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Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
弘
投稿日:2012年 9月 5日(水)21時14分21秒
返信・引用
>キコリさん
私は、信華自身の作った駒を実際に見ていないのです。申し訳ありませんが一度掲示願えませんか?
私は、信華本人の作品は無いと思っていました。
よろしくお願いします
>最近、信華と源兵衛清安の話で盛り上がっていますね。話に夢があり楽しませてもらっています。
一冊の本が書けますね。参考にさせて頂いています。
>手元に信華作、源兵衛清安書、盛り上げ駒がありますので掲示したいのですが!
1.8MBありますので無理ですね? 方法があれば教えて下さい。
> 信華は結婚をする前より関西で駒を作っておりますが、件の源兵衛清安は信華の作風とはまるで違っていますよ。皆さんは、信華自身の作った駒を実際に見ていないのではないかと、感じさせられることがあります。盛り上げの手法が数次郎とか静山とは全く違います。
>
> 源兵衛清安は静山によるものである事は事実でしょう。元々静山の実家は東京の質屋の元締めでもあり、父親は理研の代表であり、骨董収集・駒収集家であった大河内氏の家令であった事から、いろいろな情報を知り得ていたものです。
>
> また、三井家の、新町家十一代当主三井高遂(たかなる)氏は私の知る限り過去最高の駒・棋具コレクターですが、後水尾天皇宸筆の駒を含め江戸期の駒を数十点所有をしており、その中には源兵衛清安書体の清安銘の駒を所有されておりました。また、その棋具類の面倒は前沢長兵衛があたっており、静山とは戦前からの付き合いも有り、そこから出て来たとする方が自然です。
>
> また、前にも書きましたが、徳川美術館で私が見た雛駒の書体はまぎれもなく源兵衛清安でありました。これに関しては名古屋の碁盤商も確認をしており間違いはありません。
>
> 水無瀬駒に関しましては、三条西実隆の「実隆公記」に於いて32組の駒を作っている事が確認をされており、駒を作る事により「白絹十反を受けた」等、当時としては相当なる金額に値するものを得ております。水無瀬兼成の祖父は三条家より水無瀬家の養子となり、父は「実隆公記」に於いて幾度も実隆に宮中の作法に関して習いに三条西家を訪れております。
>
> また、安清は安土桃山時代には京都に於いてすでに駒を作り始めており、水無瀬家よりも古くより駒の製作にあたっている事は確かであり、それが実隆の書体である可能性もあると考えられます。モンキーさんも書かれておりますが、安清の駒は水無瀬書体の物も多く残っており、どちらが先にその書体を作っていたのかは何とも言えない面があります。
>
> 安清は駒作りの一派で、大橋家が家光の時代に京都より江戸に移る際に同行をしており、途中尾張家に数か月滞在をし、その中の一人が尾張に残り、その際に清安と名乗ったようです。安清一派は幾代にもわたり駒作りを家業としており、明治39年まで続けている事が幸田露伴により書かれております。清安はその後、江戸に渡り、伊藤家の駒に関係をしていたようで、やはり代々駒作りを家業としていたとされております。
>
> 徳川美術館に源兵衛清安の書体の雛駒が残っている事は、清安一派のどの代かの中にその様な駒師がいた可能性を物語っております。書体的には実に五角形の駒の中に収まるに相応しい形をしており、書家が書いたと云うより、駒師が作った書体のイメージが強く感じられます。
RE:源兵衛清安の駒
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 5日(水)09時16分25秒
返信・引用
編集済
ばたさん
水無瀬兼成の祖父は三条西家からではなく三条家からの養子です。(wikiの間違いw)養子縁組のころは三条家は公家として大きな勢力を持っておりますが、その後、分家の三条西家が勢力を持ち、天皇家とも親戚筋となります。で、三条西実隆は長命で60年に及ぶ「実隆公記」を書きますが、その間に使えた天皇は三人になりますが、その内の一人が後奈良天皇となります。将棋から「飛車」と「角行」を取り除いたといわれる天皇ですね。
では、三条西家に伝わっていた「駒字」とはいったいどのようなものかを考えたいと思います。水無瀬駒は735組作られましたが、その中に「何でも鑑定団」に出た「道休」の象牙の駒があります。この制作年は、「将棋馬日記」では、「道休」が亡くなった次の年となっております。水無瀬家では、象牙の駒は計3組作られておりますが、この駒が最初の物です。果たしてこれは、「道休」が依頼をして作られたのでしょうかね?
「道休」は、豊臣秀吉の御伽衆(軍事・文化・経済等の相談役集)の筆頭で、仏門に入る前は足利十五代将軍義明です。織田信長と確執があり、山陰(朝倉近いんですね~)へ流されますが、秀吉が必要とし、呼び戻された元将軍なのですよね。そして、水無瀬家の「将棋馬日記」をよく調べてみますと、道休が水無瀬駒を持ったのは、その象牙の駒が最初ではないのです。ほとんど一番最初の頃にその名前が記されております。現在では、正親町天皇より「駒の銘は水無瀬公の筆をもって宝とす」とされてはおりますが、その数年前に道休はそれを手にしております。
逆に考えますと、足利家は藤原家に関係をしており、天皇家との交流も古くからあり、その文化性を、織田信長のマネをした秀吉にとっては天下を平定した後に非常に必要なものであったのでしょう。なぜ、豊臣家が「将棋六式図」を求めるまでになったのか、を考えますと、その「道休」によりもたらせられたのではないのか、と想像ができるのです。ですからこそ、亡くなった「道休」の為に「白黒」である象牙に漆の駒を作って供養をしたものではないのか、とも考えられるのです。
では、その足利家が守ってきた将棋の駒字とは、となりますと、京都の曼殊院へとつながります。曼殊院は800年頃に最澄によって建立をされ、代々天皇家の「書」の教習所として漢字を伝え続けました。十五年ほど前近代将棋の取材で訪れました時には、教養庫が開けられ、そこから大将棋・中将棋の駒の字母紙が発見できました。その五角形の中には、駒の動きを示す点が描かれており、使い方を示さなければ成らないほどに、古い時代のものであることはわかりました。
当時の宮司さんの話では、「これから宝物庫を開いて奈良県立博物館が目録を作ることになっているが、将棋盤が何面かありますよ」とのことでした。また、麒麟抄も存在をしており、書(漢字)に対する原点的な寺であることを感じさせてくれました。その後、「象経奥書」なる本も出てきてはおりますが、それまで殆ど調査のなかった曼殊院では国宝級が山ほど出てきてしまい、将棋などには関心を示してはもらえないこととなってしまいました。(苦笑)
足利家が守ってきたものは、その曼殊院から伝わった幾つもの種類の将棋ではなかったのではないでしょうか。それが、三条西家へと伝わり、それが安清や水無瀬の駒の原型となり、より格式を持った「将棋六式図」を献上をした水無瀬家が一つのステータスを勝ち得たのではないでしょうか。そして、その道筋を開いたのが道休だったのでしょう。ですからこそ、その供養のために「象牙の駒」を作ったのではないかと考えられます。
将棋は、仏教徒漢字という大陸からの2大渡来品を広める為のツールと考えますと、天皇家、足利家、三条家、三条西家、織田家、豊臣家とつながる権力者の文化・歴史に対する欲求が理解できるのです。将棋には大きな日本の歴史を左右する何かがあるのではないか、五角形の謎がスツューバにありますように。
ロマン話でございました。
長文ごめんなさい
