2010年04月28日 17:18
家城(いえき)までは乗降客が比較的多い。車窓も平凡な田園風景が続いた。
駅前には路線バスサイズの代行バスが待っていた。十勝三股のようなマイクロバスではない。高校生達は家城で降りてしまい、列車を降りて乗り込んだのは、地元の人が2人、2人連れのビジネスマン、私と同じ目的らしい人が1人で、私をいれても6人だった。
ワンマンではなくて、車掌役らしい女性が乗り込んでいたが、運賃はいちいちプラケースに入れた運賃表を見ないと判らない。バスがバックする時もカメラがあるので用はない。往き帰りとも最前列のシートにに座っているだけだった。臨時運行という位置づけ故の措置なのか、無駄なことではある。
バスは一級河川雲出川沿いの県道を走る。名松線は対岸にある。護岸が崩れたような箇所がある。しかし線路が宙に浮くという程ではない。護岸の定期補修程度の工事で復旧できそうな被害だ。その気になればの話だが。
道路は名松線と付かず離れずの所を走っており、まるで名松線見学ツアーに来ているようだ。
終点の一つ前、比津を出ると、名松線は鉄橋で雲出川を渡河し、短いトンネルに入っていく。路盤下にレストハウスのような建物があるが、廃屋のようである。景色は良いので、商売になった時期もあったのだろう。
県道が尽きて国道368号線になり、駅の周囲をぐるりと回って伊勢奥津駅前に到着した。
走ってきた県道15号線が松阪と奥津を結ぶ道路ルートになっている。国鉄時代に2度も、台風で名松線が不通になり、バス転換案が打ち出された事があった。その時は平行道路が整備されていないという理由で、復旧が優先された。こんな立派な道路を県が造ってしまっては、鉄道会社から「撤退します」といわれてもやむを得まい。
駅周辺は広い。盲腸線の終着駅だったから、蒸気機関車時代には転車台も備えていたのだろう。今は給水塔だけが往時を偲ばせる。
立派な駅舎だが、大部分は津市の出張所や住民センタへが入っていて、右端だけが駅舎として使われている。
6人の乗客の内、2人は奥津の集落の中へ入って行き、ビジネスマンは車で去った。もう1人の鉄道ファンは、折返しまで周辺を散歩するようだ。新しい駅舎を1人で占領し、松阪で買った弁当を使わせて貰った。
駅の周辺を見て回る。タンクは赤く錆び、コンクリートの架台には蔦が絡まっている。蒸気機関車の怨念でも籠もっていそうである。この給水塔は有名らしくて、JR6社が協同で運営しているサイトで、余部鉄橋や碓氷第三橋梁等と並んで鉄道遺産として紹介されている。
「構内は線路が三本に分かれ、ホームも片面と両面との二面がある。あらたまって呼べば、1番線から3番線までとなるが、そのうち二本は錆びていた。小さな木造の駅舎があり、」(終着駅へ行ってきます)
今は片面ホームと一本の線路しかない。その代わり駅舎は大きくなっている。駅舎を建て替えた時に、既に不要になっていた線路を整理してしまったのだろう。
駅前の短いい坂道を下ると、「伊勢本街道」「奥津宿」の看板が立っていた。伊勢街道と言えば落語「東の旅」の舞台である。
「旅もいろいろで、なかでも一番陽気なんが東の旅、お伊勢参りです。ここに清八、喜六という大阪のウマの合った二人の若い男。ボチボチ陽気もようなったさかいに、お伊勢参りでもしようやないかと、黄道吉日を選び、赤いご飯のひとつもたいてもらい、親類や友だち、近所隣へ挨拶をすませ、大勢の者に見送られて安堂橋を東へ東へととってまいりましたが、なにしろ風体がよろしゅうございます。」(「米朝はなし」~玉造)。軽業のような前座話から、七度狐、三十石、宿屋仇のようなトリが務めるハナシまで、上方落語を代表するシリーズである。
昔懐かしい店構えを残している店もある。
列車が来なくなったホームのレールは既に赤く錆びている。松阪からここまで線路が延びて来てから、実に75年もの年月が経っている。その時既に、現近鉄ルートで松阪・名張間は開通していた。目の前の山を越えて線路が延びる可能性は、当時から非常に小さかった。
「伊勢奥津は山間のささやかな終着駅ではあるが、さすが「名松線」だけあって、駅前から名張行きのバスが出ているのが嬉しい。「時刻表」には載っていないが、一日六本ある。片道だけで名松線と別れるのは申しわけない気もするが、アマゴを食べたあとは、せめて、このバスに乗って首尾を完結させようと思う」(終着駅へ行ってきます)
今も名張行きのバスはあるが、朝7時の1便だけになっていた。
(この項続く)
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