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Re: 豊島・花押、信華・花押でないのはなぜか
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月17日(月)11時47分45秒
返信・引用
編集済
>
No.333[元記事へ]
>まち駒さん いくつもの興味深い問題提起をありがとうございます。
私なりに考えてみますと「清定花押」について可能性として考えられるのは
1)清定の花押がどこかに存在していて、それを豊島がそのまま書き写した。
2)清定の花押を豊島が何かの理由で創作して入れた。
ということでしょうか。通常ですと、2)の他者の印章や署名にあたる花押を第三者が
創作するということはいくら豊島でも少々僭越な行為で有り得ないでしょうから、
私は1)ではないかと考えました。
そうしますと清定という人物が過去に存在していたことになります。
普通に考えますと「豊島花押」とするのが花押を入れる必要性があれば自然だと
思います。「清定花押」と入れたのは不自然かなと直感的には感じました。
そこには何か大きな理由が存在するのかもしれませんが私には思いつきません。
花押を入れる必要性についてですが、この清定駒はキコリさんの言われる「清定は
信華との婚礼の引き出物として計26組が作られており」ということですので、結婚と
いう大イベントの引き出物という記念品に、特別の意味「祝」を込めての花押だった
のではないかと推測します。
清定を豊島の創作書体とする説はとても興味深いですが、もしその場合には
「豊島花押」と「清定」とするのではないでしょうか。
またはキコリさんがおっしゃるように「豊島花押」と「豊島書」あるいは「龍山書」と
するのが自然ではないでしょうか。
大橋宗桂について
投稿者:
まち駒
投稿日:2012年 9月17日(月)11時47分30秒
返信・引用
みなさんおはようございます。
いろいろご意見をいただき、ありがとうございます。
モンキーさん、早速で恐縮ですが、ホームページにある「大橋宗桂造 水無瀬形」の大橋宗桂について。「十一世名人大橋宗桂」とあるのは誤りで、十一世名人は八代伊藤宗印です。大橋本家十一代大橋宗桂のことではないかと考えられますので、今一度ご確認いただければ幸甚に存じます。
Re: 守田長禄
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月17日(月)11時14分16秒
返信・引用
>
No.336[元記事へ]
キコリさん
守田寳丹の話は面白く、歴史のある薬で江戸や東京では有名な老舗ではないかと思います。
私は田舎者で、子供の頃から「森下仁丹」が有名で親からよく飲まされたものです。
正直、「守田寳丹」は将棋の長禄書を調べて初めて知ったのですが、効能など「森下仁丹」と同じで仁丹のパクリかと思いました。
でも、実は「守田寳丹」の方が古く有名であったらしいのですが、江戸っ子や東京の人にとっては、「守田寳丹」と「森下仁丹」とではどちらが有名なのでしょうか?
駒に関係ない話で申し訳ないのですが、子供の頃から「森下仁丹」にお世話になった身ですので、少々気になりまして。
Re: RE:新書体の開発者
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月17日(月)10時45分12秒
返信・引用
編集済
>
No.335[元記事へ]
キコリさん
まち駒さんは、正しく文章を解釈をした上で意見を書かれたと思います。
銘駒図鑑では「書体名 清定の下に記された文字は花押(かおう)といい豊島の作であることを示します。」と書かれています。
私も、この文章を読んだ時、まち駒さん同様に、書体名の下に書かれた花押を駒作者の花押と解釈している事に疑問を持ちました。
もし、キコリさんと同様の理解では「書体名 清定の下に記された文字は花押(かおう)といい清定の書体であることを示します。」と書かれるべきです。
まち駒さんはこの文章の違いを理解した上で、名駒図鑑の文章を「清定書とは豊島の創作書体」と理解する事もでき、同様の解釈をすれば、信華も「源兵衛清安とは信華の創作書体」と言えるのでは、と、意見を書いたのだと思います。
もし、名駒図鑑の文章の意図がキコリさんと同じであれば、名駒図鑑オーナーの文章は明らかな間違いです。
