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第四章 暴力革命か・平和革命か

 前章でのべたことから、最早多くをのべるまでもなくこの問題についての結論は明らかだと考える。だがなお二、三の問題にふれる必要がある。一九五〇年の党内の分裂における理論的対立の出発点となった一つの大きな問題は、周知の如く「平和革命論」への批判にあった。そして当時この問題は単にアメリカ帝国主義の占領下という特殊な事情に関するのみならず、また一般的な基本的原則の問題として、ブルジョアの暴力支配下における革命の一般的原則として理解された。そのことは北京人民日報の論説を読むだけでも明らかである。しかるに今日党はまたしても平和革命論へと逆転しつつあり、昨日「平和革命」にたいしてはげしく反対した同志達までが今日「平和革命」の熱烈な信奉者となっている。同志大沢等が「野坂理論」の復活をとなえるのもまた当然である。一九四七年の二・一スト、一九四九、五〇年の弾圧を経験した今日になって、なおまた平和革命を云々することは全く許し難い、これは明らかにくり返しいうが昨今の一時的情勢に眼がくらんだ結果である。
 党章草案は手段についてはふれなかった。だが、すでに論じた如くその基本線は平和革命の線で貫かれている。ただ卒直に公然とのべる勇気をもたず、中間的立場に立とうとしているだけである。この点で「平和革命」論者の側からアイマイさをたたかれているのである。
 「綱領問題について」は、はっきりと七中総の決議を守っている。その立場は平和革命の可能をとなえ、同時に暴力の必要か否かは敵の出方によって決るということを急いで付け加える。
 「敵の出方によって決る」ということ、これは歴史の大道から見ればその通りだ。もともと誰でも敵が暴力でもって支配を守るということから暴力革命の必要を主張しているので、マルクスでもレーニンでも例外ではない。そんなことならわかりきったことである。だがわれわれは歴史家ではなくて革命家である。われわれは敵の出方を今日目の前に見ており、明日の出方を予見せねばならぬ。もしそうでなかったら指導者として失格である。ところでこれを予見することは決して困難なことではない。すなわちブルジョアジーは今日いかに欺瞞的言辞を弄していようとも、その暴力支配の機構は完全に保持し決してかくしてもいない。現に自衛隊(軍隊)、監獄、警察、官僚機関、すなわち官僚的軍事的国家機構は完全に保持されており弱まってさえいない、それどころかますます整備されつつある。一体これらは本来なんのために存在するのか? 決して他国との戦争のためだけではない、それよりも何よりもまず何よりも日本のプロレタリアートの革命闘争にたいして向けるためである。国家は本来階級支配のための暴力装置である。そしてプロレタリアートの使命の根本問題の第一はこのブルジョア国家機構を粉砕してプロレタリアートの独裁をもっておき代えることにある。
 だがプロレタリアートがまさにこの革命へと闘争に立ち上るとき、現にこれを抑えるために暴力装置を用意しているブルジョアジーがどう出てくるかは一体わからないことか? 彼らは既成の軍隊その他の暴力機構で間に合わないと見るや、ファシスト私兵を組織してでもプロレタリア革命に立ち向かったのが、ドイツやスペインの実例ではなかったか。歴史の教訓は全く忘れ去られてしまっている。
 ここでまたいつもの一つ覚えの議論が現れる。すなわち、第二次大戦後の世界情勢の変化、社会主義勢力の増大、云々という奴である。すなわちわれわれの力は世界的に大いに増大したからブルジョアジーの暴力を抑えることができるというのである。
 こういう人々はもう一回自分のいっていることをよく見て頂きたい、これは全く立派な改良主義ではないか。われわれの力が増大し、一歩一歩成果をかちとって行けば、ブルジョアジーは力をふるえず、われわれは平和的に社会主義へと移れる、というのが一般的に改良主義というものである。明らかに先の議論は「第二次大戦後の情勢の変化」という形で、結局この改良主義をかつての改良主義者が一国的基盤で語ったのにたいし、国際的言辞を弄してくり返しているに過ぎない。
