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自然淘汰 ┃ ┏━可笑しさ(ユーモア) ━━━━━━━━━━┳━┻━┳━━━━┻━興味(美しさ) ┃ ┣━━┳━━━楽しさ ┃ ┃ ┗━━━倦怠感 性淘汰 ━━┻━━━┻━━━━━━恋 自然淘汰⇒興味 動物が生きるため生存の本能により、テリトリーの設定と拡大、狩猟行動、採集行動、仲間の選定と群れ順位の追求などを生み出す感情が興味である。自然淘汰については5章を参照。 興味⇒可笑しさ 評価による分岐。興味の行動の4つ目、仲間の選定と群れ順位の追求には、相手を調査して仲間を選定するための軽い攻撃があり、その結果に対する行動の感情として可笑しさが生まれる 興味+性淘汰⇒恋 状況による分岐。興味の仲間の選定行為が性淘汰によって変形した行動、それが恋である。性淘汰については5章を参照。 興味⇒楽しさ 評価による分岐。興味による行為の成功が続くことにより、興味の感覚が継続することで楽しさが生じる。 興味⇒倦怠感 評価による分岐。興味による行為の失敗が続くことにより、興味の感覚が失われ、楽しさが予測されないことで生じる。
興味にともなう行動は、主に4種類ある。 @テリトリーの設定と拡大 テリトリーとは、領土のことだけではない。人類のテリトリーとは、行動のレパートリーのことである。テリトリー拡大とは自己の可能な行動を増やすことなのだ。 そのため、興味は未知の場所への進出、未知の行動や作業への挑戦などを引き起こす。洞窟探検だとか、新しいことを始めることである。当然、自己の能力と比較し、できるようになりそうなことが対象となる。男性にやや強く見られる。 自分に関連があるものや、ある程度身近なものに興味を持つ。そして、その興味が進むにつれて、その範囲は少しずつ広がっていく。そのため未知の部分が少ないものは飽きられやすい。 A狩猟行動 変化のあるもの、動きのあるものに興味を持つ。男の子が乗り物や昆虫に興味を持つのは、狩猟行動への興味である。これらに、追跡とアプローチを行う。人類では、スポーツなどがこれに相当する。 この男女の差異は、目の周辺視野の反応性の高さによると考えられる。視野の中心は色などを細かく識別する細胞があり、その周辺には動きに敏感な細胞がある。 女性では中心視野の色を識別する細胞から側頭葉の物体視ルートが発達しやすく、男性では周辺視野の運動を知覚する細胞から頭頂葉の空間視ルートの発達しやすいことが、男女の能力差の原因と考えられる。
一定の大きさでカラフルで類似するもの、動かずに陳列されている、多数あるものを収集する。コイン、切手、本、CD、宝石、衣類、ブランド物などの収集がこれに相当する。 女性が宝石や花を好むのも、採集行動に関係する。狩猟採集時代には、女性は食べられる植物、果物を採集していたと考えられている。花はその目印なのである。宝石も恒久的な花として認識されるため女性に好まれるのだろう。 C仲間の選定と群れ順位の追求 こちらのはたらきかけに反応のあるものが対象である。仲間となりうる者を調べるためである。無視してくる相手は仲間にはならないわけだ。 仲間を驚かせたり、対象にダメージのない程度の弱い攻撃、すなわち、いたずら、ちょっかいなどが行われ、身内であることを確認しようとする。人間の会話の多くはこのためと考えられる。
興味を持ったときの人間には特有の表情がある。眉をわずかにひそめ、口を軽くまるる。この表情は、「ここに注意すべきものがあるぞ」という信号でもある。 注意を対象に集中し、その他の情報入力を減少させ、熱中すると軽度な痛さを忘れることもある。これは狩猟行動に有効である。また、興味は快感なので、その対象へのアプローチを継続させる。生活に必要な技術を習得するのに有効である。そのため大人より子供の方が強く持つ。テリトリーの設定、技能の獲得、地位の確立など、すべて終わっている大人は興味が低下しやすい。大人の頭が堅く、新しいことに興味を抱かないのは生物学的に妥当である。 なぜ興味は年齢とともに低下するのか。興味の強さはドーパミンと強く関連するが、そのドーパミンは年齢とともに減少する傾向がある。脳の回路は、新しいことに挑戦する快感が、年齢とともに減少するように出来ているのだ。 女性における可愛いものへの興味は、育児への予備行動である。また、女性は男性より会話を好むが、これは赤ん坊に言葉を教えるのは母親だからだろう。 色の好みも男女に差がある。女性はピンクを好むが、男性はそれほど好まない。ピンク色は、赤ん坊の肌の色であるから女性の好みとして出現するのである。
毎年、登山では死人が出る。人はなぜ死の危険があるような山へ登るのか。理由を問えば、そこに山があるからとか。すなわち、本能的感情的な根があり、理性的な説明はできないことを意味する。 これは、テリトリーの拡大本能のためである。山を登ることは、自らのテリトリーを拡大することになるのだ。登頂に成功すれば達成の喜びもある。 煙草を吸い、アルコールを飲むのも最初は好奇心、興味である。できることを増やす、テリトリー拡大本能のためなのだ。 | ||||||||||||||