私も、自分のホームページを持っていますが、何度も自分の文章を読み返し、自分の意図する文章となっているか、新たに解釈が変わったなどで気付いた点があれば即訂正しています。
しかし、全部が完璧に表現されているとは言えず、元来自分は理系で文系は非常に苦手です。
上記の様な間違いを私も多数犯していると思いますが、自分では気付かず、皆さんが、気付いた時には注意してほしいのですが、なかなか遠慮して言い難いのではないでしょうか。
もっとも、私の場合には多過ぎてあきらめているかも知れませんね。m(__)m
守田長禄
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月17日(月)10時08分20秒
返信・引用
編集済
豊島作 長録書の元字を作ったのは本名九代目守田治兵衛で、号を静松園、長禄としておりました。
「守田寳丹」は、守田治兵衛商店の雅号であり、現在も東京の上野池之端に店舗を開いております。また、「寳丹」は守田寳丹で販売をされている薬品の商標名でもあり、それが基で守田治兵衛は守田寳丹とも呼ばれるようになります。
この、寳丹と呼ばれる薬は、江戸末期より大変に流行り、特に当時「コロリ」(コレラ)の予防薬として大変によく売れ、明治期になり国の薬事登録第1号として有名ともなりました。元々は現東京大学医学部の教鞭に立っていたオランダ人医師の処方によるものとも言われ、海外にまで販売をされ、治兵衛の店「寳丹」の発展と共に、その書は「縁起の良い字」とされもてはやされた物です。
豊島は、その縁起の良い字を「長禄書」として使う事とし、治兵衛没後、それをまたアレンジして「長録書」としたとされております。
まち駒さんは示された著書から、右下がりの字とされておりますが、実際には左下がりの書も多く存在をし、時期によりその違いがあるようです。ともかく、駒の書体としての「長禄書」は右下がりとなっており、明治後年となってからの書であると考えられます。
豊島と守田の接点は牛谷一族(鹿島清左衛門一族)によるもので、牛谷と伊藤宗印・関根金次郎の係わり合いにより実現が出来たと思われます。治兵衛は明治25年には家督を息子に譲り、政治活動や趣味の世界に生き、大正元年には亡くなっておりますので、その書に対する使用許可に関しては定かではありません。
RE:新書体の開発者
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月17日(月)07時59分2秒
返信・引用
編集済
まち駒さん
面白い新説ですが、花押についての基本的な事を理解をされてはいないようです。
本来、駒の「銘」とは一体何であったのでしょうか?また、花押とは何を意味していたのでしょうか?
もともと、駒には作者名などは存在をしてはおりませんでした。作者の作る駒の書体自体が作者を意味していたからです。書体名と作者名の両方が入ったのは「宗桂作 水無瀬形」からであり、それは本来の作者である真龍もまた同じように「水無瀬形」「金龍形」「董斎書」(董斎は数多くの大橋家の駒字を残している)を作者名と共に書き記したことから始まり、自分の名前である「真龍書」には作者銘を入れていないことからも明らかです。
花押は、本来自分の書に対するサインとしての意味を持ち、菊文字、桜文字等意味を持って記されたもので、それらはある一定の法則で「字」として読めるように書かれているものであり、それらは明治以降「印鑑」の発達と共に失われていったものです。
豊島が、「豊島作」としての意味で花押を入れるのであれば、それは彼の名前の一字を取って記されるべきであり、まち駒さんの新説のように書体銘を創作をした意味であるとすれば花押としての意味を全く無視した行為となります。
また、豊島自身が「豊島作 安清作(花押)」に於いても、その花押は安清の一時代の花押そのものを使用をしており、その花押自体が「安清」のものであることを証明しております。
銘駒図鑑は、私も開設時より会員として所属をしており、現在掲載がされている「清定書」も私が所有をしていたものですが、銘駒図鑑自体がまち駒さんの新説のような解釈をしてはいない筈です。少なくとも「銘駒図鑑」の管理人さん(オーナー)と私との話の中においては、そのような解釈は存在をいたしておりません。一度、銘駒図鑑に於いてメールにて質問をされては如何でしょうか。
