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thessalonike5
「おしん」の歴史認識 - 伊勢で魚の行商をやっていた頃
最近、橋田壽賀子のNHKドラマ「おしん」を思い出すことが多い。1983年のNHKの連続テレビ小説。10年ほど前にBSで再放送してくれた機会があり、この国民的作品のほぼ全編を通して見ることができた。「おしん」は明確な反戦ドラマである。向田邦子とか、橋田壽賀子とか、戦前、戦中、戦後を生きてきた作家たちの、この時代の描き方は一貫したものがある。芯の通った歴史認識があり、そこを揺るがせにはしなかった。1983年は日中国交正常化から11年後。「おしん」は世界中で放送され、特にアジア諸国で人々に感動を与え強く支持された。このドラマは、まさに日本の最も有力な宣伝情報として活用され、世界の人々から日本への好感や信頼を獲得するのに貢献した。日本が「戦後日本の平和主義」を外交の場で強調するとき、それが一般表象としてアジアの人々に納得される際は、「おしん」の映像の記憶が仲立ちしている。インドネシアでは農村へのテレビ普及に「おしん」が決定的な役割を果たし、2003年に来日したメガワティ大統領が、ASEAN特別首脳会議での夕食会の席で、身を乗り出して「おしん」談義に花を咲かせたこともあった。この当時、「おしん」の歴史認識は日本人の一般的なものであり、「おしん」は若い世代に歴史を教える標準的な教材だった。日本人の中で「おしん」の反戦平和主義は普遍的な思想だった。
おしんは1901年生まれで、だから、20世紀の暦年がそのままおしんの年齢と重なって分かりやすい。1931年の満州事変から1941年の太平洋戦争開戦の頃まで、おしんは三重のどこかの小さな海辺の町で、幼い長男を連れて魚の行商をやっていた。浩太(渡瀬恒彦)の紹介だった。そこに佐賀から夫の竜三(並木史朗)が来て、家族での暮らしが始まり、子どもが次々と産まれる展開だったが、記憶に印象的なのは、この時代のおしんが明るさを失い、次第に言葉少なになっていく状況だ。世の中は世界大恐慌後の不景気に蔽われ、竜三が「戦争でも起こってくれないかな」と口走り、急速に侵略志向の右翼軍国主義者に変貌していく。佐賀の大きな寄生地主の末っ子で、東京で羅紗問屋を開いて若旦那をしていたボンボンの竜三は、ドラマに当初登場した頃は開明的な紳士の風情であり、視聴者の視線からも、東京の坊ちゃん時代は好感の持てる青年実業者だった。このあたり、今、思い出しても橋田壽賀子の脚本が絶妙で、時代の空気の変化というものを正確に再現して描き込んでいることが分かる。田中裕子の演技も冴えわたっていて、ときに快活な表情を見せ、おしんらしい言葉を発していたのが、戦争の時代はずっと暗く目を落とし、口を閉ざして重くて固い表情のままの姿を続けるのである。最終的に、空襲で家を焼かれ、三高から帝大まで進学させた最愛の長男を戦場で失う。戦争が終わったとき45歳。
ファナティックな国粋右翼に変身し、地域で侵略戦争を鼓舞する活動に奔走する竜三。口を閉ざし目を落としたまま、心の中では抵抗しつつ、時局の前になすすべなく沈黙し、戦争に追い詰められて人生を奪われて行ったおしん。乙羽信子に役が変わった現代篇の中で、あれは浩太との会話の台詞だったか、「勇気を出して戦争に反対すべきだった」と後悔の言葉を語っていた。その乙羽信子もとうに死に、山田五十鈴も死に、橋田壽賀子的な世界を持った大型の演劇人たちがどんどん消えてゆく。新劇の存在感のあった役者がいなくなる。軽薄で毒々しい人間ばかりが、この国の地上に残ってエンタメ空間を埋める。文学座や俳優座や劇団民藝の代わりに、ビートたけしが日本の文化を生産する。今、おしんの気持ちがよく分かるというか、そういう感じが私には強い。空気が変わり、周囲が変わり、言葉が通じなくなり、孤独を感じ、言葉を発することが重くなるのである。家族の中でも孤立して、疎外感を覚えるところまで行くのだ。戦争への反対を言おうとしても、それに共感してくれる人がどんどん少なくなり、何を言っても届かず、打ち響かず、抵抗の表現を試みることが空しくなるのだ。私が日常、寝起きしているのはネットの社会空間である。TwitterのTLを見ると、中国との戦争を叫ぶ過激な右翼の声ばかりだ。この人たちは、いつからこうなったのだろうと思う。ネットの中で、私はおしんであり、右翼たちは竜三だ。
竜三に狂暴な国粋主義者になる以前の人格があったように、Twitterのグロテスクな右翼たちにも、きっと1990年代の姿があり、1980年代の若い頃があったに違いない。ドラマ「おしん」が放送されていたのは、今から30年前だ。今、40歳の者は10歳であり、決して80年代の社会を覚えてないはずはない。村山談話はわずか17年前だ。前回の記事で、教育が鍵だということを述べた。戦争を防ぐのは、経済交流ではなくて教育なのだと。ユネスコ(UNESCO)とは、国連教育科学文化機関の略。だから、心の中に平和の砦を築けと言う。教育せよと諭す。1970年代、日本と中国との間の経済交流はほとんど皆無の状態だった。日本に製品はあっても中国に市場はなく、中国は日本に輸出するモノがなかった。そして、中国には戦争を体験した者が多くいて、日本軍の殺戮で家族を失った者が多くいた。世界は未だ冷戦のさなかにあり、東西のイデオロギー対立が厳しく続いている時代でもあった。しかし、その時代の日中関係が最も友好的であり、相互の心と心が通い合った関係を実現していた事実は疑いようもない。何故、当時の日中関係は友好であり続けたのだろう。それは、日本の政府と国民が謝罪し反省したからだ。日本の国民の中の多くが、中国に対して贖罪の意識を持っていたからだ。そういう反省的な精神が過半を占めていたからで、平和教育が健全な戦後社会を築いていたからだ。片面講和を批判し全面講和を主張する勢力が、国内に確固としていたからだ。
