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RE;お彼岸

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月23日(日)10時56分42秒
返信・引用 編集済
  三代目安清ですか。。。多分これは豊島と高浜禎のいたずらではないでしょうか(笑)。 安清は明治後期まで39代も続いた駒師の家柄ですが、どこかに三代目作と呼ばれる駒が「多分」存在をしたのでしょうね。 なぜ、いたずらかな、などと書きましたのは、私の手元に高浜禎が覚え書き帳に「初代安清作」とした駒があるのですね。実は、無名でして「無名だから初代」などというような解釈しか出来ません(笑)。これは、牛谷露滴の遺品の中から出てきたものなのですが、牛谷が没落をしたのが明治後年で、高浜が記したのが大正中期と言うことから、幾つかの疑問が生じます。 三代目安清となりますと、江戸初期で未だ京都に居た頃の物なのでしょう。それを、関西で質屋をしていた高浜が質屋間の市で見つけた可能性がありますね。四代目からは江戸へ向かったことから三代目としてみたのでは(笑)で、豊島に頼んで「阪田好み」として作り、高値で売りさばいた。実は、高浜はそのような点では悪名高いのですね(大笑)。

http://

 

Re: お彼岸

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月23日(日)00時15分13秒
返信・引用 編集済
  > No.368[元記事へ]

案山子さん
ありがとうございます!
感激です、三代目安清の文字に囚われて安清の書体だと思い込みしてました。
案山子さんの太字の清安の書体との指摘で目が覚めました。
この駒の書体は間違いなく豊島の太字の清安です。
そうです、そうです清安です。
ご意見ありがとうございます。
さすがにネットの力です私自身安清書に囚われていたのです、目が覚めました。
書体に対する疑問は吹っ飛びました。
 

お彼岸

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月22日(土)22時41分2秒
返信・引用
  > No.367[元記事へ]

>モンキーさん

信華や源兵衛清安や細字の清安書体についての深い考察論文を拝読しました。
ケン坊さんと同じく私もモンキーさんの駒に対する研究と熱意と愛情を感じました。
物的証拠の少ない中で事実と推測を織り交ぜて積み上げてゆく考察は素晴らしい
ものと感じます。また東京都内の藤好の姓で登録している電話番号に全て電話を
するという行動力と熱意にはさらに畏敬の念を抱きます。

ケン坊さんが画像していただいた貴重な駒、「三代目・安清筆・坂田好・盛上駒」に
つきまして独断と偏見に基づく私見を述べますと・・・
これはまず数次郎の作と感じました。全体的に発する勢いやイメージが信華作とは
違うように私には感じました。では誰に近いかというと私が知っている駒師の中では
数次郎の品格ではないかと感じました。書体は太字の清安ですね。

ここからはさらに荒唐無稽な妄想に入りますが・・・・
この駒は坂田三吉翁に認められた数次郎が坂田翁から「三代目・安清」を命名され
その命名記念としてか御礼としてか、いずれにしろ数次郎が坂田三吉翁に贈った
駒だったのではないでしょうか?作る前にどの書体がよいか聞いて、それに対して
坂田翁が「清安がええな」と答えたような・・・そんなシーンが思い浮かびます。
その仲介にはおそらく信華か増田家が入っていたのではないかと推測されます。

彼岸の妄想として読み飛ばしてください。

 

Re: (無題)

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月22日(土)13時10分6秒
返信・引用
  > No.366[元記事へ]

ケン坊さん
三代目安清書・坂田好の駒画像のアップありがとうございます。
改めてこの駒画像を見ると、豊島の雰囲気がありますが、細部の書体に疑問点もあり、豊島らしい部分もあり、何とも私には自信をもって結論を出すには難しい駒です。

やはり実際にもう一度駒を見ないと漆や盛り上げ具合など画像からは正確に判断できず、何とも言えませんが、キコリさんや皆さんのお知恵を借りなければならない駒ですね。

画像だけから受ける私の印象としては、信華が下書きして数次郎が作った駒ではないか、との印象を感じますが、これも私の先入観から来るものかも知れず、皆さんのご意見を頂けなければなりません。
皆さんはどの様な印象を感じましたでしょうか?
次回のオフラインミーティングには是非実見させてください、この駒の話を肴に美味しい牛タンのカレーが飲めそうではありませんか。(^o^)

まち駒さん
藤好信華については私も調べましたが、途中で挫折しました。
信華は駒師から舞台役者になったといわれており、ならば藤好は再婚した苗字ではないかと想像して、当時の芸能関係者で藤好の姓を持つ人物を検索しますと「藤好昌生」が該当し、舞台や映画の音響技師として活躍した人物で、大正2年の生まれです、信華の相手としては同年齢か若干若い人ですので、もしやと探ったのですが、これ以上は出て来ませんでした。
そこで、NTTの電話案内で東京都内の藤好の姓で登録している電話番号を教えてもらいましたら、僅か40件程しかなく、ローラー作戦で全部電話して確かめてみましたが、2/3は留守で確認できず、1/3は間違いでした。
中には、怒り出す人も何人かいて、留守のお宅に再び電話する気持ちが失せて挫折しました。(;_;)