文章に対する解釈はその方によっていろいろと違う場合もあり、また書き方により捉え方が変わってしまう事はままありますが、まずはそれが書き手の正確な意味をすることかどうかを確認をする事も大事なことであると思います。
もっと基本的な考え方からすれば、もし数次郎、あるいは太郎吉が「清定」という書体を完全に最初から創作をしていたのであれば、それは「豊島書」あるいは「龍山書」となるのではないでしょうか。
「清定」という全く豊島家とは関係のない名前を書体銘とする理由が見当たりません。
長禄戯画のご紹介
投稿者:
まち駒
投稿日:2012年 9月17日(月)00時54分6秒
返信・引用
長禄、または、長録の名で親しまれている書体の守田寳丹の著書から、挿絵をご紹介します。
本来文字を書く場合、右上がりに書くことが一般的ではないかと思いますが、私が見たところ守田寳丹という方の文字は右下がりです。この右下がりの字は大変読みづらいのですが、そこが良い味となっているのでしょう。
守田寳丹著『変災前知身體保全法 全』明治28年発行、明治29年増補発行より。
豊島・花押、信華・花押でないのはなぜか
投稿者:
まち駒
投稿日:2012年 9月17日(月)00時32分29秒
返信・引用
キコリさん、ご意見ありがとうございます。
「銘駒図鑑」の「書体名 清定の下に記された文字は花押(かおう)といい豊島の作であることを示します。」という文脈から、私は「『清定』に花押を入れたことが、とりもなおさず『清定』=豊島であることを示している」と読み取りました。彫り銘のことを指すのであれば、この駒は「豊島作」と刻まれているのですから花押の話との結びつきがありません。
私が違和感があると思ったことは、本来花押を入れるのであれば「豊島作」と刻んだ方で、こちらが「豊島・花押」となっているのが自然であるのに、何故、「清定」に花押を入れたかという点です。
案山子さんのおっしゃるように、数次郎・信華という夫婦は花押が図案的に好きだったとも考えられますが、それでは、何故、「豊島・花押」、「信華・花押」ではないのかという点に、いまひとつ考察の余地があると思います。
新書体の開発者
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月16日(日)16時43分37秒
返信・引用
まち駒さん
銘駒図鑑の解釈は彫り銘の事を指すものであると思います。
残念ながら、その花押は「清」の字の花押であり、他に数次郎は安清(花押)、清安(花押)の駒も作っております。ちなみに、清定は信華との婚礼の引き出物として計26組が作られておりますが、今まで見たものは6組で皆秀逸なものばかりでした。
数次郎と信華の結婚は、将棋界の東西融合をも視点に入れたものであり、数次郎にとっては関西の棋界人に対するお披露目としての渾身の作品群であったと思われます。
新書体の開発者
投稿者:
まち駒
投稿日:2012年 9月16日(日)14時12分45秒
返信・引用
モンキーさん、案山子さん、ご意見ありがとうございます。
案山子さんがご紹介くださったURLから「豊島作・清定(花押)」の駒を拝見しました。その解説中の、「書体名 清定の下に記された文字は花押(かおう)といい豊島の作であることを示します。」との記述は大変興味深いところです。
なぜならば、これは、言外に「豊島数次郎」=「清定」であることを示唆するものであり、「清定」が過去に存在した人物でなく、豊島数次郎自身であったならば、「花押」を入れるのはごく自然であると考えられるからです
ここで、「清定」を「新開発の書体名」として話を進めますと、この書体を開発したのは豊島数次郎であり、開発者本人であるからこそ、花押を入れることが出来たとの解釈も可能です。そこには「清定」は自身が開発した書体であるので、むやみに模倣をしないでほしいという気持ちも込められていた気がします。
「清定」が豊島数次郎の雅号であるのか「駒銘」であるのか、また、駒の世界で「花押」がどの程度厳密な意味で使用されていたかという疑問はさておき、豊島数次郎が「書体名 清定」に花押を入れて、「これは自分自身が書いたものである」とした目的は以上のようなことではないでしょうか。
同様に「源兵衛清安」の書体開発者は「信華」であり、開発者本人(「源兵衛清安」=「信華」)であるからこそ「花押」を入れることが出来たのではないかと推測します。
Re: 源兵衛清安・花押について
