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暑さ寒さも彼岸まで
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 9日(日)09時59分12秒
返信・引用
編集済
>駆出し者さん
はじめまして。ようこそいらっしゃいました。
駒収集歴30年ということで駆出しどころか大ベテランの方と感じました。
静山の木地が良くて出来の良い長録書をお持ちということで素晴らしいですね。
私は長録書の盛上げの現物を見たことはありませんが、いつか見たいと思っています。
これから、いろいろとご指導してもらえれば幸いです。よろしくお願いいたします。
>キコリさん
掬水書や秀峰書を私も見たいと感じました。実現すれば注目されるでしょうね。
また現在、台湾の書家の方による駒作りを実践しているということでキコリさんの
駒に対する姿勢というのか思想というのか情熱と愛情を感じました。
現代に失われた「筆」による「表現」の復刻が実現できれば素晴らしいと思います。
>モンキーさん
最近入手した江戸期の将棋盤はとんでもない掘り出し物だったようですね。
おめでとうございます。モンキーさんは掘り出し物発掘が得意で羨ましいです。
その将棋盤の全体像のアップをぜひお願いいたします。見てみたいです。
RE:脱帽しました
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 9日(日)01時11分26秒
返信・引用
モンキーさん、おかげさまで久しぶりに豊島の長録を見せて頂きました。
駆け出し者さん、はじめまして。
静山の長禄はやさしく暖かい駒であると思いますし、私も数組必死になって探し求めたものです。
で、果たして豊島の長録と静山の長禄はどこが違うのでしょうか?
今一度、銘を見ていただきたいのです。豊島には「長禄」と「長録」があり、静山には「長
録」は無いのではないでしょうか。
実は、これが大きな違いであるのではないかと思うのです。静山は字母としての長禄はしっていたが作品としての長録は見てはいなかった。であるからこそ、数次郎の字母としての、「長禄」を忠実に守ろうとした。
一方で、数次郎は守田長禄の書を自分の理解で字母としたからこそ、それを自由に長録としてこなすことが出来た。これは、技術以前の感性の問題ではないかと思うのです。
私は、よく図々しくも駒師に「なぜ掬水書はないのですか?」とか「なんで秀峰書を作らないのですか?」などと大変に失礼な事を聞いております(笑)。
昔は、作者名などはいらなかったのですね。書体名=作者名であることが前提として考えられていたからではないかと思います。自分の作り出したものは、容易にアレンジが出来ますが、伝えられた者には、それをどのようにアレンジをして良いかとの悩みや、自作でないが故にそれをアレンジが出来ない弱さが付きまといます。
「時代を飾る書体」。これは、豊島・奥野以降数えるほどしか存在をしてはおりません。
私には、それが残念でたまらないのですね。それが、「石橋書」を作るきっかけともなりましたし、今でも継続をしている理由ではないかと彼女ともよく話しております。
現在、台湾の書家の方による駒作りを実践しており、来月には、その作品を持って、再訪台する事になる予定です。それは、今は失われた「筆」による「表現」の復刻を期待しているものでもあり、またその書体による、台湾の駒作りの土台となって頂きたい思いからの行動です。
駒って、字母を正確に再現をすればよいのではないと思います。でなければ、そこには駒師のオリジナリティも意味を持たなくなってしまいますよ。
私は、駒師がいくら知的所有権の期限は切れたとしても、個人的な志によるを期待しております。駒作りが幾らうまくても全てが丸っきり同じ表現では、機械彫りとどう違うのでしょうか「物作り」の一番の魅力とはその「個性」であり、その書体はその個性により変化をしていくのだと言うことが、今は駒作りの諸兄にはよく理解がされてはいないようにも見えます。
Re: 脱帽しました
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 8日(土)22時55分43秒
返信・引用
>
No.299[元記事へ]
そうですね、言いすぎでした、申し訳ありません。
私も静山の長禄書を今も持っており大事にしております。
しかし、あの長録書のコピー画像を見た時に頭がガーンと打たれた思いでした。
同じ字母から作られた駒なのに、作者によってこれほど表現が違うのかと私は感じました。
さらに写真の画像を見た時にも同じ思いで、自分の持つ静山の駒と見比べ、そのように私は感じて書いてしまいました。
駒収集初心者の戯言として笑ってお許しください。
お詫びに、キコリさんに許しを頂きましたので豊島の長録書の駒のカラーコピー画像を参考にアップします。
画像サイズが大きいですからクリックした後、もう一度クリックすれば最大サイズでご覧戴けます。
脱帽しました
投稿者:
駆出し者
投稿日:2012年 9月 8日(土)20時11分19秒
返信・引用
はじめまして。駒収集歴30年のまだまだ駆出し者です。
静山の木地が良くて出来の良い長録書を私は持っています。
しかしながら単なる字母紙を見て写した模造書体の駒とは思え
ない風格のある良いものだと自分では思っております。
何を書くのもご自由ですが現物も見ていないのにそこまでのこと
がよくわかりますね。そのことに私はただただ驚いております。
写真だけでそこまでわかってしまうスーパー目利きさんということ
なのでしょう。脱帽です。横から突然、失礼いたしました。失敬。
RE:良い週末を
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 8日(土)20時08分25秒
返信・引用
ブフォ~~!!モンキーさん、とんでもないもの見つけちゃったかも~。。。
あのですね・・・確かにあの長録は良いものでありますが、一度その盤の全体写真を見せていただけますか?