そのため、人生において恋と興味を失うと、物事を楽しく感じることはできなくなる。 楽しさを感じると、ニコニコとほほ笑む。これは許容の信号である。 この楽しさによるほほ笑みは、とくに異性に対してその能力をアピールする効果がある。男性にとって、女性の笑顔が大きな魅力を持つが、男性の笑顔はそれに比べれば少し落ちる。魅力がないとはいえないが、場合によってはヘラヘラした奴だと思うかもしれない。このことは、女性の側でも同じだろう。同性より異性への信号の要素がやや強いのだ。 また楽しいと行動的になる。反面、不注意になる傾向もある。楽しさは警戒心を低下させて、行動量を増加させるのである。 楽しい気分では、他人にたいする遠慮が減少し行動が大胆になる。創造的な発想は、楽しいときに発生しやすいことがわかっている。楽しさは、興味行動の成功状態であるから、興味の範囲を拡大し、よりテリトリーを拡大しようとするわけである。 楽しさの反対が、倦怠感、退屈である。倦怠感も興味と恋から評価による分岐によって生まれた感情である。倦怠感は、疲労したとき、飽きたとき、興味をもてるものがない場合に発生する。 精神的な疲労状態で、活動力が低下する。酒、ばくち、その他で解消しようとすることもある。肉体的、精神的に休息させ、また反省により生活の転換を生み出す効果がある。 | ||||||||||||||
人間の生活においてユーモアのセンスは大切だが、このしくみは意外と知られていない。人はどんなときに可笑しさを感じるのか、可笑しさを与えるユーモアはどうすれば作り出せるのか? そのためにはまず可笑しさという感情がなぜ進化の中で発達したか、すなわち可笑しさが快感である理由を考えると理解できる。 快感とは、その状態の継続、再体験へと向かわせるものだ。しかし、われわれの知っている可笑しさは、それだけを自分で作り出すことが難しく、多くは他者に与えられるものである。漫才なども、観客としてはじめて可笑しいと感じる。再体験したくとも、自分でその状態を作り出すことは難しいのだ。 感情発達の土台である狩猟採集生活について考えてみよう。その時代にどうやって可笑しさを作り出すことができるのか。 子供のころに戻ればわかる。いたずらしたり、ふざけるとが可笑しさを生み出すことができる。子供はいたずらしたり、からかうのが大好きだ。英語では「Are you kidding?ふざけているの?」といい、子供=からかう、ふざけるなのだ。 子供はなぜいたずらするかというと、おもしろいから。すなわち、その状況が可笑しく快感だからだ。当然、子供がいたずらすることには何か自然淘汰される有利さがあるだ。 いたずらの淘汰上の価値の一つ目は、他者との距離を測ること、対人行動の範囲──何をしてよく、何をしてはいけないか──を認識するためである。ですから、それが十分に認識できるようになった大人では、いたずらは少なくなる。 二つ目は、信頼関係の強化だ。いたずらの特徴は、見た目は攻撃だが実害がないということである。本当の攻撃ではないから、その後、笑うという極めて無防備な状態になることにより、攻撃を否定するのだ。腹を抱えて笑う態勢など防御能力0の危険な状態を示して、攻撃が実はトリックであることを表明しているのだ。 人間には失敗や勘違いがつきものだ。そうしたとき、相手にちょっとした損失を与えてしまうこともあるだろう。それを敵対的なものと感じて怒りだすようでは、信頼関係がすぐに壊れてしまう。お互いに偽の攻撃としてのトリックを経験しあうことにより、信頼関係を安定させることができるのだ。 三つ目は、相手の注意をひくためだ。こちらに注目してほしいとき、相手の関心を自分に向けてほしいときの行動である。これは恋愛、嫉妬などでも共通に発生する方法である。 偽の攻撃とは、驚かせることともいえる。偽の攻撃とは、一見攻撃に見えるもの、形式だけの攻撃で、相手がそれにたいして防衛体制をとったところで、「攻撃じゃないよ」という意味で笑うのである。 お笑いタレントにすぐ裸になる人がいるのは、裸になることが偽攻撃だからである。相手は嫌がるものの、実害はないからだ。ヌーディストビーチならギャグにはならない。 ものまねが面白いのは、まねされるタレントへの偽の攻撃だからだ。子供のころ学校の先生のものまねをして人気者になる同級生がいたはずだ。 こうしたいたずら――トリックは、大人になるにしたがい減少する。罪悪感が関係してくるのだ。トリックをすると大人に叱られる。罪悪感がトリックの快感を上回ると、トリックはしなくなるのである。 罪というものは国の文化によって大きく異なる。日本人からみて外国のお笑いの番組がおもしろくないのは、日本人の罪悪感に触れることがあるためである。また、大人はバラエティ番組で食べ物を粗末にしてふざけていると、教育的でないと嫌うものだ。食べ物を粗末にすることが罪悪感に触れるためである。
