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(無題)

 投稿者:ロボ  投稿日:2012年 9月25日(火)11時53分7秒
返信・引用
  連投すみません。

ばたさんからの投稿の駒、私は「ばたさん作」と見ましたが、どうでしょうか。

ばたさん、「箸休め」などとおっしゃらず、ボリューム満点の投稿をお願いします。
 

(無題)

 投稿者:ロボ  投稿日:2012年 9月25日(火)11時49分24秒
返信・引用
  キコリさん、高浜愛子さんの件、私の思い付きを気にかけて頂きありがとうございました。  

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月25日(火)10時06分52秒
返信・引用 編集済
  ばたさんへ

 自己紹介有難う御座いました。貴方の棋具対する取り組み、職人的な技術をもて合わせけ方で、個性的発想に敬意を評しています。
 私は、駒・盤等の棋具を多く所蔵している方が、決して精通された知識人とはイコールしないと思っています。
 棋具を持ち合わせていなくとも、研究に熱心で努力された優れた方はおられます。
 ただ、私の場合、趣味の方向性として確かな棋具の良さを見抜くには、画像だけでなく、現物を、現実に、目で確かめる。棋具に触れて感触を味わうことで、自分自身の知識の向上に努めているだけです。
 さて、私の経験上から一言。
 昔の駒師たちは、駒造りの技巧を競い合って、良い駒を仕上げたのものです。いわば、職人気質で美術品のような良い作品を作ったと思います。
 そのためには、駒愛好者に認められたい思いで、技術向上に日夜、努力を積み重ねた結果、良い作品を作り出されたと思っています。
 従ってこの世代の珍品は、逸品として駒師が、自慢をした作品の証として、付加価値を付けたのではないでしょうか。売り物が目的でなく技術力を訴えたものだと感じています。
 現在は、情報化社会で、技術よりも如何にして、駒をPRするか、また、花押を入れ付加価値を付けたりして販売を先行しているのが実態では内でしょうか。
 さて話が変わるますが、豊島作・三代目安清の件ですが、念のためこの駒の作者は豊島・龍山です。貴方の素人考え参考に致します。ただ、文章は、言葉の文で「人を落としこむ手段」にも成りかねないのです。時には素人考えが一人歩きいたします。お互に発言は気を付けましょう。
 今後共よろしくお願い致します。
 写真の駒ですが、私は、潜龍作もしくは静山作ではないかと思いました。如何ですか。
 

無題

 投稿者:ばた  投稿日:2012年 9月25日(火)04時46分15秒
返信・引用
  ケン坊さん
不躾な、もの言いでスイマセン(ケン坊さんて何もん?とか)。
さて、私ですが自己紹介する程の者じゃありません。将棋に関しては、指す方は「超へぼ」ですし、棋具の方は「それなりの趣味」です。ここで「それなり」なんて表現すると「凄い事」想像されそうですが、普通の視点での「それなり」です。棋具で一番数を持っているのは、「駒箱」。次が「盤」。次が「駒」、最後が「駒台」ですね。駒は盛り上げ駒が6組で、彫り駒はもう少し多いです。
また、駒、駒箱は自作した物もあります。あ、駒袋は結構自作しました。自作の駒袋はどれも自信作ですね。

三代目安清の件
もう、この話は私が何か言える状況ではないのでスルー。
いや、書かなきゃ良いのに少々。「蛇足」的に私が思っていた事ですが、「竹風」が関西では「一乕」と名乗っていたように関西では「別名」を使っていた・・・なんて、全く素人考えで考えました。っと言うより、何か皆と違う答えは無いか?と、考えた結果です。もう少し範囲を広げると、場所や状況によって色んな名前を使っていたと言う事です。

水無瀬大納言、中納言
豊嶋と豊島は以前に何かで写真を見ましたが、その時々に「なんだろうこれ?」と思っていました。

それにしても、室町時代~江戸あたりのものでなく、さかのぼってもせいぜい100年くらいの駒にこれだけ解明できない謎がある。罪作りな先人だなあ。
そもそも、虎斑とか、盛り上げ駒とかは、なんでもない将棋の駒への付加価値ですよね。そう考えると、「坂田好み」とかも「売らんが為」の名前だろうし、作者の名前も関東の駒師の名前では関西でのウケが悪かった・・・とか。
私の書き込みは「箸休め」と思ってください。
では~
 

無題

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月25日(火)03時21分29秒
返信・引用
  あきれました。  

昭和11年前後に急いで数次郎が作らなければ行けない状況とは

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月25日(火)03時04分11秒
返信・引用
  > No.388[元記事へ]

> 昭和11年前後に急いで数次郎が作った坂田好の駒が実在しますので、その状況に則した記録が特定できれば、最高ですが、今の私にはその情報を持っていませんのでよろしくお願いします。

モンキーさん、こんばんは。

昭和11年前後に急いで数次郎が作らなくてはいけない状況に則した記録としては、やはり、昭和12年の「読売『大棋戦』」が一番の候補です。

東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』に「本企画は『実力名人戦』の進行中に突如発表され、ファンを驚かせた。」と、あります。とにかく、急遽持ち上がった棋戦であることは確かです。

