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祖国遙か

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第4回「何のために歴史を学ぶのか」



「祖国遙か」というお話を書きたいと思います。

昭和21年6月20日、長春で自決した22名の日本人看護婦たちは、遺書に、
「たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします」としたためました。
その思いを、命を絶ってまで満州の地を愛したその思いを、私達はけっして忘れてはならないと思う。

以下は実話です。

藤袴(フジバカマ。かつての満州国国花)
藤袴1001


掘喜身子さんは、幼い頃から病人を看護することが好きだったそうです。
彼女は、女学校を出ると、昭和11(1936)年、満州に渡りました。

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■プロローグ
http://youtu.be/hF2sLY1gDRw
■第1回 君が代のお話
http://youtu.be/7xzVE955VIQ
■第2回 日の丸のお話
http://youtu.be/tZGCTU--wOo
■第3回 3万年前の磨製石器が日本で発見されたということは
http://youtu.be/dcjfKdsHsN8
■第4回「何のために歴史を学ぶのか」
http://youtu.be/DKzgivml7eI

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そこで満州赤十字看護婦養成所に入所し、甲種看護婦三年の過程を修めて、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰り、樺太庁立病院の看護婦になりました。

昭和14(1939)年の春、彼女は医者である堀正次さんと結婚しました。
結婚して1年目の春、堀喜身子さんに、召集令状がきました。
看護婦として従軍せよ、という令状です。

彼女は、令状を受けた一週間後には、単身で任地の香港第一救護所に出発しました。

まもなく、彼女は任地が上海に移り、ついで満州国牡丹江から、さらにソ連との国境に近い虎林の野戦病院に48名の同僚とともに異動となりました。
彼女が出征して6か月目のことです。

その虎林の野戦病院には、医師である夫の正次も令状を受けてやってきました。
ふたりはそこで医師と看護婦の夫婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療をして過ごしながら、同時に長男静夫(しずお)、長女槇子(まきこ)の二人の子にも恵まれまています。

昭和20(1945)年8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を破って、突然満州に攻め込んできました。
戦況は激しいものでした。
爆撃の危険から、虎林の野戦病院では、患者全員を長春に移すことに決定しました。

けれど患者のうち70余名は、伝染病の重患なので一緒に連れて行くことができません。
野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんを残して、ある程度元気な者のみ、長春に向かわせることにしました。

喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に、長春に向かいました。
二人は、これが今生の別れとなりました。

・・・・・・

虎林を出発した病院の医師、看護婦、患者たちの一行は、牡丹江を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に、ようやく長春にはいりました。
そこで終戦の玉音放送を聞きました。

そして日をおかず、長春はソ連軍に占領されました。
当時、ソ連軍に占領された町がどのようだったかは、
≪奉天駅前事件≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1100.html
をご参照ください。

長春がソ連軍に占領された後、掘喜身子さんは、将校夫人や子供たちと一緒に、女ばかり76名で合宿所に入れられました。
そこでは身上調査を受けました。

調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は、長春第八病院に勤務せよとの命令を受けました。
月給はひとり200円です。
彼女たち34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合い、一緒に収容されている将校家族を養う費用にしました。

けれど、物価はあがる一方です。
生活は日に日に苦しくなりました。
堀喜美子さんも、次第に体がガリガリに痩せ細って行ったそうです。

・・・・・

昭和21(1946)年春のことです。
第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ました。
内容は、
 看護婦の応援を要請。
 期間は一か月
 月給300円
というものでした。

生活が苦しい中、月給300円は魅力です。
それに、いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に間違った扱いなどすることはないだろうと思われました。
しかも、「ソ連陸軍が発令した公文書」としての「命令書」です。

婦長をしていた堀喜美子さんは、一抹の不安はあったけれど、引率者である平尾勉軍医と相談して、看護婦の中でも、もっともしっかり者だった大島花枝、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てる、の3名の看護婦を選びました。

出発の日、堀喜美子さんは、三人に、
「決して無理はしないように」と言い聞かせました。

このとき、大島花江看護婦は、元気いっぱいの笑顔で、
「心配はいりません。敗戦国であろうと、世界の赤十字を背負う看護婦として、堂々と働いてきます!」と答えています。

「大島さん、細井さんと大塚さんのこともお願いね」と気遣う婦長に、

細井、大塚両名も、
「あら、大塚さんばっかり。私たちはいつまでたっても一人前じゃないようだわ」
「ほんとうに、失礼しちゃうわね」
と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いあっていました。