トリックの結果が予想できる人とは、トリックの実行者と、それを見ていて止めなかった人である。予想できるということは、自分をトリックの実行者の立場に立たせ、罪悪感が可笑しさを抑えてしまうのだ。 しかし、わざとか無意識かは分からないが、つまらないネタを連発し、その場をいったん白けさせて、笑いをとるという複雑なこともできる。 つまらないギャグをいった後に、つっこむと笑いをとれるのは、笑えないタレントがトリックの被害者の表現となっているためだ。いわゆるぼけのタレント、松村邦彦、村上ショージなどがこの手法である。 可笑しいのはなんらかの失敗行動であることが多いが、それがどうして失敗したのか理解できないと笑えない。雪の積もった道で滑って転ぶのを見かけると可笑しいと感じるが、アスファルトの道路で重力がなくなったかのように浮き上がって転んだとしたら、超常現象と思って驚くだろう。可笑しいと思えるには、その対象の失敗がどのようなしくみで発生したのかをわからねばならず、しくみがわからない失敗にたいしては可笑しさを感じないのだ。 これはなぜかというと、そのことがトリックの被害者の立場に立たせるためである。トリックの被害者は、その瞬間何が起こったかわからないのだ。そのときのような、自分がトリックにひっかかったような気分になるため面白くないのだ。 もし転んだ人が血まみれになって動かなくなったなら笑えない。重大なことは笑えないのだ。この場合は、恐怖や驚きなど異なる感情の力がはたらいて可笑しさを追い払ってしまうためである。 また、笑われた対象と同じ側にいると笑えない。笑われたのが、自分の子供だと笑うのはほとんど不可能である。この理由も、自分がトリックにひっかかったような気分になるためである。 しかし、自分が笑われた場合でも、責任が追求されないようなリラックスした状況では一緒に笑うこともあり得る。もちろん、失敗の責任が自分にふりかかるような状況なら笑えない。 自分が笑われた場合でも、責任がないと笑うことができるのは、トリックの観客へと視点を移動できるためである。 これで、だじゃれの原理も説明できる。 だじゃれは、二種類に分けられる。言った後で、みんなが「オーッ」と感心して笑うようなものと、「そうじゃない」とみんなにつっこまれるものである。 前者のだじゃれは、意図的な言い間違いを意味している。意図的ないい間違いというのは、トリックの一種なのだ。相手のいったことがトリックにひっかかった状態であることを示しているのである。 後者のだじゃれは、トリックの被害者の反応である。自分がいまだに勘違いしたままであること、すなわち、トリックをこうむった後の混乱と動転を表現しているのである。 だじゃれは言葉のトリックなのである。
ところが、もし相手が同調して悪口をいい出すと、それは自分の悪口をいわれるのと同じになってしまい嫌な気分になるのだ。 自分や身近な存在の悪口をいうのは、ユーモアとして、相手に笑ってもらうためにいうのであり、相手に意見や同調を求めてはいないのだ。 こうしたユーモアは、いろいろな形で現れる。たとえば、あだ名というものは、ユーモラスに響く。それは弱い攻撃だからだ。 業界の専門用語というものは、弱い攻撃で構成されていることがしばしばある。タクシーの長距離客を「幽霊」と呼ぶのは、めったにいない珍しいことだからだが、幽霊という言葉にはかすかに攻撃が含まれている。 この可笑しさを生む偽の攻撃は、本当の攻撃と区別するのが難しいものだ。相手の気持ちになって判断しなければならない。ユーモアのつもりで女性にセクハラしてしまうことにもなりかねないのだ。偽の攻撃でも、攻撃された被害者は喜ばないからだ。 テレビの番組で、ダウンタウンや明石屋さんまが女性を泣かせてしまうことがあるのはこのためである。彼らはテレビによる「作りものの世界」効果を利用して、日常では許されないような強い攻撃で笑わせる。テレビだからどんなに強く攻撃しても視聴者には偽の攻撃として認められるのである。しかし、それに慣れていない若いタレントは、その現場にいるため、偽の攻撃と受け取れず泣いてしまうことがあるのだ。 こうしたユーモアの攻撃は本来は目下の人に向けてはならない。ユーモアはお互いにからかい合うからこそ信頼関係が深くなるので、立場上反論できない目下の人に向けると、ただの嫌がらせになってしまうのだ。同格の友人に向けるのが基本と考えなければならない。目上への偽の攻撃は諷刺、同格ならユーモア、目下なら嫌がらせなのだ。 諷刺はユーモアに似ていますが、被害者たる目上の人物との信頼関係を強化する効果はない。また、目上の人から下へとユーモアを返すこともなく、その機能や効果がユーモアとは異なる。 もし、ユーモアあふれる人になりたいのなら、第三者への弱い攻撃か偽の攻撃をするか、自身が攻撃されたかのような戸惑ったふるまいをするのが簡単である。しかもそれは、予想できない行為でかつ相手に理解できるものでなくてはならない。 ユーモアは、三つの要素が欠かせない。仕掛け人、被害者、観客の三つである。 凍った道で滑った人が可笑しいという場合、仕掛け人=天気、被害者=滑った人、観客=あなたとなる。 自分の失敗談で笑わせる場合は、仕掛け人と被害者を一人で兼任しているし、社会風刺では社会が被害者となる。 TVドラマのパターンとして、見かけのさえない主人公が実はとても有能で、周囲がそれを知らないというのがある。必殺仕事人の中村主水などである。これが面白いのは、仕掛け人=作者あるいは主人公、被害者=敵や周囲の人、観客=視聴者という形でユーモアを満たしているからである。 お笑いタレントや漫才が通常二人なのも、この三つの要素を端的に満たしているためだ。仕掛け人=つっこみ、被害者=ぼけ、観客=観客になる。 