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(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月25日(火)22時15分11秒
返信・引用
  キコリさんへ
 お尋ね致します。下記のコメントを頂きましたが、何の意味か理解出来ません。
 私は、豊島作の駒の角度とか、駒型の存在しなど一切触れていません。再度、ご返事お願い致します。



キコリさんの投稿文
そのような駒を掲載されましても全く参考にはなりません。十や二十の駒が角度があったからといって何の参考となるのか、その根拠を示すべきではないのでしょうか。

少なくとも、私の知る限りにおいて豊島には8種類の駒型が存在し、それらは各時代にも入れ替り立ち替り実在しております。豊島はその時代に既に、書体により駒型を変える配慮をしております。長禄に平体の駒型が合いますでしょうか?錦旗や水無瀬に長体の駒体が合いますでしょうか?同じ時代でも豊島は書体により治具を変える工夫をしておりますよ。
 

RE:無題

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月25日(火)20時43分15秒
返信・引用 編集済
  ケン坊さん そのような駒を掲載されましても全く参考にはなりません。十や二十の駒が角度があったからといって何の参考となるのか、その根拠を示すべきではないのでしょうか。 少なくとも、私の知る限りにおいて豊島には8種類の駒型が存在し、それらは各時代にも入れ替り立ち替り実在しております。豊島はその時代に既に、書体により駒型を変える配慮をしております。長禄に平体の駒型が合いますでしょうか?錦旗や水無瀬に長体の駒型が合いますでしょうか?同じ時代でも豊島は書体により治具を替える工夫をしておりますよ。

http://

 

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月25日(火)20時14分23秒
返信・引用 編集済
  写真の挿入に失敗いた、龍山作・関根名人書・盛上駒の写真です。参考にして下さい。  

RE:三代目安清書・阪田好の駒について

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月25日(火)19時46分37秒
返信・引用
  モンキーさん

少し、冷静になられては如何ですかな。あなたの書かれていることは全くの憶測であり、断定をする根拠などどこにも見当たりませんよ。ここで、否定をする材料を出すことは簡単ですが、そのような醜い争いのような行為は本掲示板上ではしたくはありません。

また、一方で、豊島の駒を参考として駒木地の成型をしております私にとっては、聞き捨てならない断定なのですよ。豊島の駒をそのように一言で決めつけないで頂きたいです。意見は大事ですが、その断定は無理過ぎます。

ロマンは大切ですが、その仮説には根拠のかけらも見出せませんので。
 

三代目安清書・坂田好の駒について

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月25日(火)17時40分57秒
返信・引用
  まち駒さん
その時の駒である可能性が非常に高いと私も思います。
キコリさんが言われるように、高浜禎が介在して作られた駒は100組程存在し、多数の坂田好の駒が存在すると思いが、フィクサーである高浜禎が死亡した後に作られた豊島による坂田好の駒は極端に数が少ないと思いますので、さらにその可能性は高まります。
ありがとうございます、引き続き何か情報がありましたらよろしくお願いします。

もう少し私の結論を説明します。
昭和11年前後(+-5年)の範囲内で急遽(納品期日が短い)状況で、数次郎が「坂田好」の駒を作り、書体名「三代目安清書」とした駒、この条件は物理的な条件から導き出した答えで、科学的に証明する事が可能です。

私の計測方法に疑問を持つとは思いますが、今回年代を断言できたのは、関根名人書の駒型が非常に珍しく、豊島の駒の角度としても珍しく、全体の駒型設計も豊島の駒型の中では珍しい駒型です。
尚且つその駒型とほとんど一致したからで、一部分が一致する事は良く見られる事ですが、ほとんど一致する事自体が非常に珍しい事です。
駒木地を製作する時に総て同じ冶具を用いて製作すれば、この様に一致する事は当たり前ですが、例え一種類の冶具を変たら、総てが一致する事はありません。
逆に、偶然一致する確立の方が極めて珍しい事で、奇跡的な事だと私は思います。
現代の機械では精密な金型から整形するので長期に渡り画一的な駒を作る事が可能ですが、戦前の駒は原始的な冶具(道具)によって画一的な駒を作る努力をしていたはずです。
冶具そのものは、耐用年数や時代の流行から作り変えられており、その詳しい記録や資料が判明すれば製作年代も判明しますが、十分な資料が集まっておらず、まだまだ正確な年代を当てる事は出来ません。
しかし、今回は実在する駒と一致した事により、その駒が同一の冶具より作られた駒であると判断するに値する駒である事が判明しました。
ですから、私は関根名人書の作られた年代を元にして、他の数々の不確定な条件を加味して11年から(+-5年)としました。

