダ領東インドを侵略した日本軍によって、ジャワにある捕虜収容所に入れられました。収容所には3年半いたのです。最初、アンバラワ収容所にお母さんと2人の妹と一緒に入れられ、ここに約2年間いました。
 1944年2月のことでした。大勢の日本の軍人たちがトラックで到着したので、収容所が騒がしくなりました。「点呼のために呼び出されるのだ」と思いましたがそうではなく、「17歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。
 収容所全体が恐怖で包まれ、隠れようとする少女もいました。並ばされた私たちは、何人もの軍人が列に向かって歩いて来るのを見て怖くて震えました。~(中略)~
 少女たちと母親たち、収容所にいるすべての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声・泣き声に包まれました。しかし、敵の前には従うしかありませんでした。私は聖書・祈祷書・十字架を鞄に入れました。その時、これらが私を守ってくれる武器のように思えたからです。6人の少女が加えられ、結局16人が無理やりトラックに入れられました。
 トラックは、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入り、大きな家の前に止まりました。私を含む7人が降りろと言われました。そして、1人ひとりに部屋があてがわれました。その夜、私たちは恐怖の中で抱き合って、祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。
 次の日、やって来た日本人が「日本人の性の慰みのためにここにいるのだ」と私たちに説明しました。私たちは強制売春の奴隷にされたのです。私は恐怖で全身が震え、足元が崩れ落ちていくように感じられました。「こんな人権をまったく無視したことは絶対許されない。それなら死んだほうがました」と大声で抗議しました。日本人は笑いながら「もし命令に従わなければ家族が面倒なことに巻き込まれる」と脅したのです。(P.141~142)

(※2007.4.24追加)
1999.3 オランダ人「慰安婦」ジャンの物語 ジャン・ラフ・オハーン 木犀社
1942年3月1日、日本軍がジャワに侵攻してきたとき、わたしは19歳でした。~(中略)~荷造りをして、収容所へ向かう準備をせよとのことでした。(P.50~52)
あれは1944年2月のことです。~(中略)~わたしたちのみじめな一団に、別の六人が加わりました。合計十六人の娘が意に反してアンバラワの収容所から無理やり連れだされたのです。(P.79~87)
つぎの日、日本人将校が館にやってきて、わたしたちは全員居間に呼ばれました。~(中略)~彼らがわたしたちにわからせたのはこうです。-おまえたちをこの館に置く目的はただひとつ、日本人将校の性の楽しみのためだ。日本軍人がおまえたちとセックスできるようにだ。おまえたちはつねにおとなしくいうことをきくべし。館を、要するに娼館を出ることはまかりならぬ。館は四六時中見張られているので、逃げようとしても無駄だ-(P.95)
どれほどのあいだ、わたしたちはスマランの娼館にいたのでしょう?正確にはおぼえていませんが、少なくとも三ヵ月はいました。~(中略)~わたしたちのもとに位の高い軍人がおおぜいやってきて、事務室では、怒号の飛びかう言い争いが続きました。突然、わたしたちは荷物をまとめて退去するよう命じられました。(P.125~127)
2002.6.12 人民網「オランダ人「慰安婦」が豪州AOを受勲」 ***** ****
1942年19歳の時に日本軍に連行され、「慰安婦」として売春を強いられた。
2007.2.9 中央日報「日本の従軍慰安婦に連行されたオランダ人女性が証人に」 ***** ****
日本軍は4ヵ月後(※1941年12月の4ヶ月後(管理人))、ジャワを占領し、ヤーンさんの家族を含むオランダ人たちを収容所に入れた。そして、2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。

ヤーンさんは2001年、オーストラリアABC放送とのインタビューで「あのとき、私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」と回想した。ヤーンさんらはそのとき、日本式の名前を1人ずつ与えられた。ヤーンさんには何かの花の名前が付けられたが、記憶から消してしまった。彼女は過去を隠して暮らした時代、花が嫌いだった。慰安婦生活を思い浮かべるからだ。英語が分からなかった2人の娘に、誕生日のプレゼントとして花をくれると言われても素直に笑えなかった。ヤーンさんは慰安所に入ってから少し立って髪の毛をすべて刈ってしまった。「はげ頭のように見えれば日本軍が嫌やがるだろう」と思ったからだ。しかし日本軍はそんな姿にもっと好奇心を感じたようだと彼女はABC放送で明らかにした。それとともに「あのときのあの恐怖を絶対忘れることができない」と話した。