今は、その姿を見るまでは、意見を述べる事は出来ませんが、歴史は未来へ向かって進んでおります。
Re: 良い週末を
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 8日(土)17時21分43秒
返信・引用
編集済
それぞれ価値観の違いで名品の受け止め方は違うと思いますが、私の場合は関根名人が所有していた竹内淇洲の真筆の駒、秀次愛用の水無瀬駒、後水尾天皇真筆の駒、駒師金龍の駒、って言ったら欲が深いですよね。
案山子さんの駒権の「蜀紅」、ばたさんの豊島の「清定」、の評価に匹敵する駒としては、私はキコリさんが所有していた豊島の長録書を挙げます。
私は現物を見ていませんが、あの駒は、数次郎が太郎吉の為に作った駒で、何よりも、あれこそ本物の長録書の駒だと私は思います。・・・・・欲しいです
あの駒を見たら、静山だろうが影水だろうが長禄書の駒は、例え、どんなに木地が良くても、出来が良くても、単なる字母紙を見て写した模造書体の駒としか思えないでしょうね。
本物の長禄書の駒とはあの駒の事だと私は思います。
キコリさんが現在所有している駒の中では無名ながら、高浜提が所有していた駒の紫檀金泥の安清の駒も、実に安清安清らしい水無瀬書体を変化させた安清らしい味のある書体の駒です。
あのような駒には駒暦書か鑑定書があれば良いと思いますし、後世に残したい駒ですね。
最近入手した江戸期の将棋盤の脚に不思議な揮毫がありました。
盤は榧材4寸厚の木裏の四方木口です、枝分かれの部分か変形した原木から板目取りしたらしく四方の木口は横目ですが、地面は二本の木表模様がみられます。
目盛は2.5mmの筆盛です。
脚の揮毫はひらがなかカタカナではないかと思いますが読めません(天地が逆かも)
キコリさん何とか読めませんか?
良い週末を
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 8日(土)10時22分55秒
返信・引用
>キコリさん
多くの「豊島」を所蔵されていたのですね。さすがだな~と感じました。
行き先(譲り先)がそれぞれ違うということもキコリさんの人脈の広さを実感しました。
>>小野書 黒虎(真っ黒い木地に金色に輝くいく筋かの縮みに似た線が
>>入っている)で、3次元的な漆が印象的
この真っ黒い木地とは黒檀なのでしょうか?
木地のベース色が黒となると、漆は何色だったのでしょう?
想像がつかないのでどういう内容なのかとても興味あります。
>ばたさん
>>他にこのクラスの駒って、どんなのがありますか?
豊島ではないですが、私は「駒のささやき」に掲載されている駒権の「蜀紅」虎杢
に憧れます。持ちたいなーと思いますが無理でしょう(笑)。
RE:無題i
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 8日(土)04時33分58秒
返信・引用
キコリさん
面倒な質問にお答えいただき、ありがとうございます。
中には文章では容易に見当がつかない駒もありますが、逆に、「これは多分あれの事だな・・・」と思われる駒もあります。
で、あくまでも私の好みで言えばですが、やはり「かの清定書」の方が、イイですよ。確かに書体や木地に関しては、安易にどっちがイイとは決めにくいものですが、やはり、どれか一組!と言われれば、豊島花押清定ですよ。キコリさんは自ら所有していた「愛着」や譲った相手への礼儀、それと、キコリさんの好み・・・と、私ほど単純ではないでしょうが、私は「無責任」に言い切れますね。
私はなぜか?菱湖にはあまり惹かれません。それでも、陣屋さんの菱湖(静山作)なんかは惹かれます。ただし、作品のみの「でき」と言うより、陣屋にて様々な戦歴を積んだ駒と言うヒストリーがあってなんです。
なので、豊島花押清定キコリさん所有→と言うこの「流れ」も重要だったんですね、私には。キコリさん!何かとんでもない代物、隠してないんですか~。
私は基本的には
①錦旗
②源兵衛清安
③水無瀬、清安、無剣、菱湖
で、作者は名作と言う前提なら
①豊島
②静山
③影水
④木村、奥野
かな~・・・でも、名作の場合、簡単に順位は付けられませんが。結構木村、奥野でも好きな駒もあります。
蛇足
迷惑ついでなんですが、以前キコリさんが所有していた駒?についてお聞きしたい事があるんですが。個人的な問い合わせは工房御蔵の問い合わせからで可能でしょうか?不躾でスイマセン、お時間のある時で結構です、お返事ください。
RE:無題i
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 7日(金)21時11分47秒
返信・引用
編集済
ばたさん
>他にこのクラスの駒って、どんなのがありますか?
難しい質問です。実は大変に多く存在をいたしますので、「豊島」に限って以前私が所有をしたものを書いてみたいと思います。
小野書 黒虎(真っ黒い木地に金色に輝くいく筋かの縮みに似た線が入っている)で、3次元的な漆が印象的 駒師K氏がどうしても、と言うことで譲る。彫り銘
長録書 銘駒図鑑にも載っている駒 愛知県の収集家K氏に譲る。彫り銘
清定書 同じく銘駒図鑑に載っております。 彫り銘 花押
菱湖書 根杢 未使用品で柿渋の跡が残っており、多少太字の感有り、福岡県のF氏に譲る。
彫り銘
菱湖書 三宅島の赤糸柾 漆に勢いがあり、2百局ほど使われてはいるものの、品格を感じる佳作。 福島県のT氏に譲る。 彫り銘
水無瀬大納言兼俊卿筆跡 赤柾で4~5百局は使用されており、銀裏に漆のへこみがあるが一番多く指した駒 東京のT氏に譲る。
龍山作 董仙書 根杢 雲のような杢に太目の漆がこじんまりと盛り上がった佳作 どなたに譲ったのか記憶が残っていない。
龍山作 清安書 落ち着いた絹柾赤系 殆ど未使用 東京のN氏に譲る。
龍山作 法眼董斎書 三宅島赤糸柾 銘駒図鑑に掲載をされたもの 大阪のS氏に譲る
龍山作 清安書 虎斑 太字の清安、漆が透けた印象が見事。 埼玉のF氏に譲る
龍山作 安清書 根杢 細かい杢が見事な佳作 福井のM氏へ譲る
龍山作 菱湖書 根縮み杢 虎杢と間違いそうなほど大きな縮みに細めの漆 どなたへ譲ったのか忘れました
これらは、甲乙つけがたく、個人の好みにより意見は分かれるとは思います。また、他の方が所有をするものにも優れた数次郎作品が数多く存在をいたします。
http://
無題
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 7日(金)04時07分4秒
返信・引用
キコリさん
やっぱり、これでしたか。私としては、この駒は「キコリさんに持っていて欲しかった」ですね。おそらく、不本意な形で手放すことになったんでしょうね。
そして、是非、私に譲って欲しかったなあ。この駒、「作者、木地、完成度」において、最高クラスで揃ってますよね。しかも、清定書・・・泣けます。
私は、ネットや本で確認できる駒で、「いつか欲しい」「買いたい」と思っている駒が7組程あります(思うのはタダだし、自由なので)。その中でも1軍、2軍があるんですが、この豊島作、清定書は「1軍」です。(思うだけですからお許しを)
こんな「とてつもない」駒を手放せば、そりゃ~「何かが崩壊」しますよ。豊島の名作中の名作ですから。「粋!」「雅」「貫禄」・・・一言では形容できない「凄い駒」ですよ。
他にこのクラスの駒って、どんなのがありますか?
Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 6日(木)23時15分6秒
返信・引用
>弘さん
こんばんは。画像がアップできてよかったです。
信華作の「源兵衛清安書」拝見しました。
とても華麗で素敵な駒ですね。木地もとても魅力的だと感じました。
いつか機会あればぜひ見せてもらえればと思います。
ところで、ご質問の件ですが・・・・・
この掲示板では画像は一度に3枚しかアップできないようです。
ただ、最大で12枚の画像をアップすることは画像を結合することによって可能に
なります。
以下のURLではウエブ上で画像を結合することができますので、このサイトを利用
して用意した複数枚の画像を結合します。
フォトコンバイン [画像結合ツール] というサイトです。
http://photocombine.net/cb/
ここでは2枚、3枚、4枚の画像を結合することができます。(最大4枚)
4枚を結合させたい場合の例ですが。
「結合タイプ」の5番目の(4枚結合タイプ)にチェックを入れます。
「ファイル選択」で1~4までの「参照」をクリックして4枚の画像を選択します。
「出力設定」では(出力最大サイズ)は「ヤフーオークション用に最適化」にチェックを入れます。
(フレーム)は「なし」にチェックを入れます。
「出力操作」で「結合」をクリックします。そうすると4枚結合された画像が出力されます。
「画像を保存」をクリックして画像を保存するか、または出力されている画像上で右クリックして画像を保存してください。後者の方が自分でファイル名を付けられますから
よいと思います。
テストで作ってみた4枚結合タイプ画像をアップしてみます。こんな感じになります。
つまりこのように画像を4枚結合して、3つの画像にしてアップされると合計12枚の
画像が一度にアップできると思います。
これはヤフーオークションに出品される場合などにも便利だと思います。
詳しいやり方はこのURLの下の方に「フォトコンバイン [画像結合ツール] の使い方」
というのがありまして、ここに説明されていますので使われる場合読んでみてください。
Re: RE:RE:源兵衛清安
投稿者:
弘
投稿日:2012年 9月 6日(木)20時05分24秒
返信・引用
>
No.289[元記事へ]
>キコリさん
私の書いている駒(清定)は、殆ど使用されていませんでした。
ウルシもあまりへこんでいません。
木地も杢でした
失礼しました。またよろしく!
> 弘さん
>
> >もうひとつは、東京の故沢野氏の所蔵品でした。すばらしい駒でした。この駒によく似て>います。 が作者は覚えていません。どこへ行ったのかな?
>
> 沢野さんの駒は、阪田さんのお弟子さんが、指導用に持っていらしたもので、だいぶ使い込まれておりましたですね。良い味を出しておりましたが、生前に売却をされております。業者でしたので、行方知れずとなってしまいました。
>
>
RE:RE:RE:源兵衛清安
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 6日(木)14時47分25秒
返信・引用
編集済
みなさんこんにちは。
朝起きて掲示板を見ましたら、??????????
私の昨晩の書き込みに何か問題があったのかも知れませんが、もし失礼があればお詫び申し上げます。
昨晩は弘さんの画像を見て興奮してしまい、一方的な書き込みだったと反省してます。
そこで、私の疑問というか疑惑といいましょうか、私の信華の清安が数次郎作品ではないと思った根拠とした資料をアップします。
まずは、龍山作・清安書の源兵衛清安タイプのスキャナー画像をアップします。
この駒はケン坊さんのコレクション駒で私がスキャナーで撮りました。
それと、豊島字母帳の清安です。
字母帳と実際の駒の書体(字母)が異なる事は一目瞭然かと思います、この他にも同じ源兵衛清安タイプの駒に、この二種類とは異なる初期型の書体が存在しており、半年程前にオークションに出品されましたが、残念ながら、落札出来ませんでしたので画像をアップする事が出来ません。
ここでは、初期型を別にして、信華、龍山作品、字母帳の三種類の源兵衛清安タイプの字母紙が存在する事が確認できます。
さて、弘さんの画像の駒書体が私の信華の駒書体と同じ字母紙から作られている事は私のホームページの画像と比較すれば確認できると思います。
そこで、数次郎の清安と信華の清安のを見比べて下さい(王将の駒だけで十分です)数次郎の感性とは全く異なる事がご理解いただけますでしょうか。
特に筆のヌケに注目していただければ分かり易いと思います、この特徴は数次郎作品に共通しております。
多少書体や製作時期によっても異なりますので、私のホームページの豊島龍山の中の、安清と清安のコーナーの駒画像なども参考にご確認ください。
漆の盛り上げの特徴も信華作品と数次郎作品では異なりますが、弘さんの画像では漆の盛り上げ具合は判断できず、シルエットだけで判断しましたが、画像の輪郭だけでも十分に別人である事が判断できると思います。
RE:RE:源兵衛清安
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 6日(木)09時58分53秒
返信・引用
弘さん
>もうひとつは、東京の故沢野氏の所蔵品でした。すばらしい駒でした。この駒によく似て>います。 が作者は覚えていません。どこへ行ったのかな?
沢野さんの駒は、阪田さんのお弟子さんが、指導用に持っていらしたもので、だいぶ使い込まれておりましたですね。良い味を出しておりましたが、生前に売却をされております。業者でしたので、行方知れずとなってしまいました。
Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
弘
投稿日:2012年 9月 6日(木)09時45分1秒
返信・引用
>この清定の駒、いいですね。
私も清定の書体が大好きなんです。いいですね、特に王将と歩が気に入っています。もちろんその他も!
書体全体、各線に力強さを感じます
故プロ棋士の愛用の駒(静山、かなり彫り埋め状態になっていましたが)でよく教えて(指して)
頂きました。バンバン指しました。
もうひとつは、東京の故沢野氏の所蔵品でした。すばらしい駒でした。この駒によく似ています。
が作者は覚えていません。どこへ行ったのかな?