堀喜美子さんは、出発する3名に、きちんと制服(看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せました。
そして、制服の右腕に、しっかりと「赤十字の腕章」を付けさせました。
誰がどこからどうみても、赤十字の看護婦であることがひとめでわかるようにしたのです。

こうして三名の看護婦は、元気に一か月の別れを告げて出かけて行きました。

ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々に部屋を与えられました。
部屋は個室で、ベットまで付いていたそうです。
大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって、個室はまさに夢のような環境でした。

・・・・・

やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院から、また3名の追加の命令書がきました。
堀喜美子婦長は、荒川静子、三戸はるみ、沢田八重の3名を、第二回の後続として、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りだしました。

もうまもなく、最初の三名が交代して帰ってくる。
誰もがそう思いました。
ところが、最初の3人が帰ってきません。

やがてさらに一か月が経過しました。
すると、また3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされたのです。

堀婦長は、心配になりました。
引率者の平尾軍医に、命令を断るよう談判しました。

一か月という約束で看護婦を送っているのです。
最初の3名が行ってから、もう3か月も経過しています。
2回目の看護婦が行ってからも、2か月です。
その間、誰も帰してもらっていません。
向こうが約束を反故にしているのです。
普通なら、そんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできません。
しかも6名とも、行ったきり音信不通です。
おかしいのではないですか?

けれど相手はソ連軍です。
命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員が殺されてしまう危険があります。

病院としては、命令に背くことはできない。
みんなで相談しあい、やむなく井出きみ子、澤本かなえ、後藤よし子の3名を送り出しました。

けれど、仏の顔も三度までといいます。
4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。
先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう思っている矢先、一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来ました。
今度もまた、3名の看護婦を出せ、というものです。

なんという厚顔無恥!

残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他、22名です。
その中から、4度目の3名を選出しなければならない。
堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがっています。

その日の夜、堀婦長は、次に向かう3名を呼びました。
明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するように話してもらいたい旨を、3名に伝えました。

その日の夜のことです。
すっかり夜も更けたころ、病院のドアをたたく音がしました。

こんな時間に何事だろう・・・・
堀婦長が玄関の戸を開けました。

小さく明けた戸口から、髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、「婦長・・・」とつぶやき、ドサリと倒れこんできました。

見れば、その人影は、なんと最初に出発した大島花枝看護婦です。
たいへんな重体です。
もはや意識さえ朦朧(もうろう)としています。

大島看護婦は、全身11か所に盲貫銃創と貫通銃創を追っていました。
裸足の足は血だらけでした。
全身に、鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷がありました。
脈拍にも結滞があります。
着ている服もボロボロです。

「なにがあったのか」

堀婦長は、とっさに「そうだ。こうまでしてここに来なければならなかったのには、理由があるに違いない。その理由を聞かなければ」と思い立ったそうです。
そして、
「花江さん!、大島さん! 目を開けて!」と、大声で大島看護婦を揺り動かしました。

重体の患者です。
ふつうなら、揺り動かすなんてことはしません。
他の看護婦が「婦長! そんなことをしたら花江さんが!」と悲鳴をあげました。

けれど堀婦長は毅然として言いました。
「あなたたちは黙って! 花江さんは助からない。
 花江さんの死を無駄にしてはいけない!」

大島看護婦が目を覚ましました。
そして語ったのです。

「婦長。私たちはソ連軍の病院に看護婦として頼まれて行った筈ですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行ったその日から、ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。

半日たらずで私たちは半狂乱になってしまいました。
約束が違う!と泣いても叫んでも、ぶっても蹴っても、野獣のような相手に通じません。
泣き疲れて寝入り、新しい相手にまた犯されて暴れ、その繰り返しが来る日も来る日も続いたのです。

食事をした覚えもなく、何日目だったか、空腹に目を覚まし、枕元に置かれていたパンにかじりつき、そこではじめて事の重大さに気が付き・・
それからひとりで泣きました。
涙があとからあとから続き、自分の犯された体を見ては、また悔しくて泣きました。

たったひとりの部屋で、母の名を呼び、どうせ届かないと知りながら、助けを求めて叫び続けました。
そしてどんなにしても、どうにもならないことがわかってきたのです。

やがておぼろげながら、一緒に来た二人も同じようにされていることもわかりました。
ほとんど毎晩のように三人か四人の赤毛の大男にもてあそばれながら、身の不運に泣きました。

逃げようとは何度も思い、しかもその都度手ひどい仕打ちにあい、どうにもならないことがわかりました。

記憶が次第に薄れ、時の経過も定かではなくなった頃、赤毛の鬼たちの言動で、第八病院の看護婦の同僚たちが次々と送られてきていることを知って、無性に腹が立ち、同時に我にかえりました。