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月16日(日)10時36分40秒
返信・引用
>
No.326[元記事へ]
>まち駒さん
>>そもそも花押を本人以外が書くことはないわけですから、源兵衛清安とは、
>>信花の雅号であり、信花こそが、源兵衛清安本人ということではないのでしょうか。
鋭いご指摘だと思います。普通ですと花押しは本人が他者と明確に区別するため
の署名または印章のように使われたもののようです。つまり本人以外に書くわけが
ないのですね。そういう点でこの源兵衛清安花押のマークは源兵衛清安の花押し
だということは間違いないと思います。
そして、信華が源兵衛清安花押と書いた意味ですが、まち駒さんがおっしゃるように
信華自身が源兵衛清安だったという考えと、信華が実見した源兵衛清安花押という
署名を何かの理由で駒尻にそのまま記載した。ということなのだと考えられます。
モンキーさんがおっしゃる「数次郎も清定花押の駒を作っており」という駒は
以下のURLにある駒だと思います。清定または清定書とするところを清定花押と
なっていることも、なにかの理由があったのだと感じます。
数次郎・信華という夫婦は花押しが図案的に好きだったのかもしれません。
http://meikoma.com/moriagezukan.html#toyosimakiyosada
Re: 花押に着目しました
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月16日(日)00時53分7秒
返信・引用
編集済
>
No.328[元記事へ]
まち駒さん
源兵衛清安花押の意味はまち駒さんのご意見通りかと思います。
数次郎も清定花押の駒を作っており、豊島は自分の署名として花押を付けたのではなく、元となった駒書体の作者の花押を入れたのだと考えるのが自然に思います。
ですから、信華も源兵衛清安の駒を持っていたか、実見していたので元駒の花押をそのまま入れたと考えるべきかと思います。
片や、静山は豊島のコピー作者であり、その書体は豊島字母帳から逸脱しませんが、源兵衛清安だけは静山によって完成された書体となっています。
静山も実際に源兵衛清安の駒を見たので、豊島字母帳書体から逸脱してでも本物の源兵衛清安のイメージに忠実に作ったのではと考えられ、私もそのように考えていました。
もし、信華が源兵衛清安と銘を記した年代が明らかになれば、源兵衛清安銘の謎に近づけると思いますが、その年代が判明しておりません。
豊島字母帳と包み紙の筆跡から、信華は豊島工房から駒木地を供給されていた事が、ほぼ判明されましたので信華の源兵衛清安の駒木地を調べればおよその年代が判明するかも知れません。
正確ではありませんが、豊島の駒は時代と共に少しずつ大きくなっている傾向にありますので、大雑把ですが判断が可能かと思います。
そんな意味からも、弘さんの信華の駒を是非実見したいと思います。
それでも、まだまだ信華についても源兵衛清安についても、想像の域を越えず、完全な結論が出せる訳ではありませんが、真実に一歩でも近づけるのではと思います。
謎の美人駒師信華、ロマンですね。
花押に着目しました
投稿者:
まち駒
投稿日:2012年 9月15日(土)23時18分2秒
返信・引用
こんばんは。
キコリさん、はじめまして。ご意見ありがとうございました。
私は、「花押」に着目しました。これは、花押も署名の一種であることから、「源兵衛清安本人が書きました」と見るのが自然であると考えたからです。駒尻に「○○書」とあるのと、「○○花押」とあるのとでは、その書の重みがぜんぜん違うと感じられました。
RE:源兵衛清安・花押について
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月15日(土)22時12分36秒
返信・引用
まち駒さん はじめまして。
>源兵衛清安とは、信花の雅号であり、信花こそが、源兵衛清安本人ということではないの>でしょうか。
さて、どうなのでしょうか。私は違うと思っております。信華には多くのロマンが秘められております。増田開新堂の娘として生まれ、女流駒師として阪田三吉をはじめとした、関西の棋界人のマドンナとしての時代、数次郎との東西交流の一環としての結婚、離婚後の役者としての一面。そして、なぜ東京に居残り、関西には駒が殆ど残っていないのか?