ユーモアあふれる人になりたい、そう思うなら、まずこの三要素を正確に認識し、偽の攻撃の程度をマスターするとよいのわけである。特に注意して欲しいのは、仕掛け人と被害者、すなわち舞台の漫才師たちは自分で笑うわけではないことである。笑うのはあくまでも観客のみ。笑わせたい相手を間違って被害者にしてしまう人が多いので、ここは要注意である。 可笑しさはトリック行為における実行者及び被害者ではない偶然の傍観者を体感することで生まれる。ここでいうトリックとは、子どもによく見られるいたずらや大人のジョークなどを示す。 大人は、可笑しさ認識のための三項関係――仕掛け人・被害者・観客からなるフレームを持っていて、状況を認知したとき自分が観客であると認識すると可笑しさを感じるのである。
高度な社会関係が要求される動物にのみある。 集団で生活する動物は、お互いのテリトリーを共有しあう必要がある。そのため、ボスを中心とした順位性によりそれを緩和する。人類ではそこにユーモアが加わる。ユーモアは、相互に偽攻撃することにより、お互いのテリトリーを重複したままで順位なしに許容しようとするものなのである。ユーモアは対等を意味するのだ。 もしも、攻撃されることに敏感で、弱い攻撃、偽攻撃のすべてを攻撃として解釈すると、人間関係がうまくいかないものだ。大人になっても他人と距離をおいてしか付き合えず、誰かを全面的に信頼することのできない人は、子供時代のいたずらの経験が不足しているのかもしれない。 可笑しさは、人類だけか、一部の類人猿にはあるかもしれない。 手話を教えられたゴリラに、白いタオルを見せて色をたずねると、赤いと答えた。何回聞き直しても同じ答えである。ところが、そのタオルをよく見ると赤い糸くずがついていたのだ。これは、相手の能力を低さを主張する攻撃の形をとっており、偽攻撃であるかもしれない。
アメリカのノーマン・カズンズという編集者は、膠原病で治る可能性が少ないといわれたにも関わらず、喜劇映画を見たりユーモア本を読むことで病気を治してしまった。 がん患者に吉本新喜劇や落語を見せて笑わせることで、がんをやっつけるNK細胞が活性化した研究報告もある。 可笑しさによって笑う、これがなぜ健康を生み出すのか。 笑いは、もともと余裕を示す信号である。相手に「私はあなたを助ける余裕があるよ」というメッセージなのだ。 そしてそのメッセージは、ただ相手への余裕を示すだけではない。自分自身へのメッセージにもなる。笑うと自分自身へも余裕を示すのだ。 とくに、脳幹に自分が余裕があると認識させることができる。脳幹は免疫を指示しており、笑いによって細胞の免疫能力が向上するのだ。侵入者を倒すNK細胞の活性が高められることがわかっている。 笑いを引き出す、喜び、可笑しさ、楽しさにそれぞれ共通するのは無警戒になることである。喜んで飛び上がったり、可笑しくて腹を抱えたりするのはまったく無防備である。楽しさもまた不注意になる。笑いを引き出す感情は、緊張感の解除の要素をもっているのだ。 病気になると不安により緊張感が生じる。そして、その緊張感が体内の補修に回すエネルギーを消耗してしまう。 緊張感とは環境に対する即応性の維持のことである。病気のとき緊張感が増すのは、捕食の対象となりやすい最も危険な状態だからである。野生動物が捕食されるのは、ほとんどが病弱の個体であり、動物は本来、病気のときに緊張しなければならないのだ。 現代社会では、病気だからといって常時警戒する必要はない。病院には、毒ヘビも熊もいないである。 そのため、現代人にとっては、意識して緊張感を捨て去ることが有効になる。これらは脳幹による無意識の作用のため、実際の行動によってのみ変化させることができるのだ。意識的にリラックスしようと念じても効果はなく、無意識に感情を作り出す状況が必要なのだ。 この緊張感を解消するのに笑いは有効なのだ。笑うことにより、自己に余裕を認識させ免疫活動を最大にできるのである。 ただし、どんな病気でも治るわけではない。体の抵抗力が低下したために病気になった場合、この効果が顕著に現れますが、原因が外にある場合にはほとんど効果はない。 たいていの病気は両方に原因があるので、大なり小なり一定の効果がある。一般にプラシーボ効果として知られている。 これは病気には強さと速さがあり、速く進行する病気が強いとは限らないということだ。ガンの緩解についていえば、そのガンは速いものであっても強いものではなかったため、自己治癒能力を高めることにより快復したと考えられる。 | ||||||||||||||