これは大変なことになる。
なんとかしなければ、みんなが赤鬼の生贄になる。
そんなことを許してはならない。
そうだ、たとえ殺されても、絶対に逃げ帰って婦長さんにひとこと知らせてあげなければ・・・

赤鬼に汚された体にも、命にもいまさら何の未練もありませんでした。
私は、二重三重の歩哨の目を逃れ、最後お鉄条網の下を、鉄の針で服が破れ、肉が引き裂かれる痛みを感じながら潜り抜けて、逃げました。

後ろでソ連兵の叫び声と銃の音を聞きながら、無我夢中で逃げてきました。

婦長さん。
もう、ひとを送ってはなりません・・・・」

そこまで話して大島花江看護婦は、こときれました。

なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。
蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、彼女はここまで逃げてきたのです。

病室内に、
「はなえさん・・・」
「大島さん・・・」という看護婦たちの涙の声がこだましました。

こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は、堀婦長の腕の中で息をひきとりました。

大島看護婦の行動は、どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。
大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。
あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼みました。

翌日の日曜日の午後、遺体は、満州のしきたりにならって、土葬で手厚く葬りました。
そして彼女の髪の毛と爪を、お骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置してあげました。
花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。
すべて、懐かしくて楽しかった内地の話ばかりだったそうです。

・・・・・

翌朝のことです。
堀婦長が、出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。
張さんは、日本の陸軍士官学校を卒業した人です。

張さんは、ひどく怒っていました。
看護婦たちが、だれも出勤していないからです。
こんなことは前代未聞です。

「変ですね~」と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間、はっと気が付きました。
無我夢中で3階の看護婦たちの宿所に走りました。

いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。
それが、今朝は、シーンと静まり返っています。
もの音一つしない。
堀婦長の胸に、ズシリと重たいものがのしかかりました。

宿所の戸を開けました。
お線香の匂いがただよっていました。
内側の障子は閉まっています。

なにが起こっているの?

おそるおそる障子を開けました。
部屋の中央に、小さなテーブルがありました。
その小さなテーブルの上には、大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。

そして、その周囲に・・・



きれいに並んだ、22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。

机の上の白い封筒は、彼女たちの遺書でした。

【遺書】
二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、深くお詫びを申し上げます。
私たちは、敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。
たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします。
その意味からも、私どものなきがらは、土葬にして、この満州の土にしてください。


遺書の終わりには、22名の名前が、それぞれの手で記されていました。

遺体は、制服制帽の正装姿です。
顔には薄化粧がほどこされていました。
両ひざはしっかりと結ばれ、一糸乱れぬ姿だったそうです。

その中で、たったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。
26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の遺志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、最後に青酸カリを飲んだと推定できました。
畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。

・・・・・・

現場に、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。
堀婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難しました。
事のてんまつを訴えました。
最後は、泣き崩れ、言葉にさえなりませんでした。

ソ連の将校たちは無言のままでしたが、事態の重大さは、わかったようでした。
この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、

■ソ連の命令として伝えられることで納得のいかないことがあれば、24時間以内にゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に必ず問い合わせすること。
■日本の女性とソ連兵が、ジープあるいはその他の車に同乗してはならない。

というお触れが、日本人の宿舎にもまわってきました。

22名は、死ぬ前に全員、身辺をきれいに整理整頓していました。
ちなみに、彼女たちが「土葬にしてほしい」と遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことです。

「それではあまりに22名の看護婦たちがかわいそうだ。火葬にしたうえで分骨し、故郷の両親に届けれあげれるようにしようじゃないですか」と、張氏が、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。
日本が負けて立場は変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。
張さんは「せめてこれまで朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、これがささやかな供養ですから」と述べてくれました。

こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。

・・・・・

その四十九日のことです。
張さんが、亡くなられた看護婦さんたちに、せめてお饅頭でも作ってあげたら?と饅頭を作る材料費を出してくれました。

堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。
ミナカイは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。
(といっても、闇市のようなバラックです)

堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから、噂話を耳にしたのです。
長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きている、というのです。

場所は、張春市内にあるミナカイデパート跡で、その地下のダンスホールに、ソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が生きてダンサーをしている、というのです。

堀婦長は、矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに駈けました。

ダンスホールは、中は十畳ほどの広場になっていて、客はソ連人です。
働いているのはソ連人と中国人で、ダンサーは日本人、朝鮮人、中国人でした。

入口から中に入ろうとすると、ソ連人がそこにいて、入室を拒みました。
けれどどうしても彼女たちが気がかりで会いたいと思う堀婦長の迫力に圧倒されたのでしょう。
その入り口にいたソ連人は、隅にある小さな部屋で待っていろ、といいました。