 第二次大戦後世界の情勢は大いに変り、プロレタリアートの力はますます増大している。いわゆる強大な「社会主義国」群ができ上った。それは確かである。だがそこからどうしてブルジョアジーは革命にたいして暴力をふるえなくなるという理由が生ずるか? さっぱりわからない。現に日本では彼らが権力を握っているのだ。われわれは彼らを打倒してしまわずにどうして彼らの暴力をまず抑えることができようか? 確かに一定の事情の下でわれわれは闘争によってブルジョアジーから譲歩をかちとる事ができる。だがブルジョアジーはまさに自己の権力を保持するためにこそ譲歩するのである。彼らの権力を打倒する革命において、その譲歩をあてにすることは絶対にできない。それは致命的な道である。
 一方、明らかに「社会主義勢力の優位」という議論の中には、ソ同盟や中国その他の軍事力が計算に入っている。そしてその圧力(!)によってブルジョアジーは力をふるえなくなるというのである。「平和共存」と一貫した考えである。だが全く奇妙なことだ、ソ同盟や中国のプロレタリアートの武装勢力は国際ブルジョアジーの力にたいして決定的に有効であり、日本プロレタリアートや資本主義国のプロレタリアートは武装する必要がないというわけである。現に日本のブルジョアジーが武装しているにもかかわらず、これにたいしてはソ同盟、中国の軍事力でおさえ、日本の労働者は素手で結構だという。それどころか武力革命の主張は誤りだといわれるのだ。国際プロレタリアートは奇妙な分業をさせられる。武力はソ同盟や中国にまかし、資本主義国のプロレタリアートは武装の準備をせず平和的に運動を進める。国際主義者はしばしば「外国依存」の非難をよく受けたものだが、こういう理論を吐く人々は一体なんとよべばよいのだろうか? 彼らはここでは国際主義を通りこしてソ同盟や中国の一部官僚への盲従政策になってしまう。これではたとえ成功しても(あり得ないことだが)、権力を握るのは一体日本のプロレタリアートなのか(彼らは非武装である)、それとも外国なのか、疑わしい。またしてもソ連の手先という敵の宣伝を援けてやっているようなものである。だが一方「相互不干渉」という。では少なくとも日本のブルジョアジーがソ連や中国の武力にどうして遠慮するのか? どこまでもさっぱりわからない。
 だがわれわれはこんな議論の矛盾をとくために努力するのはやめよう。要するに現在の日本の如き官僚的軍事的ブルジョア国家のもとでの「平和革命論」は、幾多の革命の歴史が示した如く、誤りであり破産を運命づけられている日和見主義なのである。
 だがもしすでに批判した如く、党章草案が国会を通じての革命を云々し、結局権力を握ることを目ざさず、ブルジョア政府に参加することを目ざすならば、一切の真面目な議論は無駄である。それならばたしかに十分平和的に成功する見込みがある。つまり党が社会民主主義者やあらゆる種類の改良主義者と同様に、プロレタリアートの革命闘争を利用してその上にあぐらをかき、革命に直面してこれを抑えるためにブルジョア政府へはいりこんでツイタテ役を果すことがこれである。草案はそのための綱領といえる。
 こういえば恐らく「打撃的批判」といわれるかも知れぬ。だが決して私は誇張しているのではない。論理的結論をのべているにすぎない。実際、党章草案には現在のブルジョア国家機構の中心をなす軍隊(自衛隊)、警察等を粉砕する要求は全然具体的に掲げられていない。曰く「アメリカ帝国主義と日本の反動勢力が、なお人民の上におしつけているいっさいの弾圧諸法令、弾圧諸機関を撤廃し、人民の民主的権利をひろげるためにたたかう」と。抽象的一般的要求があるにすぎない。いっさいの弾圧諸機関とは何か、当然自衛隊や警察であろう。だがこれを撤廃、解散するにはどうすればよいか? またその後はどうなるのか? ガンジー主義者のように非武装をいうのか? まさか。われわれはガンジー主義者でもなければ無政府主義者でもない(今日ガンジー主義者ネールの政府がプロレタリアートに対しては十分武装していることを忘れるな)。