本当に駒っていろいろ楽しませてくれますね。駒に感謝、感謝!
>信華作、源兵衛清安の写真、皆さん楽しんで頂きましてありがとうございます。
機会があれば、現物をお見せします(歩1枚にウルシが飛んだものがあります)
> 度々どうもです。
> そうですよね、弘さんの源兵衛清安ですが、「何やら話の行き違い」があるような?っと思っていました。これは納得。
>
> で、その件の源兵衛清安ですが、この歩兵の感じ、どっかで見たような気がするのですが、探しても見つかりません。
>
> キコリさんの言う「豊島の清定(花押)」って、私が欲しい駒(憧れ)だと思うんですよね。これじゃないですか?
RE:RE:源兵衛清安
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 6日(木)09時27分42秒
返信・引用
ばたさん
そうそう!その駒です。久しぶりに見ました~^^。その駒と、信華の岳城書をある碁盤店の創立30周年で、どうしても目玉に飾りたいから貸してくれと日参をされ、情にほだされて貸したら【売ってしまいました】とさw。皆様もお気をつけて。
あの時からですね、私が駒を手放すことを殆ど気にしなくなったのは。いろいろとは在りましたが(同じ清定も、もう一点ありましたが・現在銘駒図鑑上)あの、夫婦駒の2点は、当時の私の駒に対する執着心を作ったくれた記念の駒でした。
Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 6日(木)04時15分46秒
返信・引用
度々どうもです。
そうですよね、弘さんの源兵衛清安ですが、「何やら話の行き違い」があるような?っと思っていました。これは納得。
で、その件の源兵衛清安ですが、この歩兵の感じ、どっかで見たような気がするのですが、探しても見つかりません。
キコリさんの言う「豊島の清定(花押)」って、私が欲しい駒(憧れ)だと思うんですよね。これじゃないですか?
Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 6日(木)03時37分21秒
返信・引用
弘さん、みなさん、どうもです。
これは、いろんな意味で相当「俊逸」な駒ですね。世の中、あるところにはあるんですね。モンキーさんと同じくらい、感激と言うか、私の場合「感動」してます。
キコリさんが書かれている「新町家十一代当主三井高遂(たかなる)氏は私の知る限り過去最高の駒・棋具コレクターです」との事ですから、そのレベルの人達は、どんな駒や棋具を死蔵しているのか・・・。
キコリさん
キコリさんって、よくもまあ、色んな事が頭に入るもんですね。モンキーさんも同様なのですが、惜しむらくは、「レベルが高過ぎ」て、と言うか、内容が濃すぎて、追いかけられない時がある事ですね。ホントに思うんですが、将棋(主に駒)について、知っている事、考えられること、自身の想像などを「体系つけて」残されてはいかがですか?
最初はあまり掘り下げず、項目分けし、少しづつ枝葉を細かく分類するように、加筆していけば、思い出しながら・・・どうでしょう?
言うはやすし・・・ですし、書く方は大変でしょうが、やはり第一人者のキコリさんにしか出来ない仕事かも。もちろん、ここに集う皆さん(私も)協力出来ることはしたいでしょうし。私のように「芸のない」人間は、「その本買います!」と言う、一番美味しく、一番楽な事しか出来ませんが・・・。いや、本心は協力したいですよ、でも、本当にやれることがないので。
で、例えばですが、ひとりで、黙々と書くのも寂しいでしょうから、ネット上に執筆・加筆し、掲示板のように周りは「やじうま的」に参加できるとか?文章として残るのは本文だけですが、週刊誌の連載のように、その本の進捗を期待する外野が集うことで、書き手のモチベーションを維持できる・・・なんて。
いつか、期待してます。
RE:源兵衛清安
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 6日(木)03時25分33秒
返信・引用
編集済
あら、どこかで見た信華作源兵衛清安(花押)の駒ですね(笑)。
弘さん、お久しぶりです。大阪ではお世話になりました。
モンキーさん
>理由は、豊島の字母ではなく信華オリジナル字母である事と、筆法が数次郎とは異なりま>す
弘さんご自身が
>私は、信華自身の作った駒を実際に見ていないのです。申し訳ありませんが一度掲示願え>ませんか?
> 私は、信華本人の作品は無いと思っていました。
と書かれているではないですか。その源兵衛清安は信華のオリジナル書体ではありませんですよ。
弘さん
残念ながら、現在は信華の作品を手元に残してはおりません。売った訳ではなく、だまされてとられて(苦笑)しまいましたよ。もう、十年以上は経ちますね、豊島の清定(花押)(現在銘駒図鑑に載っているものではありません)との夫婦駒でしてね。確か、カラーコピー残っていたと思いますので探してみましょう。
書体名は岳城書、大振りで真横の大虎斑の大柄な駒でしたね。王将の裏に阪田三吉が自分で小さく「阪田好み」と彫ってありましてね。大入れ箱の裏板に大きく左馬と三が書いてありましたよ。阪田氏の後援会副会長さんが京都で亡くなられまして、遺品が東京美術クラブでのオークションとなった駒で、その大入れ箱にはまるで紙で作られたような軽いピンクに染った猫目の桐の京指物の駒台と友樹の駒入れが上手でした。数次郎の清定が26組、信華作が14組、婚礼祝いの返礼として、それぞれの後援者へ配られたもので、殆ど未使用状態であったものです。なくなった前年に井上一郎さんが見えて、「これを大阪の宝にするんじゃ」と言ってタクシーの扉を押さえながら粘られましたが、取られるくらいならお渡していた方がよかったかもしれませんね。
当時の私は、写真ではなくカラーコピーでとっておりましたのでそれを探してみようと思います。
Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 6日(木)00時14分53秒
返信・引用
>
No.282[元記事へ]
弘さん、スゲーーーー!
信華の源兵衛清安の駒のこんなに大きな画像で見えるなんて!!!
感謝!感謝! 感謝感激雨霰!!
この画像で、清安の信華作品が数次郎かも知れないとの疑念を完全に払拭してくれました。
少なくとも、源兵衛清安書体の信華の駒は数次郎の手による作品ではないと確信します。
理由は、豊島の字母ではなく信華オリジナル字母である事と、筆法が数次郎とは異なります。
実は、数次郎だって人間ですから調子の良い時と調子の悪い時があり、自分の清安は数次郎が調子悪かったのかな?