部屋にひとり待っていると、ガチャリと音がして、扉が開きました。
そして肌もあらわな派手なパーティドレスを着た女性たちが部屋に入ってきました。

「ふ、婦長・・・」
「婦長さん!!」

「みんな・・・」

堀婦長にも、彼女たちにも言葉はありませんでした。
互いと会うことができた。
それだけで涙があふれました。

しばらくして落ち着くと、堀婦長は言いました。

「大島さんがね・・・」
「知っています。同僚たち22名が集団自決したことも聞いています。」
「だったら、こんなところにいないで、早く帰ってきなさい!!」
「・・・・」

「あなた達の気持ちは、痛いほどわかるわ。だけど帰ってきてくれなかったら、救いようがないじゃないの」

8名の看護婦たちは、その婦長の言葉に、うつむいて黙ってしまいました。

堀婦長は思いました。
自分の言葉が、あまりに一方的だったのではないかと。
けれど、彼女たちからすれば、そんな単純なものではなかったのです。

眉を細く引き、口紅を赤くし、ひとりひとりの顔は、以前の看護婦に違いありません。
けれど8人とも、まるで生気が感じられません。
それどころか、目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえします。

堀婦長は心を鬼にして言いました。
「どうして黙っているの?どうして返事をしないの?
そう、あなた達は、そういうことが好きでやっているのね」

そう突き放したとき、ひとりが答えました。
「婦長さん、そんなにあたしたちのことを思っていてくださるのなら、お話します。
私たちは、ソ連軍の病院に行ったその日から、毎晩7、8人のソ連の将校に犯されたのです。
そして気づいてみたら、梅毒にかかっていたのです。

私たちも看護婦です。
いまではそれが、だいぶ悪くなっているのがわかるのです。
もう、私たちはダメなのです。
もう、みなさんのところに帰っても仕方がないのです。

仮に、幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、こんな体では日本の土は踏めません。
この性病がどれほど恐ろしいものか、十二分に知っています。
だから、私たちは、梅毒をうつしたソ連人に、逆にうつして復讐をしているのです。

今はもう、歩くのにも痛みを感じるようになりました。
ですからひとりでも多くのソ連人に移してやるつもりで頑張っている・・・」

もう何も受け付けない。
もう何を言っても、彼女たちには通じない。
彼女たちを覆っているのは、完全な孤独と排他と虚無だけです。

彼女たちのその言葉を聞いたとき、堀婦長は流れる涙で、何も言えなくなってしまいました。
自分の人選です。
責任は自分にある。

彼女たちが負った傷の深さ、過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定をするどころか、何の助言さえもしてあげれない。
ただただ、自分の無力さに悔し涙が止まらないまま、この日、さいごは、気まずい雰囲気のまま部屋を後にしたのでした。

けれど、堀婦長は思いました。
このままでは済まされない!
なんとしても彼女たちを助け出すんだ!

堀婦長は、その日の夜、ひっそりと静まり返って誰もいなくなった薬剤室に入り、梅毒の薬を持ち出しました。
そして翌日、ふたたびダンスホールへと向かいます。

通されたのは、昨日の部屋です。
女ばかり9人が、そこに集まりました。
婦長は、せいいっぱい元気よく明るく彼女たちに声をかけました。

「みんな!今日はお薬を持ってきてあげたわ。みんなの分、たくさん持ってきたから!
あなたたちは、まだ若いのよ。
復讐する気持ちはわかるけれど、それでは際限がないじゃない!
それよりも、この薬を飲んで、一日も早く体を治してちょうだい。
そしてね、気持ちを立て直して、生きることを目標に努力しようよ!」

「婦長さんのお心はありがたいと思います。
だけど婦長さん。
そのお薬は、日本人が作ったものです。
そんな貴重なものは、私たちには使えません。
私たちのことは、もういいんです。
本当に、もういいんです・・・・」

「そんなことを言ってはダメ!
お願いだからあきらめないで!
お薬、ここに置いていくわ。
それじゃ、帰るわね・・・」

薬を置いて帰ろうとしかけた堀婦長に、ひとりが立ち上がりました。
「ふ、婦長さん。そんなに私たちの気持ちがわからないなら、わかるようにしてあげます。」
彼女の中のひとりが、そう言ってスカートをたくしあげ、自分の性器を露出したのです。