 自衛隊や警察の解散を要求しながら、それに代る革命権力の樹立を提出しないのは無責任というものだ。われわれは「自衛隊、警察等の一切の弾圧諸機構の解散」の要求とともに、これに代りうるに「労働者の武装」、あるいは「労働者民兵の創設」また「赤衛軍の組織」といった要求を掲げねばならぬ。だが、このスローガンは何を意味するか? それを国会を通じてやることか? まず圧力をもって国会を通じて政府を握る。そして自衛隊や警察を撤廃し(オシャベリで?)、それからその代りに労働者を武装する(命令で?)、ということになるか、手のつけられない白痴でなければこんな馬鹿げた考えは恥しくて出せるものではない。
 結局において、自衛隊や警察はそのままにしてこれを利用する(つまり革命はやらない)という徹底した改良主義の立場に立つか、しからずんば、武装せる労働者の力でもってブルジョアの軍隊、自衛隊や警察を打ち破りこれを武装解除するという徹底した革命の立場に立つか二つに一つ、中間の道はない。しかもこれはあらゆる真剣な革命の歴史が示したことであり、常に革命の嵐の中では中間の道は破産したのである。
 革命の根本問題は国家権力の問題である。このことは今日猫も杓子もいう。だがこのことはまさにプロレタリア革命の根本任務が旧支配階級の国家権力を打倒して、権力をプロレタリアートの手中に握らねばならないこと、プロレタリアートが実力をもって(すなわち、暴力をもって)搾取階級を抑圧し、独裁を打ちたてることにあるという事まで認めなければなんの役にも立たない。プロレタリアートの独裁それは暴力をもってする搾取階級への抑圧である。
 今日流行の理論は「ブルジョアジーが権力をもっていても、われわれの闘争(どんな?)によって、彼らに暴力をふるわせないことができる」というのである。しかもブルジョアジーが暴力装置をもっているにもかかわらず、である。では一体なぜブルジョアジーが権力をもっているといえるのか? また、なんのために暴力装置をもっているのか? ここでは権力というのは全く宙に浮いた単なる概念になってしまっている。
 七中総の決議は国会を通じて平和的に権力を握る条件としていう。
 「そのためには、言論、集会、結社の自由が守られるという条件のもとで、国会が国民の総意を全体として民主的に反映し得るような民主的選挙法をもち、国会が民主的に運営されることが必要である。」と。
 あたかも階級闘争は相容れない二つの社会的勢力の力と力の闘いではなくて、国会の票の問題であるかのようである。階級を超えた何か一般的な国民の総意とかいったものが存在し、超階級的な民主主義が存在するかのようである。それはブルジョア民主主義の言葉でもってわれわれが何回となく聞かされて来たことではなかったか? 今日このような民主主義は、そして国会の民主的運営はまさしくブルジョアジーにとっては保証されている。それにもとづいて自民党は国会における多数決を常に誇っているではないか。
 だが国会の問題についてはすでにのべた。決議は革命の中心問題をまさしく完全に避けて通っている。すなわち、それはわれわれが膨大な官僚機構、軍事的機構をいかにして粉砕するかという根本問題についてはふれさえもしない。
 たとえ仮にわが党が国会で多数をとったとしても(これはまた途方もない仮定だが!)、われわれはそこからいかにして自衛隊、警察や官僚機構を粉砕し得るか、国会の決議によって?(つまりオシャベリによって?)言葉の弾丸で支配階級の武装を解除するのか? かくして、ついに人類の理性は暴力にたいして勝利する! まことにすばらしい空想だ、だが全くすばらしいけれども、これは全く空想にすぎない。
 「言論、集会、結社の自由が守られるという条件のもとで」とは何をいうのだろうか、ブルジョアジーにとっては今日この自由は守られている。だがプロレタリアおよび被搾取人民にとってはこのような自由は誰が守るのか? 誰が誰をの問題をぬきにして「守られるという」等というのは革命党の言葉ではない。このような条件をわれわれが保証し得るとすればそれは一体いかにしてか? それは権力を握る以外に方法があるだろうか?