では、話が持ち上がって、対局に至るまでどの程度の期間であったのか。その点につきまして、木村義雄十四世名人の著書『将棋一代 私の五十年』に詳細が記述されています。
長文なのでそこから、要点だけ抜粋します。

「名人戦も順調に、継続進行された間に、私としては一世一代ともいうべき、大切な棋戦が持ち上がって来た。(中略)話の起ったのは、十一年の暮頃からで、当時名人戦の方は、私と花田氏とが鍔競合という、接近の最中であった。(中略)『名人戦の終わるまでは、やらない方がよいだろう』という説も出たが、それは興味の問題で、行われる道理がなかった。名人戦の継続中なればこそ、世間の興味を惹き、主催を企てるものも現れ、坂田氏の乗出した理由も、おそらくそこにあったと思われるのに、それが終わってからというのでは、六菖十菊を誰が顧みよう。(中略)会場は双方から京都まで乗出し、洛東南禅寺ということにきまって、いよゝ開戦の火蓋がきられたのは、昭和十二年二月五日であった。」

以上のことから、話が持ち上がったのが昭和11年の暮れ頃で、対局が行われたのが昭和12年2月5日ということが分かり、その間僅か1ヶ月ちょっとであったと判断できます。
昭和11年前後に急いで数次郎が作らなくてはいけない状況に、正しく則していると考えられますがいかがでしょうか。
 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月25日(火)01時41分48秒
返信・引用 編集済
  > No.385[元記事へ]

案山子さん
モーッ疑り深いですね(^_^)
玉将と銀将と歩兵の両方の駒をスキャナーで撮りましたので実測して比較してください。
角度についてこの様な分度器で計ります、角度を読めば豊島の駒の角度を知ってる人ならば、この角度だけで珍しい角度だとご理解頂けると思います。

柾目かどうかは、駒銘の画像をクリックして拡大してください、確認できます。
駒の厚さについては、私は江戸期の厚手の駒を知っていますので、私には普通の厚さと思ます。
しかし、豊島の駒の中では駒尻は同じでも先端が他の豊島の駒より薄く、関根名人書も坂田好も普通の豊島の駒型とは異なり中京駒風です、この駒型のバランスは私の持つ他の豊島の駒型とは明らかに異なり、豊島の駒の中では薄手の駒と見えるかも知れません。
しかし、同じ時代に良く見られる薄手の駒を見慣れた人には厚手の駒と思うでしょう。


ケン坊さん
数次郎と信華の関係は坂田三吉も知っていると思います、坂田三吉が上京する時や会った時に離婚した信華の様子を気にしている事は言わなくても数次郎は感じると思います。
そんな時、指定された書体が清安だった場合(信華の書体)そして増田弥三郎が源氏の衛兵の末裔であった場合、僕でも「三代目安清書・坂田好」と駒銘に入れる事で自分の気持ちと信華の事を伝えます。
この辺はメンタルな部分ですので、心の問題から導き出した私の予想です。
「源兵衛清安」が「源氏の衛兵の清安」から導きだした予想が「三代目安清書」は数次郎が作ったのではないか?でした。
「三代目安清書・坂田好」の駒を実際に調査して、昭和11年前後に急いで数次郎が作った駒である、と私は判断しました。
その頃急いで製作しなければならない状況にあった坂田好みの駒が特定できれば、ズバリ「三代目安清書・坂田好」の駒はその駒だと思います。

まち駒さん
私は「三代目安清書・坂田好」の駒について、私の知っている事は以上で、これ以上の情報は持っていません。
昭和11年前後に急いで数次郎が作った坂田好の駒が実在しますので、その状況に則した記録が特定できれば、最高ですが、今の私にはその情報を持っていませんのでよろしくお願いします。
 

補足

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月25日(火)00時16分51秒
返信・引用
  モンキーさん

こんばんは。
少し私の推測とは異なるデータが出てきました。
それは、昭和12年の「読売『大棋戦』」にあたり「盤と駒」を新調するというものです。
「天竜寺」で使用ではなく、「南禅寺」も含めた「読売『大棋戦』」と幅を持たせたほうがよさそうです。

『菅谷北斗星選集 秘録篇』より。
「この間も坂田氏とふたりしてこん度の木村、花田両君との対局のことを話していたときに、盤と駒とは是非新調して使おうということになった。その時に坂田氏が言うのは、盤は少し大き目に、それから駒は柾目の正しく通ったのを使いたいと希望を出した。」

『菅谷北斗星選集 観戦記篇』の「坂田花田大棋戦」(天竜寺の対決)より。
「今度の対局にもやはり坂田氏の希望によって、同氏好みの盤と駒とを使っている。駒の裏にはちゃんと『坂田好』と三字が明記されてあるのだ。」


