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ひと・流行・話題

有吉佐和子は終わらない

2008年02月17日

 この二つの作品(「紀ノ川」「助左衛門四代記」)を書き上げたことによって、作家としての私自身が一ツのステップを踏み終えたのだと云(い)えると思う/もし私の作品についていて下さる読者があるとすれば、その方たちに成長をたのしんでもらえるような作家でありたいものだと思う。(35歳だった1966年、「私の文学」=講談社・シリーズ『われらの文学』後書きから)

写真東京・築地市場で、マグロにもいろいろ顔があることなどの話を聞く有吉佐和子さん=1961年1月
写真1967年、山田五十鈴さんら、舞台「華岡青洲の妻」の出演者と談笑。前列、洋服の女性が有吉さん

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 石原慎太郎「太陽の季節」と第1回文学界新人賞を競ったのが、有吉佐和子「地唄」だったということに、いささかの感慨を覚える。

 1955年、ともに20代のデビュー作。芥川賞を受けた「太陽の季節」の作家も、候補に終わった「地唄」の作家も、以降、小説の枠に収まらない社会的な存在になっていく。56年、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言し、高度経済成長が始まり、社会は変質していった。そんな時代と伴走するというより、一歩も二歩も先んじていたのが、有吉ではなかったか。

■枠組み大きく時代を先取り

 代表作『紀ノ川』を始め、母方の郷里・和歌山を舞台にした作品などの印象で、有吉は和歌山育ちだと思いがちだが、幼時や戦中・戦後の一時期こそ母の実家で過ごしたものの、戦前の小学校低学年時代はインドネシアで育った。帰国子女にとって、戦争の非常時に帰国した祖国で唯一、心をかき立ててくれたのは歌舞伎だったという。

 「歌舞伎の世界は外地で物心ついた私には、別天地であった」と、後年書いている。伝統と切れていたから見いだすことができた伝統美。親の世代には反抗の対象だったようなものの価値に、いち早く気づいたのである。

 テレビに出る「売れっ子作家」の走りでもあった。が、マスコミに消費されるのを拒み、「私の人生で初めて自分を賭けた」作品と位置づける『紀ノ川』を28歳で書いた。

 その前後からの疾走ぶりはすさまじい。夫の死後、残された妻と小姑(こじゅうとめ)と愛人の交流を描く「三婆(さんばば)」は30歳で発表、社会の規範にしばられない母と、はらはらしながら見守る律義な娘との歳月を描く「香華(こうげ)」も同じ時期に連載。『出雲の阿国(おくに)』『華岡青洲(はなおか・せいしゅう)の妻』『芝桜』と、その後たびたび舞台上演される原作の長短編は30代で書いている。

 ことごとく、私小説と対極にある構想豊かな物語。古めかしくさえ見えるが、「女同士の葛藤(かっとう)」などとくくってしまうと、そこからズレてはみ出す心根のあやも逸してしまう。男性社会から見えない、あるいは見たくない真実の一面でもあろう。有吉の没後、作品解説や評伝を手がけた帝塚山学院大教授の宮内淳子さんは、「男性の私小説が純文学の基準だった文壇からの評価は低かった」と語る。

 72年、老人と介護の問題がテーマの『恍惚(こうこつ)の人』がベストセラーに。さらに74年秋から、農薬の問題に取り組む「複合汚染」を朝日新聞に連載し始めるや、大きな反響を呼び、流行語にもなった。

 作家の橋本治さんは、その間の73年に週刊誌連載された「母子変容」と、並行して書かれていた「真砂屋お峰」「木瓜(ぼけ)の花」の3作に着目して「問題意識の狭間(はざま)に“おもしろい”ものがある」のが作家の大きさだと書いた。さらに、「男がいて女がいる。その男を何かが歪(ゆが)ませ、その何かが女を不幸にする」と有吉作品の構造を読み解くのだ。

■映画「赤い靴」 働く女に重ね

 娘で作家の有吉玉青(たまお)さんが後に、銀座で母と75年ごろ、リバイバル上映されていた映画「赤い靴」を見た思い出をエッセーに書いている。アンデルセンの童話を下敷きに、赤い靴のバレリーナが踊りをあきらめられず、愛も命もなげうつ悲劇のストーリー。見終わって、母はなかなか席を立とうとせず、「働く女はみな、赤い靴をはいてるね」とつぶやいたという。

 有吉にはもう一つ、「赤い靴」のエピソードがある。東京女子大で同級生だった劇作家・大藪郁子さんによると、49年、教室にララ物資(救援物資)の古着と靴が届いた。カーキ色の船底のような形だった靴を、真っ赤なマニキュアで着色した同級生がいた。有吉佐和子だった。

 「社会問題を先取りする、ひらめきの才能がある人でした。いまも大きな事件が起きるたび、彼女の意見を聞いてみたいと思うんです」と大藪さんは惜しむ。

 「赤い靴」を履き続けたまま、今年77歳を迎えることはできなかったのだろうか。

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■足跡

 1931年1月20日、和歌山市生まれ。51年、東京女子大短大部に通いながら雑誌「演劇界」で原稿を書き始め、舞踊家・吾妻徳穂の秘書にも。56年、「地唄」が芥川賞候補に。62年、プロデューサー神彰(じん・あきら)と結婚、翌年誕生した長女玉青を引き取って64年に離婚。週刊誌の手記で「女流文学者と添いとげた男は、女流文学者会で感謝状を贈るべき(略)その点、神彰は見事なほど耐久力があった」とエールを送った。70年には有吉原作の三つの舞台が都内で上演され、ブームの年に。84年8月、急性心不全で死去。

■いま読むなら

 新潮文庫で『紀ノ川』、『香華』など舞台にもなった代表作品のほか『恍惚の人』『複合汚染』『一の糸』、一昨年再テレビドラマ化された『不信のとき』などがある。近年、新橋演舞場で上演された「和宮様御留」の原作は講談社文庫、『地唄/三婆』が講談社文芸文庫。司葉子主演の映画「紀ノ川」DVDが松竹ホームビデオから。作品と生涯をたどる参考本として『新潮日本文学アルバム・有吉佐和子』(新潮社)、『有吉佐和子の世界』(翰林書房)など。

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 作家 (1931〜84)

 私の漠然とした計算では、四十過ぎてから作家の真価を問われたい

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