 

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月22日(土)08時20分20秒
返信・引用
  モンキーさんへ
 リクエストの、三代目・安清筆・坂田好・盛上駒の写真を送りましたので参考にして下さい。
 モンキーさんの投稿された文章を拝読致しました。駒に対する研究と熱意そして体力に敬意を評します。資料に基づいた仮説・推測とう興味深深で読ませてもらいました。
 今までわたし自身、深く調べることなく漠然と、過去の伝説・書籍・口述べ等を参考にして満足していました。モンキーさんのように疑問点を解明する気持ちは毛頭ありませんでした。モンキーと対抗心に燃えていますが、今は、年齢・体力的に及びません。
 これからは、モンキーさんに駒の研究に期待をお願い致します。
 

Re: 藤好信華作  源兵衛清安花押

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月22日(土)03時26分5秒
返信・引用 編集済
  こんばんは。

案山子さん
私も「藤好家に嫁いだので名前が藤好信華に変わった」ということを考えました。また、おっしゃるようにペンネーム等の意味もあったかもしれませんね。「増田信華」、「信華」、「藤好信華」の作成時期について今後の研究が待たれますね。

モンキーさん
「源兵衛清安は特定の個人を表す名前ではない」という説は、なるほどと感じました。「源兵衛清安」の「花押」が3種類ある場合、初代「源兵衛清安」、二代「源兵衛清安」、三代「源兵衛清安」という可能性も考えましたが、どうしても「信華」が「花押」まで模倣するとは考えられず、この推測は捨てたのです。「源兵衛清安」という名前が「花押」と共に突然出てきた背景に「信華」との関連を考えずにおられなかったのですが、モンキーさんの説ですと「信華」との関連性も含めて、確かにしっくりきますね。今後の研究に期待します。
 

Re: 藤好信華作  源兵衛清安花押

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月22日(土)00時12分27秒
返信・引用
  > No.363[元記事へ]

信華や源兵衛清安について、数々の矛盾と現実とが私の頭の中で渦をまいて昨夜は眠れぬ夜を過ごしました。
こんな時はもう一度基本に戻り、明確な事実関係だけを確認する事が大事だと思います。


清安とは、キコリさんの
>「3つの花押は、それぞれ清安の花押で、左から右へ古い順番となります。
>清安は、大橋家が京都から江戸へ移る際に同行をした安清の一派で、それが途中で尾張に滞在をした際に、居残ることとなり、幾代も続いた安清一派の派生した系統で、江戸後期には江戸へ移り、伊藤家と係わり合いを持つ駒製作者群の総称ですよ。ですので、いろいろな時代による花押が存在をしております。」

私自身の調査でも、実在する駒や歴実からキコリさんの説は正しいと思います、また、実際に清安=安清である事は実在する駒からも確認されており、また、多数残されている安清の駒の花押も「清」と「徳川紋」の二種類と思われます。

また、源兵衛清安の書体の原型は水無瀬にありと私は考えます、源兵衛清安と水無瀬の書体構成の違いは基本的にはなく、唯一「銀将」の将の字の略し方が違うだけです。
古い水無瀬の駒の小将棋の「銀将」は私の所有する清安と同じですが、古い水無瀬の中将棋の駒の「銀将」は源兵衛清安と同様に略されてはいません。
従って、源兵衛清安も水無瀬系書体の一種と私は考えており、清安一派ならば時代と共に自然に起こりえる書体変化だと考えています。

信華の父親、増田弥三郎が残した芙蓉の駒の花押も「徳川紋」と読め、増田弥三郎は清安一派の末裔あるいは徳川家家臣であった可能性を示します。
東の豊島、西の増田、この二人の結婚は政略結婚でもあり、両家の繁栄の為でもあった訳で、父弥三郎は娘信華が嫁ぐ際に数種類の清安一派の駒を持たせた可能性があります。
この事は、昭和の初期に豊島の「安清」と「清安」の駒の書体に一大改革(混乱)をもたらした時期があると思われ、それが、信華の持ち込んだ複数の古い清安の駒が原因であり、結婚した時期ではなかったのかと思えます。

また、豊島字母帳に残る細字の清安書体は信華の為に作られた専用書体であると考えれば、豊島作の細字の清安作品が存在しない(少ない)事も、また豊島作の源兵衛清安タイプの駒が多数存在する理由も説明がつきます。
また、信華作品の中でも清安書の駒は木地も良く、他の安清や金龍などの駒よりも明らかに良い木地が用いられ、信華にとっても特別な意味のある書体ではなかったかと推測できます。

そこで、源兵衛清安の書体名についてもう一度考えてみますと、源兵衛清安は特定の個人を表す名前ではなく、源兵衛とは水無瀬の時代から続く武家の清安(安清)一派の総称として用いたと考える事で、三種類の花押の意味も説明できます。