なんて思ったりしましたが、弘さんの駒を見て確信出来ました。
信華は、数次郎の手でもなく、静山の手でもない、信華の銘を持つ人物による作品です。
弘さん、ありがとうございます。
再び信華への想いで、今夜も寝苦しい夜になりそうです。
Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
弘
投稿日:2012年 9月 5日(水)22時44分16秒
返信・引用
>案山子さん
やってみました。ありがとうございます
掲載します。掲載できるかな?
質問;ファイル1.2.3の最高3枚が可能ですか?今回は3枚掲載します
> >弘さん
>
> こんばんは。お手元に信華作、源兵衛清安書、盛り上げ駒があるということで
> ぜひ画像を拝見したいと思います。
>
> 画像サイズが1.8Mですと、そのままでは大きいので無理です。
> サイズをネット上で小さくする方法があります。
> 先日、書いたのですが、もう一度書きます。
> この方法でやれば1Mサイズ以下になると思います。
> よろしくお願いいたします。
>
> ----------------------------------------------------------------
> ネット上で画像のサイズを変更できるサイトがあるようです。
>
> 画像サイズ変更サービス
>
http://www.image440.com/
>
> 1)ここの「参照」というボタンをクリックして、サイズ変更したい画像をご自分のPC
> の中から選択します。ただし元の画像が4M以上だと無理のようです。
>
> 元の画像が4M以上の場合には
http://search.vector.co.jp/vsearch/vsearch.php?key=%89%E6%91%9C%81%40%83T%83C%83Y%95%CF%8DX&kanji=shift-jis
> でフリーソフトをダウンロードしてソフトから変換するようになると思います。
>
> 2)次に変更するサイズ等を指定します。以下の感じでよいと思います。
>
> 変更方法 :(長辺を合わせる) サイズ : (640) px
> 補間方法 : (高品質 ) 画質 : (99 )% 解像度 : (72) dpi
>
> ( )内はご自分で選択するか記入する部分です。
> 記入する数値はこのくらいでよいかと思います。
>
> 3)変更実行のボタンをクリックすると別の画面に切り替わり、変更された画像が
> 画面上に出ます。その画像を右クリックして「名前を付けて画像を保存」を選択して
> 変更する画像名を適当に付けて、デスクトップ上など保存したいフォルダを指定して
> 最後に「保存」のボタンをクリックします。
>
> これで完了のはずです。
> この設定のサイズですとおそらく1MB以下のファイルサイズなのでアップロードが
> 出来ると思います。
>
>
>
Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 5日(水)22時17分39秒
返信・引用
>弘さん
こんばんは。お手元に信華作、源兵衛清安書、盛り上げ駒があるということで
ぜひ画像を拝見したいと思います。
画像サイズが1.8Mですと、そのままでは大きいので無理です。
サイズをネット上で小さくする方法があります。
先日、書いたのですが、もう一度書きます。
この方法でやれば1Mサイズ以下になると思います。
よろしくお願いいたします。
----------------------------------------------------------------
ネット上で画像のサイズを変更できるサイトがあるようです。
画像サイズ変更サービス
http://www.image440.com/
1)ここの「参照」というボタンをクリックして、サイズ変更したい画像をご自分のPC
の中から選択します。ただし元の画像が4M以上だと無理のようです。
元の画像が4M以上の場合には
http://search.vector.co.jp/vsearch/vsearch.php?key=%89%E6%91%9C%81%40%83T%83C%83Y%95%CF%8DX&kanji=shift-jis
でフリーソフトをダウンロードしてソフトから変換するようになると思います。
2)次に変更するサイズ等を指定します。以下の感じでよいと思います。
変更方法 :(長辺を合わせる) サイズ : (640) px
補間方法 : (高品質 ) 画質 : (99 )% 解像度 : (72) dpi
( )内はご自分で選択するか記入する部分です。
記入する数値はこのくらいでよいかと思います。
3)変更実行のボタンをクリックすると別の画面に切り替わり、変更された画像が
画面上に出ます。その画像を右クリックして「名前を付けて画像を保存」を選択して
変更する画像名を適当に付けて、デスクトップ上など保存したいフォルダを指定して
最後に「保存」のボタンをクリックします。
これで完了のはずです。
この設定のサイズですとおそらく1MB以下のファイルサイズなのでアップロードが
出来ると思います。
Re: RE: 源兵衛清安
投稿者:
弘
投稿日:2012年 9月 5日(水)21時14分21秒
返信・引用
>キコリさん
私は、信華自身の作った駒を実際に見ていないのです。申し訳ありませんが一度掲示願えませんか?
私は、信華本人の作品は無いと思っていました。
よろしくお願いします
>最近、信華と源兵衛清安の話で盛り上がっていますね。話に夢があり楽しませてもらっています。
一冊の本が書けますね。参考にさせて頂いています。
>手元に信華作、源兵衛清安書、盛り上げ駒がありますので掲示したいのですが!