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 5日(水)06時24分38秒
返信・引用
長文スイマセン。実はこれでも「結構削ったんです」(爆)
RE: 源兵衛清安
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 5日(水)06時23分31秒
返信・引用
うをおお!非常に感動しています。
私とて、銘駒愛好家の端くれですので、現行ネットで確認できる事柄や銘駒に関する本程度は完全に読破しています。・・・が、詳細に関しては「脳に定着せず」忘れる事しばしば。
それでも、「どこかで読んだ」とか、「誰かが言ってた」くらいは残っていますので、皆さんの書き込みでも、「これはモンキーさんのHPで見たか?」とか、当然あります。
その中においても、結構この源兵衛清安は、水無瀬ほど掘り下げた話はなく、源兵衛清安ファンの私としては、「何か不思議な」印象の書体名でした。
昔は源平=源氏と平氏を誰かが間違えて「源兵衛」なんて、引用したんでは?と、全く恥ずかしい推理をした事もあります。でも、どんな空想をしてみても、源兵衛清安の源兵衛の後に付く清安との関係が何なのか?や、なぜ、源兵衛書ではダメなのか?など、この「長ったらしい書体名」の理由が解りませんでした。でも、分かった気がします。
キコリさんの解説にある、「安清一派」と言うくだりで、ビビっと来ました。うまく文章に出来るかな~。モンキーさんが水無瀬→源兵衛清安と言う流れを「その構成がほとんど一緒」と言う説明からも、これは逆もありえますよね。源兵衛清安→水無瀬ということです。でも、私が言いたいのはそこじゃないんです。
あああ、自分の思い付きを整理出来ない・・・歯がゆい。
(長文覚悟で書きますね)
「安清一派」これにつきます。
キコリさんの「安清は安土桃山時代には京都に於いてすでに駒を作り始めており、水無瀬家よりも古くより駒の製作にあたっている事は確か」と言う事ですから、安清一派=安清派が鍵を握ってますよね。ここで大事と言うか誤解しがちなのは、「水無瀬家」は「家系と言うか血筋」の事で、「安清派」は狩野派のように「家系や血筋」ではなく、「職人集団」と言うくくりです。仮にですが、水無瀬家には、駒職人などおらず、別の事を生業にしていたとします。そこに安清派の一人が養子に入る事で安清派「水無瀬」が作られる。っま、分家したブランドの方が、本家以上の人気になることはありますよね。もしくは、安清派でもともとあった書体(その頃は統一して安清)を水無瀬家に養子に行った後に「水無瀬」と命名した・・とか。で、その後、水無瀬は一人歩きした。そう考えれば、水無瀬が先か、安清が先か?と言う答えですが、「同じ」と言う事です。なぜなら、水無瀬は安清派の作品だからです。
あ、違う・・・。
水無瀬家をウェキペディアで調べたら、「戦国時代に血統が途絶え歌道で有名な三条西家から養子を迎えたため、以後水無瀬家も和歌の家となった」とありました。
謎は溶けた。パクリだ!
この頃の駒は書き駒が主流でしょ。歌道で有名とか和歌の家とか、要するに「毛筆は達者」なはず。だから、安清派の駒が京都で盛況なのを見て、これからは「これだ!」って事で、生業にしたんだ!そうなると16世紀末に「駒の銘は水無瀬公の筆をもって宝とす」と言う賞賛の話も、「商売上手」と言うか、「自らの地位向上」の演出?なのでは。
まあ、真意はどうであれ、安清派は、京の都(京都)で活躍していた訳ですし、大阪の水無瀬は勢力圏内です。日本最古の将棋の駒が福井県の朝倉遺跡(朝倉義景)で見つかっているのも、地理的に合致します。
反して、安清派たちは、水無瀬出現の後も、大名付き絵師「狩野派」のように駒を作る。その中にはキコリさんが書かれてるように、京都から江戸へ下る際、大橋家付き安清派の門弟の一人が途中で立ち寄った、尾張家付きの駒師となり、清安と名乗る。
じゃ、なぜ清安書ではなく、源兵衛清安か?ですが、その答えは「水無瀬兼成的」考え方ではないか?と思いつきました。
先にも書きましたが、水無瀬とは「家柄・家系を表す名」であり、その後に兼成の名前。これは言い換えると水無瀬(家柄)+兼成(駒師名)ですよね。もともと、安清で統一されていた名前が、水無瀬派駒師で「派閥と駒師が差別化」された訳です。狩野派の絵画で通っていたのが、狩野派の中に「タレント」が出だした訳です。狩野派の誰?なのかみたいに。なので、安清派で尾張付きの清安もそれにならい、源兵衛の清安=源兵衛+清安(安清派駒師)と言う事です。
そうなると源兵衛の由来ですが、材料が揃えば簡単です。
「源氏でなければ征夷大将軍になれない」のルールを打ち破り「ペイペイの徳川」が足利や藤原等を差し置き、実力のみで将軍になった訳です。要は源氏の兵衛その人です。
言い換えれば「徳川清安」ですね。なので、徳川美術館に「源兵衛清安」の雛駒・・・。をおお~泣ける~。
もっと書きたいのですが、疲れました。
結局、モンキーさん、キコリさんの内容をナゾってるだけじゃん!と、突っ込まれそうですが、「勝手にガテンが行きました」。
最後に、キコリさんの「書体的には実に五角形の駒の中に収まるに相応しい形をしており、書家が書いたと云うより、駒師が作った書体のイメージが強く感じられます」と、モンキーさんの「もはや静山書と呼んでも良いほど完成され美しい駒書体です。」と評されているように、五角形において、完成された美しい書体ですよね。
RE: 源兵衛清安
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 4日(火)22時11分9秒
返信・引用
編集済
信華は結婚をする前より関西で駒を作っておりますが、件の源兵衛清安は信華の作風とはまるで違っていますよ。皆さんは、信華自身の作った駒を実際に見ていないのではないかと、感じさせられることがあります。盛り上げの手法が数次郎とか静山とは全く違います。
源兵衛清安は静山によるものである事は事実でしょう。元々静山の実家は東京の質屋の元締めでもあり、父親は理研の代表であり、骨董収集・駒収集家であった大河内氏の家令であった事から、いろいろな情報を知り得ていたものです。
また、三井家の、新町家十一代当主三井高遂(たかなる)氏は私の知る限り過去最高の駒・棋具コレクターですが、後水尾天皇宸筆の駒を含め江戸期の駒を数十点所有をしており、その中には源兵衛清安書体の清安銘の駒を所有されておりました。また、その棋具類の面倒は前沢長兵衛があたっており、静山とは戦前からの付き合いも有り、そこから出て来たとする方が自然です。
また、前にも書きましたが、徳川美術館で私が見た雛駒の書体はまぎれもなく源兵衛清安でありました。これに関しては名古屋の碁盤商も確認をしており間違いはありません。
水無瀬駒に関しましては、三条西実隆の「実隆公記」に於いて32組の駒を作っている事が確認をされており、駒を作る事により「白絹十反を受けた」等、当時としては相当なる金額に値するものを得ております。水無瀬兼成の祖父は三条家より水無瀬家の養子となり、父は「実隆公記」に於いて幾度も実隆に宮中の作法に関して習いに三条西家を訪れております。
また、安清は安土桃山時代には京都に於いてすでに駒を作り始めており、水無瀬家よりも古くより駒の製作にあたっている事は確かであり、それが実隆の書体である可能性もあると考えられます。モンキーさんも書かれておりますが、安清の駒は水無瀬書体の物も多く残っており、どちらが先にその書体を作っていたのかは何とも言えない面があります。
安清は駒作りの一派で、大橋家が家光の時代に京都より江戸に移る際に同行をしており、途中尾張家に数か月滞在をし、その中の一人が尾張に残り、その際に清安と名乗ったようです。安清一派は幾代にもわたり駒作りを家業としており、明治39年まで続けている事が幸田露伴により書かれております。清安はその後、江戸に渡り、伊藤家の駒に関係をしていたようで、やはり代々駒作りを家業としていたとされております。