恋と愛は系統が異なる。そのため、恋は愛の入口になるが、直接の関係はない。恋は興味の変形であり、興味の行動のように相手を知ろうとする。常に新奇性が求められる。恋が平均三年でさめると考えられているのもそのためである。もし、そのときに愛がなければ別れることになるのである。 恋すると、相手と一緒にいようとする。相手に関連する知覚に快感があり、知覚の増加するように近づこうとする。 恋すると気持ちが子供のようになる。ものの見方が変化しいろいろなものが新鮮に見え、客観的でなくなる。視野が狭くなり恋に関係するものに集中し、その他に無関心になる。いつでも、相手のことを想像するようになる。相手の理想化や、この人でなければならないという感覚、対象選択があり、恋の行動を推し進める。あらゆる感情の起伏が大きくなる。 恋の価値はいうまでもないこと。性をもつ動物には不可欠である。 恋にも特有の表情がある。デレッとした表情、鼻の下を長く延ばすといい、強い継続的な笑顔になる。これは相手への援助の容認信号である。 恋とは、配偶者選択行動のための感情といえるので、有性生殖する動物には恋があるといえる。馬、牛、羊などに見られるフレーメン──頭を上げ首を伸ばし上唇を裏返す──などは恋の表情といえるだろう。また、鳥類に見られる求愛ダンスは恋の行動である。 鳥類も、幼児期の記憶によって相手を選ぶ。キンカチョウの雄を孵化後しばらくジュウシマツと育てる。その後、キンカチョウの雄が成鳥となり、キンカチョウの雌とつがいを作るようになっても、そこにジュウシマツの雌が現れるとそちらに行ってしまうのだ。 一般に、子育ての難しさと恋の感情は比例する。子育てが大変な動物ほど熱烈な恋をするのである。子育ての難しい動物では、雌雄の共同が重要であり、それだけ相手をていねいに選択しなければならないからである。
恋は、理想的配偶者との出会いにより生まれる。もちろん、たで食う虫も好き好きといい個人的な判断である。遺伝子から見ると、血縁淘汰の原理により自分に似ている相手を好むのであるが、血縁の近いもの同士が結ばれると危険なため、あまり似ているのはよくない。これは、幼児期をともに過ごした異性には恋心を抱かないことによって成立すると推測されている。 理性的に考えると、お互いに足りないところを補う関係にひきつけられるとよいように思われるが、そうしたことはほとんどない。唯一、話し好きが聞き好きと組み合わさる傾向のみがあることがわかっている。 一目惚れは、一種類の情報のみで成立すると考えられる。目、声、しぐさ、どれでもかまわない。ある一つの要素に強くひきつけられた無意識の選択である。なぜ好きなのか述べることができないこともある。これは、恋の感情記憶がそれら一つの要素とのみ結び付いているためである。 すなわち、その一目惚れの相手の一つの要素、この要素が似ている人物の記憶があり、その人の笑顔や悲しそうな表情などの誘引信号を見たことがあると考えられる。 これらの記憶は、要素に分解されて後、再構成される。幼児期にはエピソード記憶が発達しておらず、こうした過去の体験は、感情に結びついた単独情報である恋の感情記憶となるのだ。 普遍的な理想の配偶者の要素は、相手の健康状態がよいこと、相手の生活能力があることなどである。ただし、無意識の選択であるから、理性的に計算してしか出すことのできない要素は、恋に無関係である。健康状態ならカルテや病歴を見て惚れるのではなく、体形、スタイルであり、生活能力なら経済的な収入でなく、声の安定感や知性的であることだ。 言葉巧みな男性が有利なのは、それが知性を示すためである。また、女性が言語思考優勢であることもあるだろう。 | ||||||||||||||
そのため、美男、美女も健康、知性に関係する指標となる。それは、もちろん比例するのではない。美しさの度合いと健康、知性の度合いは比例ではなく、最低限の保証としての効果を持つ。すなわち、美男、美女に、決定的なほどの不健康や知性の欠如はほとんどありえない、ということである。それは、遺伝的に平均を示しているのだから。(双子の顔がそっくりなことでわかるように、顔は遺伝で決まる) 原始時代は、健康な人が少なかったので、これで有効に機能したのである。 そのせいでか、天才でかつ美男美女という人はあまりいない。漫画や小説だけの存在なのである。美男美女はたいてい精神的に凡人なのである。もちろん美男美女は知性的に見えるが、それは頭が悪くないと感じる感覚のためである。原始時代に天才はあまり必要なく、天才を示す指標は発達しなかったのである。 こうした顔の印象を決める要素は、平均顔、子供顔、表情顔の3つである。 平均顔は、左右の均等さであり遺伝的な安定性を示している。子供顔は、目の大きさなど可愛く見える要素である。表情顔は、笑顔や怒った顔に似ている度合いである。井川遙などは典型的な笑顔を連想しやすい顔で、癒し系などと呼ばれる。 一般に、恋愛経験の貧弱な人間ほど面食いになる。恋の感覚は過去の経験により発達するため、経験が貧しいと美男美女に対する本能的感覚しかはたらかないためである。
農耕以前の狩猟採集時代で、男性の能力が反映されているのは何か。それは、集団における地位である。その地位の高さを示す要素が女性に好まれると考えられる。 地位の高い男性の特徴は、人に指示することが多く、指示されて動くことが少ないということである。人に影響を与え、人に影響させられない。影響を与える人が好まれ、影響される側の人は軽視されるということである。 そのため有名な芸能人は、大富豪よりも好まれるのである。 悠然と構え堂々と自信に満ちあふれ的確に決断でき、緊急の事態にも動じないことが男性的な魅力だ。木村拓哉、反町隆史、田村正和はおどおどしたりしないのだ。彼らが人気があるのは二枚目だからだけではないのだ。たとえば、火野正平、片岡鶴太郎、所ジョージ、高田純次らが女性にもてる(らしい)のもそのためだろう。 もちろん、少しは弱い面がある方がよいのだが、それはみんなの前ではなく、あなただけに見せる意外な一面でなければならないのだ。