梅毒は、性器全体に水泡ができます。
そしてそこがただれて膿が出ます。
さらに尿道口にも膿が出て、排尿困難、歩行困難が起こり、性器が腐る病気です。

広げた足の間には、典型的な梅毒の症状がありました。
あまりにむごい、末期の姿です。
もはや手遅れかもしれない。

けれど、病気は弱気になったら負けです。

堀婦長は、きっぱりと彼女たちに言いました。
「この程度なら、時間はかかるけど、必ず治ります!
根気よ! 薬は十分あるのだから、あなた達も、絶対に良くなるんだという強い気持ちで治療するのっ! いいわね!」

「治らない、治りっこないなんて、勝手な思い込みはやめなさい!
もう商売なんかしてはダメよ。
良くなるのよ!
毎日お互いに声をかけあって、手抜きをしないで治療するの。いいわね!」

こうして彼女たちは、わずかでも「治る」という希望を持ちました。
そして治療を受けると約束してくれたのです。


薬の調達は容易ではありませんでした。
ただでさえ、日本人の医師や看護婦に扱える量は少ないのです。

それでも堀婦長は、彼女たちを助けたい一心でした。
薬をすこしずつ確保し、貯めた薬が一定量になる都度、彼女たちのもとに、お饅頭と一緒に、通いました。
お饅頭と、堀婦長の誠意、そして日、一日と軽くなる体に、彼女たちの目にも少しずつ光が宿りはじめました。

このような彼女たちとの関わり合いは、帰国命令の出る昭和23年まで続いたそうです。
そしてまる2年越しの交流の中で、堀婦長は、彼女たちがひどい仕打ちを受ける以前よりも、彼女たちにたいしてより深い愛情を持つようになったといいます。

「一緒に日本に帰ろうね」

その言葉を、彼女たちにどれほどかけたでしょう。
けれど、敗戦の混乱が続く日本に帰ったとしても、楽な生活など待っているはずはありません。
それでもみんなと仲良く、苦労をわかちあい、助け合って生きていくんだ。
みんな、私が面倒みてあげるんだ。
堀婦長は、そう固く決意をしていました。

・・・・・

昭和23(1948)年9月、張さんが病院にバタバタと駆け込んできます。
長春にいる在留邦人に、帰国命令が出た、というのです。
その日の午後7時に、一週間分の食料を持参で南新京駅に集合することになっている、というのです。

あまりにも急な話です。
時間がない。
あの娘たちに知らせなければ。

堀婦長は、二人の子供たちに、とにかく準備をするようにと言い残し、自分の身支度も忘れて、彼女たちのもとに走りました。
「みんな一緒に日本に帰れるんだ」
走りながら堀婦長の目には涙が浮かびました。

ダンスホールに着きました。
堀婦長は、彼女たちに面会を求めました。
そして、
「午後7時に南新京駅に集まるように」と話しました。

わーい、帰国命令だぁ、良かったぁ~!!
彼女たちは、満面の笑顔で答えてくれました。
ほんとうにうれしそうでした。

「きっと来てくれるわね?」
「婦長さん、ありがとうございます。7時までには準備して、必ず参ります」
「必ずよ! 準備をして、必ず来てるのよ」

婦長もうれしくてたまりません。
「みんな一緒に帰れるんだ」

こだわりはあることでしょう。
ないはずなんてありません。
けれど、自分がなんとか彼女たちを立ち直らせてみせる。
絶対に立ち直らせてみせる!

帰宅した堀婦長は、子供たちと自分の身支度を整えると、心配でたまらずに、集合時間の2時間も前に南新京駅に行き、彼女たちを待ちました。

まさか・・・とは思いました。
けれど、彼女たちは「時間までには行きます」と約束してくれたのです。
その言葉を信じよう。
きっと来てくれる。

貨車が到着しました。

長春にいた日本人たちが、続々と貨車に乗り込み始めました。
堀婦長は、それでも彼女たちを待ちました。

もう出発の時間です。
来ないかもしれない。。。。そう思った時です。

「婦長さ~ん!!」と明るい声がしました。

どこにいたのか、意外と近くに、ワンピースにもんぺ姿の細井、荒川、後藤の三人の姿が見えました。
とっても嬉しそうな顔をしています。

「こっちよ~~、早く~~!」

「あとの娘たちは?」
「大丈夫です。あとから来ます。それより、これ、食糧のたしにしてください。」

「ええっ!こんなにたくさん?! こんなことしたらあなた達が困るじゃないの」
「いいんですよ、婦長さん。私たちの分は、あとからくる娘たちが持ってきます。
だから、これ、みなさんで。それからこれ、ほんの少しですけれど、何かに使ってください。」