 プロレタリアートの政治的自由はただプロレタリアート自らのブルジョアジーにたいする闘争によってのみ、獲得されるものであり、また今日獲得された成果は過去の長い世界プロレタリアートの闘争の歴史によってのみもたらされたものである。そしてその自由を保証するためにはただわれわれは権力を握る以外には方法はない。すべてはただ闘争のみが決定する。保証はただ勝利によってのみもたらされるのである。われわれはそのためにこそ闘っているのだ。今日の権力はブルジョアジーが握っている。である以上、われわれの「政治的自由」の保証を前提とすることは大衆を欺くことである。
 権力を握っていないわれわれは条件の保証を云々することはできない、にもかかわらず、条件が守られるならば、ということは結局敵がこれを守ってくれるならば、ということを意味する。いいかえれば、もしブルジョアジーが暴力をふるわず権力を明け渡すならばわれわれは平和的に革命を遂行するであろう、という以上のことは示さない。これは確かに正しいだろう。だが前提が馬鹿げている以上全くナンセンスである。こんなことに希望をつなぐのは全然革命家のとるべき道ではないことはいうまでもない。
 「言論、集会、結社の自由」のスローガンはプロレタリア民主主義をきたえる闘争のスローガンである。プロレタリアートの組織と武器を、決定的闘争への準備態勢を強化し鍛え上げる闘争である。われわれの力の増大は権力を握る前提をつくり上げる。だがプロレタリアートは権力を握らない以上、何事も保証することはできない、ブルジョアジーの支配下にわれわれは自らの力以外になんの保証もあり得ない。すべてはただ闘争のみが決定する。われわれがブルジョアジーを打倒してプロレタリア独裁を樹立するか、それともブルジョアジーによって打倒されるか、問題は二つの基本的勢力、二つの陣営の闘争にかかっている。力関係の変化は種々の情勢を生み出す、だがこれはすべて結局において一時的な不安定なものにすぎない。われわれは闘争を最後まで、権力の獲得まで導かない以上、決して多少とも安定した自由や生活を保証することはできない。
 武力を含むあらゆる形態をもってする階級闘争をおしすすめることのみがわれわれの勝利をもたらす。武力闘争はただその最高の形態にすぎない。われわれがこれを避け得る根拠はなんら存在しない。ブルジョアジーは決して闘争において遠慮するものではないからである。革命的危機の情勢が到来する時、「民主的国会」のイチジクの葉は背後の闘争をかくすことができない。ブルジョアジーの暴力支配、ファシズムがプロレタリア革命に立ち向かうであろう。この時に「国民の総意を反映する国会」「国会の民主的運営」について云々することは労働者大衆から見離される最も確実な方法である。すでにこのことはある程度までかつての「平和革命論」によってわれわれが経験したことである。
 われわれの力は増大しているから、ゼネラル・ストライキまでは行使するが武力は必要としない。平和革命の可能性があるから、これをかちとらねばならない、という議論は、革命的言辞をもって飾られているが、実際には暴力を恐怖する日和見主義に外ならない。いかにしてわれわれは階級闘争の一切の形態からただその最高の形態を除外し得るか、「野坂理論」や社会民主主義もこれ以上のことをいったのではない。
 そしてまたわれわれはなぜにこれを除外せねばならないか。
 「敵の逆宣伝に利用される」といった考えはただ日和見主義者のみが持ち出し得る。もしわれわれが革命闘争を進め、大衆闘争を訴えるならば、彼らは常に逆宣伝に努めるであろう。真実を大衆に訴えること、ブルジョア支配の下においてわれわれが不可避的にうけるあらゆる制約を超え、あらゆる形態をもってあらゆる機会をとらえて大衆に事実を伝え、準備させること、これのみが逆宣伝に打ち克つ道である。もとよりわれわれは原則の確認だけでは不十分である。それは正しい戦術をもって常に補充されていなければならない。だが事態によって常に制約されているわれわれの宣伝が不可避的にもたらす左右の誤謬、一面的理解にたいしてわれわれは常に精力的に闘わねばならない。戦術は常に従属されねばならぬ。誤った戦術、誤った情勢評価、一面的理解にたいする闘争の欠如、これらが敵の挑発にのる結果をもたらすのであって、武力革命一般の承認は決してなんら一揆主義をもたらすものではない。