心理学の実験によると、人はあるものを達成するために、努力したり困難な経験をしたりすると、より魅力的に感じることがわかっている。つまり、恋愛時における進展の遠回しさは、後の感情を高めることになる。その後の夫婦生活のきずなを強化する効果があるのだ。 とはいえ、優しいだけでは不足である。優しさは援助意志を示すが、肝心の援助能力がなくては無価値だからだ。優しさ×生活力が求められるのだ。
男性と女性とでは、生殖年齢の範囲が異なる。女性が40歳以上で出産するのはたいへんなこだが、男性が子供を作るのは難しくない。男性が女性に子供を生ませることを基準に判断すれば、年齢に反比例して好まれるのは当然である。50歳の女性を好きになっても子供が生まれる可能性はほとんどなく、その遺伝子は伝わらない。若ければ、生める子供の数が多くなるのだ。 もちろん、男性でも若い方が子供は多くできるから、若い男性も女性に好まれるはずである。ただ、その影響力は女性ほどではないから、女性は男性ほどには相手の若さにこだわらないことになる。 また、男性が若さに愛情を向ける傾向は、子供の養育の可能性も意味する。子供っぽさを好む男性には、子供を大切することが期待できるのだ。 結果として、男性の方が寿命が短いのにもかかわらず男性が年上の組み合わせが多くなるのである。テレビドラマやCMの夫婦役は、よく見るとたいてい十歳近く男性が年上だ。もしお互いが純粋に好みだけで相手を選ぶようになると、このぐらいまで年齢差が開いてしまうのだろう。もちろん、組み合わせはより多様になるのだろうが。 そのためネオテニーの傾向は男性より女性に強く現れている。女性は、声が高く、体の毛が薄く、禿げたり、ひげが生えることもない。これらは成熟を示す信号なので性淘汰により変化したと考えられる。さらに、それを強調する技巧として化粧やミニスカートなども発達したのである。 また、可愛い女性を好むのは支配欲求を満たしやすいためでもある。男性の性欲は支配欲求と強く結び付いている。男性は女性にたいして支配的にふるまうことにより強く性欲が発揮されるのである。例は挙げないが、アダルトビデオで見られるシチュエーションや性の技法のほとんどが、男性の支配欲求を満たすものである。 権力者の多くが子沢山で精力的なのは、男性の順位行動──支配欲求と性欲が相関しているためと言えるだろう。 サルや類人猿でははっきりとは見いだせないようである。しかし、順位行動のマウンティングのポーズが性行動の後背位と同じなのは、偶然ではないだろう。相手への支配の感覚が性行動へと結び付いているのだ。 多くの動物では、雄はとりあえずたくさんの雌を相手にした方が効率よく遺伝子が伝わる。相手への支配感覚が生まれるような、すなわち強引に交尾しても雄がダメージを受けないケースでは、交尾した方が淘汰上有利だったのだ。 猟奇的な犯罪──アメリカの性的な大量殺人犯、神戸の連続殺人事件、幼女誘拐殺人犯のMなどでは、性の対象が子供や死体に向かっていた。これは支配欲求を確実に満たすことができるためだろう。劣等感にさいなまれた彼らには、成人の女性から支配感を得ることができないため、子供や死体へと向かってしまったのである。 これらの性犯罪の原因は、自己の支配欲求を調整できなかっためなのだ。
進化論から考えると、こうした好みは原始時代に対応していると考えられる。原始時代とは石器時代。石器はよく切れるわけではない。古代人は髪をおそらく切らなかったと考えられる。紐で結わえるだけだったのだ。そんな時代に髪が短いとしたら、それはおそらく病気や栄養失調によって抜けたと考えられる。このとき適度な髪の長さを好めば自然に健康な女性を選ぶことになるのである。髪が伸びるには時間がかかるから、それだけ長期間健康であったことの保証にもなるのだ。 すなわち、女性の健康状態を推し量る指標として髪の長さが発達した考えられるのだ。病気や栄養失調の女性を好んでも子孫が生まれる確率は低いから、そんな遺伝子はすぐ滅び、長い髪を好む遺伝子があればそれは生き残る。そして自然淘汰の結果、長い髪の女を好む男が多くなる。クジャクの雄の尾と同じ原理がはたらいているのだ。 髪の長さは健康――すなわちセックスアピールである。女性は年齢が若いほど長くしますし、AV女優にはショートカットの女性は少数派である。 男の長髪はそれほど好まれてはいないようだ。女性から見た男性の健康状態というのはそれほど関係がないということだ。女性は、妊娠、出産、育児と肉体的に消耗を強いられるが、男性にはそれがない。人類にとって男性の健康状態などは、女性ほどの価値がなく、だからこそ男性のほうが寿命が短いのだろう。もちろんこれは進化の話。実際に男性の寿命を短くするのは性染色体のためである。 扁桃体は環境情報を本能に関連する行動へ変換する機能を持つので、女性の顔+長い髪に反応するルートが側頭葉⇒扁桃体に見つかるかもしれない。
