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2012年10月4日(木)付

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少子高齢化―がんばりようがあるか

たぶん、「がんばりようがある」とわかれば、みんな、なんとか、がんばっちゃうんだと思う。/「がんばりようがない」というときが、いちばん、じつは、くるしいわけで。(糸井重里「羊どろぼう。」から)[記事全文]

取材源の秘匿―知る権利を守るため

やがては自らの首をしめ、さらに国民全体の利益をそこなうことになるのではないか。そんな疑問がぬぐえない。記事で名誉を傷つけられたとして大阪府枚方市の元市長が日本経済新聞社[記事全文]

少子高齢化―がんばりようがあるか

 たぶん、「がんばりようがある」とわかれば、みんな、なんとか、がんばっちゃうんだと思う。/「がんばりようがない」というときが、いちばん、じつは、くるしいわけで。(糸井重里「羊どろぼう。」から)

 「がんばりようがある」と思うのは、どんなときだろう。

 65歳以上の高齢者が今年、3千万人を突破した。20〜64歳の現役世代は減少していく。65年に9.1人で1人のお年寄りを支える「胴上げ型」だった日本社会は、いまや2.4人で1人の「騎馬戦型」。2050年には1.2人で1人を支える「肩車型」になる――。

 政府が社会保障と税の一体改革を訴えるため、盛んに発信したメッセージである。

 これで「がんばれる」だろうか。現役世代は肩の荷が際限なく重くなる絶望感を抱き、高齢者は年をとることが何か悪いことのようで不安になる。そんな反応が自然だろう。

 ここで示された人口構成の変化にうそはない。

 だが、「支える」ための負担の重さは本来、「働いていない人」1人を何人の「働いている人」で支えるかで示すべきだ。

 この指標だと、見える風景は違ってくる。

 今年の労働経済白書の試算によると、働いていない人と就業者の比率はここ数十年、1対1前後で安定してきた。

 高齢者が増える一方、子どもの数が減ることで、社会全体としてみると、働いていない人の割合が極端に高まっているわけではないからだ。

 さらに白書は今後、一定の経済成長を達成し、多くの女性や高齢者が働くようになるケースでは、就業者は現状の延長に比べ、2020年で352万人、30年で632万人増えるという見通しも示している。今より働く人の比率が増える。

 働き手が押しつぶされる肩車型のイメージとは随分違う。

 もちろん、年金や医療、介護でお金がかかる高齢者が増えるため、社会全体での負担増は避けられない。

 ただ、働いていない人が就業者に回れば肩の荷は軽くなる。

 ことに女性の就業である。女性が働きやすい政策が展開されると、出生率が上昇する傾向は多くの先進国でみられる。子育ての支援は、女性の就業率を向上させながら、少子化も改善するという点で効果が大きい。

 働ける人が働くのは「がんばりようがある」世界である。そこに目を向けて、一人ひとりが「がんばっちゃう」と、世の中は変わる。

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取材源の秘匿―知る権利を守るため

 やがては自らの首をしめ、さらに国民全体の利益をそこなうことになるのではないか。そんな疑問がぬぐえない。

 記事で名誉を傷つけられたとして大阪府枚方市の元市長が日本経済新聞社を訴えた裁判で、日経は取材源の氏名を、当人の了解を得ぬまま明らかにした。記事に根拠があると主張するためで、当時の大阪地検検事正らとの会話のメモを提出した。

 日経が先月末に新聞紙上で発表した見解はこうだ。

 (1)内容は、記者が別途入手した情報の確認にとどまる(2)掲載から3年が過ぎ、捜査は終わっている(3)検事正らは広報責任者である。以上から、開示しても取材源が不利益を被ったり、将来の取材活動に影響したりすることはないと判断した――。

 たしかに、記者に会ったと知れるだけで窮地に立たされる恐れのある内部告発者と、検察幹部とでは立場は異なる。だが、取材活動の前提である信頼を裏切る行為であることに違いはない。なぜ、将来への支障までないと言えるのだろう。

 そんな心配をするのも、単に日経と取材先との関係にとどまる問題ではないからだ。

 メディアは自分たちの利益にかなうと考えれば、自分たちだけの判断で情報源を明らかにすることもある。そんな受け止めが広がったらどうなるか。

 取材をこわがり、拒み、資料の提供に二の足を踏む空気が強まるのは間違いない。そうして情報の流れが止まるとき、真に被害をうけるのは「知る権利」を侵される国民である。

 念のためはっきりさせておくが、記事のもとになる情報を発した人の氏名や立場は、記事の中で明示するのが原則だ。きちんと説明してこそ、受け手側の理解と信頼は深まる。

 しかし、さまざまな事情から情報の出どころを明らかにしない約束をしたときは、最後まで貫く。やむなく開示する際は必ず本人の了解を得る。それが、報道にたずさわる者が心すべき基本倫理である。

 取材源の秘匿は、しばしば他の価値、とりわけ、真相を解明して公正な裁判を行うという要請と対立する。そのなかで裁判所は、記者が秘密を守ることについて一定の理解を示す判断を重ねてきた。なのに、当の報道側がその意義を軽んずる振る舞いをしたらどうなるか。

 表現の自由や取材の自由は、細心の注意を払いながら、守り育てていくものだ。この認識を欠くおこないは、先人たちの労苦を無にし、社会を息ぐるしいものにしかねない。

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