また、「坂田好」の駒の作者を数次郎としたのは、先輩から教えて頂いた知識と、私独自の調査による知識からくる特徴から推測しました。
先輩の諸先生は、長年の経験から見ただけである程度言い当てられ、経験が長ければ長い程、的中率の精度は高まります。
そんな先輩の意見を聞いた上でその特徴も見られ、さらに私が独自に調べた豊島に共通する特徴も数箇所見る事が出来ましたので、私の見識を述べました。

さらに、「三代目安清書・坂田好」の駒には数次郎作品としては常識では考えられない特徴も見られました、それは、ピンホールが出ても盛り上げ直しする時間が無い状況、即ち、納品期日が短い状況下で、しかも必ず納品しなければならない本当に特別な状況下でなければ考えられない、特別な工程(小さなピンホール部分を印刀で削るという特別な修正)が加えられている部分があったのです(拡大境でなければ見分ける事ができません)。
それこそ、こんな大胆な仕事は、特別に目の良い優秀な職人(数次郎)でなければ出来る仕事ではありません。

この「三代目安清書・坂田好」の駒は、本当に多くの豊島作品の中でも特別な珍品で、この駒には隠された深い理由があり、歴史の生き証人として何か隠れた真実を語っています。
後は、この駒が語る事実から何を読み取るかは、我々の知恵でありロマンですね。
ケン坊さん、この駒は本当に名駒だと思います。


あれれ、やっとこの文章を書き終えアップしようと思ったら、新たな質問がありました。
この文も長文ですので、後で答えを書いて再びアップします。
 

龍山作・源兵衛清安書の駒について

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月25日(火)16時25分29秒
返信・引用 編集済
   先程、まち駒さんが、龍山作・源兵衛清安書の駒について、投稿された内容を拝読させていただきました。
 それに関連して、龍山作・源兵衛清安書の駒についての所感を述べさせていただきます。

写真
1、龍山作・関根名人書の盛上駒(根杢)。私蔵。(写真挿入に失敗)
2、龍山作・源兵衛清安書の盛上駒(虎杢)。私蔵。
3、龍山作・菱湖書の盛上駒。元私蔵。

 私が、①、②の駒を蒐集いた目的は、崩された龍山銘の作者は誰かを、解明したい思いで購入致しました。現段階では、金井静山氏の龍山作だと証明されています。
 しかし、私は、龍山作として認めても差し支えないと考えています。
 その理由は、②、の元所有者は、東京の豊島商店から昭和初期頃に購入いたものと、父から息子さんが聞かされていたようです。これは信頼性に乏しい感が致しますが。
 私は、豊島・龍山氏が現役で駒作りをされていた頃の作品でははいかと推測しています。駒の書体の中で、一番優れた由緒有る書に、豊島氏が着手しなかったことこそ不自然ではないでしょうか。
 なお、作品のできばえは、大変素晴らしいことから豊島氏の作りだと思っています。
 ①は駒銘は②と良く似ていますが少し違っています。
 私はこの場をお借りして、①、②の作品は、規制疑念にとらわれず、声を大にして、龍山作で通したいと思っています。決して間違えた判断では無いと考えていますが。
 ちなみに、潜龍作の作品を例に取れば、いろんな駒師によって製作されています。これも誰々作の潜龍作でなく、紛らわしいことを言わずに潜龍作一言でよいと思っています。ただし、偽作は別ですが。 ③についは、静山・龍山作だと呼んでいます。
 だらだらと申し上げましたが、結論は、①は龍山作・源兵衛清安書の駒。②も龍山氏の作品で統一したいと考えています。
 私の思いに対して、是非、皆さんのご意見をお聞かせてください。よろしくお願い致します。



 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月25日(火)14時30分45秒
返信・引用
  > No.388[元記事へ]

>モンキーさん

関根名人書と坂田好の画像のアップをありがとうございます。よくわかりました。
またこういうプロ用分度器もあるのですね。便利ですね。入手したいと思います。

ところでまた疑問点が出ました。

>>信華は父増田弥三郎の父が初代の安清とすれば三代目安清であり

キコリさんの「安清は明治後期まで39代も続いた駒師の家柄」
モンキーさんのHPの「一説として、安清の始祖は将棋駒作者の最も古い記録として残る
三条西実隆(1458-1537)と同時代から続く将棋駒作りを生業とする京都の公家一派」

ということを拝読すると初代安清というのは15世紀か16世紀に存在したのだという
ことが推測されます。これは私はつい最近知ったばかりなので恐縮なのですが。

そういう史実からするとモンキーさんの言われるこの「信華の祖父が初代安清」説には
違和感を覚えました。
初代という存在はどんな世界でも一人しかいないのではないでしょうか?
「芙蓉」の初代というのであればわかりますが・・
信華の祖父を初代の安清と位置づける、または新たに呼ぶ、何か大きな説得力ある理由
があるのでしょうか?お時間あるときに教えていただければ幸いです。