 暴力主義の主張は「中間層を恐怖させ、敵にまわす」という考えは、全くのメンシェヴィズムである。小ブルジョアが暴力を恐怖するということ、これは危機の情勢にあっては決して一般的にも正しくない。それはファシズムの歴史がわれわれに充分経験させたことである。もちろん現在の情勢にあって、徒らに武装闘争を云々する一揆主義は断乎として戒めねばならぬ。それは中間層を離すばかりでなくプロレタリアから完全に遊離する道である。いわゆる「極左冒険主義」の闘争は小ブルジョア中間層を敵にまわしたものではなくして、労働者大衆から離れた小ブル急進主義のカリカチュアであったことは明らかである。にもかかわらず、現在の日本において平和的に革命を遂行するという方針は大衆を欺瞞する方針である。平和革命の上に戦略を立てることは革命の敗北を予め不可避とするものである。
 「暴力が中間層を敵にまわす」というのは全然事実に反する。日本ブルジョアジーはプロレタリアートの闘争を暴力で抑圧することによって、現に中間層、小ブルジョアを自己に引きつけているではないか。プロレタリアートはなぜに実力をもってブルジョアジーを打倒し、彼らの犠牲において非プロレタリア的勤労者の要求を満すことによって、その支持と同情とをかちとることができないか。もしわれわれが武器を自ら放棄し、中間層の多数の支持をあてにして、国会における多数をたのみにしようとするならば、一体小ブルジョア大衆はこのよつな情けない指導者に救いを見出し引きつけられるだろうか? 否、全然反対だ。
 レーニンはいう。
 「『人々の多数が私有財産の保護のもとに、すなわち資本の支配および圧迫(から)の保護のもとに、プロレタリア党に味方するならば――その時初めてプロレタリアートの党は政権を取ることができ、また取らねばならぬ』――『社会主義者』と自称するブルジョアジーの事実上の従僕たる小ブルジョア的社会民主主義者はそういっている。
 『革命的プロレタリアートがまずブルジョアジーを打倒し、資本の圧迫をうちやぶり、ブルジョア国家機関を破壊するならば、その時はじめて勝利したプロレタリアートは搾取者の犠牲において、非プロレタリア勤労大衆を満足させることによって、かれらの多数の同情と支持とを自分の方に獲得することができる』――こうわれわれはいう。
 これの反対は世界史におけるまれな例外であろう。けれどもフィンランドの実例が示すように、こういう例外の場合にブルジョアジーは内乱に逃げ路をとることができる」と。
 党章草案はこのまれな例外をあてにしている。それは明らかにこの前者――社会民主主義の言葉を語っていることは明白ではなかろうか。
 ただしくは、犠牲を最少限にとどめるための条件は、ただ革命的情勢に際して、前衛が適時に正確な政策と、戦術をもって進出し、武装せるプロレタリアートと被搾取大衆の多数を率いて大胆に権力奪取へと向かうことによってのみ達成される。われわれの力(武力を含む)が敵の力を圧倒し去るときにのみ、敵の力は急速に失われるであろう。まさしくべトログラードにおける革命の実際がそうであった。私はこういう平和革命が実際に進行するならば最も賛成である。だがそれは絶対に平和革命の方針では達成されないであろうことは明らかである。
 レーニンはいう「小ブルジョア的民主主義者、階級闘争を階級協調の幻想ととりかえた、これらのエセ社会主義者は、社会主義的改良をも、搾取階級の支配の顛覆としてでなくして、自己の任務を理解した多数者への、少数者の平和的服従として、幻想的に想像した。超階級的国家の承認に不可分に結びついている、この小ブルジョア的なユートピアは、事実上は勤労階級の裏切りをもたらした。このことは、たとえば、一八四八年および一八七一年のフランス革命の歴史によって証明され、十九世紀末および二十世紀初頭のイギリス,フランス、イタリアおよびその他の諸国におけるブルジョア内閣への『社会主義者』の参与によって証明されている。マルクスは、今日、社会革命党やメンシェヴィキ党によってロシアにおいて復活させられているこの小ブルジョア的社会主義にたいして、その生涯を通じて闘争した……。」(レーニン『国家と革命』)
 この小ブルジョア的社会主義は人民戦線においてさらにその無力を暴露し、日本でもつい最近のいわゆる「野坂理論」で破産した。しかも今日、それはまたまた手をかえ品をかえて復活させられている。われわれは今日の空虚な平和革命論、民主主義革命論をもこの中に含めることにいささかの躊躇も感じない。
 プロレタリア党はただこのような小ブルジョア理論との徹底的闘争を通じてのみ前進し得るであろう。
 もう一度繰返して結論をのべておこう。
 国家権力は本質において階級支配の暴力機構である。労働者大衆にたいし革命闘争にあたって武力の必要を認めず、その準備を訴えないことは要するに国家権力を握らないと主張することである。

     一九五七年 一二月


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