ここからは、私のロマンと想像ですが、離婚後の信華の心中は豊島への想いと実家への想いとが交差し複雑な心境ではなかったかと思います。
信華が自分自身の駒師としてのプライドはやはり父増田弥三郎から続く駒師としてのプライドであり、自分自身が武家の清安(安清)一派の末裔である事を主張する為に、清安の前に源兵衛を加え、父から嫁入り時に持たされた数種類の清安(安清)の駒の花押を入れたのではないでしょうか。
源兵衛清安花押は、信華が自分は水無瀬の時代から続く源氏の衛兵・清安の末裔である事を示す書体名と花押ではなかったのかと思うのです。
源兵衛清安を特定個人の名前ではなく、清安(安清)一派の総称と考える事で総ての謎が解かれるのではないかと私は考えます。

ケン坊さんは、将棋の駒収集家として50年の経験を有し、自費出版された書籍も多く、一般人として駒収集は日本一の人で、私も師匠と仰ぐ人物の一人で、こと駒の収集に関してはケン坊さんの右に出る者はいないと私は思います。
ケン坊さんが集めた多くの名駒はそれぞれのコレクターの手に渡り、その一部は私も譲り受けていますが、今日現在でもケン坊さんが保有する将棋の駒は1000組を超える数に上ります。

そんな中の一組である「坂田好・三代目安清」の駒が今私の脳裏によみがえります。
初めて見た時の印象は、作品の出来から豊島作品ではないか?・・・と思ったのですが、その時は、誰かの悪い冗談作品ではないかと深く考えもしませんでした。
しかし、今は信華の清安作品を想像する時に、ふと「坂田好・三代目安清」の駒は信華あるいは数次郎が、その時の覚悟を駒に込めて「三代目安清」として、大阪の恩師に贈った駒ではないか、と思える気がします。
信華の祖父、増田弥三郎の父は安清一派の一人であった可能性も高く、私の想像のひとつの根拠にもなり得ます。

ケン坊さん、是非もう一度「坂田好・三代目安清」の駒を見せて下さい、お願いします。
 

Re: 藤好信華作  源兵衛清安花押

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月21日(金)22時27分58秒
返信・引用 編集済
  > No.362[元記事へ]

>まち駒さん

>>「藤好」が何を意味するのか、これもまた興味深いところですね。

これは普通に考えて、藤好家に嫁いだので名前が藤好信華に変わったということ
ではないでしょうか。または結婚に関係なく芸名かペンネームなどだったのかも
しれません。
単に藤の花が好きだったからということではないように私は思います。

 

Re: 藤好信華作  源兵衛清安花押

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月21日(金)11時51分52秒
返信・引用
  案山子さん

ご紹介ありがとうございます。
私は「豊島信華作」という駒でも存在するのではないかと推測していましたが、「藤好信華作」というのがあるのですね。
意外な駒が存在していたというのが正直な感想で、「藤好」が何を意味するのか、これもまた興味深いところですね。
 

藤好信華作  源兵衛清安花押

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月21日(金)10時08分29秒
返信・引用
  > No.356[元記事へ]

>まち駒さん

向かって左の信華は藤好信華作となっているようです。

源兵衛清安花押島黄楊根杢盛り上げ駒・藤好信華作
http://8ya.net/suiki/siryou/siryou/11gennbee_sinnka.html

ご参考までに。

 

いろいろと

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月21日(金)09時20分51秒
返信・引用
  ばたさん

ケン坊さんは、コレクションをしたご自身の棋具を本として自費出版をされているだけですよ。販売用の本ではないのですね。

ケン坊さん

もう11冊目になりましたか、じかんの経つ速さには驚かされます。

まち駒さん

3つの花押は、それぞれ清安の花押で、左から右へ古い順番となります。
清安は、大橋家が京都から江戸へ移る際に同行をした安清の一派で、それが途中で尾張に滞在をした際に、居残ることとなり、幾代も続いた安清一派の派生した系統で、江戸後期には江戸へ移り、伊藤家と係わり合いを持つ駒製作者群の総称ですよ。ですので、いろいろな時代による花押が存在をしております。

まち駒さんの書かれているようにそれが信華の号に関係がするのであれば、それらの花押はいったい何の字を花押としているのでしょうか?私には全てが「清」と読めます。以前にも書きましたように花押には「花文字」としていろいろな書き方が存在をしますが、そこには必ず自分としての「証」として自分の名前の一文字が入っており、単なるデザインではありません。また、基本的に花押は武家(たまに公家)のサインであり、女性は花押の歴史では存在をしているものを見てはおりません。花押には、花押としてのルールがあり、それを無視した考えを主張されることには疑問を感じます。
 

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月21日(金)08時21分34秒
返信・引用
  はたさんへ