 

Re: Re: 豊島・花押、信華・花押でないのはなぜか

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月25日(火)13時57分5秒
返信・引用
  > No.349[元記事へ]

モンキーさん

ちょっと前の話題に戻りますが、「数次郎の手による龍山作・源兵衛清安書の駒」について。
まず、熊澤良尊著『名駒大鑑』13ページに「龍山作・源兵衛清安書」の駒が掲載されていますね。ただし、解説には「第三の龍山」との記述があり、「静山龍山」の可能性を暗示しています。
ところで、『近代将棋』昭和61年9月号に「豊島龍山の最高品 書体は源兵衛清安」という駒の写真が掲載されています。これは、『名駒大鑑』の駒とは雰囲気が異なり、とりわけ、玉将の玉及び将の「点」や金将の将の点に違いが見られます。これが数次郎の手によるものか不明ですが、このような駒もあったということで、ご紹介します。


> それでも、今は未発見ですが、数次郎の手による龍山作・源兵衛清安書の駒が存在する可能性を示唆していますので、コレクターとしては幻の駒で、何時か出会える日を楽しみにしています。
 

(無題)

 投稿者:ロボ  投稿日:2012年 9月25日(火)11時53分7秒
返信・引用
  連投すみません。

ばたさんからの投稿の駒、私は「ばたさん作」と見ましたが、どうでしょうか。

ばたさん、「箸休め」などとおっしゃらず、ボリューム満点の投稿をお願いします。
 

(無題)

 投稿者:ロボ  投稿日:2012年 9月25日(火)11時49分24秒
返信・引用
  キコリさん、高浜愛子さんの件、私の思い付きを気にかけて頂きありがとうございました。  

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月25日(火)10時06分52秒
返信・引用 編集済
  ばたさんへ

 自己紹介有難う御座いました。貴方の棋具対する取り組み、職人的な技術をもて合わせけ方で、個性的発想に敬意を評しています。
 私は、駒・盤等の棋具を多く所蔵している方が、決して精通された知識人とはイコールしないと思っています。
 棋具を持ち合わせていなくとも、研究に熱心で努力された優れた方はおられます。
 ただ、私の場合、趣味の方向性として確かな棋具の良さを見抜くには、画像だけでなく、現物を、現実に、目で確かめる。棋具に触れて感触を味わうことで、自分自身の知識の向上に努めているだけです。
 さて、私の経験上から一言。
 昔の駒師たちは、駒造りの技巧を競い合って、良い駒を仕上げたのものです。いわば、職人気質で美術品のような良い作品を作ったと思います。
 そのためには、駒愛好者に認められたい思いで、技術向上に日夜、努力を積み重ねた結果、良い作品を作り出されたと思っています。
 従ってこの世代の珍品は、逸品として駒師が、自慢をした作品の証として、付加価値を付けたのではないでしょうか。売り物が目的でなく技術力を訴えたものだと感じています。
 現在は、情報化社会で、技術よりも如何にして、駒をPRするか、また、花押を入れ付加価値を付けたりして販売を先行しているのが実態では内でしょうか。
 さて話が変わるますが、豊島作・三代目安清の件ですが、念のためこの駒の作者は豊島・龍山です。貴方の素人考え参考に致します。ただ、文章は、言葉の文で「人を落としこむ手段」にも成りかねないのです。時には素人考えが一人歩きいたします。お互に発言は気を付けましょう。
 今後共よろしくお願い致します。
 写真の駒ですが、私は、潜龍作もしくは静山作ではないかと思いました。如何ですか。
 

無題

 投稿者:ばた  投稿日:2012年 9月25日(火)04時46分15秒
返信・引用
  ケン坊さん
不躾な、もの言いでスイマセン(ケン坊さんて何もん?とか)。
さて、私ですが自己紹介する程の者じゃありません。将棋に関しては、指す方は「超へぼ」ですし、棋具の方は「それなりの趣味」です。ここで「それなり」なんて表現すると「凄い事」想像されそうですが、普通の視点での「それなり」です。棋具で一番数を持っているのは、「駒箱」。次が「盤」。次が「駒」、最後が「駒台」ですね。駒は盛り上げ駒が6組で、彫り駒はもう少し多いです。
また、駒、駒箱は自作した物もあります。あ、駒袋は結構自作しました。自作の駒袋はどれも自信作ですね。

三代目安清の件
もう、この話は私が何か言える状況ではないのでスルー。
いや、書かなきゃ良いのに少々。「蛇足」的に私が思っていた事ですが、「竹風」が関西では「一乕」と名乗っていたように関西では「別名」を使っていた・・・なんて、全く素人考えで考えました。っと言うより、何か皆と違う答えは無いか?と、考えた結果です。もう少し範囲を広げると、場所や状況によって色んな名前を使っていたと言う事です。

