被曝 一九九九年九月三〇日 夏が終わったにもかかわらず、強い日差しが照りつけていた。暑い一日になりそうだった。 茨城県東海村の核燃料加工施設「ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所」は東海村と那珂町との境の国道六号線から少し入ったところにある。一五ヘクタールあまりの敷地の周囲には飲食店や民家が点在している。このJCO東海事業所に作業員として勤める大内久は、いつもどおり午前七時に職場に出勤した。 大内は三五歳。妻と小学三年生になる息子がいる。息子の小学校入学にあわせて実家の敷地に家を新築し、家族三人で暮らしていた。 几帳面な性格の大内は毎日午前六時には起きて、六時四〇分に家を出た。一日一箱のたばこを吸い、午後五時過ぎに帰宅したあと、焼酎の水割りを二杯ほど飲んで、九時には寝る。それが大内の日常だった。 一九九九年九月三〇日。この日も、そうしたいつもと変わらない一日になるはずだった。 この日、大内は午前一〇時に事業所内の転換試験棟という建物で作業を始めた。核燃料サイクル開発機構の高速実験炉「常陽」で使うウラン燃料の加工作業だった。 大内にとって、転換試験棟での作業は初めてだった。上司と同僚の三人で九月一〇日から作業に当たってきて、いよいよ仕上げの段階に来ていた。大内は最初、上司の指示に従い、ステンレス製のバケツの中で溶かしたウラン溶液をヌッチェとよばれる濾過器で濾過していた。上司と同僚は濾過した溶液を「沈殿槽」という大型の容器に移し替えていた。上司はハンドホールとよばれる覗き窓のようになった穴にロウトを差し込んで支え、同僚がステンレス製のビーカーでウラン溶液を流し込んだ。濾過の作業を終えた大内は上司と交代し、ロウトを支える作業を受け持った。 バケツで七杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し込み始めたとき、大内はパシッという音とともに青い光を見た。臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線のなかでももっともエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。 被曝したのだった。 午前一〇時三五分、放射線が出たことを知らせるエリアモニターのサイレンが事業所内に鳴り響いた。 「逃げろ!」 別室に移っていた上司が叫んだ。大内は急いでその場を離れ、放射線管理区域の外にある更衣室に逃げ込んだ。と、その直後、突然嘔吐し、意識を失った……。 そのころ、東京大学医学部教授・前川和彦は東京駅へ向かう列車の中にいた。前川はこの前日、新潟県柏崎市で開かれた「緊急被ばく医療に係わる情報交換会」に出席していた。東京電力柏崎・刈羽原子力発電所の関係者と地元の医療関係者、それに消防本部が、放射線事故で被曝した患者が出た場合の対応について話し合う会合だった。 前川の専門は救急医療だ。救急医療は医療関係者の間でも「ヤクザな現場」とされる。心臓病、脳卒中、けが。さまざまな症状で突然運び込まれてくる患者たち。心臓が止まった状態で運び込まれる患者も大勢いる。その現場で三〇年以上にわたって治療に当たってきた。教授になったいまでも痩身に白衣をまとって毎日病棟の回診を欠かさない。眼鏡の奥の鋭い双眸が患者に接するときにはやさしい光をたたえる。意識のない患者でもそれは変わらない。 現場第一を主義に医師として生活を送ってきた前川には、最近まで原子力との接点はなかった。そんな前川が柏崎での会議に出席したのは、原子力安全研究協会被ばく医療対策専門委員会の委員長を務めていたからだ。前川にとってはまったく畑違いの仕事だったが、原子力安全委員で、東京大学医学部放射線健康管理学講座教授だった青木芳朗からの依頼を断りきれず、二年前に原子力関連のさまざまな役職を引き継いだのだ。青木は「放射線被曝患者が最初に運び込まれるのは救急医療機関なのだから、君も被曝医療に関わるべきではないか」と前川を説得した。しかし青木が期待したのは、実は前川の実行力だったのかもしれない。