中国の人々は、日本人の謝罪と反省を受け入れ、そこから恩讐を超えて社会建設へと向かう考え方と生き方に集中するのである。それは、文革の陶酔と熱狂と愚行に対する自己否定と同期であり、近代化への謙虚で率直な希望の定置であり、日本を範として学び、今度こそ必ず近代化を成功させるという決意であった。この精神のあり方というのは、想像を及ぼせば、とても重いもので、複雑なものであり、また崇高なものでもあり、社会科学の言葉では簡単に言い表すことが難しい。私が拙い言葉を並べても、誰をも説得することはできない。しかし、こうして書きながら、私の頭の中には、陸一心を演じた若い上川隆也の生真面目な面影が浮かび、私自身を納得させる。中国の青年たちの多くが、魯迅を辿り、周恩来を追い、海を越えて日本に来た。山口百恵が強く支持され、千昌夫と谷村新司の歌がヒットする。謝罪し贖罪した日本人、過去を許して親交を請うた中国人、それらの心の葛藤と交感が、もし意味のあるもので、気高いものであるのならば、もう一度、われわれはそれを思い出さないといけない。一人の日本人として中国人の前で謝罪することが、私にとって重い重い精神的営為であったように、一人の中国人が日本の侵略戦争の過去を不問にして日本人と向き合うということは、それを自身の中でどう整理するかに懊悩する、心に重圧の負担がかかる問題なのだ。そしてそれは、まだ決して終わってなくて、今でも一人一人に突きつけられている問題なのだ。
村上春樹は、この20年の間に東アジアの固有の文化圏が形成されたと言う。日本人と中国人が、国境を越えて魂が行き来する空間ができたと、そう積極的に前進と楽観を言う。そうだろうか。私は疑いを差し挟む。違うと思う。20年前は確かに今より高い壁があった。けれども、心と心の交流は今よりも濃くて密なものがあり、魂は当時の方が触れ合っていたと確信する。魂の行き来という点では、むしろ現在は後退していると私は思う。ヒトとモノとカネが夥しく国境を越えて往来しても、それは魂の行き来と呼べる実質を形作ることはない。これほど中国語ができる日本人が増え、これほど日本語ができる中国人が増えているのに、日中関係は悪化し、国民感情は対立と憎悪に向かうばかりではないか。どれほど交流を深めても、どれほど国境を超えた往来があっても、それがゼニカネ目的の私利私益のものなら、それは魂の接触にはならず、真の理解や共感にはならないのである。過去の侵略戦争の事実(加害と被害)を脇に置いた、それと倫理的に向き合わない「交流」も「文化圏」も、結局は何の意味もなく、両国の関係改善には役に立たないものだ。脱倫理、脱教育、脱歴史認識、脱イデオロギーの脱構築主義。この20年、こうした村上春樹的な言説で左派は日中論を論じ、官僚的・朝日新聞的な口調で、文化交流が深まれば関係改善だと気休めを言い続けてきた。私は予言する。必ず人々の認識は倫理と教育のところに戻るだろうと。忘れていたユネスコ憲章の前文を思い出し、その神の前に跪くことになると。
暴力的で悲劇的で絶望的な経路を辿ったとしても、必ず倫理と教育という地平を再発見するだろう。
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thessalonike5
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2012-10-03 23:30
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かまどがま
at 2012-10-04 09:38
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報道では見られないが、石垣港に自衛隊の軍艦が2隻停泊し、ネットを探ると、米軍原子力空母も東シナ海に配備され、海保の多くが11管区に集結されています。一触即発、放水以外の何かが介在したとき、戦いは始まるのです。ネットの中で感情のままに罵る右翼の発言が、これを後押ししていると思うと背筋が凍ります。敵を倒すための砲撃は警告もなく、住む人の生活を巻き込んで行われようとしています。
「国のために命をかける」60年前この理念のために家族間で殺し合う集団自決に追い込まれました。この反省から「命どぅ宝」が生まれ、命を第一に考える政治を求めてきました。命を守る国であれ、これが沖縄の理念であり、オスプレイ配備に強く反対する根拠なのです。
当時、焦土と化した日本中が、同じ間違いを繰り返したくないと強く感じ、9条を含む憲法を喜びとともに受け入れた歴史とも重なります。沖縄と内地の意識の差は、痛みの大きさの差なのでしょうか?肉親同士で殺しあうまでに追い込まれないと、命を守る政治が望まれないとは思いたくない。
発言に社会的力のある知識人、表現を糧とするアーティストの人たち、今こそ愚かなナショナリズムの流れに渾身で異議を唱えて下さい。
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