【このコーナーでの学習のねらい】
古代ギリシャの代表的なポリスとして歴史に刻まれている<スパルタ>と<アテナイ>における教育実践の特徴を読み取り,現代日本の学校教育の実情と比較しながら,二つのポリスの実践が示唆する教育観とその教育効果について自分なりの考えをまとめる。
【学び方】
@以下の図資料を参考にしてテキスト資料をよく読み,スパルタとアテナイの教育実践の特徴を理解する。
A日本の教育実践史において,「スパルタ型」教育や「アテナイ型」教育の実践例を調べてみる。
1.スパルタという都市国家
ギリシャ人は方言の違いによって,イオニア人,アイオリス人,ドーリス人に分かれるが,そのうちのドーリス人が北方より南下移住し,それまでスパルタの地に住んでいた先住民を奴隷として征服することによって成立したポリスがスパルタである。
スパルタは,ペロポネソス半島の内陸部に位置し,農業を基盤とする地域であったために,多数の労働者を必要としていた。スパルタの実権を握った征服民は,大多数の先住民を農業奴隷として使用する国家をつくりあげたのである。さらに言えば,少数の完全市民が,周辺のドーリス人をペリオイコイ(従軍義務はあるが政治的権利のない自由人),先住ギリシャ人をヘイロータイ(「ヘロット」=市民の土地に数家族ごとに分配された奴隷身分の農民)として支配する体制を形成した。
一説によると,この時のスパルタは,2万5千人の市民階級が22万人の被征服民を奴隷階級としていたようであるが,そうした国家において市民が留意すべきことは奴隷の反乱であった。スパルタの場合は,市民全員が軍人となって被征服民を支配するという国家体制をつくりあげたが,ここにおける軍国主義は,対外的な戦争を想定してのものではなく,国内の統治,治安維持の装置としての意味合いが強かった。征服民が軍人となって被征服民を隷属させ,農業に従事させることで国の食糧政策を維持させていた。
こうしたスパルタ式の軍国主義を支えるための教育として採用された方式が,いわゆる「スパルタ教育」である。この教育方針においては,軍人として役立たない人間は不要とされるために,将来,軍人になれる見込みのないものは捨てられていたという。生まれたばかりの赤ん坊は,長老たちのところに連れて行かれて検査を受ける。もし,その子に何らかの障害があった場合は捨てられてしまう。 また,スパルタ教育においては,男子も女子も身体的訓練が最重要視され,教育プログラムの中核は,競争・レスリング・円盤投げ・槍投げ・耐久訓練・公民教育であった。紀元前5世紀のペルシア戦争を経てからは,いわゆる僣主政治(せんしゅせいじ)は警察化し,教育においては軍事訓練のみが存続されるという事態となり,そこでは知的教育は最低順位に位置づけられたため,読み・書きの簡単な練習だけであった。
子どもは7歳で国の所有となり,一カ所に集められ共同生活が始まるが,そこでは,読み書きの学習は生活に困らない程度のレベルで行われ,もっぱら軍事訓練が中心となっていた。その結果,子どもたちは「忍耐強さ」と,生き残る知恵を学びとることになる。伝えられているところによると,子どもたちの共同生活において,食事を得るために畑に行って作物を盗んだり,大人たちが食事をしている席から食べ物を盗んだりすることが奨励されたという。それというのも,実際に農業を行っているのは被征服民である奴隷たちであるため,その野菜畑から盗み取ることは当然のこととして考えられていた。また,スパルタでは大人たちも軍営,軍隊の宿営生活を行っていたため,子どもたちと同様に一カ所に集まって食事をしていた。その食事のテーブルの下に子どもたちは隠れていて,大人たちの食事を盗み取ることを期待されていたのである。しかし,万が一盗みがばれると,容赦のない体罰を受け,その痛みに耐えなければならなかった。
さらに,12歳から20歳までは,忍耐・服従・計略といった軍事的目標のための集団的教育が施されたが,このようなスパルタ式の教育は,予期された特定の目的に対しては,その成果と威力を発揮する教育システムと言えるだろう。しかし,次に紹介するアテネと比べて,スパルタの文化遺産は後世にほとんど残されていない。唯一「スパルタ教育」という用語だけが語り継がれているが,このスパルタ教育は,ドイツのナチスなどで模倣され,日本でも一部の人に共感を得てきた。全体主義国家の教育モデルとして歴史に名を残したのが,古代ギリシャのスパルタの遺産とも言えよう。