1.8MBありますので無理ですね? 方法があれば教えて下さい。
> 信華は結婚をする前より関西で駒を作っておりますが、件の源兵衛清安は信華の作風とはまるで違っていますよ。皆さんは、信華自身の作った駒を実際に見ていないのではないかと、感じさせられることがあります。盛り上げの手法が数次郎とか静山とは全く違います。
>
> 源兵衛清安は静山によるものである事は事実でしょう。元々静山の実家は東京の質屋の元締めでもあり、父親は理研の代表であり、骨董収集・駒収集家であった大河内氏の家令であった事から、いろいろな情報を知り得ていたものです。
>
> また、三井家の、新町家十一代当主三井高遂(たかなる)氏は私の知る限り過去最高の駒・棋具コレクターですが、後水尾天皇宸筆の駒を含め江戸期の駒を数十点所有をしており、その中には源兵衛清安書体の清安銘の駒を所有されておりました。また、その棋具類の面倒は前沢長兵衛があたっており、静山とは戦前からの付き合いも有り、そこから出て来たとする方が自然です。
>
> また、前にも書きましたが、徳川美術館で私が見た雛駒の書体はまぎれもなく源兵衛清安でありました。これに関しては名古屋の碁盤商も確認をしており間違いはありません。
>
> 水無瀬駒に関しましては、三条西実隆の「実隆公記」に於いて32組の駒を作っている事が確認をされており、駒を作る事により「白絹十反を受けた」等、当時としては相当なる金額に値するものを得ております。水無瀬兼成の祖父は三条家より水無瀬家の養子となり、父は「実隆公記」に於いて幾度も実隆に宮中の作法に関して習いに三条西家を訪れております。
>
> また、安清は安土桃山時代には京都に於いてすでに駒を作り始めており、水無瀬家よりも古くより駒の製作にあたっている事は確かであり、それが実隆の書体である可能性もあると考えられます。モンキーさんも書かれておりますが、安清の駒は水無瀬書体の物も多く残っており、どちらが先にその書体を作っていたのかは何とも言えない面があります。
>
> 安清は駒作りの一派で、大橋家が家光の時代に京都より江戸に移る際に同行をしており、途中尾張家に数か月滞在をし、その中の一人が尾張に残り、その際に清安と名乗ったようです。安清一派は幾代にもわたり駒作りを家業としており、明治39年まで続けている事が幸田露伴により書かれております。清安はその後、江戸に渡り、伊藤家の駒に関係をしていたようで、やはり代々駒作りを家業としていたとされております。
>
> 徳川美術館に源兵衛清安の書体の雛駒が残っている事は、清安一派のどの代かの中にその様な駒師がいた可能性を物語っております。書体的には実に五角形の駒の中に収まるに相応しい形をしており、書家が書いたと云うより、駒師が作った書体のイメージが強く感じられます。
RE:源兵衛清安の駒
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 5日(水)09時16分25秒
返信・引用
編集済
ばたさん
水無瀬兼成の祖父は三条西家からではなく三条家からの養子です。(wikiの間違いw)養子縁組のころは三条家は公家として大きな勢力を持っておりますが、その後、分家の三条西家が勢力を持ち、天皇家とも親戚筋となります。で、三条西実隆は長命で60年に及ぶ「実隆公記」を書きますが、その間に使えた天皇は三人になりますが、その内の一人が後奈良天皇となります。将棋から「飛車」と「角行」を取り除いたといわれる天皇ですね。
では、三条西家に伝わっていた「駒字」とはいったいどのようなものかを考えたいと思います。水無瀬駒は735組作られましたが、その中に「何でも鑑定団」に出た「道休」の象牙の駒があります。この制作年は、「将棋馬日記」では、「道休」が亡くなった次の年となっております。水無瀬家では、象牙の駒は計3組作られておりますが、この駒が最初の物です。果たしてこれは、「道休」が依頼をして作られたのでしょうかね?
「道休」は、豊臣秀吉の御伽衆(軍事・文化・経済等の相談役集)の筆頭で、仏門に入る前は足利十五代将軍義明です。織田信長と確執があり、山陰(朝倉近いんですね~)へ流されますが、秀吉が必要とし、呼び戻された元将軍なのですよね。そして、水無瀬家の「将棋馬日記」をよく調べてみますと、道休が水無瀬駒を持ったのは、その象牙の駒が最初ではないのです。ほとんど一番最初の頃にその名前が記されております。現在では、正親町天皇より「駒の銘は水無瀬公の筆をもって宝とす」とされてはおりますが、その数年前に道休はそれを手にしております。
逆に考えますと、足利家は藤原家に関係をしており、天皇家との交流も古くからあり、その文化性を、織田信長のマネをした秀吉にとっては天下を平定した後に非常に必要なものであったのでしょう。なぜ、豊臣家が「将棋六式図」を求めるまでになったのか、を考えますと、その「道休」によりもたらせられたのではないのか、と想像ができるのです。ですからこそ、亡くなった「道休」の為に「白黒」である象牙に漆の駒を作って供養をしたものではないのか、とも考えられるのです。
では、その足利家が守ってきた将棋の駒字とは、となりますと、京都の曼殊院へとつながります。曼殊院は800年頃に最澄によって建立をされ、代々天皇家の「書」の教習所として漢字を伝え続けました。十五年ほど前近代将棋の取材で訪れました時には、教養庫が開けられ、そこから大将棋・中将棋の駒の字母紙が発見できました。その五角形の中には、駒の動きを示す点が描かれており、使い方を示さなければ成らないほどに、古い時代のものであることはわかりました。
当時の宮司さんの話では、「これから宝物庫を開いて奈良県立博物館が目録を作ることになっているが、将棋盤が何面かありますよ」とのことでした。また、麒麟抄も存在をしており、書(漢字)に対する原点的な寺であることを感じさせてくれました。その後、「象経奥書」なる本も出てきてはおりますが、それまで殆ど調査のなかった曼殊院では国宝級が山ほど出てきてしまい、将棋などには関心を示してはもらえないこととなってしまいました。(苦笑)
足利家が守ってきたものは、その曼殊院から伝わった幾つもの種類の将棋ではなかったのではないでしょうか。それが、三条西家へと伝わり、それが安清や水無瀬の駒の原型となり、より格式を持った「将棋六式図」を献上をした水無瀬家が一つのステータスを勝ち得たのではないでしょうか。そして、その道筋を開いたのが道休だったのでしょう。ですからこそ、その供養のために「象牙の駒」を作ったのではないかと考えられます。