 何もんなんです。に対して端的にお答えいたします。
 私は、福趣味っして囲碁・将棋の遊戯具の蒐集と研究をして楽しんでいます。本来の蒐味は、純文学小説にあこがれて、芥川受賞作家・野呂さん、また、川端受賞作家・小川さん達と交友の中色々とご指導頂きながら文学を楽しんでいました。もう2人共他界し寂しい思いです。しかし、生前に、自筆の色紙・書画・掛け軸・書籍のサイン等。約130~150点程の頂いた記念品を残すことが出来ました。
 最近は、高齢のため目が疲れやすく、小説を読む機会も少なくなりました。
 さて、私は、囲碁・将棋の遊戯具の蒐集と研究をいたことを定期的に、自分の資料として残すための自費出版います。
 したがって、一般に売り物として販売していませんのでご理解下さい。
 終わりに、あなたは何もんなんですか。
 

作者は信華

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月21日(金)07時34分39秒
返信・引用
  おはようございます。

ばたさん
私は「作者が別」という意味で書いておりません。作者は『信華』です。3種類の「花押」の疑問について、駒尻に「信華作」と書いた場合と「増田信華作」と書いた場合と、さらに仮定として「豊島信華作」とで「花押」を使い分けていたのではないかとの推論を述べました。

また、徳川美術館に源兵衛清安そっくりの駒があったとしても、それは「源兵衛清安」そっくりというだけです。駒書体としてひとつの完成形とさせ、初めて「源兵衛清安」という名称を使用したのは「信華」で、「源兵衛清安」=「信華」ではなかろうかというのが私の考えです。そうしてその「源兵衛清安」の基となったのは「豊島字母帳」の細字の清安である可能性が極めて高いと推測します。
 

無題

 投稿者:ばた  投稿日:2012年 9月21日(金)03時38分5秒
返信・引用
  案山子さん
調子にのるタイプなので「気を付けてください」(冗談です~)。
私なんかより、案山子さんの「ホスト」ぶりの方が、毎度感心してます。私のような「賑やかし」は、調子のいいこと書いて、面倒だったら「ほったらかし」の気ままな人間ですから。

ケン坊さん
ケン坊さんて、何もんなんですか?過去の書き込み(他所含め)等の内容からは「銘駒界に精通」している人と言う印象はあったのですが・・・。出版となると浮かぶ人がいないわけじゃありませんが。とにかく本出たら「買います!」。

まち駒さん、モンキーさん
一書体に3種の花押・・・。真面目に考えると、「なんじゃそりゃ?」と言う感じですね。
私は、この事を知る前までは「花押も真似した」と言う考えでした。(まち駒さんへの反論じゃないですよ)以前も書いたように、字母と言うのは書体の「くせ」までも真似る訳ですから、王将などの字、更には書いた人の名前や署名(花押)までも、コピーし、その文字を真似てその駒を作成した人、として「豊島作」のように、別に記した・・・と言う仮説でした。それが同じ文字に対し花押が3種となると、この仮説は立たなくなりますね。

また、徳川美術館に源兵衛清安そっくりの駒がある・・・と言うのが本当だと「信華の創作」の線もなくなる。

大した意味はない、と言う事はありえる。でも、逆に意味がないなら毎回同じである方が納得いく気がする。

そうなると、まち駒さんの考えの、「作者が別」と言う事か。お祝い用と言う事で、一時期に何組も作る為、職人が複数たずさわった。で、誰がどの駒を作ったのか分かるように花押を変えた・・・とか。

しかし、ネットって改めて凄いですよね。先人が膨大な時間や費用を浪費しないと分からなかった事や、その事柄の検討や外野を含めた意見が、数日でなされる。「ビバ!ネット!」
 

花押は作者名により使い分けていたのでは

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月21日(金)01時51分5秒
返信・引用
  こんばんは。
モンキーさん
「一種類の書体(源兵衛清安と清安)に対して少なくとも3種類の花押がある事実は理解に苦しむ処で、この信華の花押には一体どの様な意味があるのか疑問ですね。」と、いう点について私なりの推測を述べます。
真ん中は、弘さんの「信華作」ですね。向かって右は、ケン坊さんの「増田信華作」ですね。左は不明ですが、仮に「豊島信華作」とでもなっているのであれば、作者としての「銘」の違いにより使い分けていたのではないでしょうか。

また、過去に「源兵衛清安」という人物が「花押」も残していたと仮定して、そこから「書体」を模写した場合、「源兵衛清安自身の花押」まで真似するのはやりすぎだと私は考えます。
他人の「花押」まで「信華」が書くのは良くない行為で、単に「源兵衛清安」と書くのが自然ではないでしょうか。

ですから、「源兵衛清安」は「信華」の創作書体で、「花押」を入れたのは、オリジナルであることの主張だと見たいです。「書体」に「花押」を入れるのは不自然ですが、「源兵衛清安」は「信華」の雅号との意味も含んでいたと考えれば一応のつじつまは合うのではないでしょうか。
 

彼岸ももうすぐ

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月20日(木)21時51分43秒
返信・引用
  >ばたさん

ばたさんの文章は執筆業かと思うくらい筆運びがうまいですね。
自己アピールにあるようにばたさんの書き込みは刺激的で効果あると思います。
これからもまたよろしくお願いします。