2.アテナイという都市国家
スパルタに対してアテナイというポリスは,民主主義国家として現代に伝えられている。民主主義国家といっても,完全な意味でのものではなく,限られた一部の市民による民主主義国家であった。アテナイにも奴隷と呼ばれた人々が存在したが,スパルタは農業を基盤とした国家だったために多数の労働者を必要としたが,アテナイの場合は海外貿易を基盤とする商業によって栄えた国家だったために,奴隷は比較的少なかった。ある記録によれば,10万人前後の市民階級と,ほぼ同数の10万人前後の奴隷がいたとされているが,奴隷といってもアテナイの場合は,家政婦のような家内労働や,商売の時に荷物を運ぶ仕事が主であった。アテナイの政治は,初期には貴族政治的な体質が色濃かったが,そうした体質が改められてからは,政治的・行政的な役職も市民の中でのくじ引きで決められるようになり,一生に一回は市民なら誰でも役職に就いた。公的な役職に就いた人の不正についても直接民主制のしくみの中で評決していくというシステムがつくられていった。
アテナイでは「美にして善なる人」が教育における人間形成の理想像とされた。スパルタは忍耐強く狡猾な軍人になることが求められ,むしろ冷酷になる必要があったが,アテナイの場合は,ホメロスの英雄叙事詩に出てくるような,知恵と勇気をもつアキレウス,オデュッセイアなどの英雄たちがモデルとされた。こうした叙事詩は,人生のあり方や生活の知恵を教えてくれる教科書であったのである。軍人に求められる要件も,冷酷さではなく喜怒哀楽の感情を表現できる豊かな人間性であり,部下をまとめる統率力やリーダーシップであった。
子どもたちは「スコーレ」と呼ばれる私塾で体育,音楽,文法などが重点的に教えられた。体育や音楽で重視されたのは,釣り合いのとれた美しさ「均衡美」であった。体育では釣り合いのとれた美しい肉体をつくり,音楽では和音の調和が重視された。これらは,商工業の発達,富の蓄積,富裕な商工階級の出現を背景としており,アテナイの市民が文化的・芸術的な活動を行うゆとりがあったことも見逃せない。
特に,アテナイの人々が学校(スコーレ)で学んでいく上で重視されたのが「弁論術」であった。弁論術とは,自分の考えを説得力をもって感動的に人に伝えていく術を学ぶ科目である。アテナイでは,言論によってお互いの議論を深め,自分の考えを伝え,公共的な政策を決めていくことが重視された。市民は町のスタジアムに集まり,政治についての議論をし,みんなの前で自分の考えを述べる機会が保証されていた。将来ポリスのリーダーとして活躍したいと考えていた人は,弁論術を学ぶということが大変重要であった。市民の間で自由に意見を述べあうことが認められていたという意味でもある。
アテネの学校組織は紀元前6〜5世紀に基本的構造が確立されたとされる。やがて,紀元前5世紀に中等・高等レベルの教育が確立されるが,そうした土壌の中でソクラテス−プラトン−アリストテレスといった古代ギリシア哲学の最高峰が誕生してくるのである。
紀元前5世紀前半,ギリシア(エーゲ海周辺のポリス連合)はペルシャとの戦争に勝った。この戦いでのリーダーがアテナイ(アテネ)であったが,古代ギリシャの盟主として,アテナイはその後も経済的に繁栄していった。経済的な繁栄というのは,金銭主義が生まれ,伝統的な価値観が廃れていく傾向を生み出す。民主主義社会における問題点は,金銭主義が生まれ 質実剛健さが失われ,人々が軟弱になってしまったことであるという見方もできる。弁論術が重視され,言葉巧みに人々をあおり立てる政治家も登場し始め,政治的な混乱も生じるようになった。さらに,アテナイはスパルタとの戦争状態に入り,最終的にはスパルタに負けてしまう。さらに,その中で起こったアテナイの民主主義の問題点を象徴的に示したのがソクラテス裁判である。これは「正しい手続きであったが,判決は誤りであった」とされるように,無罪であったソクラテスに有罪を下してしまった。この事件を境にアテナイの民主主義は斜陽時代に入り,弱体化していくのである。
3.全体主義と民主主義 〜スパルタとアテナイの教育を比較して〜
スパルタは,アテナイとの戦争に勝ってから,一時期覇権を握るが,スパルタはその後テーベ(テーバイ)に負けてしまう。よもや強国スパルタの重装歩兵が負けてしまうとは誰も予想していなかったが,将軍エパメイノンダス率いるテーベ軍の作戦の前に敗れてしまった。このことから,全体主義はある特定の目的については強いが,環境や条件が変わると柔軟に対応できないという教訓を学びとることができる。