駒の裏という表現が駒尻を指すのかは不明ですが、「ちゃんと『坂田好』と三字が明記されてある」というのは見逃せないところです。

以上、補足させていただきました。
 

三代目安清書・坂田好」の駒の所感について

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月25日(火)00時05分22秒
返信・引用
  モンキーさん、まち駒さんへ

 三代目安清書・坂田好」駒の所感有難う御座いました。大変参考になりました。わたしは、駒の研究のため文献して、古棋書・古文書・掛け軸・短冊・色紙等を蒐集しています。ちなみに、駒以外に、現在2,000点程所蔵しています
 以前、この珍品の駒を手にした時に、色々な角度から調査を繰り返しましたが、残念ながら確証が得られるものが見つかりませんでした。
 東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』も再読したり、堺市にある舳松歴史資料館へ足を運んで、坂田三吉が使用した駒・盤等を見学もいたしました。
 しかし、駒師の銘の入ったものばかりで、三代目安清書は見かけることが出来ませんでした。館長か担当員か解かりませんが、その方は、今まで見たことのない、非常に珍しいと駒だと言われていました。
 さて、諸般の状況から勘案して私の想いを申し上げます。
 先ず、駒型については、私蔵の龍山作・無剣書・董斎書の盛上駒は、昭和初期の作品ですが、大振りの駒型作りです。例えば、無剣書・太字清安書・董斎書の駒はすべて大振りです。それは、書体自体が大きいから必然に大振りの駒型作りになったのではと考えています。
 また、「天竜寺」における対局の盤面が写真で掲載されておりますが、私蔵駒とは違います。急遽、対局用に3組の豊島作の駒が用意されたと言われています。
 その中の1組の駒が、三代目安清書・坂田好だったのかも知れなかと、モンキーの詳細な調査上決め付けられました。
 私も成る程と同調しています。ただ、私は、世紀の対局での駒は、駒師の銘入り作品を使用するのが一般的な考えだと思ってます。
 しただって、駒銘の入った、豊島作の駒を3組用意したのではないかと考えています。
 三代目安清書・坂田好は無銘でから、3組の中には入っていなかったと想像しています。すべて私の独断偏見の発言だとご理解下さい。
 いずれにしても、私は、何故、変則的な駒銘の無い三代目安清書・坂田好の駒を、誰の発想で、豊島氏が作ったのか。その方が興味深深です。

 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月24日(月)23時25分54秒
返信・引用
  > No.384[元記事へ]

>モンキーさん

>>スムーズに一つの結論に進む事ができました。
>>ケン坊さんの「三代目安清書・坂田好」の駒は「昭和12年3月22日「天竜寺」に
>>おける対局のために用意された三組の駒の内の一組」である事はほぼ間違い
>>ないと思われます。

このように結論付けるには少しまだ早いような気が私はします。
もちろん可能性があるということにつきましては否定するものではありません。
ただ「坂田好の駒は百以上作られていると思われる」というキコリさんの
ご指摘からも、かなりの数の「坂田好」は存在するのでしょう。
この「三代目安清書」を「天竜寺で使われた坂田好」だと考えるには、
決め手になるようなものがなく、まだ少し弱いような気がしました。

今の段階で決めてになると考えられるのは・・・

まち駒さんが引用していただいた東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』から

>>肉厚で柾目の阪田好みの駒三組が、この対局のために新調されていた。

という駒の描写で「肉厚の柾目」とあります。今回の「三代目安清書・坂田好」は
私には画像からは「柾目」には見えませんが、実際には肉厚の柾目なのでしょうか?
もし肉厚の柾目であれば、かなり可能性は高まると思います。

また

>>「三代目安清書・坂田好」の木地整形は、私のコレクションの関根名人書の
>>記念駒と各辺の角度と大きさがほぼ完全に一致しました。

とありますが、この2種類の駒のサイズや角度や形を比較できるような画像を
アップしていただくことは可能でしょうか?もし可能でしたらばとても興味が
ありますのでぜひ拝見したいと思います。よろしくお願いいたします。

 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月24日(月)22時46分37秒
返信・引用 編集済
  > No.383[元記事へ]

まち駒さん
ありがとうございます。
いやースバラシイです!
私では知りえない事をこんなに簡単に答えてくれて本当にありがとうございます。
「三人寄れば文殊の知恵」と申しますが正にその通りです。
一人で研究しているとどうしても壁に突き当たり疑問だらけでした。
今回の様に皆さんのお知恵が集まれば、こんなにもスムーズに一つの結論に進む事ができました。
ネットってすばらしいですね。

ケン坊さんの「三代目安清書・坂田好」の駒は「昭和12年3月22日「天竜寺」における対局のために用意された三組の駒の内の一組」である事はほぼ間違いないと思われます。

これで、後は「三代目安清書」の意味を考察すれば、私が予想した信華は源兵衛の清安の末裔ではないかについても。
信華は父増田弥三郎の父が初代の安清とすれば三代目安清であり、「三代目安清書・坂田好」は「信華の書体・坂田好」と同じ意味であり坂田三吉には十分意味が理解できる事です。