徳川美術館に源兵衛清安の書体の雛駒が残っている事は、清安一派のどの代かの中にその様な駒師がいた可能性を物語っております。書体的には実に五角形の駒の中に収まるに相応しい形をしており、書家が書いたと云うより、駒師が作った書体のイメージが強く感じられます。
ヤフオクの宮松作錦旗
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 4日(火)21時43分10秒
返信・引用
影水作と宮松作の似たような錦旗がヤフオクに出ています。
どちらも彫り埋駒にみえますがどうでしょう。
銘も宮松作と影水作の違いはありますが、とてもよく似ているようにみえます。
同時期に同じような宮松錦旗が出るというのはすごい偶然だなと感じました。
私は入札には参加しませんが、価格がどうなるのか興味あります。
現在は影水作が約15万円。宮松作が5万円。約3倍違います。
その差がどこにあるか私にはわかりません。
F273骨董 美品 宮松影水作 大山康晴 名人 将棋駒 (影水作)
http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/158620216
将棋駒『宮松作』『錦○』本黄楊/駒箱+駒袋★時代物 (宮松作)
http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g118351055
Re: re:re:源兵衛清安
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 4日(火)16時29分32秒
返信・引用
>
No.273[元記事へ]
ロボさんこんにちは
その通り、源平駒だと思います。
源平駒が何故「源平駒」と呼ぶのかの理由は知りませんが、江戸期などの古い駒で書体が朱色の書き駒
は存在しますので、古い駒で裏面と表面で別の漆を用いた駒が存在するのかも知れません。
但し、トミさんが天童楷書体、天童草書体、並びに源平駒、咲き分け駒、朱書駒を厳格に区別していたとは思われません。
また、戦後の安い駒は表が黒で裏面は朱色の駒が多く書き駒だけでなく彫駒でも多数見られました。
私などは、子供の頃、裏面が朱色の駒が普通で、両面が黒い駒は手抜きの安い駒だと思っていました(^_^)
もし、静山が「源兵衛清安」の名前を最初に付けた名付け親なら、こんな理由ではないかと思うのです。
もし、源兵衛清安と名乗る駒師が存在したのならば、必ずそれを証明する駒や文献が存在するハズですが、現在はそれを証明する事ができません。
噂や謂われでは徳川美術館に存在するとか、三井家の蔵に眠っているとかいわれていますが、確認されてはいません。
奥野錦旗と源兵衛清安は同じタイプの書体構成です。
駒書体は何代にも渡り写された書体で、例えば水無瀬書体と同じタイプの書体構成の駒には、安清も清安も後水尾天皇の錦旗も豊島の水無瀬も、元を辿れば水無瀬駒を色々な人が写し伝えた書体で同じタイプ(系統)の駒です。
現在最も多く普通に作られている水無瀬書の駒は豊島龍山の感性で作られた水無瀬書のコピーで、本当の水無瀬駒書体とは随分異なり、もはや豊島書水無瀬バージョン写しの駒で、本当の水無瀬駒とは異なる書体です。
この水無瀬駒の水無瀬書体でも実は、元書体は三条西実隆(1458-1537)の書体を写した書体ではなかろうかと思われますが、三条西実隆の作った駒は未発見でその書体は判明しておりません。
現在、源兵衛清安と呼ばれる駒は静山が豊島の清安の字母から静山の感性で作った書体で、もはや静山書と呼んでも良いほど完成され美しい駒書体です。
そこで、豊島の清安の書体を調べると、豊島は数度に渡り清安書の書体を変えていますが、源兵衛タイプの清安の初期作品は静山の作った源兵衛清安とは異なり、むしろ奥野錦旗の昇竜錦旗に近い書体です。
また、古い駒には金龍書と書体名の書かれた駒が複数見られ、その書体構成は奥野錦旗と同じ書体構成であり、私は奥野錦旗の元字は駒師金龍の残した書体ではなかろうかと研究しています。
もし、源兵衛清安が金龍の駒の写しであれば、駒師金龍は初代も二代目もれっきとした掛川藩の藩士で、掛川藩は山之内一豊が移封した後は徳川家の幕臣大名が治めており、駒師金龍は源氏の衛兵であり、「源氏の衛兵が作った清安書の駒」即ち「源兵衛清安」の駒名にも理にかなう名前なのです。
re:re:源兵衛清安
投稿者:
ロボ
投稿日:2012年 9月 4日(火)12時59分47秒
返信・引用
モンキーさん、トミさんがおっしゃっているのは源平駒ではないですか。
http://www.ikechang.com/shogi1.htm
奥野錦旗も源兵衛清安タイプの駒になるのですか。気づきませんでした。
Re: 源兵衛清安
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 4日(火)10時56分21秒
返信・引用
編集済
>
No.271[元記事へ]
ばたさん
源兵衛清安については一般的には「江戸中期から続く駒師の書体である」となっています。
確かに、清安の銘を持つ駒師は存在していますが、残された駒の書体は水無瀬です。
また、徳川美術館の国宝胡蝶の駒が源兵衛清安の作品と云われていますが、やはり書体は水無瀬です。
では、作者銘が残されていて、書体構成が源兵衛清安タイプの駒で年代がある程度確認できるのは、私の知る限り奥野錦旗が古く、源兵衛清安の銘が残されている駒では信華が一番古い可能性が高い。
信華が一番古くなければ、金井静山が一番最初に付けた銘です。
この源兵衛清安の書体構成は基本的に水無瀬の書体の銀将の書体の将の字だけが違う書体構成である点に注目すれば、この書体構成は水無瀬駒の中将棋の銀将の駒が、小将棋の駒に置き換わっただけですので、清安や安清ならばこの書体構成の小将棋の駒を作ったとしても不思議ではありません。
また、表字としては全て略字を用いず、正しい書体の駒と言えるでしょう。
しかし、今の所「源兵衛清安」の名を持つ人物も駒もその存在は私は確認できていません。
そこで、気になる事として豊島数次郎の未亡人トミさんが昭和51年に受けたインタビューテープが残されており、その中でトミさんは「この前デパートでゲンベーの駒が500円で売っていた」と話しています。
昭和51年当時500円で買える駒は天童の書駒しかありませんし、話の流れからも静山の源兵衛清安の駒の事ではありません。
トミさんは書駒の事を指してゲンベーの駒と言っており、豊島字母帳には二種類の清安の書体が残されており、トミさんが、静山に注文する時には、この二種類の書体を区別する為に一方を清安、もう片方を書駒風の清安としてゲンペーの清安と呼んでいたと思われます。
少なくともトミさんの頭の中ではゲンベーは書駒風と同意語であったようです。
この事からも、私は源兵衛清安は静山による創作書体名だと想像します。
しかし信華の残した駒が悩ましい・・・・・・・・
また、奥野錦旗は、幸田露伴の著書「将棋と碁」に「金龍真龍などの造れるは、玉将の後に銘あり。駒の文字もいと正しくて読み易く、・・・・・・・・」と書かれており、おそらく金龍が作った駒の写しではないかと想像しています。
この事は私のホームページに詳しく書いてありますので読んでください。
竹内淇洲、豊島錦旗、奥野錦旗に書きました。大竹竹風と宮松影水にも参考資料があります。
源兵衛清安
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 4日(火)06時20分28秒
返信・引用
源兵衛清安って、いったい何なんでしょうか?