将棋は、仏教徒漢字という大陸からの2大渡来品を広める為のツールと考えますと、天皇家、足利家、三条家、三条西家、織田家、豊臣家とつながる権力者の文化・歴史に対する欲求が理解できるのです。将棋には大きな日本の歴史を左右する何かがあるのではないか、五角形の謎がスツューバにありますように。
ロマン話でございました。
長文ごめんなさい
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 5日(水)06時24分38秒
返信・引用
長文スイマセン。実はこれでも「結構削ったんです」(爆)
RE: 源兵衛清安
投稿者:
ばた
投稿日:2012年 9月 5日(水)06時23分31秒
返信・引用
うをおお!非常に感動しています。
私とて、銘駒愛好家の端くれですので、現行ネットで確認できる事柄や銘駒に関する本程度は完全に読破しています。・・・が、詳細に関しては「脳に定着せず」忘れる事しばしば。
それでも、「どこかで読んだ」とか、「誰かが言ってた」くらいは残っていますので、皆さんの書き込みでも、「これはモンキーさんのHPで見たか?」とか、当然あります。
その中においても、結構この源兵衛清安は、水無瀬ほど掘り下げた話はなく、源兵衛清安ファンの私としては、「何か不思議な」印象の書体名でした。
昔は源平=源氏と平氏を誰かが間違えて「源兵衛」なんて、引用したんでは?と、全く恥ずかしい推理をした事もあります。でも、どんな空想をしてみても、源兵衛清安の源兵衛の後に付く清安との関係が何なのか?や、なぜ、源兵衛書ではダメなのか?など、この「長ったらしい書体名」の理由が解りませんでした。でも、分かった気がします。
キコリさんの解説にある、「安清一派」と言うくだりで、ビビっと来ました。うまく文章に出来るかな~。モンキーさんが水無瀬→源兵衛清安と言う流れを「その構成がほとんど一緒」と言う説明からも、これは逆もありえますよね。源兵衛清安→水無瀬ということです。でも、私が言いたいのはそこじゃないんです。
あああ、自分の思い付きを整理出来ない・・・歯がゆい。
(長文覚悟で書きますね)
「安清一派」これにつきます。
キコリさんの「安清は安土桃山時代には京都に於いてすでに駒を作り始めており、水無瀬家よりも古くより駒の製作にあたっている事は確か」と言う事ですから、安清一派=安清派が鍵を握ってますよね。ここで大事と言うか誤解しがちなのは、「水無瀬家」は「家系と言うか血筋」の事で、「安清派」は狩野派のように「家系や血筋」ではなく、「職人集団」と言うくくりです。仮にですが、水無瀬家には、駒職人などおらず、別の事を生業にしていたとします。そこに安清派の一人が養子に入る事で安清派「水無瀬」が作られる。っま、分家したブランドの方が、本家以上の人気になることはありますよね。もしくは、安清派でもともとあった書体(その頃は統一して安清)を水無瀬家に養子に行った後に「水無瀬」と命名した・・とか。で、その後、水無瀬は一人歩きした。そう考えれば、水無瀬が先か、安清が先か?と言う答えですが、「同じ」と言う事です。なぜなら、水無瀬は安清派の作品だからです。
あ、違う・・・。
水無瀬家をウェキペディアで調べたら、「戦国時代に血統が途絶え歌道で有名な三条西家から養子を迎えたため、以後水無瀬家も和歌の家となった」とありました。
謎は溶けた。パクリだ!
この頃の駒は書き駒が主流でしょ。歌道で有名とか和歌の家とか、要するに「毛筆は達者」なはず。だから、安清派の駒が京都で盛況なのを見て、これからは「これだ!」って事で、生業にしたんだ!そうなると16世紀末に「駒の銘は水無瀬公の筆をもって宝とす」と言う賞賛の話も、「商売上手」と言うか、「自らの地位向上」の演出?なのでは。
まあ、真意はどうであれ、安清派は、京の都(京都)で活躍していた訳ですし、大阪の水無瀬は勢力圏内です。日本最古の将棋の駒が福井県の朝倉遺跡(朝倉義景)で見つかっているのも、地理的に合致します。
反して、安清派たちは、水無瀬出現の後も、大名付き絵師「狩野派」のように駒を作る。その中にはキコリさんが書かれてるように、京都から江戸へ下る際、大橋家付き安清派の門弟の一人が途中で立ち寄った、尾張家付きの駒師となり、清安と名乗る。
じゃ、なぜ清安書ではなく、源兵衛清安か?ですが、その答えは「水無瀬兼成的」考え方ではないか?と思いつきました。
先にも書きましたが、水無瀬とは「家柄・家系を表す名」であり、その後に兼成の名前。これは言い換えると水無瀬(家柄)+兼成(駒師名)ですよね。もともと、安清で統一されていた名前が、水無瀬派駒師で「派閥と駒師が差別化」された訳です。狩野派の絵画で通っていたのが、狩野派の中に「タレント」が出だした訳です。狩野派の誰?なのかみたいに。なので、安清派で尾張付きの清安もそれにならい、源兵衛の清安=源兵衛+清安(安清派駒師)と言う事です。
そうなると源兵衛の由来ですが、材料が揃えば簡単です。
「源氏でなければ征夷大将軍になれない」のルールを打ち破り「ペイペイの徳川」が足利や藤原等を差し置き、実力のみで将軍になった訳です。要は源氏の兵衛その人です。
言い換えれば「徳川清安」ですね。なので、徳川美術館に「源兵衛清安」の雛駒・・・。をおお~泣ける~。
もっと書きたいのですが、疲れました。
結局、モンキーさん、キコリさんの内容をナゾってるだけじゃん!と、突っ込まれそうですが、「勝手にガテンが行きました」。
最後に、キコリさんの「書体的には実に五角形の駒の中に収まるに相応しい形をしており、書家が書いたと云うより、駒師が作った書体のイメージが強く感じられます」と、モンキーさんの「もはや静山書と呼んでも良いほど完成され美しい駒書体です。」と評されているように、五角形において、完成された美しい書体ですよね。
RE: 源兵衛清安
投稿者:
キコリ
投稿日:2012年 9月 4日(火)22時11分9秒
返信・引用
編集済
信華は結婚をする前より関西で駒を作っておりますが、件の源兵衛清安は信華の作風とはまるで違っていますよ。皆さんは、信華自身の作った駒を実際に見ていないのではないかと、感じさせられることがあります。盛り上げの手法が数次郎とか静山とは全く違います。
源兵衛清安は静山によるものである事は事実でしょう。元々静山の実家は東京の質屋の元締めでもあり、父親は理研の代表であり、骨董収集・駒収集家であった大河内氏の家令であった事から、いろいろな情報を知り得ていたものです。