「何なの?」
「アハハ、あとでですよぉ~。じゃあ、あたしたち、澤本さんたちを探してきますね」
「わかったわ。でも、もうあまり時間がないと思うから、早くしてね。急ぐのよ」
「はいっ!」

そのとき、振り向いた彼女たち3人の笑顔を、堀婦長は生涯、決して忘れない。
忘れようがないです。
三人とも、とても明るい、ほんとうに何事もなかったかのような、明るくてさわやかな笑顔だったのです。

堀婦長が、彼女たちが戻ると安心して、貨車に乗る順番の列に並んだ時です。

バン、バンと2発の銃声がしました。
そしてすこし遅れて、バンと、3発目の銃声が響きました。
列車への乗車を待っている日本人たちが、騒ぎ始めました。

「おいっ!自殺だ」
「若い女3人みたいだ」

「!」

三人とも即死でした。
後藤さんと荒川さんの体を覆うようにして、倒れていた細井さんの右手にピストルが握られていました。

申し合わせてのことでしょう。
細井たか子が先に二人を射殺し、最後に自分のこめかみを撃ったことがわかりました。
頭部からは、まだ血が、流れています。

わかる。わかるわ。
あなたたち、こうするほかなかったのね。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
はやく気が付いてあげれなくて。
もう、なにもかも忘れて、楽になってね。
今度生まれてくる時にはね、
絶対に、絶対に、もっともっとずっと強い運を持って生まれてくるのよ・・・・・

「お母さん、お母さん!」
子供たちの叫ぶ声に我にかえり、堀婦長は汽車に乗りました。

結局、澤本かなえ、澤田八重子、井出きみ子の三人は、姿を見せませんでした。
このほかに二人、どこにいるのか行方知れずに終わりました。
ひとりは、ソ連将校が連れ帰ったという噂でした。

引き揚げ列車は南下し、それぞれの悲劇と過酷な過去から、まるで逃れるように、祖国日本へ向け鉄路を南へ向けて走りました。

・・・・・・

こうして堀喜身子婦長が、長男静夫(5歳)と、長女槇子(3歳)を連れて、九州の諫早(いさはや)で日本の土を踏んだのは、昭和23年11月のことでした。

親子三人を待っていた日本の戦後社会は、想像を絶する混乱の社会でした。
戦争に負けた。それだけのことで、人心が変わってしまったのです。

それまでの日本は、まさに家族国家でした。
人々が地域ぐるみ、家族ぐるみで助け合い、支えあって生きることがあたりまえの社会でした。

それが、終戦によって180度変わってしまったのです。
人の情けがなくなりました。
人情が消えました。
支えあうという考えが、人々からなくなっていました。

堀喜身子さんは、ソ連に抑留されている夫正次氏の故郷である、山口県徳山市に向かいました。

戦前の社会では、いまでもそうした風潮は残っているけれど、いったん嫁に入ったら、夫の家の家族です。
自分の生家に帰ろうとは思わない。
戦前は、それがあたりまえでした。

ところが親子して夫の実家に到着すると、夫の母(お姑さん)が「引揚者は家には入れられない」といいます。
敷居の中にさえ、入れてくれませんでした。

当時、いろいろな噂話があったのです。
引揚者の女性は、穢れているとか、です。

堀喜身子さんは、その意味では看護婦であって引揚げに際して不埒な真似に遭うことはありませんでした。
けれど世間体がある。
何があったかなんてわかりゃあしないと、姑は納得してくれません。

はるばる徳山まで来て、子供の前で自尊心をズタズタに引き裂かれ、泊まるところもなく、とほうにくれたお堀喜身子さんは、二人の子供の手をひいて堀家の菩提寺を訪ねました。

ご住職に事情を話すと、わかりましたと言って、一夜の宿と、命に代えてもと持ち帰った23名の看護婦のご遺骨を、菩提寺の墓所で預かっていただけました。
親子は、ようやく肩の荷を少しだけ卸したのです。

翌日、親子は、堀喜身子さんの母親が住む、北海道の帯広に向かいました。
帯広では、幸い看護婦として市内の病院に就職することができました。
けれど終戦直後というのは未曽有の食糧難の時代です。
勤務の制約などもあり、給料も少なく、生活費をぎりぎりに切りつめても、末っ子の槇子を養うことができません。
涙ながらに因果を含め、堀喜身子さんはたいせつな娘を、親戚の家に預かってもらうことにしました。

そんな苦しい生活を送りながらも、堀喜身子さんの脳裏を片時も離れないもの。
それは、命を捨ててまで事態を知らせに来てくれた大島花江看護婦と、井上つるみ以下自決した22名の仲間たちのご遺骨です。
年長者26歳、年少者はまだ21歳の女性たちです。