飛び込んでくる難題に焦らず、全力で立ち向かう前川の個性が、当時整っていなかった被曝医療体制の基礎作りに役立つと考えたのだろう。 被曝医療の専門家として歩み始めた前川は、前日の情報交換会で、原子力関連施設周辺の病院医師や医療スタッフに被曝医療の知識が徹底して教育されていないことをあらためて思い知り、驚いていた。 「もしいま本当に被曝事故が起きたら……」 帰りの列車で、前川は被曝医療の体制を整えるためには相当な時間がかかることを痛感し、暗澹たる気持ちになっていた。 午後一時二八分。前川を乗せた特急「あさひ三一四号」は東京駅に到着した。これからまた本業の救急医にもどらなくてはならない。ホームに降りたとき、突然、携帯電話が鳴った。医局に出入りしている製薬会社の営業担当者からだった。 「東海村の原子力関連施設で何か放射線の事故があったようです」 国内の原子力関連施設で、重大な被曝事故が起こったことは、これまでなかった。 「一体どの程度の事故なのだろう?」 前川は、とにかくまず病院にもどろうとタクシーに乗り込んだ。 病院の医局に到着すると真っ先にテレビのスイッチを入れた。目に飛び込んできたのは、これまで見たことのない映像だった。活性炭入りフィルターが付いたガスマスクのような防護マスクで顔を覆い、白い放射線防護服で頭から足先まですっぽりと身を包んだ数人の医師と看護婦が、患者を乗せたストレッチャーを運んでいた。患者は体中、透明のビニールで包まれていた。 患者の運び込まれた建物が、何度も訪れたことのある千葉県の放射線医学総合研究所(放医研)の入口だと気づくのに多少の時間がかかった。ニュースは、茨城県東海村の核燃料加工施設で事故があり、作業員三人が倒れたと伝えていた。三人は、事故が起きた施設に近い国立水戸病院にいったん運ばれたのち、ヘリコプターで放医研に収容されたという。放射線事故で患者が運び込まれるときに防護マスクをつけることはめったにない。それなのに放射線被曝治療の専門家がそろった放医研で、スタッフがいま防護マスクをつけ、放射線防護服を着ている。 「物々しすぎる」 前川はそう感じ、何か重大なことが起こったに違いないと確信した。前川は教授室にもどり、放医研の放射線障害医療部臨床免疫室長・鈴木元の携帯電話にダイヤルした。 鈴木は東京大学医学部を経て一九八五年に放医研に移った。一九五四年にアメリカが太平洋のビキニ環礁でおこなった水爆実験の際、近くを航行していて被曝した日本人漁民の健康診断を毎年おこなうなど、被曝治療の専門家として活躍している。大柄で温厚な鈴木は、いつも落ち着いて見える。ところが、その鈴木が受話器の向こう側で混乱しているのが手にとるように伝わってきた。 鈴木は午後五時半頃から開かれていた放医研での初めての全体会議の最中に前川からの電話を受けた。鈴木は前川に、症状や緊急の血液検査の結果などから見て、運び込まれた三人のうち、大内と同僚の二人が非常に高い線量の被曝をしたものと考えられると話した。また三人が放射性物質を浴びていないことや、大内の吐しゃ物を分析した結果、ナトリウム24が検出されたことから、中性子線による被曝、つまり「臨界事故」だと確信していると伝えた。 「臨界」というのは核分裂連鎖反応が持続して起こる状態のことをいう。核分裂反応が起きると大量の中性子線が放出される。中性子線は人体の中にあるナトリウムをナトリウム24という放射性物質に変える。 鈴木の言うように本当に臨界事故だとしたら、国内では初めてのケースだ。しかも重度の被曝患者が出たという。前川は何か手助けをしたいと鈴木に伝えた。 前川は鈴木との電話を切ったあと、現場の忙しさを思い、放医研所長の佐々木康人に連絡をとることをしばらくためらった。ようやく意を決して受話器を取ったのは午後六時半。前川は電話口に出た佐々木に、自分が委員長を務める「緊急被ばく医療ネットワーク会議」の開催を提案した。ネットワーク会議は国の防災基本計画にもとづいて設置された組織だ。被曝医療の専門家同士の情報交換や研究の協力などを目的にこの前年の一九九八年七月に発足した。 佐々木はネットワーク会議の開催を承諾し、会合は翌日の朝からおこなわれることになった。 このとき前川は、自分自身が被曝治療の中心を担うことになろうとは夢にも思っていなかった。 |