(※管理人注)「私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」とあるが、「ジュネーブ条約」の誤訳であろう。

○ジュネーブ協定・・・第一次インドシナ戦争を終結させるための終戦協定。1954年に締結。
○ジュネーブ条約・・・戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約。1864年締結。)
2007.2.16 中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」 ***** ****
19歳だった42年、日本軍がインドネシアを占領した後、収容所に入れられた。オハーンさんは「その日の夜、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。彼は刀を抜いて"殺す”と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」と身震いしながら話した。オハーンさんは「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と語った。
2007.3.10 産経新聞「オランダ女性の事例 末端将兵の行為 厳罰ずみ」 ***** ****
 米国議会の一部やニューヨーク・タイムズが「慰安婦」非難で日本軍の強制徴用の最大例として強調するオランダ人女性のケースは実際には日本軍上層部の方針に逆らった末端の将兵が勝手に連行し、その違法行為が発覚してすぐ日本軍自身により停止されていた事実が明らかとなった。しかもこの違法の性的徴用の責任者たちは戦後の軍事裁判で死刑を含む厳刑に処されており、今回の日本非難はすでに責任のとられた案件の蒸し返しとなっている。 

 8日付のニューヨーク・タイムズは日本の慰安婦問題を安倍晋三首相がそのすべてを否定したかのような表現でまた報じたが、そのなかでオランダ人の元慰安婦だったというジャン・ラフ・オハーンさん(84)の「インドネシアの抑留所にいた1944年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」という証言をとくに強調した。同紙はオハーンさんの2月15日の米下院外交委員会公聴会での証言を引用しており、「日本政府からの公式の謝罪が最重要」と述べたとして、日本軍が組織的に総数20万人もの女性を強制徴用したという糾弾の最大の根拠としている。

 ところが慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた「スマラン慰安所事件」の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた。オハーンさんは同公聴会で日本側が責任をとることを求めたが、責任者は60年近く前にすでに罰せられたわけだ。

 日本政府には批判的な立場から慰安婦問題を研究した吉見義明氏も著書「従軍慰安婦」のなかでオランダ政府の報告書などを根拠にスマラン慰安所事件の詳細を記述している。同記述では、オハーンさんらオランダ女性を連行したのはジャワの日本軍の南方軍幹部候補生隊の一部将校で、
(1)軍司令部は慰安所では自由意思の者だけ雇うようはっきり指示していたが、同将校たちはその指示を無視した
(2)連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させた
(3)同慰安所が存在したのは2カ月だった
(4)主犯格とされた将校は戦後、日本に帰っていたが、オランダ側の追及を知り、軍法会議の終了前に自殺した?などという点が明記されている。

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(以下、管理人)

上記記事によると、同女は戦後の軍法会議の有力な証人になったことになっている。しかし、情報の出所が不明確であり、裏取りもせずに信じるには躊躇する内容である。

同女の自伝的書籍である「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」(ジャン・ラフ・オハーン、木犀社、1999.3)には、以下の通りの記述がある。

「トムは、日本のこの戦争犯罪を報告することが肝心だと考え、わたしをイギリス軍警察本部にある軍当局の上層部へ連れていきました。わたしは当局に自分の話を語りましたが、それっきり何も聞かされることはありませんでした」(P.155~156)

この同女の話が該当の軍法会議の証拠として使用されたか否かは不明であるが、少なくとも、積極的に法廷に立って証言したわけではないようである。(あくまで同女の証言を信じるという前提ではあるが)


ちなみに、Wikipediaにも以下の通り記載されており、同女が軍事法廷で証言したことになっている。

「戦後スマラン事件の軍事裁判で被害者の一人として証人と証言し彼女が慰安婦にされた事は軍事法廷が認定している(従軍慰安婦 吉見義明 岩波書店 1995) 」

しかし、根拠として提示されている書籍を確認してみたところ、同女が軍事裁判で証言したとの記載はない。
ただし、以下の記述がある。

「オフェルネとプローグの証言は事件後ほぼ五〇年たってからのものである。この証言内容は、いくつかのくいちがいをのぞけば、敗戦直後になされた裁判での証言とおどろくほど共通している。」(P184)

恐らく、「オフェルネ(※同女のこと)の証言」と別人がした「裁判での証言」の双方を同女の証言であると誤読したのではないかと思われる。


(※2007.8.15 追加)


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