年が明け、昭和24年の6月19日の命日がやってきました。

その日、堀喜身子さんのもとに、彼女たちがやってきたといいます。
そしてこう言ったのです。
「婦長さん、紫の数珠をくださいな」

紫の数珠というのは、終戦の年の冬の初めにあったできごとに端を発します。
その日、張春の第八病院に、モンゴル系の女性が担ぎ込まれてきました。

妊婦でした。難産でした。

助産婦の資格をもつ堀婦長が軍医とともに診察しました。
すでに重体です。
もはや妊婦の生命は難しい状態です。
あとはせめて赤ちゃんの命だけは、という状態でした。

その日のうちに嬰児はなんとか取り上げました。
けれど出産で、妊婦は瀕死の状態です。

そこから二日三晩にわたって、婦長と看護婦たちみんなで献身的な看護をしました。
「なんとかして命だけは助けてほしい」と何度も哀願するご家族たちが、「ここまでやってくれるのか」と感激して涙を流すほどの真剣な看護でした。

そしてようやく、妊婦は一命をとりとめたのです。

一部始終を見ていた妊婦の身内の中に、モンゴルで高僧と言われた老僧がいました。
この老僧が、妊婦の生命をつなぎとめた神業のような看護を、驚異の眼で評価してくれたのです。

そして老僧は、生涯肌身離さず持ち続けるつもりでいたという紫の数珠を、お礼にと堀婦長に差し出してくれました。

その紫の数珠は、紫水晶でできていて、2連で長さ30cmほどのものです。
見た目もとても美しいが、それだけではなく、一個一個の珠に内部が覗けるように細工がしてあります。
そこから透かしてみると、ひとつひとつに仏像が刻まれている。

その日から、そのお数珠は看護婦たちの憧れの的になったそうです。

やまとなでしことはいえ、若い娘たちです。
美しい宝珠に興味津々だったのは、想像に難くありません。
婦長は何度も彼女たちにせがまれ、何度も見せてあげていました。

ある日、婦長はみんなに、
「いっそのこと、数珠の紐を切って、みんなで分けようか?」と提案したことがあります。
このひとことで看護婦たちは大騒ぎになりました。

彼女たちが亡くなったとき、婦長は彼女たちに誓いました。

「私の命に代えても、みんなの遺骨を日本に連れて帰るね。
日本に帰ったら必ず地蔵菩薩を造って、みんなをお祀りする。
その地蔵菩薩の手に、この紫の数珠をきっとかけてあげるね・・・・」

けれど、まだ地蔵菩薩はありません。
彼女たちの遺骨は菩提寺とはいえ、無縁仏にちかい形で置かれたままです。

婦長はなんども心の中でみんなにお詫びしました。
「ごめんね。いまの私にはどうすることもできないわ。
でもね、きっと、必ず、お地蔵さんを造ってお祀りする。
だから、もう少し待っていてくださいね・・・」

どうすることもできない境遇の中で、そのことを思う都度、婦長の眼からは涙があふれてとまらなかったといいます。

帯広で生活するようになってしばらくしたとき、徳山の夫の生家から、夫正次戦死の公報があったとの知らせが届きました。
こうなると、北海道にいる堀喜身子さんにとっても、遠く山口県の徳山市とのご縁も遠くなってしまいます。

けれど、死んだ仲間たちの遺骨は、徳山にあります。
なんとかしなければ。
そう思う堀婦長の心に、23名のご遺骨のことが、ずっと重い負担となり続けます。

なにもしないでいるわけにはいきません。
堀喜身子さんは、あちこち手立てを講じて、元の上官であった平尾軍医とようやく手紙で連絡をとりあいました。
そして二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てようと決めました。

そして堀婦長から平尾元軍医にあて、毎月送金することにしました。
たとえ少額でも、たとえ一回に少しのことしかできなくても、こうして積み立てていれば、いつか必ず地蔵菩薩を建てられるに違いない。

そうと決まると、月給は少しでも高いにこしたことはありません。
堀喜身子さんは、給料の良い職場を求めて、静岡県の清水市にある病院に転職しました。

・・・・・・

この頃、戦後の何もない時代、庶民の唯一の娯楽といえばラジオくらいしかありませんでした。
なかでも、謡曲や浪花節は人気が高く、この時代に、広沢虎造や春日井梅鶯などが庶民の人気をさらっていました。

この春日井梅鶯の愛弟子に、将来を嘱望された「若梅鶯」と呼ばれる浪曲家がいました。
その若梅鶯が熱海で公演をしたとき、旅館のお帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長さんが週刊誌を手にしてくるなりこう言ったのだそうです。