まず重要なのが、価値観の共通性である。価値観や善悪観が共通でないと、一緒に行動するときにストレスが生まれるのだ。 なぜかというと、夫婦や恋人同士は他人同士と異なり、お金や時間を共有するためである。もし価値観が違うと、自分にとって価値がないと思えることに自分のお金や時間を使われることになってしまう。善悪観が同じでないと、自分が悪いと思う行為を一緒にしなければならない──やりたくないことをしなくてはならないことになる。どちらも、自分の「〜すべき」という感覚に逆らうものなので、ストレスとなり、それが相手の評価を下げることになるのだ。 もう一つが能力の相補性だ。能力に相補性があれば、お互いが良いと思うことや価値のあると思うことをするのに助け合うことなり、ともに生活する中でお互いの評価を高めていくことになるのである。 だから、お互いの趣味や目標が似ているが、ある能力は男性が上回り、ある能力は女性が上回るというような場合に、最も相性が良くなると考えられる。 相性というのは、能力の相補性と価値観の共通性ということができる。そして、これはもちろん親友同士にも成立する。
ある淡水魚の実験について述べよう。この淡水魚の雄は長い尾をもってる。そして、尾が長い雄は雌に人気があり、交尾で有利となる。しかし、尾の長すぎる雄は、目立つ上に小回りがきかないため、外敵であるより大きな魚に捕食されてしまう。 この魚の雄雌の交じった群れを、外敵のいない環境で飼育したところ、何世代か後にはどんどん尾が長くなっていった。雌に好まれたからである。 そこに、この魚を捕食する大きな魚を一緒に入れると、今度は尾が短いものばかりとなった。尾の長い個体は、外敵にも発見されやすく捕食されたためだ。 この実験が示すのは、性の分かれた動物では、目立つと性淘汰で有利となり、自然淘汰では不利となるということだ。 人間でも目立つと性淘汰で有利となる。どんなに性的魅力が欠如している人間でも、テレビで募集すればたいてい恋人の応募者がいるものだ。知り合うことのできる絶対数を多くすることは確実に有利である。 思春期を迎えるころに、派手な格好をしたがる理由がこれでわかるだろう。これは性淘汰を有利にしようとする、本能の発現なのである。 もちろん、魚は遺伝子の変化で尾を変えたのだが、人間は脳で考えて服装を変える。その場合の遺伝子は、「生存に余裕を感じれば派手に装う」というものだろう。 人類では一般に女性の方が、男性より派手になっている。それは、男性に自然淘汰が性淘汰より強く、女性には性淘汰が自然淘汰より強いということだ。自然淘汰が男性に強いというのは、部族抗争や戦争が、自然淘汰の替わりに機能しているためと考えられる。戦争では、戦場に出て戦って死ぬのが主に男であり、戦場以外でも、男は殺して女は略奪するのが長く戦争のパターンだったのである。 そのため、戦争などの不幸な時代、生存の厳しい時代には男女とも地味な装いとなる。平均的な状態では男より女の方が着飾り、自然淘汰から解放された平和な現代は、男女ともに着飾るようになっているのだ。 | ||||||||||||||
━━━━━━━━┯━━━嫌悪(嫌う、忌む、醜さ) └───憂鬱 自然淘汰⇒嫌悪 動物は生きていくため、生活に適しない環境からは退避し、適切でない食物ははき出す。こうした行動を生み出す感情が嫌悪である。 嫌悪⇒憂鬱 予測による分岐。嫌悪を予測することにより憂鬱が生じる。
動物は生きていく上で、近づくべき対象と離れるべき対象がある。近づくべき対象とは食物、異性、仲間、安全な環境である。こうしたものに対して近づく動物は生き残り、離れると死んでしまいます。そのため、自然淘汰によりこうしたものに対して近づこうとする感情が発達した。これが動物にとっての一番目の基本感情であり、私たちはこの感覚を興味と呼んでいるのである。 それに対して、危険な腐敗した環境、毒物などは近づくのは危険である。近づいた動物は死に遠ざかる動物は生き残る。自然淘汰によりこうしたものに対して遠ざかる感情が発達した。それを私たちは嫌悪と呼んでいるのである。嫌悪は興味の反対でその対象から離れていこうとする感情である。 嫌悪には特有の表情がある。眉が下がり、しかめ面、鼻にしわを寄せ、口を縦に開く。はっきりとアピールする場合、舌を出して吐き出すポーズをとる。これらはみなまずい食べ物を吐く動作から由来する、拒絶の信号である。 こうした嫌悪行動は、まずい食べ物、嫌いな人、不潔なものへの対応として生まれたのである。不潔を避けて衛生状態を保つ、それが嫌悪の進化上の価値である。
古代人にはこのような潔癖性はなかったようだ。現代人特有の現象はどのように生じたのだろうか。嫌悪がどのように発達するのか考えてみよう。 そもそも汚いと清潔は相対する関係にある。汚いものがあってこそ清潔なものがあるのだ。汚いものがなく、清潔だけの世界に生活すると、汚いものを認識できないだけでなく、清潔感も認識できない。 遺伝子というのは、感覚の種になる部分を作るだけである。嫌悪の感覚も、その後の環境が用意されていてこそ発達するのだ。嫌悪は、ある対象に対する退避反応である。嫌悪により退避する対象は、臭いもの、不味いものである。子どもの頃に、臭いものや不味いものを体験することにより、その臭いもの不味いものの見た目を覚える。それからは、実際に臭さ不味さを体験しなくとも見た目の類似で、それらに嫌悪を覚えるようになるのだ。たとえば、汚物や死体、それにうじゃうじゃたかる虫などである。 