>ケン坊さん

ご無沙汰をしております。
「駒と50年」~私の駒の大集成~ 自費出版ですか!素晴らしいですね。
ケン坊さんの駒に対する熱い情熱と深い愛情は後進である我々に勇気を持たせて
くれるものです。本が完成したら是非教えてください。
また、増田信華作の源兵衛清安の駒の画像アップをありがとうございます。
増田信華という名前でも駒を作っていたのですね。とても参考になります。

>モンキーさん

増田信華作の源兵衛清安と清安の花押の画像のアップをありがとうございます。
左の2つは少し似ていますが、右の花押は別物に見えますね。

>>この信華の花押には一体どの様な意味があるのか疑問ですね。

ケン坊さんがお書きになっている
「源兵衛清安花押のものに限って木地の良い、虎班・虎目杢系を採用されています。
花押入りの駒に付加価値を付けたようです。」
信華にとって、源兵衛清安は特別の意味を持った書体だったのかもしれません。
ロマンス絡みで考えれば、夫であった数次郎から贈られた独占書体だったのかも
しれません。つまり信華にとっては想い出深い書体であり大切だったのでしょう。
だから木地の良い、虎班・虎目杢系には源兵衛清安花押として作ったのでは
ないかと。
源兵衛清安の花押は一度どこかで見ただけで記憶も鮮明でなく、ただし、花押自体は魅力的な意匠だったので、木地の良い、虎班・虎目杢系&源兵衛清安のときに
思い出しながら書いたので、形がまちまちになってしまった・・・・という推理です。

女駒師・信華の謎は深まるばかりですね。
彼岸までに解決するかと思っていましたが、冬至あたりまでかかりそうですね。

>ロボさん

高浜禎、大正5年の詰め将棋は何手詰めなのでしょう?
初手は44竜でしょうか?



 

Re: (無題)

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月20日(木)16時31分29秒
返信・引用 編集済
  > No.353[元記事へ]

ケン坊さん
随分ご無沙汰していましたですね(^_^)
増田信華作の源兵衛清安の駒の画像アップありがとうございます。
増田信華作の駒を何処かで見た記憶がありましたが、ケン坊さんが持っていたとは驚きました。
書体に花押を入れた事について、特段意味合いはないとのご意見も面白く感じました。
確かに、信華の源兵衛清安花押の駒の花押の形が違いますので、この信華の花押は特定の駒を見て写した物ではなさそうですね。
一種類の書体(源兵衛清安と清安)に対して少なくとも3種類の花押がある事実は理解に苦しむ処で、この信華の花押には一体どの様な意味があるのか疑問ですね。

比較の為に一応比較画像を作りましたが画像所有者の許可を頂いておりませんので、信華の源兵衛清安花押の花押部分だけ拡大したものです。
 

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月20日(木)07時56分39秒
返信・引用
   ご無沙汰しています。少し時間的に余裕が出来ましたので投稿いたしました。
 さて私、5月頃から「駒と50年」~私の駒の大集成~、11冊目の自費出版に向けて取り組んでいます。
 今日、「駒の板」を開いて見ましたら、駒師・信華の事が話題になっていました。そこで私の見解を述べさせていただきます。
 信華作の作品は、一般的に「安清書」と「金龍書」で普通の木地を用いて多く作られています。ただ、源兵衛清花押のものに限って木地の良い、虎班・虎目杢系を採用されています。花押入りの駒に付加価値を付けたようです。ただし、書体の花押入りについては、江戸時代に作られた駒を見て、レタリングしただけのことです。特段意味合いはありません。写真の駒も虎目杢系素晴らしい木地です。しかし、漆の盛上状態を見ても普通の仕上げです。
 少し花押について調べと、特に江戸時代には、古文章などの末尾のどに名前の下に判の代わりに書く書名を図案化したもの書判(署名・サイン)。書風な、公家・武家・禅僧等などに分類されます。
 明治6年、印鑑が採用になり、文章が真実であることを証明するために押すようになったようです。
 したがって、明治以降の駒銘は、造りか●●作を用いています。
 ちなみに、豊島・龍山氏も安清花押入りの駒は、記念駒として、彫銘で作られています。ただし、花押は、作者名のところには入れていません。
 ところが、最近、アマ、セミプロ達の中で、駒を高く販売したい目的で作者名に花押を入れて付加価値をつけています。それが駒名下に花押入れられています。粉末転倒です。駒の世界も戦国時代のような何でも許される感が致します。将来が不安です。
 参考のために、江戸期の駒の花押入りでは、安清花押・清安花押・俊光花押・義勝花押が残っています。
 何か思いつきの文章で御免下さい。
 

RE:RE:豊島・花押、信華花押でないのはなぜか

 投稿者:ばた  投稿日:2012年 9月20日(木)04時33分57秒
返信・引用
  キコリさん
私のこの花押への見解は、自論は含まれるものの、基本キコリさんの解説と同様のつもりなんですが。更に言えば、源兵衛の清安のくだりも、以前に似たニュアンスの事を書いたつもりなんです~。もちろん、キコリさんのように史実を織り交ぜながらではなく、「あくまで私の見解」のみなのですが、ほぼ同様ですよ。