これで私の数々の疑問点が一本の線になり自分の頭の中ではスッキリしました。

まち駒さん、ケン坊さん本当にありがとうございます。
 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月24日(月)21時50分18秒
返信・引用 編集済
  > No.382[元記事へ]

モンキーさん

こんばんは。
「この対局のために新調されていた。」という文脈を素直に受け取れば、昭和12年3月22日「天竜寺」における対局のために用意されたと読めます。では、前局の「南禅寺」での対局がいつだったかと申し上げれば、昭和12年2月5日から2月11日です(持ち時間各30時間)。したがって、急遽用意された駒だとすると1ヶ月ちょっとで製作されたものと考えられます。私は、「新調されていた」という言葉からも、「この対局」とは「天竜寺」の局のためと読み取りました。

もし、「この対局」が「読売『大棋戦』」全体の2局を含んでいると考えれば、1局目で「この棋戦のために新しい盤と駒が用意されました」と書かれるのが自然かと存じます。

以上は、あくまでも私が文脈から読み取った推測です。

 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月24日(月)19時53分6秒
返信・引用 編集済
  > No.380[元記事へ]

まち駒さん
情報をありがとうございます。
高浜禎の正確な没年について、昭和5年10月でしたか。
半分ウラ覚えだったので確か4年頃としましたが、正確な年数をありがとうございます。

さて、ご紹介頂きました昭和12年3月22日「天竜寺」の対局に用いられた新調された三組の阪田好みの駒ですが、相当前々から準備されていたのでしょうか?
それとも、急遽用意された物でしょうか?
実は、「三代目安清書・坂田好」の駒には少々難点があると申しましたのも、拡大境で見て分かる細かな点なのですが、盛り上げの中に急いで盛上げたフシ(部分)があり、玉将のピンホールも気になりました。
もし、三組の駒を急遽数次郎に製作の注文したとしたら「三代目安清書・坂田好」の駒はその時の駒の一組である可能性が非常に高いと思います。
それに太字の清安書体は豊島の書体の中でも駒字全体が大きく最も見易い書体です。

私はその時の資料を持っていません、私にはこの先は調べる事ができませんので是非教えてください。
 

断定は危険です

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月24日(月)19時25分57秒
返信・引用 編集済
  >計測の結果は、「三代目安清書・坂田好」の木地整形は、私のコレクションの関根名人書の>記念駒と各辺の角度と大きさがほぼ完全に一致しました。
>従って、予想や予測ではなく「三代目安清書・坂田好」は関根名人書の記念駒と同じ時期
>(同じ冶具)によって豊島工房で製作された駒だと断言でき、誤差は最大でも昭和11年から>プラスマイナス5年以内だと思います。

そのような断言は大変に危険なことです。「阪田好み」の駒は百以上作られていると思われますが、それらの殆どは阪田本人以外の人間によってプロデュースをされていることを理解されていないことからくるものであり、また駒木地の大きさから豊島の制作時期を断定することも非常に危険なことです。

豊島の木地はいろいろとあり、豊島工房にて制作をされたものは少なく、外注としての木地師により作られているものが殆どですよ。明治後年や大正初期に作られたものでも大振りなものがありますし、数次郎晩年の駒でも小振りなものも数多くありますよ。

今回の駒に関しましては、なぜ「阪田好み」であるのかを考えるべきであり、またなぜ作者名を入れなかったのかを考えるべきです。
 

Re: 坂田好の駒を実見して

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月24日(月)18時21分41秒
返信・引用
  > No.379[元記事へ]

こんにちは。

モンキーさん
昭和12年に阪田三吉は、初手端歩突きで有名な局を南禅寺で指し、その後、逆の端歩を突いた局を天竜寺で指しています。
昭和12年3月22日「天竜寺」における対局について、東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』に次のような記述が見られます。
「阪田好みの盤駒  阪田翁はもともと視力が弱い人だった。そのために特別に線の太く引かれた八寸の将棋盤三面、肉厚で柾目の阪田好みの駒三組が、この対局のために新調されていた。」

時期的にも合致し、三組新調されたとのことですから、その時の一組である可能性は考えられませんか。
ただし、舳松歴史資料館編『反骨の棋士 阪田三吉 -その栄光と苦難の道-』に「天竜寺」における対局の盤面が写真で掲載されており、その駒とは違うようです。

> 従って、予想や予測ではなく「三代目安清書・坂田好」は関根名人書の記念駒と同じ時期(同じ冶具)によって豊島工房で製作された駒だと断言でき、誤差は最大でも昭和11年からプラスマイナス5年以内だと思います。



東 公平著『阪田三吉血戦譜 第3部』に高浜禎の正確な没年について、昭和5年10月13日とあります。

> 「三代目安清書・坂田好」の駒の由来について、高浜禎は確か昭和4年頃に死亡しておりますので、高浜禎がこの駒に係わっているとは考えられません。
 

坂田好の駒を実見して

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月24日(月)16時23分53秒
返信・引用 編集済
  今日は午前中にケン坊さんの「三代目安清書・坂田好」の駒を実見してデータを収集させて頂きました。
実見して調べた私の結論から先に書きますと。
この駒は昭和11年前後に豊島工房で作られ、数次郎により盛り上げた作品で間違いないと思います。