また、三井家の、新町家十一代当主三井高遂(たかなる)氏は私の知る限り過去最高の駒・棋具コレクターですが、後水尾天皇宸筆の駒を含め江戸期の駒を数十点所有をしており、その中には源兵衛清安書体の清安銘の駒を所有されておりました。また、その棋具類の面倒は前沢長兵衛があたっており、静山とは戦前からの付き合いも有り、そこから出て来たとする方が自然です。
また、前にも書きましたが、徳川美術館で私が見た雛駒の書体はまぎれもなく源兵衛清安でありました。これに関しては名古屋の碁盤商も確認をしており間違いはありません。
水無瀬駒に関しましては、三条西実隆の「実隆公記」に於いて32組の駒を作っている事が確認をされており、駒を作る事により「白絹十反を受けた」等、当時としては相当なる金額に値するものを得ております。水無瀬兼成の祖父は三条家より水無瀬家の養子となり、父は「実隆公記」に於いて幾度も実隆に宮中の作法に関して習いに三条西家を訪れております。
また、安清は安土桃山時代には京都に於いてすでに駒を作り始めており、水無瀬家よりも古くより駒の製作にあたっている事は確かであり、それが実隆の書体である可能性もあると考えられます。モンキーさんも書かれておりますが、安清の駒は水無瀬書体の物も多く残っており、どちらが先にその書体を作っていたのかは何とも言えない面があります。
安清は駒作りの一派で、大橋家が家光の時代に京都より江戸に移る際に同行をしており、途中尾張家に数か月滞在をし、その中の一人が尾張に残り、その際に清安と名乗ったようです。安清一派は幾代にもわたり駒作りを家業としており、明治39年まで続けている事が幸田露伴により書かれております。清安はその後、江戸に渡り、伊藤家の駒に関係をしていたようで、やはり代々駒作りを家業としていたとされております。
徳川美術館に源兵衛清安の書体の雛駒が残っている事は、清安一派のどの代かの中にその様な駒師がいた可能性を物語っております。書体的には実に五角形の駒の中に収まるに相応しい形をしており、書家が書いたと云うより、駒師が作った書体のイメージが強く感じられます。
ヤフオクの宮松作錦旗
投稿者:
案山子
投稿日:2012年 9月 4日(火)21時43分10秒
返信・引用
影水作と宮松作の似たような錦旗がヤフオクに出ています。
どちらも彫り埋駒にみえますがどうでしょう。
銘も宮松作と影水作の違いはありますが、とてもよく似ているようにみえます。
同時期に同じような宮松錦旗が出るというのはすごい偶然だなと感じました。
私は入札には参加しませんが、価格がどうなるのか興味あります。
現在は影水作が約15万円。宮松作が5万円。約3倍違います。
その差がどこにあるか私にはわかりません。
F273骨董 美品 宮松影水作 大山康晴 名人 将棋駒 (影水作)
http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/158620216
将棋駒『宮松作』『錦○』本黄楊/駒箱+駒袋★時代物 (宮松作)
http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g118351055
Re: re:re:源兵衛清安
投稿者:
モンキー
投稿日:2012年 9月 4日(火)16時29分32秒
返信・引用
>
No.273[元記事へ]
ロボさんこんにちは
その通り、源平駒だと思います。
源平駒が何故「源平駒」と呼ぶのかの理由は知りませんが、江戸期などの古い駒で書体が朱色の書き駒
は存在しますので、古い駒で裏面と表面で別の漆を用いた駒が存在するのかも知れません。
但し、トミさんが天童楷書体、天童草書体、並びに源平駒、咲き分け駒、朱書駒を厳格に区別していたとは思われません。
また、戦後の安い駒は表が黒で裏面は朱色の駒が多く書き駒だけでなく彫駒でも多数見られました。
私などは、子供の頃、裏面が朱色の駒が普通で、両面が黒い駒は手抜きの安い駒だと思っていました(^_^)
もし、静山が「源兵衛清安」の名前を最初に付けた名付け親なら、こんな理由ではないかと思うのです。
もし、源兵衛清安と名乗る駒師が存在したのならば、必ずそれを証明する駒や文献が存在するハズですが、現在はそれを証明する事ができません。
噂や謂われでは徳川美術館に存在するとか、三井家の蔵に眠っているとかいわれていますが、確認されてはいません。
奥野錦旗と源兵衛清安は同じタイプの書体構成です。
駒書体は何代にも渡り写された書体で、例えば水無瀬書体と同じタイプの書体構成の駒には、安清も清安も後水尾天皇の錦旗も豊島の水無瀬も、元を辿れば水無瀬駒を色々な人が写し伝えた書体で同じタイプ(系統)の駒です。
現在最も多く普通に作られている水無瀬書の駒は豊島龍山の感性で作られた水無瀬書のコピーで、本当の水無瀬駒書体とは随分異なり、もはや豊島書水無瀬バージョン写しの駒で、本当の水無瀬駒とは異なる書体です。
この水無瀬駒の水無瀬書体でも実は、元書体は三条西実隆(1458-1537)の書体を写した書体ではなかろうかと思われますが、三条西実隆の作った駒は未発見でその書体は判明しておりません。
現在、源兵衛清安と呼ばれる駒は静山が豊島の清安の字母から静山の感性で作った書体で、もはや静山書と呼んでも良いほど完成され美しい駒書体です。
そこで、豊島の清安の書体を調べると、豊島は数度に渡り清安書の書体を変えていますが、源兵衛タイプの清安の初期作品は静山の作った源兵衛清安とは異なり、むしろ奥野錦旗の昇竜錦旗に近い書体です。
また、古い駒には金龍書と書体名の書かれた駒が複数見られ、その書体構成は奥野錦旗と同じ書体構成であり、私は奥野錦旗の元字は駒師金龍の残した書体ではなかろうかと研究しています。
もし、源兵衛清安が金龍の駒の写しであれば、駒師金龍は初代も二代目もれっきとした掛川藩の藩士で、掛川藩は山之内一豊が移封した後は徳川家の幕臣大名が治めており、駒師金龍は源氏の衛兵であり、「源氏の衛兵が作った清安書の駒」即ち「源兵衛清安」の駒名にも理にかなう名前なのです。
re:re:源兵衛清安
投稿者:
ロボ
投稿日:2012年 9月 4日(火)12時59分47秒
返信・引用
モンキーさん、トミさんがおっしゃっているのは源平駒ではないですか。
http://www.ikechang.com/shogi1.htm
奥野錦旗も源兵衛清安タイプの駒になるのですか。気づきませんでした。
以上は、新着順151番目から180番目までの記事です。
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