この名前って、正直不思議です。
唐突に何ですが・・・。
錦旗にも「奥野錦旗」みたいな名前ありますが、
清安に対し、「源兵衛さんの清安」と言う事ですか?
でも、駒尻に書くには長いですよね。
錦旗もなぜ?生まれたんでしょう。
無視してもらって、結構です。思ったときに書かないと忘れるので「書きました」。
Re: RE:残暑お見舞い
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 3日(月)22時01分58秒
返信・引用
>キコリさん
越智信義さんの将棋本ですね。初めて知りました。アドバイス、ありがとうございます。
早速、「将棋の博物誌」と「将棋の風景」と「将棋随筆名作集」をamazonで買いました。
届くのが楽しみです。団 鬼六さんの「将棋 (日本の名随筆) 」というのもありましたが
これはよくわからなかったので買いませんでした。
>>いいえ、それは数次郎の慰謝料で~す♪。この期間が非常に長かった
>>ようでして、数次郎は多くの「信華作」を作ることになるのです。また、その
>>殆どが「安清書」でした。
数ヶ月の結婚生活でかなりの慰謝料ということのようで、しかも長期間だったと
いうのは、たしかに「男はつらいよ」ですね。でも慰謝料を駒を造って支払うと
いうことで、数次郎としては現金で支払うよりは楽だったのでしょうね。
>>お二人とも、「写真を見て決めた」ほどの美男・美女で、信華はその後、
>>新国劇の役者になったようです。
役者になるほどの美女ということで、ミーハー的に写真を見てみたいと感じました。
そうしますと信華は役者をやりながら駒も造っていたということになるのでしょうか。
または信華自身は駒を作らなかったのか?(信華作とは全て数次郎の慰謝料駒?)
役者をやめてから駒造りを始めた。(それが信華自身の制作駒)
そんな可能性が頭に浮かびました。
私は平凡な信華の彫り駒「金龍」を持っています。画像をアップしてみます。
これも数次郎彫りでしょうか?
徳川美術館に所蔵されている盤・駒はとても興味あります。美術館に問い合わせて
「婚礼」と云う徳川美術館蔵品抄7番をなんとか見てみたいと思います。
RE:残暑お見舞い
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 3日(月)19時43分8秒
返信・引用
>それでも信華銘の数次郎の駒は相当数が存在するということは信華銘は豊島工房の
>別ブランド名だったのでしょうか?
いいえ、それは数次郎の慰謝料で~す♪。この期間が非常に長かったようでして、数次郎
は多くの「信華作」を作ることになるのです。また、その殆どが「安清書」でした。
男はつらいよ。。。
お二人とも、「写真を見て決めた」ほどの美男・美女で、信華はその後、新国劇の役者になったようです。
天狗太郎さんもよろしいですが、越智さんも面白いですよ。
国宝の写真を載せると、今は「メッ」怒られてしますそうで、止めました。徳川美術館の幾つかの図録に盤・駒が載っておりまして、お勧めなのが「婚礼」と云う徳川美術館蔵品抄7番です。徳川家光息女福姫(サチヒメ)の婚礼品である国宝「初音の調度」や近衛家からの調度品である「菊折蒔絵の調度」などが載っておりますので、ご用命の際には徳川美術館
(0529-35-6262)或いは徳川黎明会(03-950-0111)へお願い致します。
残暑お見舞い
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 3日(月)14時48分30秒
返信・引用
>キコリさん
数次郎と信華の結婚生活が数ヶ月間ということで驚きました。それでも
信華銘の数次郎の駒は相当数が存在するということは信華銘は豊島工房の
別ブランド名だったのでしょうか?または離婚後にも数次郎は元妻の信華
に何かの理由で駒を作って渡して(送って)いたのでしょうか?
>弘さん
3月の徳川美術館に行かれたとき、合計3組をご覧になったときのメモの内容、
素晴らしいですね。感服いたしました。私などは同じように観るにしてもメモを
取るということを思いもつきません。これから見習いたいと思います。
3組のうち、2組が双玉ということにも興味を持ちました。江戸時代の銘駒は
双玉が多かったのでしょうか。
>モンキーさん
徳川美術館の3組の盤駒の解説をありがとうございます。国宝の盤駒とは
どんなものなのか、ぜひ観てみたいと思いました。常設はされていないので
しょうね。
山本亨介氏(天狗太郎)の将棋文化史と将棋庶民史をamazonで申し込みました。
どういう内容なのか?届くのが楽しみです。
Re: 徳川美術館の駒について
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 3日(月)10時53分0秒
返信・引用
>
No.266[元記事へ]
弘さん、キコリさんおはようございます。
1・の駒は国宝の初音の駒で、実は誰が言い出したのか分かりませんが、源兵衛清安の駒と噂された駒です。
しかし、弘さんやキコリさんがご覧になった通り水無瀬の写しで、駒尻には意味不明な模様があります。
2・の駒は11代藩主に嫁いだ福君なのか9代藩主に嫁いだ好君の嫁入り道具なのか判然としない道具で、明治時代に一組を売却してしまったそうで、どちらも菊折枝模様の道具です。
この菊折枝模様の将棋道具は普通サイズと雛具があり、普通サイズは清安の駒で雛駒は安清です。
清安は9代藩主、雛駒は11代藩主の物と思われます。
3・の駒は浮腺菊の盤駒ではないかと思いますが幕末の作で、キコリさんが董斎書に似ていると言われた駒ではないかと思います(片玉の駒です)
この他にも雛駒を別にして4組の普通駒(全部で七組)があるとは知りませんでした。
美術館の担当研究員さんは若い女性で、全体をまだ良く把握していないようですので時期をみて聞いてみます。
キコリさん、弘さん、大変に参考になりました、ありがとうございます。
Re: 徳川美術館の駒について
投稿者:
弘
投稿日:2012年 9月 3日(月)09時32分32秒
返信・引用
> 私も3月10日に徳川美術館に行きましたので一言。
> 当日は米長会長の講演会(コンピューターになぜ負けたか?)があり、主催者が徳川美術館にお願いをして、講演会場に別途、盤・駒を展示して
> 頂いたそうです。
> そのため、一般展示会場の国宝1組と特別展示2組の合計3組を見てきました。以下、私のメモより
> 1.国宝1組。盤は2寸、側面および木口は蒔絵、盤面の線はやや太く四方点有り。
> 駒は「すばらしいの一言」、王は双玉、駒型はやや大ぶり、木地は板柾まじり、駒字はやや細字に見える、銀・桂・香の角度が大きい、
> 書体は水無瀬だがいわゆる水無瀬(公家)が書いたのではない、駒尻(王2、飛2、金銀桂香の各1枚)に銘(印=しるし)があるが読めない
> 2.特別展示1.駒尻の銘は清安(花押)、木地は板柾まじり、書体は水無瀬(注:書体銘なし)、双玉
> 3.特別展示2.銘は消滅している(わずかに点が残っている)、双玉ではない(王と玉)が特に大きい、木地は板柾まじり、文字はやや行書体、
> 4.その他:担当の方に伺ったところ、美術館には将棋盤15面、駒7組があるそうです。
>キコリさんへ
しばらくです。7月17日はケン坊さんとお世話になり、ありがとうがざいました
追記;私のこの記事は、すべて普通駒についてです。雛駒ではありませんのでよろしく!