まち駒さん
そうですよね。なかなか文章でニュアンスを伝えるのは難しいですし、皆さん「暇じゃない」でしょうから、細かい事まで考慮した文章を書くのも面倒ですし。でも、たまにでも「めげずに」書いていると、自然に人柄って分かるもんですよ~。
少なくとも、私はまち駒さんには、どんどん書き込んで欲しいですよね。何の問題も無いですよ!・・・私なんか失言、暴言の連続でして・・・。

皆さ~ん
また、これは自己アピールですが、私自身の意見や考えは、決して誰か(例えばキコリさん、モンキーさん)に「寄せた」意見ではなく全くもって自分の考えです。
キコリさんには面倒な話かもしれませんが、私なんかが「妙な考え」を書き、それをキコリさんが正す事で、他の見ている人たちは、「へ~、そういう事か」なんて、思うこともあると思います。
蛇足
花押の件、私の中では落着しました。
 

Re: RE:RE:豊島・花押、信華花押でないのはなぜか

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月19日(水)23時40分34秒
返信・引用
  >キコリさん

詳しい解説をありがとうございます。おかげさまで、おおよそのことは理解できました。

>>現在の源兵衛清安の形をした清安の花押の駒がすでに存在をしていて、その駒
>>の製作者の俗名が源兵衛と名乗っていたとした文献があったのではないでしょうか。

このことはすなわち、清安と源兵衛清安は同一人物だったということなのでしょうね。

「太字と細字の清安を区別するために、細字は源兵衛清安としようじゃないか・・・・」
「じゃー、女の信華に細字は任せようじゃないか・・・」
みたいなことが豊島家で話し合われたのでしょうか。
・・・・この辺、かなりの妄想入っていますが(笑)。

私には信華の清安書と静山の源兵衛清安書は豊島字母帳の細めの清安を
使った駒だと思えます。
それぞれに少しのアレンジはあるようですが、元は同一字母(清安)じゃないかと。


>モンキーさん

モンキーさんがオークションで入手された信華作・清安書は離婚後ではなく、
結婚中に信華が豊島工房の中で造ったという可能性が高いような気がしています。
そう考えると、「上 杢目黄楊 清安」という太郎吉の書いたと思われる
包み紙に信華作・清安書が入っていたことは自然に考えられます。
またこう考えると、モンキーさんの考察の
>>木地は豊島工房の木地で、昭和の初期頃(10年以前)の木地と思われます。
という時期は(信華が豊島家に嫁いでいたのはおそらく昭和10年以前)との
整合性も取れると思います。もちろんこれはあくまで私の推察ですが・・・



 

RE:RE:豊島・花押、信華花押でないのはなぜか

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月19日(水)19時34分55秒
返信・引用
  う~ん、困りましたね~。前回も書きましたが、花押を読めばはっきりとしているのですがね~。

全ての花押は「清」の字なのですが。。。、
 

Re: Re: 豊島・花押、信華・花押でないのはなぜか

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月19日(水)16時03分14秒
返信・引用 編集済
  > No.348[元記事へ]

おはようございます
源兵衛清安、清定、花押、など盛り上がってきましたですね。
文章で議論をする場合、なかなかニアンスが伝わず難しいのですが、信華の源兵衛清安、豊島の清定、の花押は。
1・駒作者の信華、豊島の作者個人の花押を現す。
2・駒作者の信華、豊島の個人的創作書体として花押を現す。
3・書体作者、源兵衛清安、清定が残した駒の花押を現す。

の三種類の解釈ができるのではないかと思いますが、現時点では決定的な証拠となるような資料がなく、状況証拠から推測するしかありませんので今は総てが正解ですよね。(^_^)
源兵衛清安や清定と銘が入った駒が発見されれば、決定的証拠となり、あるいは、古い文献に源兵衛清安や清定についての記述が見つかればそれも証拠となるでしょうが、現時点では未確認ですので、今後の発見が望まれます。

その前に、源兵衛清安は信華が最初に使用したとしても、その元字は豊島字母帳に残る細字の清安で間違いありません。
しかし、豊島字母帳の細字の清安書体の駒は豊島自身によって作られた駒が現存しておらず、豊島作で残っている源兵衛清安タイプの清安の駒は、奥野錦旗と源兵衛清安の中間のような書体、あるいは安清系の「銀」だけが置き換わった駒ばかりで、清安書とだけ銘が記されています。
(豊島字母紙から作られた駒が未発見なだけかも知れませんが、豊島字母帳には源兵衛清安とは書かれていません)