一見して感じたところでは、相当に古い駒に見えましたが、駒の手入れに椿油みたいな油が駒に染込んでおりました。
木地の様子が油で判断し難いですが、島黄楊で多少斑が入った木地と思いますが、薩摩黄楊ではありません。

ここで、前にも書きましたが、豊島の駒のおおよその製作年代の私の判定の仕方を説明しますが、相対的に豊島の駒は時代と共に大型になっています。
もちろん普及品と高級品とでは駒型も違うので、総ての駒に共通ではありませんが、およそその傾向があります。
また、駒木地を整形する時には必ず冶具を用いて整形するので、駒の各辺の角度や面の角度や厚さが異なり、その時代に用いられた冶具によって最大2.5度もの変化があり、角度は広くなったり狭くなったりしており、一つの冶具は数年で作り変えるか、修正していると思われ、整形した駒の角度からもさらに細かな年代が予測できます。

計測の結果は、「三代目安清書・坂田好」の木地整形は、私のコレクションの関根名人書の記念駒と各辺の角度と大きさがほぼ完全に一致しました。
従って、予想や予測ではなく「三代目安清書・坂田好」は関根名人書の記念駒と同じ時期(同じ冶具)によって豊島工房で製作された駒だと断言でき、誤差は最大でも昭和11年からプラスマイナス5年以内だと思います。
木地に関しても、気のせいかも知れませんが、関根名人書の記念駒と同様に少々ボケた斑入りの黄楊材料ではないかと思います。
盛り上げに関しては数次郎の特徴が現れており、漆の艶もあり、多少難点も見られますが数次郎の盛り上げだと思います。

「三代目安清書・坂田好」の駒の由来について、高浜禎は確か昭和4年頃に死亡しておりますので、高浜禎がこの駒に係わっているとは考えられません。
又、信華と離婚した後で、トミさんと再婚していた時期ですね。
 

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月24日(月)15時20分4秒
返信・引用
  キコリさんへ
 豊島作・三代目安清書・坂田好・盛上駒について、逸話を交えてご意見有難う御座いました。大変参考になりました。
 引き続いて、私が難問にしています、豊島・龍山作・水無瀬大納言兼俊郷筆跡・盛上駒。豊島作・水無瀬大納言兼俊郷筆跡・盛上駒。豊島・龍山作・水無瀬中納言兼俊郷筆跡・盛上駒。の3組の駒が現存している事です。この駒の製作にあって作者がどんな意図で書体を、水無瀬大納言兼俊郷筆跡と水無瀬中納言兼俊郷筆跡と書き分けたのでしょうか。貴方の優れた鑑定をお願い致します。


 写真の説明

 1、有吉九段蔵、豊島・龍山作・水無瀬大納言兼俊郷筆跡・盛上駒。と前沢碁盤店蔵、豊島作・水無 瀬大納言兼俊郷筆跡・盛上駒。

 2と3私蔵、豊島・龍山作・水無瀬中納言兼俊郷筆跡・盛上駒。
 

Re: RE:高浜禎の詰め将棋

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月24日(月)09時56分41秒
返信・引用
  >ロボさん キコリさん

高浜禎と竹内伊蔵の詰め将棋のヒントをありがとうございます。
「逃げ道に捨て駒」ですね!
あと5手詰めと9手詰め。非常に参考になりました。
今夜にでも再挑戦してみます。



 

RE:高浜禎の詰め将棋

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月24日(月)00時53分34秒
返信・引用 編集済
  ロボさん

>もうひとつヒントを、「逃げ道に捨て駒」です。

さすがです、その通りですね。そして、それは竹内伊蔵の詰め将棋にも同じ事が言えます。ただし、こちらは9手詰め。

後、遅れましたが

>ところで、高浜禎と、関西の研修会で女流棋士目指して研鑽しておられる高浜愛子研修生は血縁があ>るのでしょうか

残念ながら、今のところその事は情報が入っておりません。何せ、個人情報保護法が厳しい昨今でして。。。
 

高浜禎の詰将棋

 投稿者:ロボ  投稿日:2012年 9月23日(日)22時43分26秒
返信・引用
  盛り上がっているところ、申し訳ありません。

案山子さん、高浜禎の詰将棋は5手詰めです。
但し、5手詰めにしては、難易度高めかもしれません。

初手は4四龍で間違いありません。
もうひとつヒントを、「逃げ道に捨て駒」です。
 

RE:RE:お彼岸

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月23日(日)20時48分29秒
返信・引用 編集済
  モンキーさん

勿論、豊島はそのような目的には加担などしてはいないでしょうね^^。彼にとっては製作だけが目的の筈ですから。

しかし、「阪田好み」を阪田自身が考え付いたとも思えません。彼は金銭欲などとは無縁な人でしたからね。それを創案したフィクサーが誰かと言うことです。そして、そのフィクサーは、阪田の後援者として東西の交流を図り、その一環として数次郎・信華の物語も始まる訳です。それが、私が彼の「覚え書書」を手にする事と繋がります。

