| 石上神宮とは
住所:奈良県天理市布留町384
  
石上神宮の由来:
山の辺の道の中継点。”布都御魂大神”を主祭神とする神社。他に布留御魂大神、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣を配祀します。崇神天皇7年(BC.90年)に創建されてたと伝えられています。”布都御魂大神”とは”布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)”に宿る神霊といわれています。布都御魂剣とは日本書紀によると神武天皇が東征の際、熊野で土着民の抵抗にあって苦戦した際に天津神から高倉下を通して天皇の手に渡っったものです。布都御魂剣はしばらく"物部氏”の手で祭られていましたが崇神天皇7年、物部氏”伊香色雄命”(いかがしおのみこと)”が現在の石上神宮に八十万の神を祭ったのが始まりとさされています。
石上神宮の見所:
1)歴史ある神社:大神神社と並んで日本最古の神社といわれています。
2)石上神宮外苑公園:桜の名所。布留川沿いにかけての桜がきれいです。
3)鶏:神の使いとされるの鶏が放し飼いされています。
4)山の辺の道の拠点:境内から北山の辺の道、(南)山の辺の道にアクセス可
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石上神宮の境内: |
石上神宮禁足地:
石上神宮は元々本殿がなく拝殿のみでした。拝殿の奥には”布留高庭””御本地”と呼ばれる布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれた聖地で2つの神宝が埋斎されていると伝えられていました。1874年禁足地の発掘調査が行われ、剣(布都御魂剣)や曲玉が出土しました。本殿ができたのはこの出土した神宝を祭るためです。
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拝殿:
入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代。 白河天皇が新嘗祭を行う皇居の神嘉殿を拝殿として寄贈したとの伝承がある。 |
出雲建雄神社拝殿:
拝殿向かい南側の階段を上った小高い丘にあります。山の辺の道沿い内山永久寺(天理市杣之内町にあった廃寺)から1914年に移築したもの。正安2年(1300年)頃の建立。建物の中央部分を土間の通路とした「割拝殿」と呼ばれる形式。
祭神出雲建雄は草薙の剣に宿る神で石上神宮の由緒には、”天武天皇朱鳥元年布留川上日の谷に瑞雲がたちのぼり、神剣が光を放って現れた。”とあります。 |
楼門:
文保2年(1318年)建立 。重要文化財
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天神社:
出雲建雄神社の向かいにあります。高皇産霊神(たかむずびのかみ)、高皇産霊神(かみむすびのかみ)を祭神とする。 |
七座社:
天神社となり北向きにあります。祭神は生産霊神、足産霊神、魂留産霊神、大宮能売神、御膳代神、辞代主神、大直日神を祭神とする。天神社とともに石上神宮の鎮魂祭に関係のある神を祭っていると石上神宮の由緒に書かれいます。 |
猿田彦神社:
出雲建雄神社本殿(左側)の右側(南側)にある小さな神社
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鏡池:
北山の辺の道に向かう入り口にあります。この池にすむ"ワタカ”は別名”馬魚”ともよばれています。由来は次のように言われいます。★石上神宮鏡池馬魚の伝説:南北朝時代後醍醐天皇が吉野に逃れるとき、馬がいな鳴いて敵に見つかるのを怖れて首を切り落としました。それが馬魚になった。といわれています。馬魚は天然記念物に指定されています。 |
祓所・神杉:
社務所の横にあります。
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柿本人麻呂歌碑:
石上神宮鳥居の左手にあります。
” をとめらが 袖布留山の瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは”
(直訳)布留山のふもとに石上神宮の瑞垣ができたころから久しい間私はあなたのことを思っています。
(解説)” をとめらが 袖”までが石上神宮横にある”布留山”にかかる枕詞とされています。”袖ふる”というのは意中の人を呼び寄せるという呪術的な意味があります。また石上神宮の神官は代々物部氏ではなく天理市櫟本付近の豪族"和邇氏”春日氏系の市井氏がなっていましたが、柿本氏も同じ和邇氏から派生した一族で石上神宮が行ってきた呪術的な要素を想いながら書かれた句と考えられます。 |
石上神宮そのほか
十種神宝(とくさのかんだから):
”先代旧事本紀”によると、物部氏の祖神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとされています。先代旧事本紀には”天璽瑞宝十種(あまつしるし
みずたから とくさ)”と書かれています。この十種神宝を”ひふみの祓詞”や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するといわれています。石上神宮に伝わる鎮魂法では”ひふみの祓詞”や”十種神宝”の名前を唱えます。石上神宮の祭神”布都御魂大神”は”十種神宝”という説もあります。 ”旧天孫本紀”では物部八十手の作った祭神の供物をもって、八十万の群神を祭った。そのとき布都大神を祀る社を石上邑に遷し、”天璽瑞宝”も合わせて祀って”石上大神”を氏神としたという。という記述もあります。ただし、現在石上神宮に十種神宝はありません。石上神宮の鎮魂際では十種神宝の絵を描いた紙を袋にいれて榊に結び付け”たまふり”の呪術をおこなうそうです。
七支刀:
石上神宮にありますが公開されていないので見ることはできません。 物部氏の武器庫としていわれる石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として保管されてきた鉄の刀。刀の表面には61文字金象嵌銘文があり七支刀の由来が示されています。これによると秦和四年(369年)に百済から倭に送られたと解釈されています。また日本書紀の神功皇后52年(372年)に百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ”七子鏡”一枚とともに”七枝刀”一振りが献上されたとの記述があり年代がほぼ重なることからも百済から日本に送られたものと考えられています。七支刀はその形状から武器用としてよりも祭祀用ものと考えられています。物部氏は天皇と物部氏の武器庫として知られていますが祭祀をつかさどる部族でもありました。写真が拝殿向側にあります。
斎宮:
実在したかどうかは議論が分かれますがかつて石上神宮には斎宮があったとされています。崇峻天皇の妻布都姫は有名です。斎宮のあった場所は出雲建雄神社の東側とされています。石上神宮から北山辺の道へ向かう途中石の門があり立ち入り禁止となっていますが場所的にはこのあたりが出雲建雄神社の東側となります。
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