豊島字母帳に残る細字の清安に最も近いのは、信華の清安で豊島字母帳に残る細字の清安の発展型あるいは模写で間違いありません。
信華が清安の駒を作っていた時点では豊島親子が生きていた事は証明できましたが、なぜ、同時期に豊島はこの書体の駒を作らなかったのでしょうか?まるでこの書体は信華専用の書体ではないかと私は疑いすら覚えます。
それに、字母帳や信華の清安の書体は数次郎の感性とは異なり、本物の源兵衛の駒を模写した書体に私には感じ、数次郎作品で同様の特徴を持った書体は見られません。
それでも、今は未発見ですが、数次郎の手による龍山作・源兵衛清安書の駒が存在する可能性を示唆していますので、コレクターとしては幻の駒で、何時か出会える日を楽しみにしています。

一応、書体の違いをまとめみましたので参考にして下さい。
赤丸の部分が源兵衛清安の書体(細字の清安)だけに見られる特徴です。
 

Re: Re: 豊島・花押、信華・花押でないのはなぜか

 投稿者:ロボ  投稿日:2012年 9月18日(火)13時14分36秒
返信・引用
  > No.342[元記事へ]

私も、花押についての件、ばたさんと同じように、「なるほど」と思いました。
駒尻の花押は、単なる古式に則ったデザインの一種、ぐらいにしか考えていなかったです。
 

Re: RE:高浜偵の著名

 投稿者:ロボ  投稿日:2012年 9月18日(火)13時09分2秒
返信・引用
  キコリさん、高浜禎と竹内伊蔵の詰将棋、投稿ありがとうございます。
それほど手数も長くないのですが、私にはこれぐらいがちょうどいいと思います。

ところで、高浜禎と、関西の研修会で女流棋士目指して研鑽しておられる高浜愛子研修生は血縁があるのでしょうか。
少し気になりました。
 

守田長禄の手紙

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月18日(火)09時28分55秒
返信・引用
  守田治兵衛の手紙を掲載してみます。

これを見ますと、時期的には左下がりの書があったと考えられます。
 

RE:豊島・花押、信華花押でないのはなぜか

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月18日(火)09時15分1秒
返信・引用
  まち駒さん、ばたさん

私は、今一度花押について考えていただければと思います。前にも書きましたが、花押には幾種類もの花文字としての型があり、それらは他人にマネをされないように工夫をされております。

実は、私も父親時代からの花押を持っておりますが、その書き方に関しては公表をすることが出来ません。それは、印鑑と同じでマネをされてしまっては意味を無くしてしまうからです。

で、結論から申しますと、豊島の清定の花押・信華の源兵衛清安の花押・モンキーさんの清安の花押、実は全てが同じ文字なのですね。「清」という文字の花押であります。また、そこから源兵衛清安も清安の花押であることが分かり、清安の名がメインであることが想像を出来るのです。

そういたしますと、現在の源兵衛清安の形をした清安の花押の駒がすでに存在をしていて、その駒の製作者の俗名が源兵衛と名乗っていたとした文献があったのではないでしょうか。

これに関して、三井家・大河内家にその形の清安が存在をした事を数十年ほど前に私は聞いておりますが、それらは世には出ては参りません。要望はし続けてはいるのですが。。

また、今年の三月の徳川美術館の雛道具の展示会において、無名の源兵衛清安にそっくりの雛駒を見ることが出来ました。天狗太郎氏の「徳川美術館に源兵衛清安の駒がある」としたのは、この駒の事であったのではなかろうか、と考えざるを得ない品でした。(私は、あまり天狗太郎さんの著書に関しては聞きかじりの文章の印象が強いので信頼を置いてはいないのですが。笑)

静山の父金井清兵衛は大河内家の家令(執事の様な者)を晩年にはしており、静山には、その情報が入っている可能性もぬぐえませんし、当時は、そのような駒が戦災を受ける前として幾つか残っていた可能性もあります。

 

守田寳丹著『災害豫防術 全』

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月18日(火)08時16分41秒
返信・引用
  守田寳丹の肖像については、熊澤良尊氏の著書『名駒大鑑』214ページに掲載があり、いまさらという感じですが、向かって左下の文字と羽織の紋との重なり具合が異なりますので、出典が違うと考え、また、こういう著書もあったという意味で、ご紹介します。

守田寳丹著『災害豫防術 全』明治43年発行 より。
 

花押は駒作者としての銘の方に入れるのが自然

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月18日(火)07時19分11秒
返信・引用 編集済
  ばたさん、ご意見ありがとうございます。

この件については、もう話を終わらせようと考えていました。
なぜなら、論議をする場合、話し言葉と、文字で書くのとでは、ニュアンスというものが伝わりにくく、とりわけ、文章で書くと、きつく感じられるのでどんどんエスカレートする傾向にあるからです。

まず、「花押」は署名した本人の、砕けた言い方をすれば、一種のサインであると認識しています。したがって、本人以外に書けるものではありません。

話が「清定」のほうにずれていっていますが、もともとのきっかけは、「源兵衛清安・花押」の「信華作」について述べたことです。
私は弘さんの「源兵衛清安・花押」を拝見したときに「信華」の書体開発者としての雅号の意味を含んでいるのではないかと考えました。
本来花押は自身の署名として、駒作者の銘の方に「信華・花押」とするのが自然であると考えられるのに「書体」の方に花押があるのは不自然だからです。