Re: 画像のサイズを変更できるサイト
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 2日(日)22時15分2秒
返信・引用
>
No.264[元記事へ]
>キコリさん
ネット上で画像のサイズを変更できるサイトがあるようです。
画像サイズ変更サービス
http://www.image440.com/
1)ここの「参照」というボタンをクリックして、サイズ変更したい画像をご自分のPC
の中から選択します。ただし元の画像が4M以上だと無理のようです。
元の画像が4M以上の場合には
http://search.vector.co.jp/vsearch/vsearch.php?key=%89%E6%91%9C%81%40%83T%83C%83Y%95%CF%8DX&kanji=shift-jis
でフリーソフトをダウンロードしてソフトから変換するようになると思います。
2)次に変更するサイズ等を指定します。以下の感じでよいと思います。
変更方法 :(長辺を合わせる) サイズ : (640) px
補間方法 : (高品質 ) 画質 : (99 )% 解像度 : (72) dpi
( )内はご自分で選択するか記入する部分です。
記入する数値はこのくらいでよいかと思います。
3)変更実行のボタンをクリックすると別の画面に切り替わり、変更された画像が
画面上に出ます。その画像を右クリックして「名前を付けて画像を保存」を選択して
変更する画像名を適当に付けて、デスクトップ上など保存したいフォルダを指定して
最後に「保存」のボタンをクリックします。
これで完了のはずです。
この設定のサイズですとおそらく1MB以下のファイルサイズなのでアップロードが
出来ると思います。
RE:徳川美術館の駒について
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 2日(日)20時14分45秒
返信・引用
編集済
弘さん、はじめまして。
う~ん、駒の「印」の写真を掲載いたしたいと思いましたが、ビット数の関係で出来ませんでした。これは、国宝である「胡蝶」の盤についているものですね。
清安の駒の頭には小さく「葵」の刻印が2つずつ押されております。これは、モンキーさんの清安の兄弟駒と考えられており、モンキーさんの駒には、駒尻に〇に十の字の島津家の刻印があります。この2つは、本当にそっくりで、同じ時期に、同じ手によって作られたと思われます。
駒は7組(内2組は雛駒の大きなもの)ですが、雛駒は十数組あり、その中の一つが「源兵衛清安書」の書体と酷似しております。
ビット数を変えたいのですが、うまく出来ず困っております、何か良いソフトがありましたら教えてください。
追記:モンキーさんの見た無名の駒は葵浮線菊紋の盤についているものでしょう。書体は蕫斎に似ておりますが、出来はイマイチですね。尚、現在の学芸員の方は駒に関しての知識不足でして「源兵衛清安」すらご存じではありませんのでこちら側から駒を持参しない限り理解が出来ないと思いますよ(笑)。
徳川美術館の駒について
投稿者:
弘
投稿日:2012年 9月 2日(日)16時02分1秒
返信・引用
私も3月10日に徳川美術館に行きましたので一言。
当日は米長会長の講演会(コンピューターになぜ負けたか?)があり、主催者が徳川美術館にお願いをして、講演会場に別途、盤・駒を展示して
頂いたそうです。
そのため、一般展示会場の国宝1組と特別展示2組の合計3組を見てきました。以下、私のメモより
1.国宝1組。盤は2寸、側面および木口は蒔絵、盤面の線はやや太く四方点有り。
駒は「すばらしいの一言」、王は双玉、駒型はやや大ぶり、木地は板柾まじり、駒字はやや細字に見える、銀・桂・香の角度が大きい、
書体は水無瀬だがいわゆる水無瀬(公家)が書いたのではない、駒尻(王2、飛2、金銀桂香の各1枚)に銘(印=しるし)があるが読めない
2.特別展示1.駒尻の銘は清安(花押)、木地は板柾まじり、書体は水無瀬(注:書体銘なし)、双玉
3.特別展示2.銘は消滅している(わずかに点が残っている)、双玉ではない(王と玉)が特に大きい、木地は板柾まじり、文字はやや行書体、
4.その他:担当の方に伺ったところ、美術館には将棋盤15面、駒7組があるそうです。
Re: RE:RE:夏の夜の妄想
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 2日(日)00時00分1秒
返信・引用
編集済
>
No.261[元記事へ]
キコリさん
そうですか、私も今年の徳川美術館の雛駒展には行きました。
私が行った時に展示されていた駒は、国宝初音の駒、菊折枝の雛駒、名古屋市内の個人所有の徳川家縁の蒔絵雛盤とその駒が2組、豪商の雛道具の中の抱牡丹模様の雛駒の合計5組でした。
個人所有の雛駒は無名で内一組は安清書体であった事は覚えていますが、もう一組の無名の駒は特に印象に残る書体では無く時代的に菊折枝よりも若いとしか覚えていません。
この無名の雛駒が金龍型であったと言われれば私の注意力不足でしょう気付きませんでした。
雛道具などは又来年の節句時期になれば展示するでしょうから次の機会には良く見てみます。
当日、美術館員に嫁入道具の菊折枝の盤駒が展示されていないので、問い合わせしたら、1、2日前に一部模様変えしました、との事でしたので8組程の盤駒が片付けられ私は見れなかったのかも知れません。
学芸員さんには何度か問い合わせしましたが、源兵衛清安の駒は分らないそうです。
嫁入道具の菊折枝の盤駒が見れなかったので私のコレクションの清安の盤駒の年代が福君なのか好君なのかはの結論は出しませんでしたが、菊折枝の雛駒の盤駒を見る限り、清安の駒は第九代尾張藩主に嫁いだ好君の調度品と同年代のようですね、福君の菊折枝の雛駒は安清でした。
RE:RE:夏の夜の妄想
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 1日(土)20時57分51秒
返信・引用
9月になり、少しは涼しい風が吹いてきた感があります、が、また今晩も飲んでおります。
「幻の美女妄想」で寝苦しい夜ですか、どうせなら駒の「千夜一夜物語」を聞かせてくれる美女で有れば良いのですが(笑)。
信華銘の数次郎の駒は相当数に上ります。私の知っている話では、二人が夫婦として暮らした月数は(年月ではありません)それほど長くはなかったようです。また、信華に関してはトミさんはご存じでも、美智子さんはそれを聞いてはおりませんでした。胸の中にしまっておかなければならない話であったのではないでしょうか。
藤好信華の駒は、いろいろな事を想像させてくれる稀有な駒ではないでしょうか。モンキーさんも罪な女(駒)に捕まってしまったものです(笑)。
>そもそも、源兵衛清安は江戸中期の駒師で徳川美術館に収められている駒と山本亨介が
>言い広めましたが、徳川美術館には源兵衛清安書体の駒は存在しません。
果たしてそうでしょうか?実は私は今年の3月の徳川美術館の雛駒展で、一組の雛駒を見て驚かされました。無名のその駒はまさしく「源兵衛清安」そのものでした。その時に、駒は十二、三点出展をされておりましたが、私の目に留まった駒は、その駒と、同じガラスケースに入っていた、やはり無名の駒で、それはまるで「金龍」を思い起こさせてくれる書体で、不思議な出会いをさせてくれてものだと、暫く見とれていたものです。
山本亨介は、聞いた話を、まるで見たように話す講釈師的な書き物が幾つもあり、駒の世界に謎を沢山残してしまいましたが、この「源兵衛清安」の話は本当であるかもしれません。
徳川美術館の駒の学芸員は若い女性に変わり、以前の方からの申し送りが出来ておらず、困っているようです。問い合わせをされてみてはいかがでしょうか?