水無瀬大納言、中納言
豊嶋と豊島は以前に何かで写真を見ましたが、その時々に「なんだろうこれ?」と思っていました。

それにしても、室町時代~江戸あたりのものでなく、さかのぼってもせいぜい100年くらいの駒にこれだけ解明できない謎がある。罪作りな先人だなあ。
そもそも、虎斑とか、盛り上げ駒とかは、なんでもない将棋の駒への付加価値ですよね。そう考えると、「坂田好み」とかも「売らんが為」の名前だろうし、作者の名前も関東の駒師の名前では関西でのウケが悪かった・・・とか。
私の書き込みは「箸休め」と思ってください。
では~
 

無題

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月25日(火)03時21分29秒
返信・引用
  あきれました。  

昭和11年前後に急いで数次郎が作らなければ行けない状況とは

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月25日(火)03時04分11秒
返信・引用
  > No.388[元記事へ]

> 昭和11年前後に急いで数次郎が作った坂田好の駒が実在しますので、その状況に則した記録が特定できれば、最高ですが、今の私にはその情報を持っていませんのでよろしくお願いします。

モンキーさん、こんばんは。

昭和11年前後に急いで数次郎が作らなくてはいけない状況に則した記録としては、やはり、昭和12年の「読売『大棋戦』」が一番の候補です。

東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』に「本企画は『実力名人戦』の進行中に突如発表され、ファンを驚かせた。」と、あります。とにかく、急遽持ち上がった棋戦であることは確かです。

では、話が持ち上がって、対局に至るまでどの程度の期間であったのか。その点につきまして、木村義雄十四世名人の著書『将棋一代 私の五十年』に詳細が記述されています。
長文なのでそこから、要点だけ抜粋します。

「名人戦も順調に、継続進行された間に、私としては一世一代ともいうべき、大切な棋戦が持ち上がって来た。(中略)話の起ったのは、十一年の暮頃からで、当時名人戦の方は、私と花田氏とが鍔競合という、接近の最中であった。(中略)『名人戦の終わるまでは、やらない方がよいだろう』という説も出たが、それは興味の問題で、行われる道理がなかった。名人戦の継続中なればこそ、世間の興味を惹き、主催を企てるものも現れ、坂田氏の乗出した理由も、おそらくそこにあったと思われるのに、それが終わってからというのでは、六菖十菊を誰が顧みよう。(中略)会場は双方から京都まで乗出し、洛東南禅寺ということにきまって、いよゝ開戦の火蓋がきられたのは、昭和十二年二月五日であった。」

以上のことから、話が持ち上がったのが昭和11年の暮れ頃で、対局が行われたのが昭和12年2月5日ということが分かり、その間僅か1ヶ月ちょっとであったと判断できます。
昭和11年前後に急いで数次郎が作らなくてはいけない状況に、正しく則していると考えられますがいかがでしょうか。
 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月25日(火)01時41分48秒
返信・引用 編集済
  > No.385[元記事へ]

案山子さん
モーッ疑り深いですね(^_^)
玉将と銀将と歩兵の両方の駒をスキャナーで撮りましたので実測して比較してください。
角度についてこの様な分度器で計ります、角度を読めば豊島の駒の角度を知ってる人ならば、この角度だけで珍しい角度だとご理解頂けると思います。

柾目かどうかは、駒銘の画像をクリックして拡大してください、確認できます。
駒の厚さについては、私は江戸期の厚手の駒を知っていますので、私には普通の厚さと思ます。
しかし、豊島の駒の中では駒尻は同じでも先端が他の豊島の駒より薄く、関根名人書も坂田好も普通の豊島の駒型とは異なり中京駒風です、この駒型のバランスは私の持つ他の豊島の駒型とは明らかに異なり、豊島の駒の中では薄手の駒と見えるかも知れません。
しかし、同じ時代に良く見られる薄手の駒を見慣れた人には厚手の駒と思うでしょう。


ケン坊さん
数次郎と信華の関係は坂田三吉も知っていると思います、坂田三吉が上京する時や会った時に離婚した信華の様子を気にしている事は言わなくても数次郎は感じると思います。
そんな時、指定された書体が清安だった場合(信華の書体)そして増田弥三郎が源氏の衛兵の末裔であった場合、僕でも「三代目安清書・坂田好」と駒銘に入れる事で自分の気持ちと信華の事を伝えます。
この辺はメンタルな部分ですので、心の問題から導き出した私の予想です。
「源兵衛清安」が「源氏の衛兵の清安」から導きだした予想が「三代目安清書」は数次郎が作ったのではないか?でした。
「三代目安清書・坂田好」の駒を実際に調査して、昭和11年前後に急いで数次郎が作った駒である、と私は判断しました。
その頃急いで製作しなければならない状況にあった坂田好みの駒が特定できれば、ズバリ「三代目安清書・坂田好」の駒はその駒だと思います。