駒の世界では駒師が書体をアレンジして独自に命名したのがありますね。「豊島」にもさまざまな豊島開発の書体があります。
例えば「豊島字母紙」には「後水尾天皇宸筆写 錦旗」がありますね。この場合、「錦旗」とは豊島がアレンジしたオリジナルの書体名です。
「清定」も同様に「豊島」のアレンジたオリジナル書体名であり、「清定」に花押を入れたその背景には、「清定」=「豊島」であることを主張し、「これは私が書いたものですから、安易に模倣しないでください」との意味も込められていたと推測いたします。

「清定」という人物が過去に存在していたとして、手本となる書に「花押」があったならば、「花押」は本人以外に書くことが出来ないわけですから、豊島が「清定」の書を手本にした場合、単に「清定」、もしくは「清定書」とするのが自然であると考えます。

ばたさんご自身がおっしゃっているように「花押」とは作者銘の後に入れるものであると私も考えます。

案山子さんから「銘駒図鑑」をせっかくご紹介いただきましたので、それについても一考察を述べましたところ、さまざまなご意見を頂戴した次第ですが、私は「銘駒図鑑」のあら探しをする気は毛頭ございません。
 

Re: 豊島・花押、信華・花押でないのはなぜか

 投稿者:ばた  投稿日:2012年 9月18日(火)04時59分59秒
返信・引用
  まち駒さん
これは盲点というか、言われれば「そうだな」と思うのですが、逆になんで今まで不思議に思わなかったのか?と。
また、銘駒図鑑の表現云々は、真意こそ本人に聞くしかありませんが、私はあっちの掲示板でも、たまに書き込むし、過去のやり取りから受ける印象としては、キコリさんの考えに近いように思います。また、銘駒図鑑管理人さんの花押の認識がどうであれ、まち駒さんの指摘している内容までは、考慮していない・・・簡単に言えば、「そこには気が付かず」書かれているように思います。私も含め、認識が甘いのですが、いわゆる「イージーミス」ではないでしょうか。

私の意見ですが、まち駒さんやモンキーさんの内容を読むと、「確かにそうだよな~」と素直に感じました。
でも、今までの「常識?」と言うか、「先入観?」なのかもしれませんが、どうしても「そうではない」様に思います。
過去に「駒字」「字母」の著作性の話がありましたが、それに似た解釈が私の立場ですね。
通常「文章」「文字列」は著作物ではない訳です。小説で言えば、その創作された物語は著作物ですが、書かれた字そのものは、そうではないっと言う考えです。
ところが、駒字(字母)は、王将と言う文字の意味も重要ですが、その「字」そのものが一種の絵画的意味を持つ訳ですよね。(ただし、現在においても駒字の著作性に関しては一般論では無効で認められるのは意匠権と言う認識)。
反して、花押と言うのは、後には印象(印鑑)に取って代わるわけですが、花押が使われた当時は、その文章の中身(意味する事柄)と同様に、その人自身が書いた「書」であると言う意味合いもあったと思います。(ただし、字の下手な君主が代書させる事もあったと思いますが)また、花押自体が、「デザインされた文字」ですから、そこに「書かれた」文章の「文字」同様、その書き手の癖があるはずです。

で、字母を使って制作される「高級駒」をどう捉えるか?によって、花押の使用箇所が変わると思うんです。
件の「豊島作、清定花押」も、そう考えれば納得いきませんか?
要するに、清定と言う文字(字母)は、清定固有の物だから、この場合、「清定の後」に「清定の花押」を書き、その文字を使ってこの駒を作ったのが「豊島」。だから「豊島作」。

現在の駒作家には、作者銘の後に花押を書いている人もいますよね。それはそれで「有り」だと思います。でも、意味合いは全然違いますよね。
清定花押の花押は、その書に対し、清定のオリジナルの文字と言う意味合いの花押であり、逆に言えば、この花押自体が清定のデザインなので、駒の作者である豊島も変えることは許されない。でも、現在の駒作家が自身の名前の後に記す花押は、字母に対する意味合いはなく、その駒の作者としての保証なわけですから、その花押がどう変化しようが作者しだい。

考えながら書いているので、要領を得ませんが、言いたい事が伝わったでしょうか。

なので、そう考えると、信華作の源兵衛清安は「例の徳川美術館」の源兵衛清安の写しなんでしょうか?

キコリさん、私の考えはどうなんでしょう・・・。
 

Re: 大橋宗桂について

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月17日(月)13時44分11秒
返信・引用 編集済
  > No.339[元記事へ]

まち駒さん
ご指摘ありがとうございます。
早速訂正いたしましたのでご確認ください。
本文では大橋本家の頭領十一代としておりましたが、見出しでは「十一世名人大橋宗桂」としておりました。
訂正のついでに本文の「世」と「代」も訂正しておきました。
ご指摘ありがとうございました。
まだまだ他にもあると思いますのでご指摘の程よろしくお願いします。
 

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