現代のように、すべての環境が清潔になっていると、そもそも嫌悪すべき対象が決定できない。嫌悪対象が配置される席は空席のままになる。そのまま思春期になると何かのきっかけで、その空席に本来の嫌悪からかけ離れたものが座ってしまったと考えられる。 ドアノブや電車の手すり、あるいは便座などはすべてつるつるしているのが特徴である。共通しているのは、汗や体液など。何かぬめっとした感じが嫌悪の席についてしまったケースだと考えらる。 こうした場合の対処法は、論理的に無意味であることを意識し、1.それが気にならなかったケースを思い出して利用すること、2.中間段階を作って少しずつ慣らしていくことである。 1.の方法とは、日常生活を丁寧に観察すれば、何かの弾みでいつも気持ち悪かったものが気にならなかったことがことがあるはずなので、そのときの状況に似たものを利用して、慣らしていく方法である。 2.の方法とは、気持ち悪いものとそうでないものの境界線を調べて、その気持ち悪くないぎりぎりのラインに慣らすことで境界線を動かしていく方法である。 ただし、いわゆる強迫神経症などの手洗い強迫とは、意味が違う。こちらは、はっきりと脳に異常に生じたケースで、こうした行動療法のみでは困難であると考えられている。
美しさとは、視覚的あるいは聴覚的な快感である。美しい絵、写真があり、美しい音があるが、美しい匂い、美しい手触り、美しい味というものはない。ただし、美味という表現はある。 これは、美しいものが遠くから引き付けられるもののためだ。視覚と聴覚は遠くからわかるが、触覚や味覚には距離がない。嗅覚も視聴覚に比べれば距離が短いからだろう。 美しいものを列挙してみよう。宝石など輝くもの、清潔感のあるもの、あるいは異性など。なかでも、清潔感は限りなく美しさと同義であるといえる。 共通することは、近づくことに生存上の有利があるものだ。本能的に近づくべきものを美しいと総称するのだ。近づくべきもの、今は遠くにあるが、近づいて詳しく知るべきものが美しいのである。 美しいものは、しばしば哀しいことがある。すなわち、美しくも哀しい話、美しく哀しい音楽であり、はかないともいわれる。他人の哀しみもまた、人が近づくべきものだからである。 遠くにあって興味深いもの、これが美しいのである。 それに対し、醜さとは本能的に近づくべきでないもの、嫌悪すべきものである。特に不潔なものは醜いことがふつうだ。また「醜い骨肉の争い」というように、見た目だけでなく、近づくべきでないという意味合いがある。 醜さを感じると、それを遠慮なく攻撃し、排除できる。逆にいうと排除すべきものが醜いと感じるように、進化の過程で発達するのだ。 多くの人間は、ハイエナを醜いと感じる。見た目といい、声といい不気味である。 ハイエナが醜いのは、それを嫌うことが淘汰上に有利だからである。人類もハイエナも、草原で集団による長時間追跡する形式の狩りをする。おそらく、人類とハイエナは、かなりの期間同じニッチ(生態的地位、動物の種間の立場や地位のこと)を占めていたと考えられる。ハイエナを醜いと感じれば、ハイエナと戦って殺すことに遠慮しなくなり便利なのである。 この感覚は相対的なものなので、ハイエナもまた人類をとてつもなく醜い動物だと思っているかもしれない。人類学者のティム・ホワイトは、人類を「霊長類のハイエナ」と呼ぶほどである。 ハイエナだけでなく、ゴキブリなども醜いと感じるが、これもその雑食性が人類と対立するからだろう。もし第三者の生物から見れば、人間、ハイエナ、ゴキブリは、よく似ているから嫌いあっているのだと考えるかも知れない。 こうした感覚をうまく利用しているのが映画の『ロード・オブ・ザ・キング』の三部作である。ここに出てくる主人公側は清潔な美しい人々であり、敵役は不潔かつ限りなく醜く描かれている。こうすることで、無造作に大量殺戮されていく悪役に感情移入することなく物語を楽しむことができるのである。 ただし、こうした感覚はどんな動物でも当てはまるわけではない。人類との関係が深いものにのみ成り立つ。あまり人類の生活と関連しない生物、例えばコウモリなどは益獣だが不気味に感じるようになっている。その見た目は、人類と無関係に発達したためだろう。 こうした嫌悪感覚がハンセン病などに対する差別意識へと結びつく。嫌悪を感じること自体は本能的なものであり恥じることではない。ただし嫌悪を行動として表に出してしまうことに問題があるのである。 | ||||||||||||||
知性の発達した人類では、嫌悪する対象が目に見えていなくても嫌悪を感じることができる。これから嫌悪する状況に直面するというときに感じるのが、憂鬱である。嫌悪するものがこのままでは不可避であると感じると憂鬱なのだ。憂鬱とは、嫌悪を予測したときの感情である。 たとえば、注射の嫌いな小学生が、注射のために待っている時間は憂鬱である。 憂鬱は何をしてよいのかすらわからない状態である。不安は人を行動へと駆り立てるが、憂鬱では行動が失われる。 憂鬱は嫌悪を避ける方法を考えるための感情である。じっとため息をつきながら考えるのである。しかし、明らかに嫌悪が避けられない場合にも憂鬱が生まれるが、この場合はあまり適応的といえず、知性の副作用といえるだろう。 |