まち駒さん
私は「三代目安清書・坂田好」の駒について、私の知っている事は以上で、これ以上の情報は持っていません。
昭和11年前後に急いで数次郎が作った坂田好の駒が実在しますので、その状況に則した記録が特定できれば、最高ですが、今の私にはその情報を持っていませんのでよろしくお願いします。
 

補足

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月25日(火)00時16分51秒
返信・引用
  モンキーさん

こんばんは。
少し私の推測とは異なるデータが出てきました。
それは、昭和12年の「読売『大棋戦』」にあたり「盤と駒」を新調するというものです。
「天竜寺」で使用ではなく、「南禅寺」も含めた「読売『大棋戦』」と幅を持たせたほうがよさそうです。

『菅谷北斗星選集 秘録篇』より。
「この間も坂田氏とふたりしてこん度の木村、花田両君との対局のことを話していたときに、盤と駒とは是非新調して使おうということになった。その時に坂田氏が言うのは、盤は少し大き目に、それから駒は柾目の正しく通ったのを使いたいと希望を出した。」

『菅谷北斗星選集 観戦記篇』の「坂田花田大棋戦」(天竜寺の対決)より。
「今度の対局にもやはり坂田氏の希望によって、同氏好みの盤と駒とを使っている。駒の裏にはちゃんと『坂田好』と三字が明記されてあるのだ。」


駒の裏という表現が駒尻を指すのかは不明ですが、「ちゃんと『坂田好』と三字が明記されてある」というのは見逃せないところです。

以上、補足させていただきました。
 

三代目安清書・坂田好」の駒の所感について

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月25日(火)00時05分22秒
返信・引用
  モンキーさん、まち駒さんへ

 三代目安清書・坂田好」駒の所感有難う御座いました。大変参考になりました。わたしは、駒の研究のため文献して、古棋書・古文書・掛け軸・短冊・色紙等を蒐集しています。ちなみに、駒以外に、現在2,000点程所蔵しています
 以前、この珍品の駒を手にした時に、色々な角度から調査を繰り返しましたが、残念ながら確証が得られるものが見つかりませんでした。
 東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』も再読したり、堺市にある舳松歴史資料館へ足を運んで、坂田三吉が使用した駒・盤等を見学もいたしました。
 しかし、駒師の銘の入ったものばかりで、三代目安清書は見かけることが出来ませんでした。館長か担当員か解かりませんが、その方は、今まで見たことのない、非常に珍しいと駒だと言われていました。
 さて、諸般の状況から勘案して私の想いを申し上げます。
 先ず、駒型については、私蔵の龍山作・無剣書・董斎書の盛上駒は、昭和初期の作品ですが、大振りの駒型作りです。例えば、無剣書・太字清安書・董斎書の駒はすべて大振りです。それは、書体自体が大きいから必然に大振りの駒型作りになったのではと考えています。
 また、「天竜寺」における対局の盤面が写真で掲載されておりますが、私蔵駒とは違います。急遽、対局用に3組の豊島作の駒が用意されたと言われています。
 その中の1組の駒が、三代目安清書・坂田好だったのかも知れなかと、モンキーの詳細な調査上決め付けられました。
 私も成る程と同調しています。ただ、私は、世紀の対局での駒は、駒師の銘入り作品を使用するのが一般的な考えだと思ってます。
 しただって、駒銘の入った、豊島作の駒を3組用意したのではないかと考えています。
 三代目安清書・坂田好は無銘でから、3組の中には入っていなかったと想像しています。すべて私の独断偏見の発言だとご理解下さい。
 いずれにしても、私は、何故、変則的な駒銘の無い三代目安清書・坂田好の駒を、誰の発想で、豊島氏が作ったのか。その方が興味深深です。

 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月24日(月)23時25分54秒
返信・引用
  > No.384[元記事へ]

>モンキーさん

>>スムーズに一つの結論に進む事ができました。
>>ケン坊さんの「三代目安清書・坂田好」の駒は「昭和12年3月22日「天竜寺」に
>>おける対局のために用意された三組の駒の内の一組」である事はほぼ間違い
>>ないと思われます。

このように結論付けるには少しまだ早いような気が私はします。
もちろん可能性があるということにつきましては否定するものではありません。
ただ「坂田好の駒は百以上作られていると思われる」というキコリさんの
ご指摘からも、かなりの数の「坂田好」は存在するのでしょう。
この「三代目安清書」を「天竜寺で使われた坂田好」だと考えるには、
決め手になるようなものがなく、まだ少し弱いような気がしました。