多くの謎を残した駒たち。どのようにして作られ、どのように販売がされたのか。そして、なぜ源兵衛清安が誕生をしたのか。謎は謎を呼びます^^。
--------------------------------------------------------------------------------
源兵衛清安・花押について
投稿者:
まち駒
投稿日:2012年 9月15日(土)19時24分26秒
返信・引用
いつも楽しく拝見しています。
弘さんの「信花作、源兵衛清安・花押」の駒について。
そもそも花押を本人以外が書くことはないわけですから、源兵衛清安とは、信花の雅号であり、信花こそが、源兵衛清安本人ということではないのでしょうか。
ついでに
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月15日(土)03時23分24秒
返信・引用
ついでに、竹内淇洲の父伊蔵(確か、どなたかが、その遺品の駒を持っておられましたね)
の明治初期の詰め将棋。
RE:高浜偵の著名
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月15日(土)02時46分22秒
返信・引用
高浜禎、大正5年の詰め将棋、お楽しみあれ。
Re: 高浜 禎氏の著名
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月14日(金)22時49分24秒
返信・引用
>
No.321[元記事へ]
>まち駒さん
はじめまして。ようこそ、いらっしゃいました。
高浜 禎氏の署名と住所の画像アップをありがとうございます。
高浜 禎氏は大阪の西区に住んでいたのですね。
達筆で驚きました。貴重な資料ですね。
またこれからもよろしくお願いいたします。
Re: 高浜 禎氏の著名
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月14日(金)19時53分33秒
返信・引用
>
No.321[元記事へ]
まち駒さんはじめまして。
高浜禎の「萬おぼえ帳」の中にも高浜禎の文字が沢山書かれており、筆跡が良く似ています。
また、高浜禎の持ち家についても書かれていますが、自宅については書かれていませんので、非常に参考となる資料かと思います。
『詰将棋精選』の巻末に添付されていたとの事ですので高浜禎の持ち物かと思います。
あるいは、知人や愛読者などが連絡の為に本人に書いてもらったのかもしれませんね。
珍しい資料を公開して頂き本当にありがとうございます。
将棋の歴史についてはまだまだ解明されておらず、皆さんの資料が一つの点となり、それが沢山集まれば線になり、そして面となります。
大勢の方からこのような資料が集まり、大勢の先輩諸氏の知識や経験が集まればきっと謎は解明されるのではと私は思います。
今後とも是非どんな事でも教えていただければ幸いですのでよろしくお願いします。
ありがとうございます。
高浜 禎氏の署名
投稿者:
まち駒
投稿日:2012年 9月14日(金)16時09分27秒
返信・引用
編集済
はじめまして。
駒の世界では「萬おぼえ帳」で知られている、高浜 禎氏の署名を紹介します。
この署名は氏の著書である『詰将棋精選』の巻末に添付されていたものです。名前だけではなく、住所も記載されていることから氏自身の所有品であった可能性が高いと推定しています。
円タクの当時の料金
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月14日(金)14時52分1秒
返信・引用
>
No.318[元記事へ]
>キコリさん ばたさん
1円=10,000円くらいということでアドバイスをありがとうございます。
ばたさんの円タクとの比較で興味があったのですこし調べてみました。
円タクとは「一円タクシー」 の略で大正末期から昭和初期にかけて,一円均一で
市内特定地域を走ったタクシー。のことのようです。
時期的にはこの長禄書の領収書の昭和4年にピッタリで参考になると感じました。
そこで円タクの1円の貨幣価値を調べてみました。こういうブログの書き込みが
ありました。
「ところで“円タク”の当時の料金“一円”というのはいま換算すると、幾らぐらい
だったんでしょう」
「換算は難しいけど“円タク”の料金は、月桂冠の特級一升と同じ値段だったという
から、いまならさしずめ3千円位かねぇ・・・・」
http://ameblo.jp/lionman/day-20071001.html
(引用先)
つまり1円=約3000円ということになります。
そこから計算すると長禄書の駒箱付きの小売価格は。
30円=約90000円となります。
当時、豊島工房がいくらくらいで盛上げ駒を売っていたかというのは私は
けっこう興味がわいたので、調べてみました。
(元はモンキーさんが資料をアップしてくれたから思いついたことでしたが)
今の盛上げ駒の相場価格と比較して質の割には非常に安いなというのが実感です。
なお日銀が公開している企業物価戦前基準指数というのがあります。これですと
明治34年からの物価指数が調べられます。ご参考までに。
http://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/11100021.htm/
Re: RE:誰が書いたのか
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月14日(金)12時00分27秒
返信・引用
>
No.318[元記事へ]
案山子さん
字母紙と包み紙を書いた人物は私も太郎吉ではないかと思います。
トミさんが「おじいさんは字母の管理はそれは厳しかった」と言っていますので太郎吉が字母帳を作ったと考えるのが自然ですし、領収書を書いた人物も同じだとしたら太郎吉である可能性が高いですね。
いずれにしても、信華は離婚後には豊島工房の助けを借りて東京で駒作りをしていた事は間違いないようですね。
それに、信華が清安書体の駒を作った頃には良い木地を渡していた事をみると、かなり離婚後の信華を大事にしていたのでしょうね。