しかし、まだこの物語りは第1幕までしか開いてはおりません。これから、第2幕、第3幕と続き、壮大なフィナーレを迎えることとなるでしょう。そこには、今回の主役である数次郎・信花華に加え、いろいろな脇役たちが花をそえるのではないでしょうか^^。

では、来週まで、サヨナラ、サヨナラ。

http://

 

Re: RE;お彼岸

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月23日(日)15時01分6秒
返信・引用 編集済
  > No.370[元記事へ]

キコリさん
「豊島と高浜禎のいたずら」との事、まったく「いたずら」としか思えない駒ですよね。
キコリさんの所有する、高浜禎が覚え書き帳に「初代安清作」とした駒は、とても初代安清とは言い難い駒で、書体や駒型からも江戸中期から末期の雛駒と思える駒で、歩兵の書体からも奥野が名人駒の「宗歩好」の元字とした時代の書体の駒ですから、高浜禎が安清や清安の歴史や書体について詳しく知っていたとは思えませんよね、逆に知っていてたら相当な悪党ですよね(^_^)

高浜禎にとって金儲け目的なら初代安清でも二代安清でも三代安清でも何代目の安清でも、「坂田好」の駒なら何でも良かったと思います。
しかし「坂田好」は坂田三吉が後援会の人達に贈る為の駒で、ある意味特別な駒です。
また、名駒図鑑に細字と太字の二種類の数次郎作の清安の駒があり共に彫銘の駒で、何かの記念か特別な意味を持った、間違いなく数次郎本人が作った貴重な名駒です。
そんな名駒の書体を豊島が高浜禎に言われるまま「いたずら」で作ったと切り捨てるには少々乱暴な説に感じ(半分以上冗談だと思いますが)、私は高浜禎がそのような人物でも豊島の人格は別だと思いたいのです。
仮に、その目的ならば、豊島は他に何種類も安清書の書体を持っていましたし、なにより、あの二種類の清安書は普通の豊島流の書体とは一味違う特別な書体ですから。

ケン坊さんのご好意であの「三代目安清書」の駒を実見させてもらう事になりましたので、詳しいデータを取ってから、もう一度自分なりに「三代目安清書」の意味を考えたいと思います。
 

RE;お彼岸

 投稿者:キコリ  投稿日:2012年 9月23日(日)10時56分42秒
返信・引用 編集済
  三代目安清ですか。。。多分これは豊島と高浜禎のいたずらではないでしょうか(笑)。 安清は明治後期まで39代も続いた駒師の家柄ですが、どこかに三代目作と呼ばれる駒が「多分」存在をしたのでしょうね。 なぜ、いたずらかな、などと書きましたのは、私の手元に高浜禎が覚え書き帳に「初代安清作」とした駒があるのですね。実は、無名でして「無名だから初代」などというような解釈しか出来ません(笑)。これは、牛谷露滴の遺品の中から出てきたものなのですが、牛谷が没落をしたのが明治後年で、高浜が記したのが大正中期と言うことから、幾つかの疑問が生じます。 三代目安清となりますと、江戸初期で未だ京都に居た頃の物なのでしょう。それを、関西で質屋をしていた高浜が質屋間の市で見つけた可能性がありますね。四代目からは江戸へ向かったことから三代目としてみたのでは(笑)で、豊島に頼んで「阪田好み」として作り、高値で売りさばいた。実は、高浜はそのような点では悪名高いのですね(大笑)。

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Re: お彼岸

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月23日(日)00時15分13秒
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  > No.368[元記事へ]

案山子さん
ありがとうございます!
感激です、三代目安清の文字に囚われて安清の書体だと思い込みしてました。
案山子さんの太字の清安の書体との指摘で目が覚めました。
この駒の書体は間違いなく豊島の太字の清安です。
そうです、そうです清安です。
ご意見ありがとうございます。
さすがにネットの力です私自身安清書に囚われていたのです、目が覚めました。
書体に対する疑問は吹っ飛びました。
 

お彼岸

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月22日(土)22時41分2秒
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  > No.367[元記事へ]

>モンキーさん

信華や源兵衛清安や細字の清安書体についての深い考察論文を拝読しました。
ケン坊さんと同じく私もモンキーさんの駒に対する研究と熱意と愛情を感じました。
物的証拠の少ない中で事実と推測を織り交ぜて積み上げてゆく考察は素晴らしい
ものと感じます。また東京都内の藤好の姓で登録している電話番号に全て電話を
するという行動力と熱意にはさらに畏敬の念を抱きます。

ケン坊さんが画像していただいた貴重な駒、「三代目・安清筆・坂田好・盛上駒」に
つきまして独断と偏見に基づく私見を述べますと・・・
これはまず数次郎の作と感じました。全体的に発する勢いやイメージが信華作とは
違うように私には感じました。では誰に近いかというと私が知っている駒師の中では
数次郎の品格ではないかと感じました。書体は太字の清安ですね。

