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源経基

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源経基
Minamoto no Tsunemoto.jpg
源経基/菊池容斎画『前賢故実』より
時代 平安時代中期
生誕 未詳
死没 応和元年11月10日961年12月25日)?
別名 六孫王
神号 六孫王大権現
墓所 京都市南区 六孫王神社
官位 武蔵介正四位上[1]鎮守府将軍正一位
氏族 源氏清和源氏
父母 貞純親王源能有の娘
兄弟 経基、経生
橘繁古女もしくは藤原敏有女
満仲満政満季、満実、満快、満生、満重、満頼
『貞観殿月』(月岡芳年『月百姿』)鹿を仕留める源経基

源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、平安時代中期の皇族武将。経基流清和源氏の初代。

保元物語』によれば、父は清和天皇の第6皇子貞純親王で、母は右大臣源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。

目次

生涯

承平8年(938年武蔵介となり現地に赴任する。同じく赴任した武蔵権守興世王と共に赴任早々に検注[2]を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否した為、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った[3]

この話を聞きつけた平将門が私兵を引き連れて武芝の許を訪れると、経基らは妻子を連れ、軍備を整えて比企郡の狭服山へ立て篭もる。その後、興世王は山を降りて武蔵国府にて将門・武芝らと会見するも、経基は警戒して山に留まった。武蔵国府では双方の和解が成立して和やかに酒宴が行われていたが、その最中に武芝の者達が勝手に経基の営所を包囲した為に、経基は将門らに殺害されるものと思い込んであわてて京へ逃げ帰り[4]、将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告する。しかし将門らが承平9年5月2日付けで常陸下総下野武蔵上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を太政大臣藤原忠平へ送ると、将門らはその申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁されてしまった。

天慶2年(939年)11月、将門が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃・占領し、同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行うと、以前の誣告が現実となった事によって経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられた[5]。その後、征東大将軍藤原忠文の副将の一人に任ぜられ、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京。941年に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来 桑原生行を捕らえるにとどまる。武蔵信濃筑前但馬伊予国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。

晩年、経基は臣籍降下を命じられたことに憤慨していたというが、同時代の摂政太政大臣・藤原忠平の日記『貞信公記』の天慶2年(939年)3月3日付に「源経基、武蔵の事を告げ言う。」と記されているのもあり、経基が果たして皇族であった時期があったかどうか疑問視もされている。ただしこの記述については、忠平の子藤原実頼が抄録した際に源姓を書き入れたとする説もある[6]

勅撰歌人であり、『拾遺和歌集』に2首が採録されている[7]

嫡子の源満仲が建立したという六孫王神社京都市南区)に祀られている。

系図

 
(54)仁明天皇
 
(55)文徳天皇
 
(56)清和天皇
 
(57)陽成天皇
 
元良親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟喬親王
 
 
貞純親王
 
(源)経基清和源氏へ〕
 
 
 
 
 
(58)光孝天皇
 
(59)宇多天皇
 
(60)醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
人康親王
 
操子女王
(藤原基経妻)
 
 
真寂法親王
(斉世親王)
 
 
 
 
 
敦実親王
 
(源)雅信宇多源氏へ〕
 
 


系譜

  • 父:貞純親王
  • 母:源能有
  • 妻:橘繁古女もしくは藤原敏有女
  • 生母不明
    • 男子:源満快
    • 男子:源満生
    • 男子:源満重(源満成)
    • 男子:源満頼(三男満季の子とも)
    • 女子:源元亮室(源孝道らの母)
    • 女子:藤原惟岳室(藤原倫寧らの母)

系譜を巡る議論

尊卑分脈』等によると経基の孫とされる源頼信誉田八幡宮に奉ったという告文(願文)の写しが石清水八幡宮田中家文書の中にある(石清水八幡宮田中家文書「源頼信告文案」古写)。それによると、源頼信は、八幡大菩薩すなわち応神天皇を自らの「二十二世の氏祖」であるとして、「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇、(以下略)」と自らの祖を列記している。これに従うと、経基の父は清和天皇の皇子貞純親王ではなく陽成天皇の皇子元平親王となる。

この文書が明治30年代に発見されると、いわゆる「清和源氏」は実は「陽成源氏」ではないかとの説が星野恒によって唱えられた。星野説はその後黙殺に近い扱いを受けたが、昭和40年に竹内理三が支持すると復活し、現在も星野説を支持する研究者がいる。然しこの文書は写本であり、告文の裏面に校正したと但書きがあることから信憑性を疑うむきもある。また、告文の内容は河内石川庄の相続順序に過ぎないとする説や、若くして父貞純親王が卒去した為、叔父である陽成上皇の猶子となったとも言われている。 12世紀はじめに書かれた大鏡が武家源氏を清和天皇の末としている事もあり、なお旧説でよいとする人もいる。

生没年について

尊卑分脈』では961年に45歳で卒去したとある事から、逆算して生年は917年生れとなる。また、『勅撰作者部類』には958年に同じ45歳で卒去したとある事から914年生れとされているが、いずれも長男・満仲より後に生まれた事になる。系図纂要には897年とあり、もしこの説が正しければ15歳の時に満仲を儲けた事になり妥当にも思えるが、今度は、2世源氏でありながら40歳をすぎても五位にも叙せられなかった事になり不自然であるほか、同書は幕末期の編纂物であり単に矛盾に気づいた系図家などが手を加えた産物である可能性があるから、通常の歴史学の手法による限りこれを根拠とすることはできない。清和源氏の祖でありながら歴史の表舞台に登場したのが僅か7、8年に過ぎない事もあって正確な生没年は未詳である。

脚注

  1. ^ 尊卑分脈
  2. ^ 当時の「検注」とは、国司がその任地の有力者から受け取る莫大な貢物・賄賂が目当である事が多く、経基らも正任の国司が赴任する前に自らの赴任直後に行っている事を見ても、それが目的であったと思われる。
  3. ^ 『将門記』では「箸ノ如キノ主ハ、眼ヲ合ハセテ、骨ヲ破リ膏ヲ出スノ計ヲ成ス。」と興世王と源経基それぞれを一対の「箸」に例えてその横暴振りを表現している。
  4. ^ 『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と述べられており、後に武門の棟梁となる清和源氏の初代の経基は軍事の経験が浅くまだ武士とは言えない体たらくだった。
  5. ^ 貞信公記』『日本紀略』によると天慶3年正月9日に叙せられており、将門追討後に平貞盛藤原秀郷らと共に行賞されたのではない。
  6. ^ シンポジウム「日本歴史」5『中世社会の形成』
  7. ^ 『勅撰作者部類』

参考文献

関連項目

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