太郎吉は関西の坂田三吉や増田芙蓉に対して二人の離婚という結果に対して最大の配慮をしたのでしょう。
信華については、私にはまだ疑問があります、それは弘さんの信華の駒名は源兵衛清安で私の信華は清安ですが、書体は全く同じ字母紙から作られています。
おそらく、名前の違いは製作された年代が違うと思うのですが、源兵衛清安の書体名は静山が昭和25年頃に命名したと考えています。
しかし、信華が同じ書体を「清安」として15年以上作り続け、15年の歳月を経て静山が源兵衛清安と命名したから信華も源兵衛清安としたとは考え難い事です。
むしろ、源兵衛清安の駒名は信華が先に命名して使用していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
あるいは豊島工房では「清安」の書体構成は二種類ありましたので、工房内で区別する為に信華に渡した書体を源兵衛あるいは源平と呼んでいたのではないでしょうか。
豊島と奥野はほぼ同じ書体を駒名を変えて作っています、奥野の宗歩好を豊島は清安として作っておりますが、奥野錦旗書体構成の駒も清安として作っており、二種類の清安が存在し混乱の原因なのに豊島は何故この書体を源兵衛清安としなかったのかと疑問を持っています。
もしかしたら、豊島の源兵衛清安の駒が存在するのかも知れませんが、それは私にとって幻の駒であり是非実見したいと思い、できれば手に入れたい駒でもあります。
キコリさん
将棋版の文字解読はよろしくお願いします、それまではキャバクラの件は行ってない事にします、私は口が堅いですから安心してください。(^_-)
キコリさんは牛タンのカレーを飲むのが好きなんですか?
変わってますね、カレーは良く噛んで食べないとダメですよ(^_^)
RE:誰が書いたのか
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月14日(金)03時14分20秒
返信・引用
昭和初期の30円は、私の認識でも約30万円ですね。円タク(1円タクシー)が1円で都内なら乗り放題だったとか・・。
RE:誰が書いたのか
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月13日(木)21時59分41秒
返信・引用
案山子さん
>ここでみますと、昭和4年当時の白米10kgは2円40銭です。
>現在の白米10kgを5000円とすると、約2500倍です。
>この豊島龍山の長禄が30円ということは現在の貨幣価値に換算すると。
>30円 X 2500 =75000円となります。
実は、私もその昔、豊島作長録書の価値を調べる為、当時の貨幣価値を調べてみたことがあります。その段階では、現在の化成価値に換算して約30万円ではないかと計算上は出ました。
当時は、白米は高級食料品であったと思われます。
モンキーさん
将棋盤の字なのですが、未だに解読が出来ておりません。これは難しい宿題ですね。今しばらく時間をください。なお、私はキャバクラには行きません。w 今は、自分の好きな酒(タンカレーのラングプール)を飲んで楽しんでおります、ヘヘ。、
Re: 誰が書いたのか?
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月13日(木)21時14分6秒
返信・引用
>
No.311[元記事へ]
>モンキーさん
また貴重な資料と信華清安のアップをありがとうございます。とても参考になりました。
豊島長禄の当時の駒暦書と領収書はとても生々しい記録ですね。
信華清安を拝見すると、これはやはり信華の独特の盛上げなのだと感じました。
類似点を追っていきますと、弘さんの駒もやはり信華本人の盛上げだと思います。
>>この領収書をみると、私には「杢」の字は別人に思えるが、包み紙の「楊」の
>>字と領収書の「物」の字が同一人物の筆跡に思えます。
「楊」の字と領収書の「物」の字を拡大してみました。画像をアップします。
また似ていると思われる包み紙の「目」の字と領収書の「円」の字を拡大してみました。
私の筆跡鑑定ではなく筆跡感想としては、この2つの類似性から同一人物と思い
ました。特に「目」と「円」の一画目と二画目が作り出す角度と筆癖は同じ人が書いた
ものとしか私には思えません。
そして領収書を書いた人物と字母帳の書体名を書いた人物も同じということになると
かなりの確率で豊島太郎吉が書いたものだと推測されると思います。
昭和4年というと数次郎はまだ24歳くらいでしょう。その若さではこの手慣れた
領収書を書くのは無理ではないかと思うからです。木地の仕入れ、駒の営業
宣伝・販売・支払い・集金については豊島太郎吉商店の代表・太郎吉が全て
やっていたのではないでしょうか。
そういうことから考えますと、モンキーさんが奇跡的に発見された「商品説明書
でもある包み紙」は太郎吉が書いたことになると私は思います。
それがどういうことなのかはこれから楽しい話題になりそうですね。
この駒箱がおまけでついた「豊島長禄」が当時30円だったということで
今の貨幣価値に換算するといくらくらいなのか私なりに調べてみました。
明治~平成 貨幣年表
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J064.htm
ここでみますと、昭和4年当時の白米10kgは2円40銭です。
現在の白米10kgを5000円とすると、約2500倍です。
この豊島龍山の長禄が30円ということは現在の貨幣価値に換算すると。
。
30円 X 2500 =75000円となります。
当時は今よりも盛上げ駒が相対的に安かったのだと思われます。
この領収書は個人に発行されていて、つまり小売価格でしょうから
盤駒店への卸価格となると、4万~5万円くらいだったのかもしれません。
今もし75000円で豊島長禄が買えるのなら、飛ぶように売れるでしょうね。
Re: RE:誰が書いたの
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月13日(木)13時43分30秒
返信・引用
編集済
>
No.314[元記事へ]
キコリさん
> (アトハヒミツ^^)
えっ!もう一通あったんですか?