いろいろな「千夜一夜物語」が出来るかもしれません。
RE:夏の夜の妄想
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 1日(土)12時05分25秒
返信・引用
編集済
残暑厳しい中、冷酒を浴びるのもよし、妄想にふけるもよし、ですね(^_^)
信華について唐突な話なので信じられないかも知れませんよね。
でも、実は、信華については私も何も解ってはいません。
結婚した年も離婚した年も、そして離婚後の消息も、諸説入り乱れ確証を得た物証はありません。
ただ、言い伝えと信華銘の駒だけが残っておりますが、残された駒の存在と言い伝えはかなり異なります。
現実に残された駒から言い伝えを検証しなければなりませんが、スッポリと形に収まりません。
例えば、私の信華作・清安書の駒と同年代に作られた姉妹駒と思われる駒に藤好信華作・源兵衛清安花押の駒が存在し、盛り上げ直ししてしまった事は残念ですが、資料としては貴重な駒です。
http://8ya.net/suiki/siryou/siryou/11gennbee_sinnka.html
この駒は、私の信華作・清安書と同じ書体ですが、源兵衛清安花押の銘が記されています、一般的には源兵衛清安の書体名は静山が最初に付けた駒名といわれています。
すると、信華作・清安書の駒は昭和25年頃に作られた駒となり、この駒は既に死んだ龍山が作った駒ではない証明となります。
しかし、仮に盛上げは数次郎の手とは思えませんが、私の清安の信華作が龍山作品だとしたら、昭和15年以前の作品となりますが、なぜ同じ書体の龍山作・源兵衛清安書の駒が存在しないのでしょう。
当然、豊島字母帳にも源兵衛清安と記されていても良いと思います。
そもそも源兵衛清安の源兵衛の意味は静山や龍山やとみ未亡人の造語ではないか?と思われるフシがあります。
とみさんが、昭和51年のリーガル天才との録音テープの中で「最近はデーパートで源兵衛の駒を500円で売っている」と話しています。
ここで言う源兵衛の駒とは天童の廉価駒の事を指しており、おそらく安価な書き駒の事だと思います。(娘の美智子さんの飲み屋のお店ではプラ駒を使っていたそうです)
従って、龍山やトミさんや静山にとって源兵衛清安とは「書き駒風の清安」と認識していたのではないでしょうか。
そもそも、源兵衛清安は江戸中期の駒師で徳川美術館に収められている駒と山本亨介が言い広めましたが、徳川美術館には源兵衛清安書体の駒は存在しません。
長文になってしまいましたが、信華の駒には不思議満載で、幻の美女妄想に耽り寝苦しい夜を過ごしています。
良い解決法はありませんか?
夏の夜の妄想
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 8月30日(木)21時44分15秒
返信・引用
>ばたさん
>>でも、そう言う「好き勝手なドラマを」考えるのが好きなもんで、つい。
ばたさんの好き勝手なドラマもお聞かせください。私も無責任に好き勝手なドラマを
根拠なく想像で書いて自己満足しております(笑)
>モンキーさん
竹風師は昭和18年に新潟に疎開をしているということですから昭和15年に豊島親子
が亡くなってから2-3年は東京にいたと思われます。その間のつまり一番助っ人が
必要な時期に静山師を通じてトミさんを竹風師が応援していたという可能性はある
のではないかと思います。
またもし新潟に疎開した後でも駒や木地の運搬は郵便小包や国鉄のチッキなどで
戦時中でも送ることは可能だったと思います。新潟だと業務連絡手段は手紙ですね。、
そして完成した龍山銘の駒は静山師のところに送られて、それを静山師は東京の駒店
などの発注者のところに納品し、集金して、トミさんに手渡すか郵便為替か
現金書留で取り分を支払うみたいな流れだったのかなという気がします。
第三者の駒師がもし存在していたとすると、それはトミさんか静山師が、親しく&
信頼できて&頼みやすく&もちろん腕の良い人でないと続かなかったと思います。
そういう条件を満たす人というのは少ないように思われます。条件に合致する人と
いえばモンキーさんが候補に挙げられた「信華、木村、松尾、稲田勇」の中では
職人頭の稲田勇さんくらいでしょうか。
そして静山師の腕が上がり、龍山銘を入れても恥ずかしくないと静山師が自分で
判断されてからは、有名な右から左に銘が書かれた静山龍山銘を入れて流通
させていったのではないかと推測します。これは静山師の職人としての良心だった
のかもしれません。その時期がいつ頃だったのかは興味あるので調べられるなら
調べてみたいと思います。そして昭和15年からその時期までに第三の駒師が造った
左から右の銘までが静山龍山として認知されているのではないかと思います。
豊島銘についてですが、どうも筆跡が男性の書いた文字のように私には感じます。
豊島工房で作られた駒の銘はよっぽどの理由有りを除いては、やはり太郎吉か
数次郎が入れていたように思われます。
>>信華が銘を書くなんて唐突な話かも知れませんが、信華の作品銘を見て下さい。
モンキーさんのHPの信華作・清安書の銘は数次郎が書いているのではないかと
私は思います。理由は先回に私が書いた数次郎の癖から判断しました。
盛り上げも数次郎がやったのかどうかは私の眼力では判断できませんが。
安清書と金龍書の2点は、筆の癖から数次郎ではないようです。
以上、推測というか仮説というか夏の夜の妄想をまた書かせていただきました。
>キコリさん
>>駒の世界には浪漫が無ければ面白くはありませんですから、いろいろな意見
>>が出てくることは大切ですし、それを一つ一つ検証をする事も、また楽しみの
>>一つではないでしょうか。
嬉しいお言葉をありがとうございます。おかげさまでだいぶ気が楽になりました。
初代竹風師がおっしゃられていたように静山師は盛上げがうまかったので駒師の
方たちに人気があるのでしょうね。
しかしトミさんは迫力ありますね。「木村のヤロウ」ですか! 怖いですね(笑)。
*静山龍山の彫駒
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 8月30日(木)20時55分25秒
返信・引用
暑さを肴に飲み過ぎて太ってしまったキコリです。
いや~、酒の肴がまた増えたようで、体重を気にしながら楽しく飲まさせてwもとい、読まさせて頂いております。
駒の世界には浪漫が無ければ面白くはありませんですから、いろいろな意見が出てくることは大切ですし、それを一つ一つ検証をする事も、また楽しみの一つではないでしょうか。
初代はこのように仰っておりましたね。
「木村さんはね、彫りがうまかったんですよ、盛り上げはなんといっても静山さんですね。あれはまねしようったって出来るものではありません。私は、松尾さんが駒を作るのを見て勉強をしましてね、ですから奥野派なんでしょうね。」
静山さんの言葉
「木村さんは、彫りが速かったですよ、え?うまかったかって?そうですねエ~、わたしよりはうまかったなな~。」
トミさんの言葉
「あの、木村のヤロウは主人の葬式にも出やしませんでね、仕事も下手だし、ろくなもんじゃありませんよ。それにくらべりゃ家の金井は腕も良かったですし、そりゃ全然違いますよ。」(コワッw)
さて、また暑くなってまいりましたので、酒のほうへ移らせて頂きます。
Re: RE:Re: 静山龍山の彫り駒
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 8月30日(木)10時11分1秒
返信・引用
編集済
>
No.256[元記事へ]
案山子さん、ばたさん
初期静山龍山の作者初代竹風説は面白く楽しいですね(^_^
外職の外職・・・今まで孫受け説は考えた事がありませんでしたが、実際に可能性は0%ではありませんよね。
でも、竹風氏は戦火を避けて実家の新潟に疎開したと聞いていますが、その点についての説明はどうしましょ?