今の段階で決めてになると考えられるのは・・・

まち駒さんが引用していただいた東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』から

>>肉厚で柾目の阪田好みの駒三組が、この対局のために新調されていた。

という駒の描写で「肉厚の柾目」とあります。今回の「三代目安清書・坂田好」は
私には画像からは「柾目」には見えませんが、実際には肉厚の柾目なのでしょうか?
もし肉厚の柾目であれば、かなり可能性は高まると思います。

また

>>「三代目安清書・坂田好」の木地整形は、私のコレクションの関根名人書の
>>記念駒と各辺の角度と大きさがほぼ完全に一致しました。

とありますが、この2種類の駒のサイズや角度や形を比較できるような画像を
アップしていただくことは可能でしょうか?もし可能でしたらばとても興味が
ありますのでぜひ拝見したいと思います。よろしくお願いいたします。

 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月24日(月)22時46分37秒
返信・引用 編集済
  > No.383[元記事へ]

まち駒さん
ありがとうございます。
いやースバラシイです!
私では知りえない事をこんなに簡単に答えてくれて本当にありがとうございます。
「三人寄れば文殊の知恵」と申しますが正にその通りです。
一人で研究しているとどうしても壁に突き当たり疑問だらけでした。
今回の様に皆さんのお知恵が集まれば、こんなにもスムーズに一つの結論に進む事ができました。
ネットってすばらしいですね。

ケン坊さんの「三代目安清書・坂田好」の駒は「昭和12年3月22日「天竜寺」における対局のために用意された三組の駒の内の一組」である事はほぼ間違いないと思われます。

これで、後は「三代目安清書」の意味を考察すれば、私が予想した信華は源兵衛の清安の末裔ではないかについても。
信華は父増田弥三郎の父が初代の安清とすれば三代目安清であり、「三代目安清書・坂田好」は「信華の書体・坂田好」と同じ意味であり坂田三吉には十分意味が理解できる事です。

これで私の数々の疑問点が一本の線になり自分の頭の中ではスッキリしました。

まち駒さん、ケン坊さん本当にありがとうございます。
 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月24日(月)21時50分18秒
返信・引用 編集済
  > No.382[元記事へ]

モンキーさん

こんばんは。
「この対局のために新調されていた。」という文脈を素直に受け取れば、昭和12年3月22日「天竜寺」における対局のために用意されたと読めます。では、前局の「南禅寺」での対局がいつだったかと申し上げれば、昭和12年2月5日から2月11日です(持ち時間各30時間)。したがって、急遽用意された駒だとすると1ヶ月ちょっとで製作されたものと考えられます。私は、「新調されていた」という言葉からも、「この対局」とは「天竜寺」の局のためと読み取りました。

もし、「この対局」が「読売『大棋戦』」全体の2局を含んでいると考えれば、1局目で「この棋戦のために新しい盤と駒が用意されました」と書かれるのが自然かと存じます。

以上は、あくまでも私が文脈から読み取った推測です。

 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月24日(月)19時53分6秒
返信・引用 編集済
  > No.380[元記事へ]

まち駒さん
情報をありがとうございます。
高浜禎の正確な没年について、昭和5年10月でしたか。
半分ウラ覚えだったので確か4年頃としましたが、正確な年数をありがとうございます。

さて、ご紹介頂きました昭和12年3月22日「天竜寺」の対局に用いられた新調された三組の阪田好みの駒ですが、相当前々から準備されていたのでしょうか?
それとも、急遽用意された物でしょうか?
実は、「三代目安清書・坂田好」の駒には少々難点があると申しましたのも、拡大境で見て分かる細かな点なのですが、盛り上げの中に急いで盛上げたフシ(部分)があり、玉将のピンホールも気になりました。
もし、三組の駒を急遽数次郎に製作の注文したとしたら「三代目安清書・坂田好」の駒はその時の駒の一組である可能性が非常に高いと思います。
それに太字の清安書体は豊島の書体の中でも駒字全体が大きく最も見易い書体です。

私はその時の資料を持っていません、私にはこの先は調べる事ができませんので是非教えてください。
 

断定は危険です

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月24日(月)19時25分57秒
返信・引用 編集済
  >計測の結果は、「三代目安清書・坂田好」の木地整形は、私のコレクションの関根名人書の>記念駒と各辺の角度と大きさがほぼ完全に一致しました。
>従って、予想や予測ではなく「三代目安清書・坂田好」は関根名人書の記念駒と同じ時期
>(同じ冶具)によって豊島工房で製作された駒だと断言でき、誤差は最大でも昭和11年から>プラスマイナス5年以内だと思います。

そのような断言は大変に危険なことです。「阪田好み」の駒は百以上作られていると思われますが、それらの殆どは阪田本人以外の人間によってプロデュースをされていることを理解されていないことからくるものであり、また駒木地の大きさから豊島の制作時期を断定することも非常に危険なことです。