ここからはさらに荒唐無稽な妄想に入りますが・・・・
この駒は坂田三吉翁に認められた数次郎が坂田翁から「三代目・安清」を命名され
その命名記念としてか御礼としてか、いずれにしろ数次郎が坂田三吉翁に贈った
駒だったのではないでしょうか?作る前にどの書体がよいか聞いて、それに対して
坂田翁が「清安がええな」と答えたような・・・そんなシーンが思い浮かびます。
その仲介にはおそらく信華か増田家が入っていたのではないかと推測されます。

彼岸の妄想として読み飛ばしてください。

 

Re: (無題)

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月22日(土)13時10分6秒
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  > No.366[元記事へ]

ケン坊さん
三代目安清書・坂田好の駒画像のアップありがとうございます。
改めてこの駒画像を見ると、豊島の雰囲気がありますが、細部の書体に疑問点もあり、豊島らしい部分もあり、何とも私には自信をもって結論を出すには難しい駒です。

やはり実際にもう一度駒を見ないと漆や盛り上げ具合など画像からは正確に判断できず、何とも言えませんが、キコリさんや皆さんのお知恵を借りなければならない駒ですね。

画像だけから受ける私の印象としては、信華が下書きして数次郎が作った駒ではないか、との印象を感じますが、これも私の先入観から来るものかも知れず、皆さんのご意見を頂けなければなりません。
皆さんはどの様な印象を感じましたでしょうか?
次回のオフラインミーティングには是非実見させてください、この駒の話を肴に美味しい牛タンのカレーが飲めそうではありませんか。(^o^)

まち駒さん
藤好信華については私も調べましたが、途中で挫折しました。
信華は駒師から舞台役者になったといわれており、ならば藤好は再婚した苗字ではないかと想像して、当時の芸能関係者で藤好の姓を持つ人物を検索しますと「藤好昌生」が該当し、舞台や映画の音響技師として活躍した人物で、大正2年の生まれです、信華の相手としては同年齢か若干若い人ですので、もしやと探ったのですが、これ以上は出て来ませんでした。
そこで、NTTの電話案内で東京都内の藤好の姓で登録している電話番号を教えてもらいましたら、僅か40件程しかなく、ローラー作戦で全部電話して確かめてみましたが、2/3は留守で確認できず、1/3は間違いでした。
中には、怒り出す人も何人かいて、留守のお宅に再び電話する気持ちが失せて挫折しました。(;_;)

 

(無題)

 投稿者:ケン坊  投稿日:2012年 9月22日(土)08時20分20秒
返信・引用
  モンキーさんへ
 リクエストの、三代目・安清筆・坂田好・盛上駒の写真を送りましたので参考にして下さい。
 モンキーさんの投稿された文章を拝読致しました。駒に対する研究と熱意そして体力に敬意を評します。資料に基づいた仮説・推測とう興味深深で読ませてもらいました。
 今までわたし自身、深く調べることなく漠然と、過去の伝説・書籍・口述べ等を参考にして満足していました。モンキーさんのように疑問点を解明する気持ちは毛頭ありませんでした。モンキーと対抗心に燃えていますが、今は、年齢・体力的に及びません。
 これからは、モンキーさんに駒の研究に期待をお願い致します。
 

Re: 藤好信華作  源兵衛清安花押

 投稿者:まち駒  投稿日:2012年 9月22日(土)03時26分5秒
返信・引用 編集済
  こんばんは。

案山子さん
私も「藤好家に嫁いだので名前が藤好信華に変わった」ということを考えました。また、おっしゃるようにペンネーム等の意味もあったかもしれませんね。「増田信華」、「信華」、「藤好信華」の作成時期について今後の研究が待たれますね。

モンキーさん
「源兵衛清安は特定の個人を表す名前ではない」という説は、なるほどと感じました。「源兵衛清安」の「花押」が3種類ある場合、初代「源兵衛清安」、二代「源兵衛清安」、三代「源兵衛清安」という可能性も考えましたが、どうしても「信華」が「花押」まで模倣するとは考えられず、この推測は捨てたのです。「源兵衛清安」という名前が「花押」と共に突然出てきた背景に「信華」との関連を考えずにおられなかったのですが、モンキーさんの説ですと「信華」との関連性も含めて、確かにしっくりきますね。今後の研究に期待します。
 

Re: 藤好信華作  源兵衛清安花押

 投稿者:モンキー  投稿日:2012年 9月22日(土)00時12分27秒
返信・引用
  > No.363[元記事へ]

信華や源兵衛清安について、数々の矛盾と現実とが私の頭の中で渦をまいて昨夜は眠れぬ夜を過ごしました。
こんな時はもう一度基本に戻り、明確な事実関係だけを確認する事が大事だと思います。