僕が盗みに入った時は他にはキャバクラの領収書しか無かったけどな・・・・・・(^o^)
駒暦書の訳ありがとうございます、昔の人の文字は達筆すぎで私には読めませんでした。
昔の人は普通に読めたのでしょうね。
元禄四方木口将棋盤の脚の文字も忘れずに読み解いてください。
私には「名代カム兵」か「名代久兵」と欲目で読めるのですが、本当の読み方を知りたいものです、是非なんとかお願いします。
弘さん
弘さんの信華の駒木地は杢も深く濃く良い木地で半端な木地では無く思います。
もし数次郎がこの駒木地で駒を作ったら信華よりかなり高額で売れるだろうに何故だろうと思います。
いったい信華は何処から木地を仕入れたのだろうかと疑問に思い、又、信華の多くは薩摩黄楊ですので杢目の入った駒は珍しく、弘さんの木地と同様なら良いな、とついつい入札してしまいました。
信華の駒の中には数次郎が作った駒も存在するとは思いますが、いつも内心期待しながら求めるのですが残念ながら私には運がないようで、今回の信華の駒も数次郎の作品ではありません。
もし、弘さんが静岡に来られるなら私のコレクションを比較してご覧いただける様準備します。
そろそろ、二回目のオフラインミーティングの話も出る頃ですので、その時にご希望があればお持ちします、逆に弘さんの信華の駒は是非見たいと思いますので、今からオファーしますのでよろしくお願いします。
そうそう、今回の信華の清安の程度は、漆の欠けはありませんが、使用している為の漆の減りが見られます、特に銀の裏が一番減っていますので画像で確認できると思います、また、画像では判断出来ないと思いますが、王将の一画目の漆が他に比べて妙に薄いです。
他には特に欠点は見られません、むしろ全体的には良い駒かと自分では思いますが、弘さんの駒の方がずっと良い駒ですよ。
RE:誰が書いたの
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月12日(水)23時34分16秒
返信・引用
編集済
それは、・・・でしょう^^
さて、長録の駒歴書ですが、こんなところでは
ーーーーーーーーーーーーー
長録駒歴
昭和5年寺内上京の際良駒
買方依頼仰ぎ下谷一沿一日
探しようやく目的豊島太郎
吉翁私有のもの譲受けかな
いまして
御品支払い代金三十円
(アトハヒミツ^^)
ーーーーーーーーーーーーー
ところで、この駒歴書と、仮領収書どうしたの?モンキーさん?これも
我が工房にあったもんだけど。。。
なんてネ^^。もう一個、駒歴書あるんだけどな~w。
>キコリさんの浮気現場写真もあるかもよ(^o^)
ん?それは一度見てみたい。。。相手は信華?
http://
Re: 誰が書いたのか?
投稿者:
弘
投稿日:2012年 9月12日(水)21時29分34秒
返信・引用
>
No.311[元記事へ]
>モンキーさんへ
信華の画像アップ、ありがとうございます
この駒、すなおに、すごくいいですねー。古駒ですがウルシの飛び等は無いんでしょうか?
現物見たいですね
作者は、やっぱり信華ですか?数さんではないですか?