豊島の木地はいろいろとあり、豊島工房にて制作をされたものは少なく、外注としての木地師により作られているものが殆どですよ。明治後年や大正初期に作られたものでも大振りなものがありますし、数次郎晩年の駒でも小振りなものも数多くありますよ。

今回の駒に関しましては、なぜ「阪田好み」であるのかを考えるべきであり、またなぜ作者名を入れなかったのかを考えるべきです。
 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月24日(月)18時21分41秒
返信・引用
  > No.379[元記事へ]

こんにちは。

モンキーさん
昭和12年に阪田三吉は、初手端歩突きで有名な局を南禅寺で指し、その後、逆の端歩を突いた局を天竜寺で指しています。
昭和12年3月22日「天竜寺」における対局について、東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』に次のような記述が見られます。
「阪田好みの盤駒  阪田翁はもともと視力が弱い人だった。そのために特別に線の太く引かれた八寸の将棋盤三面、肉厚で柾目の阪田好みの駒三組が、この対局のために新調されていた。」

時期的にも合致し、三組新調されたとのことですから、その時の一組である可能性は考えられませんか。
ただし、舳松歴史資料館編『反骨の棋士 阪田三吉 -その栄光と苦難の道-』に「天竜寺」における対局の盤面が写真で掲載されており、その駒とは違うようです。

> 従って、予想や予測ではなく「三代目安清書・坂田好」は関根名人書の記念駒と同じ時期(同じ冶具)によって豊島工房で製作された駒だと断言でき、誤差は最大でも昭和11年からプラスマイナス5年以内だと思います。



東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』に高浜禎の正確な没年について、昭和5年10月13日とあります。

> 「三代目安清書・坂田好」の駒の由来について、高浜禎は確か昭和4年頃に死亡しておりますので、高浜禎がこの駒に係わっているとは考えられません。
 

坂田好の駒を実見して

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月24日(月)16時23分53秒
返信・引用 編集済
  今日は午前中にケン坊さんの「三代目安清書・坂田好」の駒を実見してデータを収集させて頂きました。
実見して調べた私の結論から先に書きますと。
この駒は昭和11年前後に豊島工房で作られ、数次郎により盛り上げた作品で間違いないと思います。

一見して感じたところでは、相当に古い駒に見えましたが、駒の手入れに椿油みたいな油が駒に染込んでおりました。
木地の様子が油で判断し難いですが、島黄楊で多少斑が入った木地と思いますが、薩摩黄楊ではありません。

ここで、前にも書きましたが、豊島の駒のおおよその製作年代の私の判定の仕方を説明しますが、相対的に豊島の駒は時代と共に大型になっています。
もちろん普及品と高級品とでは駒型も違うので、総ての駒に共通ではありませんが、およそその傾向があります。
また、駒木地を整形する時には必ず冶具を用いて整形するので、駒の各辺の角度や面の角度や厚さが異なり、その時代に用いられた冶具によって最大2.5度もの変化があり、角度は広くなったり狭くなったりしており、一つの冶具は数年で作り変えるか、修正していると思われ、整形した駒の角度からもさらに細かな年代が予測できます。

計測の結果は、「三代目安清書・坂田好」の木地整形は、私のコレクションの関根名人書の記念駒と各辺の角度と大きさがほぼ完全に一致しました。
従って、予想や予測ではなく「三代目安清書・坂田好」は関根名人書の記念駒と同じ時期(同じ冶具)によって豊島工房で製作された駒だと断言でき、誤差は最大でも昭和11年からプラスマイナス5年以内だと思います。
木地に関しても、気のせいかも知れませんが、関根名人書の記念駒と同様に少々ボケた斑入りの黄楊材料ではないかと思います。
盛り上げに関しては数次郎の特徴が現れており、漆の艶もあり、多少難点も見られますが数次郎の盛り上げだと思います。

「三代目安清書・坂田好」の駒の由来について、高浜禎は確か昭和4年頃に死亡しておりますので、高浜禎がこの駒に係わっているとは考えられません。
又、信華と離婚した後で、トミさんと再婚していた時期ですね。
 

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月24日(月)15時20分4秒
返信・引用
  キコリさんへ
 豊島作・三代目安清書・坂田好・盛上駒について、逸話を交えてご意見有難う御座いました。大変参考になりました。
 引き続いて、私が難問にしています、豊島・龍山作・水無瀬大納言兼俊郷筆跡・盛上駒。豊島作・水無瀬大納言兼俊郷筆跡・盛上駒。豊島・龍山作・水無瀬中納言兼俊郷筆跡・盛上駒。の3組の駒が現存している事です。この駒の製作にあって作者がどんな意図で書体を、水無瀬大納言兼俊郷筆跡と水無瀬中納言兼俊郷筆跡と書き分けたのでしょうか。貴方の優れた鑑定をお願い致します。


