以前、あるチェーンの幼児教室で、講師を150人以上指導していました。知識をたくさん刷り込むというのが売りのその教室の講師たちは、「私は3人、子どもを自閉児にしてしまった」「私は2人」「私は4人」という話をしていて、とても驚いてしまいました。(こんな時に何ですが、これは私の発言ではありませんし、私は自主規制のような言葉遣いは嫌いなので、そのまま表現します)
その幼児教室の教育内容は、外国の知的障害者用の教育法を、幼児教育に応用したものです。確かに、乳幼児は知的能力が乏しいのですが、それは知的障害者の能力の低さとは本質的に別のものです。高い能力は育たないので、その教室のオーナーの中には、自分の子どもだけ別の教室に通わせていた人もいました。
その教室からピグマリオンへ来た生徒や、現実から遊離した英語主体のインターナショナル幼稚園に通っている生徒の多くが、能力を伸ばせず苦労するということを見てきました。知識偏重の教育を受けた子どもは、現実離れした知識を強要されることによって、高い知性と人間性を育てることができなくなってしまうのです。
このような経験があったので、下記の記事を書きました (タイトルは変更しています)
乳児教育のポイント 知識偏重の教育はやめましょう http://www.pygmalion.co.jp/blog/2012/09/post-96.html
知性や性格が先天的なものだけならば、教育にはあまり意味はありません。しかし、後天的なものが大きく左右するならば、やはり教育には大きな意味があり、どのような教育法がよいのかということはもっと語られるべきです。
私がピグマリオン学育で主張していることは、人類の知性獲得の歴史に応じ、一人ひとりの個性に合わせた、無理のない教育方法を子どもに与えるべきだということです。幼児期にきちんとした基礎が出来あがった上で、知識を身につけていけばいいのです。個人の能力と性格を無視した知識と技術の教育、知識偏重教育は、現実を認識する能力を育てません。そうなると、防御本能が働き、自分を閉じてしまうということも起こりえます。
言葉の意味や定義が問題ならば、もう少し適切な言葉を使うようにします。ただ、私にはこのような経験と思いがあって、先ほどの記事を書きました。教育は理屈や論理では語れません。すべての親子にとって、それは現実なのです。知識を用いて科学的に教育ができるのなら、誰も苦労はしないのです。
子どもにはそれぞれ個性があり、親にはそれぞれの教育方針があります。そして、どのような教育が正しいのか、どんな大人になればその教育が正しかったのかということを定義するのは、とても難しいことです。少なくとも、東大に行けば、その教育は正しかったなどとは言えないはずです。
教育を語る場合は、教育基本法にあるように、最終的には人格の完成について語るべきです。私は、ピグマリオン学育を通じて、他者への慈悲や優しさを獲得できる知性を育てていきたいと考えています。