>包み紙の文字は、上~清安まで一気に書いたように見えますが、どうですか?
数さん、または太郎さんの字と思いたいですね。
> 今回の信華は弘さんの駒の印象が強すぎて・・・・・・・・・つい
> 冷静に考えれば信華の清安は既に持っていますので必要ではありませんでしたね。(;_;)
> でも、出品画像では包み紙の存在はありませんでしたが、きっと、この包み紙が僕を捜していたのだと思います。それに駒だって信華作品の中では、弘さんの駒には及びませんが良い駒でしたので・・・・つい
>
> この駒の信華の画像をアップします、数十年は手入れがされていなかったので空拭きし、最後の仕上げにイボタ蝋が付いた布で拭きました。
> この作品も私には数次郎の手によるものとは思えませんが、木地は豊島工房の木地で、昭和の初期頃(10年以前)の木地と思われます。
>
> さて、信華作品について、この包み紙が核心的証拠になりえると思いますが、誰が書いたのかを追求できれば真実に迫れるとのではないでしょうか。
> そこで、先日キコリさんの長禄書の画像をアップしましたが、実は、この駒の駒暦書と領収書が何故か気付いたら私の所に残っております。(^_^)キコリさんの浮気現場写真もあるかもよ(^o^)
> 駒暦書は豊島が書いた物ではありませんが、領収書はこの駒の持ち主である太郎吉が書いた物と思われます。
> この領収書をみると、私には「杢」の字は別人に思えるが、包み紙の「楊」の字と領収書の「物」の字が同一人物の筆跡に思えます。
> しかし、正直私には筆跡鑑定は十分に自信を持って判断できませんが、もし太郎吉だったら・・・・・
> 離婚後に信華の面倒(駒の販売)は数次郎ではなく、太郎吉が密かに影になり心配してやったのでは?
>
> 少なくとも、豊島字母帳の作者と包み紙は同一人物と考えて良さそうですね。
>
>
>
>
Re: 誰が書いたのか?
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月12日(水)14時34分31秒
返信・引用
編集済
>
No.311[元記事へ]
追加
包み紙の「上杢目」の字と「黄楊 清安」の字の墨の濃さや筆圧が違いませんか?
信華の工房に木地を持ち込んだ時には包み紙には「上杢目」とだけ書かれていた。
信華が仕上て同じ紙に包んだ、そして太郎吉が受け取り「黄楊 清安」と書き加えた。
と考えるのは変でしょうか?
Re: 誰が書いたのか?
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月12日(水)13時01分40秒
返信・引用
編集済
>
No.310[元記事へ]
今回の信華は弘さんの駒の印象が強すぎて・・・・・・・・・つい
冷静に考えれば信華の清安は既に持っていますので必要ではありませんでしたね。(;_;)
でも、出品画像では包み紙の存在はありませんでしたが、きっと、この包み紙が僕を捜していたのだと思います。それに駒だって信華作品の中では、弘さんの駒には及びませんが良い駒でしたので・・・・つい
この駒の信華の画像をアップします、数十年は手入れがされていなかったので空拭きし、最後の仕上げにイボタ蝋が付いた布で拭きました。
この作品も私には数次郎の手によるものとは思えませんが、木地は豊島工房の木地で、昭和の初期頃(10年以前)の木地と思われます。
さて、信華作品について、この包み紙が核心的証拠になりえると思いますが、誰が書いたのかを追求できれば真実に迫れるとのではないでしょうか。
そこで、先日キコリさんの長禄書の画像をアップしましたが、実は、この駒の駒暦書と領収書が何故か気付いたら私の所に残っております。(^_^)キコリさんの浮気現場写真もあるかもよ(^o^)
駒暦書は豊島が書いた物ではありませんが、領収書はこの駒の持ち主である太郎吉が書いた物と思われます。
この領収書をみると、私には「杢」の字は別人に思えるが、包み紙の「楊」の字と領収書の「物」の字が同一人物の筆跡に思えます。
しかし、正直私には筆跡鑑定は十分に自信を持って判断できませんが、もし太郎吉だったら・・・・・
離婚後に信華の面倒(駒の販売)は数次郎ではなく、太郎吉が密かに影になり心配してやったのでは?
少なくとも、豊島字母帳の作者と包み紙は同一人物と考えて良さそうですね。
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