10月13日、10時12分、電話あるも全く同じで「変わりなし」とのこと。
<包括支援課より帰宅願望時のアセスメント>
帰宅願望があった場合は「どこに帰りたいのか」をアセスメントしてくださいとの依頼がありました。*「どこに帰りたいのか」を聞くのではなくあくまで本人側に帰宅願望があった時にアセスメントするようお願い致します。
(自宅に居ても、利用していた施設に居ても、時には田舎(岩手)だと思っている事もしばしばあるのに、方言のニュアンスも理解して貰えてないのに・・・一生懸命訴えても誰にも理解して貰えない事はどんなにか苦しく、そのストレスは私の何十倍だったかと思うと苦しくてならない)
<再確認 措置入所 後藤様 市への報告>
毎朝9時30分に包括支援課より様子確認の電話が来ます。
職員は朝礼時か9時15分までに課長代理または事務職員に状況の報告を電話でお願いします、と書いてあります。(包括支援課までは毎日正しい報告が来ていたようだが、それとは全く違った報告が私には来ていた。)
介護記録には、朝7時には37,3度、9時にはKT37,3度 昨夜も浅眠、又は不眠と思われる。夕食も半分くらいの摂取だった、と書いてある。
*母の自宅での1日は
朝5時30分頃に起きる。夜は睡眠を第一に考えオムツとパッドを使用しオムツ交換はしない。(私が寝る前にトイレ誘導またはパットを交換する)
陰部洗浄をし、リハビリパンツとパッドに変え、更衣をし、4点杖または歩行器を使い見守り歩行にてトイレ介助をする。調子が悪い時には手引き歩行にて行う。
そのまま洗面所に誘導して、うがい後義歯を入れ、おしぼりタオルを絞って顔を拭き、鏡を見ながら髪をとかす。(時々水油をつけながら)
部屋に戻り母のテーブルとイスを用意してテレビをつけ、食事の支度が出来るまで低カロリーのスポーツドリンクや、野菜ジュースを飲んでいてもらう。
朝食は、主食がご飯、お粥、パンとその日母が食べたいものをなるべく用意するようにして、糖尿があるので(食事療法のみ)炭水化物は控えめにし、たんぱく質、野菜、水分などに気を付けカロリーを計算し、1100~1300キロカロリー位にしていた。(母は田舎に居た時から本当に酷い便秘症で家に来てから、食事、水分、なるべく決まった時間にゆっくりトイレに座るなどを心がけ、ほぼ毎日のお通じがみられるまで半年もかかったのです)
朝食後は義歯を洗ったり洗わなかったりで、ベッドで少し休み、10時頃お茶や牛乳、コーヒーなどの水分補給をする。その前後に本人の希望でトイレ介助を行う。昼までは日記をつけたり本を読んだり、時代劇を見たりして過ごします。
昼食前後も本人の希望でトイレ介助(午前中は3回くらい)、昼食は麺類や時には散歩がてらファミレスや、ファーストフードの時もありました。その時はゲームセンターでモグラたたき等をして水戸にいる母の弟に写メを送ったり、車いすを降りて歩いたりすることもたびたびありました。(4点杖で50メートルくらいは、突然連れ去られる直前まで歩いていたのです。
散歩に出た時にはスーパーで自分の好きなおやつを買い、仲良しの果物屋さん(私が20歳の時から知っている)と他愛もないおしゃべりをし、一緒に写真を撮ってもらい、帰るときには車いすの母の膝の上にはいつもプレゼントの果物が置かれていました。
髪も毎月1回は私がパーマをかけた後近くのご夫婦で営んでいる床屋さんに行ってカットをしてもらっていました。やはり東北の方で、良く話をしてくれてカットしてシャンプーした後は肩のマッサージや顔のマッサージ、顔そり、耳掃除などもしてもらい「この年になって初めての事だ」と喜んで帰りには又、飴や缶ジュースをいただきました。
パーキンソン症候群があったため病院にも月1回は診察と薬を頂きに、2~3か月に1回は血液、尿検査をするようにとの医師の指示があり検査していただいていたおかげで糖尿のA1Cも、腎臓などの機能も、特に異状なく過ごせていました。そしてまた帰りには、食事用エプロンや、軽い食器、おしぼりなどを持ってファミレスに行き、自分ですきなものを食べ、最後は甘いデザートでにっこりでした。何処に行ってもお店の方がスペースを用意してくれたり、何度も行くうちに顔を覚えて声掛けしてもらったりと楽しそうでした。時には洋服を見に行き、鏡の前で当ててみて「可愛いね」等と言いながらやはりお店の人と話しながらの買い物も何度もしました。
外出から帰ったらトイレを済ませ昼休み。(農家では今も昼食後は昼寝をします)夕方5時、水戸黄門が終わったらトイレを済ませ大好きなお風呂です。自分で出来る事は見守り、難しい事は介助です。
入浴後は糖尿があるので足の指の間をドライヤーで良く乾かし、アルコール綿で拭き、腰が曲がっている為に臍のあたりが痒くなるのでやはりドライヤーで良く乾かし、食事までの間ベッドで少し休みます。
夕食は主人が帰ってから私達の間に母のテーブルを用意し、みな見えるところで同じものを食べていました。(田舎では母は一人で別の部屋で食べていた)
21時前後迄テレビを見ながら話をしたり、親戚や母の友人に電話をしたりしていました。たまに21時を過ぎるとスーパーが安くなるので、息抜きがてら私が出かけて帰ってみるとなんと23時過ぎても二人で喋っていることも珍しくはありませんでした。21時頃にベッドに入った日は0時頃に一度パッドを交換していた為、夜中に起こすことはありませんでした。その時の母は、自分は寝たかったが主人に付き合ってあげた、とよく笑いながら言っていました。
母の日々の生活はこんな感じでした。