それに、あの銘では、安清、錦旗、水無瀬、小野書を確認していますが、なぜその当時竹風銘でこの書体を作らなかったのでしょうか?
さらに、なぜ安清の書体字母が大竹氏と静山龍山では異なるのでしょうか?
他にも、信華、木村、松尾、や意外な処では職人頭の稲田勇だって考えられます、特に信華なら面白い説になると思いますよ。
もし僕が静山なら、美人の誉れ高い信華を独り身でほって置くなんて出来ません。(^_^)
それに、僕なら未亡人のとみさんも相当に美人だったそうなので下心満載で、とみさんの頼みなら何でも聞いちゃいます。
僕が静山の立場なら絶対に二股の一石二鳥の名案です・・・・・・・・絶好のチャンス♪ですね♪♪
豊島龍山銘の考察ありがとうございます。
正直、豊島龍山の銘は解析が進まず困っていますので参考になります。
豊島工房で銘を書く可能性がある人物は太郎吉、数次郎、数次郎の姉、そして信華も加えて下さい。
太郎吉は内職や外職に銘書きを絶対に許さなかったと思いますので職人は対象外です。
信華が銘を書くなんて唐突な話かも知れませんが、信華の作品銘を見て下さい。
太郎吉や数次郎が亡くなった後にも信華は駒を作っています、もし信華が龍山の偽作を作ったら、僕には銘だけで判断する自信はありません。
そこで僕も「好き勝手なドラマ」真夏のミステリーな迷説として。
実は数次郎は生きていた、食中りで死亡したのではなく、数次郎は信華が忘れられず信華と駆け落ちしてしまったので、太郎吉は息子は死んだ事にした。
そこで、数次郎と信華は世捨て人となり、信華の実家「増田」と数次郎の銘「龍山」の一字をもらい増山と名乗って信華銘の駒を作りヒッソリと暮らしていた。
やがて、二人の間に一人の男子をもうけ、名を雅人と名付けた、そして息子は立派に成人して父の後を継いだ????アレレ???
ミステリー小説になるでしょうか? (^_^)
RE:Re: 静山龍山の彫り駒
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 8月30日(木)03時22分22秒
返信・引用
横からスイマセン。
第3の駒師が竹風って・・・。実はこの件とは全然別の話(ずーっと前)の際、私の頭にもよぎった事があるんです。「な~んちゃって」的に。
キコリさんは勿論ですし、ここに集う人(っと言うか、それを考えたのは別の掲示板でですが)に対し、その考えを披露する勇気はなく、その根拠もありません。・・・でした。
でも、そう言う「好き勝手なドラマを」考えるのが好きなもんで、つい。
それに、その頃は仕事を回すとでも言うのでしょうか、下請け的な仕事も融通したと思うんですよね。
以上、たわごとでした。
Re: 静山龍山の彫り駒
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 8月29日(水)22時22分3秒
返信・引用
>モンキーさん
第三の駒師についてですが私が思いついたのは「初代竹風師」です。
静山師と竹風師は仲がよかったということでしたので、もし戦前からの
交友であれば、龍山未亡人のトミさんから制作を依頼された静山師は
経験不足の自分が「龍山」という金看板の駒を作るということに不安を
覚え、既に実績のあった竹風師に代行を依頼したのではないでしょうか。
もう一点として、有名な右から左に銘が書かれた静山龍山銘は静山特有の
流麗などちらかといえば女性的な筆跡ですが、左2つの左から右に銘が
書かれたものはどちらかといえば男性的な筆跡に感じます。
そういう点から男性的な筆跡である竹風師ではないかと感じます。
もちろん筆跡自体が竹風師によく似ているのが大きな理由ですが。
これが荒唐無稽な私の説であります。反論、首を洗ってお待ちしますm(_ _)m
それからモンキーさんの充実した龍山コーナーの銘を改めて拝見しました。
そこで気づいたことがありましたので書かせてもらいます。
錦旗と安清書と清安書と三邨書の銘を書いた人は同一人物と思われます。
錦旗と安清書と清安書は「龍山作」であり三邨書だけ「豊島龍山作」です。
その特徴として。
1)「龍」の字の高さは「山」の字の高さのいずれも3倍以上あります。つまり
龍に比して山がとても小さいのです。
2)「書」に含まれる「日」の部分、「清」に含まれる「月」の部分、「錦」に
含まれる「白」の部分、「龍」に含まれる「月」の部分に鍵があります。
それは「日」であれば二画目の曲げの部分が、この筆跡はいきなり
内側にえぐるように下におりています。「白」であれば三画目です。
3)「山」の二画目の縦から横への角度についてですが90度以内で鋭角です。
そしてこの4つの銘を書いたのは数次郎ではないかと推測します。
総合的にみて父の太郎吉よりも数次郎のほうが書のセンスがあり
字もうまいからです。龍に比して山をとても小さく書いているのは
数次郎のセンスなのでしょう。
そして数次郎の作品かどうかを見極める鍵がここにあると思われます。
数次郎が造った駒の銘には上の1)と2)と3)の特徴を持つ銘が書かれて
いるはずです。なぜなら数次郎の造った駒に他者が銘を入れるとは
思いづらいからです。逆に言うと1)と2)と3)を兼ね備えていても駒の制作は
豊島工房の誰かが造ったということは十分に有り得ると思います。
これは100%の見極め方ではありませんが、豊島作で気になるところの
数次郎が造ったかどうかを知る上でかなり絞れるのではないでしょうか。
もっと精査すれば他にも特徴をつかめるような気がしますが今日のところは
ここまでで精一杯でした。
Re: 静山龍山の彫り駒
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 8月28日(火)16時47分17秒
返信・引用
>
No.253[元記事へ]
案山子さん
ナイスな考察ありがとうございます。
今回の静山龍山の彫駒は左から右の銘です、画像を添付しますので参考にして下さい。
銘書きは作者の命ですからとても大事な事で、銘書体も大事にしていたと思います。
日本の風習からもフリーハンドでサインする場合には花押を付けたり、又は印影を用いたりします。
静山も銘を書く時には何らかの工夫をしていたと思います。
第一に銘は毎回異なっては意味がありません、何時でも同じ書体で書けなければなりません。
初期の静山龍山の駒の銘はトミ未亡人の依頼ですから、おそらくトミ未亡人が見本として紙に書いたのではないかと私は思います。
静山は毎回その見本を見ながら似せて銘を書いたのではないかと思います、ですから左から二番目までの銘は静山にとって自然な書き方ではなかったと思います。
キコリさんが本駒が昭和21年頃以前の作品と言った言葉には、静山の初期の作品は総て豊島字母帳のコピーであったが、22年頃には豊島字母帳を買った宮松から字母の権利を主張されて、静山は豊島字母帳のコピーが出来なくなり、止む得ず多少の書体変更をして静山流の字母を作る事になったからです。
この事は静山龍山作品も同じで、昭和25年頃の静山龍山作品も豊島字母のコピーではなく静山流の字母が用いられています。
トミ未亡人は豊島親子が亡くななった後、昭和17年頃、豊島工房の生地や字母紙など、駒製作資材を宮松関三郎に売却し、豊島工房の土地建物を売却して熱海の実家に帰りました。
即ち、豊島字母の権利は宮松に移管されたも同然だったのです。
ですから、静山は宮松からのクレームにより、静山銘の駒も静山龍山の駒も豊島字母帳のコピーから静山流に変更する事になったのです。
で、その書体変更の時期が銘を変更する時期と同じで、静山銘は「すてろ+」から「すてノろ+」に静山龍山銘は真ん中の銘に変更した時期と同じ時期だったようです。
その時期はおよそ昭和22年から24年の頃だったようなのです。
豊島字母の権利問題を解決した書体変更後には、静山龍山の駒銘も静山流の右の二つの銘になったのです。
既に忘却となってしまった戦前戦後の事実は、絡まった糸を解すようなもので、私の上の文章も完全な事実を反映しているとは限らず、まだまだ途中経過で、新たな物証や文献の発見次第では簡単に覆ります。
でも、その積み重ねが大事で真実に近づく唯一の道だと信じ、荒唐無稽や閃きこそが絡まった糸を解すエネルギーだと私は思います。
ですから、案山子さんの予想する第3の駒師とは誰でしょうか?
