「廃太子」論とは、橋本明氏が提言した、皇太子、お辞めになった方がよいのではという、この案を国民にひろく喧伝する運動のことである。「廃太子」とは斎藤吉久氏によると下記の説明になる。

仮に皇太子が一家庭人として幸福を追求するなら、天皇になる道を捨てる「廃太子」(皇次子秋篠宮文仁親王が立太子礼を経て皇太子になる。同時に徳仁親王は新宮家を創設し、継承順位は秋篠宮、悠仁親王、徳仁親王の順になる)。(8月11日発行斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.94)

8月31日総選挙は、マスコミの予想、政権交代を見事に実現してみせた。清き一票が歴史的な一票になると思うと投票への熱意が普段と違ったものに感じられた。事実、期日前投票は通例より圧倒的に多かったと聞く。投票率も69%になった。筆者も例にもれず、清き一票の為に、各政党のマニフェストやらを精読して、あれやこれやと考えあぐね、テレビに見入って時間を費やす日々が続いたのは、みなさんと同じである。そして、ある意味で政権交代よりも大事な、本来の意味において、主権在民、民主主義を実現する為の改革、根本からの発想の転換が迫られる、「天皇制」の見直し論を忘れる日々が続いていた。それを静かに考えると、「天皇制」と日常は、昔も今もかなり乖離したものであることは間違いないようである。「百年河清を俟つ」が如し。

開かれた「皇室」をマスコミが展開するその背景に何があるのか、ふと疑いたくもなる。公的なものに対する国民の監視が民主主義を推し進める絶対論であるからこそ、その実現に向かって日々取り組んでいるという前提は、やはり担保しておかなければならないという、社会の規範がそうさせているのだろうか。

「WILL」9月号に、天皇陛下の御学友橋本明氏の『「廃太子」を国民的議論に』が掲載されている。橋本氏は、「廃太子」で先日、発売の「平成皇室論 次の御代にむけて」の上梓について、以下のように説明している。

皇室の問題を公の議論の場に引っ張り出すことを天皇陛下はお約束されたわけです。
(中略)
ところが今の政治状況をみても、皇室のことをマニフェストに載せる党が一つとしてありません。今、皇室で起こっている問題は、国政の場で議論しなければならないにもかかわらず、その立場にある政治家が誰一人として議論をしない。(「WILL」9月号32頁)

話しを戻すが、政権交代の意義は、一億総中流を享受していたかに見えていたものが、実はまぼろしであったかのように、現世は生活再建、景気回復、そして外交問題を如何に立て直すかという現実でしかなかったことの分岐点を象徴したことだろう。つまり、平等はありえないという自覚に基づく「格差社会」が、完全に硬直化していることを一部共同行動できるみんなで共有したということだろう。現在はこの事実を淡々と受け入れるしか方法がないことに決定付けられている。そして、それを打開するには、社会で容認された「暴力」でしか方法がないことも証明され定着してしまった。

可能な暴力とは、監視もその一つで、ぎりぎりのところだ。それは、言論による決定的な自壊を促す為の暴力でもある。それを考えると、橋本氏の「廃太子」論、「別居」、そして「離婚」の勧めは暴力であり、かなり過激でもある。この過激さ故に、国民、つまり国会議員等は黙秘権を行使して憚らない。今日では、国民の黙秘は完全に「同情」に変質しつつある。御上の哀れは国民の哀れという構図が未だに完全調和している。「百年河清を俟つ」

危険な橋本発言
橋本氏にとっても、課題は、世代交代後、これからの開かれた皇室の在り方である。厳密に言えば、「無・主権在民」、非納税者の皇室が、納税者である国民から陰口を叩かれずに如何に君臨、生きていくか、納得させられるかということだ。皇室での咳ひとつが話題になる現在社会である。俗にいうプライバシーの権利はないに等しい。西尾幹二氏と橋本氏は、「無・主権在民」、非納税者の皇室の立場を明らかにして、さらに鮮明にその存在を象徴しなければならないとの立場を主張している。それに対して、斎藤吉久氏所功氏は、天皇は皇室とは別、天皇は神格であるから、国民、マスコミの論じる範疇にないとする、超過激な天皇論を展開する。

天皇は祭祀王に始まり、祭祀に終始するものと定義づけられている。従って、「象徴」であるとかは関係しない。つまり、国民の「安全、安心」を昼夜祈っているのだから、日本を統治しているのだから、当然、納税義務など発生しないという訳だ。今日においても、義務教育中学校までは、この発想に基づいて天皇の説明を子供たちに教えている。そして、高校からは教えない。代わりに世間が教育することになっている。

短絡的な二元論の対立軸での縛りにみえるが、皇室を絶対的に守る発想は同じ穴の狢である。天皇と日本国は同義語であるという考えは、両者共に一致した根源的な発想である。私たちと言うか、私にとって、両方の主張が共に危険であることには変わりがないが、橋本氏の発言は、その危険度の起爆要素が多く秘められていて驚愕もので十分参考になる。その点、所功氏グループは、日本宗教そのものの机上学術論なので、その影響は測り知ることができるものだ。それに比べれば、橋本氏の『「廃太子」を国民的議論に』での主張には、これまで私たちが想像していなかった過激なそれでいて危険な内容が書かれている。一部を引用転載する。

昭和63年、本島等長崎市長による「昭和天皇の戦争責任」発言があり、本島等長崎市長が銃撃された後、天皇は長崎訪問の折に銃創を負った市長に温かい言葉を掛けられた。これに対して同市長は「立派な、偉い天皇だ」との感想を洩らしました。あの時をきっかけとして、皇室の問題を公の議論の場に引っ張り出すことを天皇陛下はお約束されたわけです。
その意味で、国民的な議論を起こすことが皇室の健全なあり方を決めて行くと考えます。黙っていて何もせず、手をこまねいていることが一番バカバカしい。(「WILL」9月号「廃太子」を国民的議論に 32頁)

(つづく)