 写真の説明

 1、有吉九段蔵、豊島・龍山作・水無瀬大納言兼俊郷筆跡・盛上駒。と前沢碁盤店蔵、豊島作・水無 瀬大納言兼俊郷筆跡・盛上駒。

 2と3私蔵、豊島・龍山作・水無瀬中納言兼俊郷筆跡・盛上駒。
 

Re: RE:高浜禎の詰め将棋

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月24日(月)09時56分41秒
返信・引用
  >ロボさん キコリさん

高浜禎と竹内伊蔵の詰め将棋のヒントをありがとうございます。
「逃げ道に捨て駒」ですね!
あと5手詰めと9手詰め。非常に参考になりました。
今夜にでも再挑戦してみます。



 

RE:高浜禎の詰め将棋

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月24日(月)00時53分34秒
返信・引用 編集済
  ロボさん

>もうひとつヒントを、「逃げ道に捨て駒」です。

さすがです、その通りですね。そして、それは竹内伊蔵の詰め将棋にも同じ事が言えます。ただし、こちらは9手詰め。

後、遅れましたが

>ところで、高浜禎と、関西の研修会で女流棋士目指して研鑽しておられる高浜愛子研修生は血縁があ>るのでしょうか

残念ながら、今のところその事は情報が入っておりません。何せ、個人情報保護法が厳しい昨今でして。。。
 

高浜禎の詰将棋

 投稿者:ロボ  投稿日:2012年 9月23日(日)22時43分26秒
返信・引用
  盛り上がっているところ、申し訳ありません。

案山子さん、高浜禎の詰将棋は5手詰めです。
但し、5手詰めにしては、難易度高めかもしれません。

初手は4四龍で間違いありません。
もうひとつヒントを、「逃げ道に捨て駒」です。
 

RE:RE:お彼岸

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月23日(日)20時48分29秒
返信・引用 編集済
  モンキーさん

勿論、豊島はそのような目的には加担などしてはいないでしょうね^^。彼にとっては製作だけが目的の筈ですから。

しかし、「阪田好み」を阪田自身が考え付いたとも思えません。彼は金銭欲などとは無縁な人でしたからね。それを創案したフィクサーが誰かと言うことです。そして、そのフィクサーは、阪田の後援者として東西の交流を図り、その一環として数次郎・信華の物語も始まる訳です。それが、私が彼の「覚え書書」を手にする事と繋がります。

しかし、まだこの物語りは第1幕までしか開いてはおりません。これから、第2幕、第3幕と続き、壮大なフィナーレを迎えることとなるでしょう。そこには、今回の主役である数次郎・信花華に加え、いろいろな脇役たちが花をそえるのではないでしょうか^^。

では、来週まで、サヨナラ、サヨナラ。

http://

 

Re: RE;お彼岸

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月23日(日)15時01分6秒
返信・引用 編集済
  > No.370[元記事へ]

キコリさん
「豊島と高浜禎のいたずら」との事、まったく「いたずら」としか思えない駒ですよね。
キコリさんの所有する、高浜禎が覚え書き帳に「初代安清作」とした駒は、とても初代安清とは言い難い駒で、書体や駒型からも江戸中期から末期の雛駒と思える駒で、歩兵の書体からも奥野が名人駒の「宗歩好」の元字とした時代の書体の駒ですから、高浜禎が安清や清安の歴史や書体について詳しく知っていたとは思えませんよね、逆に知っていてたら相当な悪党ですよね(^_^)

高浜禎にとって金儲け目的なら初代安清でも二代安清でも三代安清でも何代目の安清でも、「坂田好」の駒なら何でも良かったと思います。
しかし「坂田好」は坂田三吉が後援会の人達に贈る為の駒で、ある意味特別な駒です。
また、名駒図鑑に細字と太字の二種類の数次郎作の清安の駒があり共に彫銘の駒で、何かの記念か特別な意味を持った、間違いなく数次郎本人が作った貴重な名駒です。
そんな名駒の書体を豊島が高浜禎に言われるまま「いたずら」で作ったと切り捨てるには少々乱暴な説に感じ(半分以上冗談だと思いますが)、私は高浜禎がそのような人物でも豊島の人格は別だと思いたいのです。
仮に、その目的ならば、豊島は他に何種類も安清書の書体を持っていましたし、なにより、あの二種類の清安書は普通の豊島流の書体とは一味違う特別な書体ですから。

ケン坊さんのご好意であの「三代目安清書」の駒を実見させてもらう事になりましたので、詳しいデータを取ってから、もう一度自分なりに「三代目安清書」の意味を考えたいと思います。
 

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