清安とは、キコリさんの
>「3つの花押は、それぞれ清安の花押で、左から右へ古い順番となります。
>清安は、大橋家が京都から江戸へ移る際に同行をした安清の一派で、それが途中で尾張に滞在をした際に、居残ることとなり、幾代も続いた安清一派の派生した系統で、江戸後期には江戸へ移り、伊藤家と係わり合いを持つ駒製作者群の総称ですよ。ですので、いろいろな時代による花押が存在をしております。」

私自身の調査でも、実在する駒や歴実からキコリさんの説は正しいと思います、また、実際に清安=安清である事は実在する駒からも確認されており、また、多数残されている安清の駒の花押も「清」と「徳川紋」の二種類と思われます。

また、源兵衛清安の書体の原型は水無瀬にありと私は考えます、源兵衛清安と水無瀬の書体構成の違いは基本的にはなく、唯一「銀将」の将の字の略し方が違うだけです。
古い水無瀬の駒の小将棋の「銀将」は私の所有する清安と同じですが、古い水無瀬の中将棋の駒の「銀将」は源兵衛清安と同様に略されてはいません。
従って、源兵衛清安も水無瀬系書体の一種と私は考えており、清安一派ならば時代と共に自然に起こりえる書体変化だと考えています。

信華の父親、増田弥三郎が残した芙蓉の駒の花押も「徳川紋」と読め、増田弥三郎は清安一派の末裔あるいは徳川家家臣であった可能性を示します。
東の豊島、西の増田、この二人の結婚は政略結婚でもあり、両家の繁栄の為でもあった訳で、父弥三郎は娘信華が嫁ぐ際に数種類の清安一派の駒を持たせた可能性があります。
この事は、昭和の初期に豊島の「安清」と「清安」の駒の書体に一大改革(混乱)をもたらした時期があると思われ、それが、信華の持ち込んだ複数の古い清安の駒が原因であり、結婚した時期ではなかったのかと思えます。

また、豊島字母帳に残る細字の清安書体は信華の為に作られた専用書体であると考えれば、豊島作の細字の清安作品が存在しない(少ない)事も、また豊島作の源兵衛清安タイプの駒が多数存在する理由も説明がつきます。
また、信華作品の中でも清安書の駒は木地も良く、他の安清や金龍などの駒よりも明らかに良い木地が用いられ、信華にとっても特別な意味のある書体ではなかったかと推測できます。

そこで、源兵衛清安の書体名についてもう一度考えてみますと、源兵衛清安は特定の個人を表す名前ではなく、源兵衛とは水無瀬の時代から続く武家の清安(安清)一派の総称として用いたと考える事で、三種類の花押の意味も説明できます。

ここからは、私のロマンと想像ですが、離婚後の信華の心中は豊島への想いと実家への想いとが交差し複雑な心境ではなかったかと思います。
信華が自分自身の駒師としてのプライドはやはり父増田弥三郎から続く駒師としてのプライドであり、自分自身が武家の清安(安清)一派の末裔である事を主張する為に、清安の前に源兵衛を加え、父から嫁入り時に持たされた数種類の清安(安清)の駒の花押を入れたのではないでしょうか。
源兵衛清安花押は、信華が自分は水無瀬の時代から続く源氏の衛兵・清安の末裔である事を示す書体名と花押ではなかったのかと思うのです。
源兵衛清安を特定個人の名前ではなく、清安(安清)一派の総称と考える事で総ての謎が解かれるのではないかと私は考えます。

ケン坊さんは、将棋の駒収集家として50年の経験を有し、自費出版された書籍も多く、一般人として駒収集は日本一の人で、私も師匠と仰ぐ人物の一人で、こと駒の収集に関してはケン坊さんの右に出る者はいないと私は思います。
ケン坊さんが集めた多くの名駒はそれぞれのコレクターの手に渡り、その一部は私も譲り受けていますが、今日現在でもケン坊さんが保有する将棋の駒は1000組を超える数に上ります。

そんな中の一組である「坂田好・三代目安清」の駒が今私の脳裏によみがえります。
初めて見た時の印象は、作品の出来から豊島作品ではないか?・・・と思ったのですが、その時は、誰かの悪い冗談作品ではないかと深く考えもしませんでした。
しかし、今は信華の清安作品を想像する時に、ふと「坂田好・三代目安清」の駒は信華あるいは数次郎が、その時の覚悟を駒に込めて「三代目安清」として、大阪の恩師に贈った駒ではないか、と思える気がします。
信華の祖父、増田弥三郎の父は安清一派の一人であった可能性も高く、私の想像のひとつの根拠にもなり得ます。

ケン坊さん、是非もう一度「坂田好・三代目安清」の駒を見せて下さい、お願いします。
 

Re: 藤好信華作  源兵衛清安花押

 投稿者:案山子  投稿日:2012年 9月21日(金)22時27分58秒
返信・引用 編集済
  > No.362[元記事へ]

>まち駒さん

>>「藤好」が何を意味するのか、これもまた興味深いところですね。

これは普通に考えて、藤好家に嫁いだので名前が藤好信華に変わったということ
ではないでしょうか。または結婚に関係なく芸名かペンネームなどだったのかも
しれません。
単に藤の花が好きだったからということではないように私は思います。

 

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