子どもを厳しく鍛えることの教育的意義が語られることがあるが,それは特定の時期や特定の社会的条件を前提とした上で,その社会に適応する軌道上で指導されることになる。子どもを鋳型にはめこんでいく教育が有効なうちはよくても,社会の条件が変わった場合に適応できないという危険性をもっている。教育というものの価値は,人類の文化遺産を受け継ぎ,次世代へ伝達していく行為に存在すると同時に,文化遺産を発展させ,社会を改善・改革していく意欲と能力を育てていく営みにも重要な意義が存在している。我々の社会を取り巻く環境や諸条件は刻々と変化している。常に新しい条件に柔軟に対処し,主体的に生きていく力を子どもたちに育てていく必要がある。
一方,民主主義社会は,対立や不安定さを常に内側に抱えている。人の世の中には,実際には常に悪意ある人がいて,道徳に反する人がいるし,善意同士の対立葛藤も生じる。矛盾や問題点をどのように解決していくかを,互いの権利を主張しながらも共有できる価値を求めて議論していくのが民主主義のあり方である。決して桃源郷のような理想的社会ではなく,対立を常にはらんだ社会である。 そうした民主主義社会における教育は,多様性や創造性が保障されることにより,新しい事態にも対処できる可能性をもつことになる。その教育には柔軟性が必要であり,少数派の立場を考慮する優しさをもち,異質なものを受け入れる立場でなければならない。
<コーヒーブレイク>
教育の目的
世界から注目された驚異的な日本の高度経済成長は,敗戦後10年を経た昭和30年代頃から,第一次オイルショック(1973年秋)の前までの十数年間の偉業である。これを生み出した人々は,昭和ひと桁世代である。この人たちは,戦後の焼け野原の中で,まともな教育を受けられなかったが,豊かになろうという強い意志と自分なりの夢をもって努力した。しかし,その後の教育は,高度成長を生み出す人間ではなく,高度経済成長期の企業の活動に適応する人間の育成がめざされた。それは,多くの知識を蓄積し,指示通りに行動し,時間に厳格で組織への忠誠心の高い人間であった。自分にとっての学ぶことの意味や価値といったものを考えることよりも,外側からの「基礎だ」「重要だ」「必要だ」という類の要求によって,子どもたちは,ひたすら与えられた知識・技能を習得することを要求された。しかも,一律の競争ムードの中で,獲得した知識量や到達した技能のレベルが機械的に評価される構造の中で育ってきた。子どもたちにとっての必然性よりも,管理する側の妥当性にもとづいて評価規準や尺度が設けられ,教える側が発想した観点で学習成果が評価されてきた。こうした教育実践は,経済界が求める人材を学校が育成するというシナリオにおいては,目的に対してきわめて妥当で効率の良いシステムだと言える。
しかし,こうした教育が日常化するとき,授業からは知識を獲得する意味や,学ぶことの感動は重要ではなくなり,一人ひとりの個性的な学びや子どもの現実生活から切り離された教育内容がカリキュラムとして固定化されてしまう傾向が強まる。
時代が変わり,今では終身雇用制どころか,勤続何十年という“功労者”がリストラの対象となる現実がある。企業が求めるニーズは,忠誠心や勤勉さよりも,新しい技術や発想を生み出せる資質にシフトしており,「自ら課題を見つけ,自ら問題解決する人間」を育成せよというのが,経済界から教育界へ求められている今日的要請である。教育を取り巻く環境はめまぐるしく変化し,現実社会に適応できる人間を育成する教育に加えて,社会の変化に主体的に対処できる人間を育成するという教育にも,学校教育は努力しなければならない時代状況にある。
ただし,社会の変化に対応できるように教育を変えるという発想だけでは,教育が政治や経済の事情に従属するという関係から脱することはできない。
時代や社会を超えて,教育固有の役割も軽視されてはならない。社会発展の手段でも,学問の進化という目的を達成する手段としてでもなく,学習者である子どもの自己実現とか,豊かな人間づくりという教育自体の使命に着目するとき,スパルタの教育システムから何を学び,アテナイの教育システムから何を学びとるのか,それぞれの教育観が問われるところである。