茶畑と特攻おばさん (後篇) |
||
翌日も快晴。雲ひとつない青空が広がっている。 日本旅館の広い和室に一人で寝るのは、あまり気持ちいいものではない。ましてや戦場に散った特攻隊員ゆかりの宿である。夜中にトイレにでも立てば、背後から幽霊に抱きつかれるかもしれない。でも、真冬に幽霊など出ないだろう、もし出ても念仏を唱えれば退散するかな、などと考えるうちに、「朝食できましたよ!」の声で目が覚めた。 今日はバスで枕崎へ抜け、かの鑑真和上の上陸の地である坊津まで往復し、枕崎からJR指宿枕崎線に乗って、開聞岳の麓の川尻温泉まで行く予定になっている。女将さんにあいさつして、宿を出る。 バス停は富屋旅館のすぐ前にある。 田舎町の朝はのんびりしていて、とてもいい。慌ただしい通勤ラッシュの中を、目をつり上げて会社へ急ぐ毎日が嘘のようだ。通学の子供たちの歓声が、遠くで聞こえる。よそ者の自分にも、通り掛かる人がみな、「おはようございます」と声をかけてくれるので、嬉しくなる。 バスは定刻にやってきた。ほとんど席はふさがっていたが、旅行者らしき人物は私一人で、あとは通学の小中学生とお爺さん、お婆さんばかりという典型的なローカルバスの車内風景である。 窓際の席はポカポカと暖かく、気持ちがいい。 それにしても、地元の人の会話がさっぱり聞き取れない。後の席で、おばさん同士が親しげに話しているのだが、とても日本語とは思えない会話だ。鹿児島弁の難解さは有名だが、県南部の枕崎あたりの方言になると、鹿児島市内の人でもわからないという。かつて、外様大名の雄であった薩摩藩が、幕府の隠密への対策として、わざと難解な方言を使うようにさせた、という話を聞いたことがあるが、まさしく暗号のような言葉に聞こえた。 枕崎市は、鰹の水揚げ日本一の町である。駅前のモニュメントも鰹、枕崎の市章も鰹をイメージしたもので、どちらを向いても鰹・鰹。ただ、土曜日の午後というのに街中は閑散としていた。 坊津方面行のバスの発車時刻まで一時間以上あるので、東シナ海を望む岬の先端にある「火の神公園」へ行こうと思うが、徒歩片道30分。バスの便もない。で、迷った挙げ句に、邪道とは思いつつタクシーに乗り込んだ。 10分ほどで火の神公園に着く。潮風が心地よく、もうすっかり春の気配である。漁業繁栄の守り神として崇拝されているという立神岩が、天を指差すような形で沖合にニョッキリと立っていた。 いつの間にか少し雲が出てきて、水平線が霞んでいる。 「もう少し晴れていたら、屋久島まで見えるんですがなあ」 と、運転手氏が思い出したように言った。 「お客さん、駅へ戻るんでしたな」 「もちろんですよ」 「それからどちらへ?」 「バスで坊津まで行くんですが」 「坊津行のバスまではまだ時間がありますよ。どうせなら、このまま坊津まで行きましょうや。その方が早かですよ」 結局誘惑に負けて、坊津まで連れて行かれてしまった。人生の堕落とは、こんなところから始まるのかもな、と思った。 坊津は、中国の高僧・鑑真が上陸したことで知られる小さな漁村である。鑑真和上は時の聖武天皇の招きにより、危険な航海を6回も重ね、最後には失明しながらもようやく日本の土を踏んだ。その偉業が映画「天平の甍」にもなったことは、記憶に新しい。 坊津の集落をそぞろ歩く。歴史民俗資料館を見学したあと、かつて百済の僧・日羅によって開かれ繁栄を極めた一乗院跡へ。今は坊泊小学校の敷地になっており、散策コースがグランド内を通って校舎脇へと続いている。 地元の小学生が「こんにちは」と声をかけてくる。東シナ海はどこまでも青く、穏やかだ。菜の花が風に揺れている。かつて遣唐使船が発着し、賑わった坊津の面影を見ることはなかった。 今度はバスで枕崎へ戻る。JR枕崎駅は片面ホームだけの無人駅になっていた。かつて、鹿児島交通というローカル鉄道が、この先薩摩半島を一周して伊集院まで通じていたが、15年ほど前に廃止になった。当時の改札口や駅の事務室跡などはそのまま放置され、廃墟のようになっている。 JR指宿枕崎線の枕崎−指宿間は運転本数も極端に少ない超ローカル線で、これから乗る14時25分発に乗り遅れると、次は18時05分発までない。 人員削減で列車もワンマンカーになっている。バスのようで味気ないが、先を急がずこんなローカル線に揺られるのも久しぶりである。車やバイクでは絶対に味わえない旅情が鉄道にはある。 進行方向右側の車窓に薩摩富士・開聞岳の山容が見えてきた。麓の菜の花畑は満開で、まるで黄色い絨毯を敷き詰めたようだ。 その開聞岳が、徐々に眼前に迫ってきた。 今夜は、開聞山麓の川尻温泉にある国民宿舎に泊まることになっている。東シナ海を望む露天風呂と、鰹料理が楽しみだ。 暖かい南風が吹いている。明日は、雨になるかもしれない。 (おわり) |
【「旅のお話」トップへもどる】 | 【次のページへ】 | 【前のページへ】 |