韓国の現役軍人が主張する「対馬は韓国領」、その根拠とは

―それが故・李承晩元大統領の「対馬返還」要求とどんな関係があるのか。

 「同元大統領が米国滞在時代に書いた『ジャパン・インサイド・アウト』(1941年)を見た。真珠湾への奇襲攻撃の7カ月前に、すでに日本が米国を相手に戦争を起こすことが予測されていた。その書籍には『日本と朝鮮の間、朝鮮と満洲の間などに境界があったということを忘れてしまっているようだ。日本がこうした境界を一つ、また一つと破りながら…』というくだりがある。同氏には実際に根拠があって『昔は境界線があった』と言ったはずだ。『対馬の領有権』に対する主張も、こうした脈絡から出てきたのだと思う」

―キム大領には過去、同分野について専攻、または勉強した経験はあるか。

 「全くない。ただ、そうした関心が生じたことで、米国で開かれたある古美術・地図展示会で1864年に発行されたアジアの地図を買った。地図の下には『米国ペリー艦隊の日本の現地偵察と測量によって作成した。日本と条約が締結されることによって米議会の指示で、米国政府が作成した』と書かれてある。この地図には大韓海峡が現在の位置ではなく、対馬の南側となっていた。日本の領土は彩色されていたが、対馬は韓国と同じく無色になっていた。これが研究にのめり込むようになったきっかけだ」

―当時、米国としては東洋のどの国にどんな島が属していたのか、知る手段がなかったのかもしれない、とは思わないか。

 「ペリー艦隊は前述した『小笠原』をめぐり日本と領土紛争を展開した当事者だ。当時、日本は林氏のフランス語版の地図を提示することで、交渉での勝利をものにした。そして、これを根拠に米国政府が製作した地図だった。だから対馬がどの国に属するかは知っていたはずだ」

―地図一つだけで多くのことを推測し過ぎているとは思わないか。

 「1855年に英国で製作された地図には、日本の各地方が区域別に番号で表示されている。その地図の下には『対馬と壱岐島は日本王国に含まれない』とある。1945年に国内で発行された『朝鮮解放記念版最新朝鮮全土』にも、対馬は韓国領と表記されている」

―しかし第2次世界大戦の敗戦国である日本と、米国などの戦勝国の間では、戦後処理のために「日本は韓国の独立を認め、済州島、巨文島、鬱陵島をはじめとする韓国に対する全ての権利と所有権、請求権を放棄する」とするサンフランシスコ条約(1951年)が締結された。この条約に『独島』と『対馬』は明記されていなかった。これで、故・李承晩元大統領の『対馬返還』要求も水泡に帰してしまったわけだ。

 「私たちは『戦勝国』の立場ではなかったため、交渉には参加できなかった。また、何よりも朝鮮戦争の最中だった。外交的制約が多かったのだ。このため、李元大統領は1952年に独島を含む『平和ライン』を設定したのだ。しかし、対馬を念頭に置き『この境界線は将来的に究明される新たな発見・研究、または権益の出現によって発生する新たな情勢に合わせて修正できることを宣言する』と付け加えられている」

―対馬に対する領有権主張は本当に現実性があると思うか。

 「当時のサンフランシスコ条約で『小笠原諸島』が米国に移った。しかし、日本の執拗(しつよう)な要求で1968年に引っ繰り返った。米国が過去の合意を受け入れて、その島を日本に返還したのだ。当時領土交渉の基準となった地図によれば、対馬の領有権は韓国にあるのではないか」

 キム大領からは引こうとする気配が一切感じられず、私はそのままソウルに帰るほかなかった。

崔普植(チェ・ボシク)記者
前のページ 1 | 2 | 3 次のページ
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c) The Chosun Ilbo & Chosunonline.com>
関連フォト
関連ニュース