ヒントになるかも知れません是非教えてください
Re: 静山龍山の彫り駒
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 8月27日(月)21時30分46秒
返信・引用
>
No.250[元記事へ]
>モンキーさん
静山による龍山作・安清書を拝見しました。貴重な資料の発見、おめでとうございます。
状態もとてもよさそうでグッドですね。ところでこの銘は左から右タイプでしょうか。
静山龍山銘ですが、左から右に銘が書かれているタイプと右から左に銘が書かれて
いるタイプで、次の4点が異なるように思えます。
これはモンキーさんのホームページにアップされた5つの静山龍山銘から相違点
を私なりに探ってみた考察です。
1)「山」の一画目の「入りの型」が明らかに違うと思います。
左から右タイプは明らかに最初に強く留めてから下におろしています。(これは
左の2作に共通ですが真中は違います)
右から左タイプはスーっと力を入れずに抜けて入っています。
静山自身の銘は後者のスーっと抜けるタイプで生涯統一されているように感じます。
2)「作」の五画目の下への長い棒ですが、
左から右タイプは下に真っ直ぐです。(これは左の2作に共通ですが真中は違います)
右から左タイプは左にややふくらみ(カーブをして)戻ります。
静山自身の銘は後者で生涯統一されているようです。
3)「山」の二画目の縦から横への角度についてです。
左から右タイプは90度以上で鈍角です。(これは左の2作に共通ですが真中は違います)
右から左タイプは90度以内で鋭角です。
静山自身の銘は後者の鋭角で生涯統一されているようです。
4)龍と山と作の字の間隔についてです。
左から右タイプは龍と山と作の字の間隔が広く空いています。(これは左の2作に
共通ですが真中は違います)
右から左タイプは龍と山と作の字の間隔が狭いです。
静山自身の銘は後者で生涯統一されているようです。
この4つのことから推察されることとして。
A)左から右タイプ2つは何かの理由で静山が強く意識して、筆致の癖や文字間隔
までを変えている。
B)左から右タイプの左側の2つは静山が書いた銘ではない。
C)これら4つの特徴から考えると、真中は静山である。
A)だとすると、「何かの理由」に興味があります。静山師はかなり几帳面な性格
だったと見受けられ、今回は右から、次回は左からと、気まぐれに使い分けた
とは、考えずらいからです。一番可能性が高いのは発注者からの要請です。
つまり龍山銘は元々は左から右タイプだったのだから、同じようにそうして
欲しいという要請です。(このタイプを正義感の強いモンキーさんはあえて
「偽作」と強い言葉で称し、位置づけて(区別して)いるのではないかと思います)
ただ、ここまで自分の文字の癖までを変えるというのは不自然には感じます。
そこまで細かく変えなくても左から右タイプの銘であれば事足りると思うからです。
B)だとすると豊島工房の誰か(数次郎を含め)ということになるのでしょうか。
それとも外注で静山師以外に龍山銘を使えた第三の駒師が存在したのでしょうか。
筆跡から鑑みて一人候補を見つけましたが、さすがに荒唐無稽そうなので(笑)
書かないようにします。
結論は?と聞かれると困るのですが、ある程度の推論は出来つつありますが
正直まだ思案中です。もう少し調べてみたいと思っています。
私は商売柄、サインや印章については神経質に見る傾向があります。
どんなに巧みに模写をしても字の小さな癖まで真似するのはかなり大変です。
そんな観点からモンキーさんの貴重な資料を分析させてもらいました。
Re: 静山龍山の彫駒
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 8月27日(月)19時41分0秒
返信・引用
編集済
>
No.251[元記事へ]
キコリさんどうもです。
確かにあまり上手とは言えません、特に漆の塗りが素人同然でベッタリと塗られ、やげんにはホコリすら見られます。
作品に力を込めなかったのではなく、この時には力量が無かったのではないでしょうか
そんな事からも実は私も昭和21年以前、おそらく戦前の作品だろうと考えます。
影水の安清作品は私は未だ見た事もありませんが、宮松の後年に数作作られた幻の駒と聞いています。
もし、書体(雰囲気)が同じであれば宮松も、豊島字母帳の安清書体の駒は古い書体だけに数が少なく、戦前の静山作品を龍山作品と勘違いしたかも知れませんね(^_^)
豊島字母帳の安清書体の駒は古い書体だけに数が少なく、宮松もそんな勘違いをしたかもですね。
処で、キコリさんは暑い事をサカナに毎日飲んでいるそうです
まだまだ残暑は長引きそうですから飲み過ぎにはご注意ください(^_^)
静山龍山の彫駒
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 8月27日(月)12時36分44秒
返信・引用
拝見いたしました。モンキーさんの書かれている通りで、静山龍山の彫駒ですね。大変に珍しいものであると思います。また、私はこの作品を「偽作」であるとは考えません。あくまでも「豊島工房の駒」として捉えたいと考えます。
しかし、あまり上手とは言えませんね(笑)。彫に関しては、それほど力を込めて作ってはいなかったのでしょうか。
ただ、この「安清」の書体で気になる事があります。それは、影水の「安清」と字母がまるで同じである事です。静山は、影水から豊島字母に関しては制約を受けておりましたので、この作は、それ以前(つまり、昭和21年以前)の作ではないかと思われる点です。
影水自身、「安清」を作る事は珍しく、数も少ない品ですが、字母が一緒である事には興味を惹かれました。
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