「いやあ、すごいものですねえ、満州の長春で、ソ連軍の横暴に抗議して、22人もの看護婦が集団自決したんだそうですよ。終戦の翌年のことだけどね・・・」

若梅鶯は、旅館の社長さんからその週刊誌をひったくると、むさぼるようにしてその記事を読みました。
読みながら、若梅鶯は、全身に鳥肌がたったそうです。

「こんな酷いことがあったのか・・・」

実は、若梅鶯こと松岡寛さんは、敗戦時に樺太と関わりを持っていました。
その樺太で、ソ連軍がやった殺戮や略奪、暴行、強姦の実態をつぶさに見ていました。
ですから、長春の看護婦たちの話も他人事には思えなかったのです。

松岡さんは、一座の者を使って、堀婦長の追跡調査をしました。
するとなんと熱海からほど近い清水に、堀婦長がいることがわかったのです。

その日のうちに松岡さんは、清水に向かいました。
そして堀喜身子さんの勤務する病院に行き、面談を申し込みました。
そして、地蔵菩薩の建立に資金的な協力をしたいと申し出たのです。

けれど堀元婦長は、あっさりと断りました。
ただお金があればいいというものではない、そんな思いが婦長の心にあったのかもしれません。

けれど松岡氏も真剣でした。
「ならば、自分は浪曲家です。この語り継ぐべきこの悲話を、大切に伝えて行きたい。ぜひそうさせてください」
松岡さんの真摯な態度に、堀喜身子さんの心は動きました。

実は、終戦から復員にかけての混乱の中で、亡くなられた看護婦たちの身元がわからなくなっていたのです。
浪曲家である松岡氏が、その物語を全国で公演してまわれば、もしかすると彼女たちの身元がわかるかもしれない。

堀婦長は、当時の様子を松岡氏に語って聞かせました。
松岡さんは、誠実でまじめな人です。

彼は堀元婦長から聞いた話を「満州従軍看護婦集団自決物語」の浪曲に仕立てました。
そしてこの物語を語るために、世話になった師匠に事情を話して、春日井若梅鶯の芸名を返上し、師匠の一座までも離れ、無冠の松岡寛一座を開きました。
彼は、白衣の天使たちの悲話の語り部として、後半の人生を生き抜く決意をしたのです。

いくら人気の一番弟子とはいっても、独立すれば会社の看板のなくなったサラリーマンのようなものです。
なんのツブシも聞きません。
中央のラジオのゴールデンタイムの人気浪曲家だった若梅鶯は、名前も変えて、まるまる一から地方巡業でのスタートをきることになりました。

終戦の悲話が、直体験として日本中に数多くあった時代です。
白衣の天使の集団自決の浪曲が売れないはずがありません。
松岡師匠の公演は、またたくまに全国でひっぱりだこになりました。

その松岡師匠は、浪曲の中で、必ず「皆様の中で心当たりの方はいらっしゃいませんか?」と問いかけました。
そして3年余りの公演によって、実に23名中19名の身元が判明したのです。
そして19名のご遺骨は、ようやくご両親のもとに帰ることができました。

一方、松岡師匠がこうして巡業をしながら看護婦たちの身元を尋ねて回っていたころ、堀元婦長は、自身の給料の中から、実家にいる子供たちと、元上司の軍医のもとへの少なからぬ積立金の送金を続けていました。
その金額もある程度のものになったと思われたので、そろそろお地蔵さんの建立を、と思って元上司に電話をかけました。

すると、元上司は「それなら、前にもお話した群馬県邑楽郡大泉村に建てましたよ」というのです。
群馬県大泉村というのは、看護婦たちが満州へ向かう前に、厳しい訓練を受けたところで、彼女たちにとっての出会いとゆかりの場です。
そこにお地蔵さんが建った。
ほんとうなら、これほどうれしいことはありません。

ちょうど、彼女たちが亡くなってから7周忌でもある年でした。

堀元婦長は、松岡師匠にもこの話を伝えました。
松岡師匠はたいへんに喜んでくれて、それなら私が見に行ってみましょう、とおっしゃてくれました。

師匠はさっそく群馬県大泉村の役場をたずねました。
地番を探しに行ってみたところ、そこはあたり一面、草ぼうぼうの原っぱでした。何もありません。
役場にとって返して聞いてみたけれど、地蔵なんて話は聞いたこともないといいます。

帰ってきて堀喜身子さんにその話をすると、どうしたことだろう、ということになって、元上司に問い合わせをしました。

すると、実はよんどころない事情で、遣いこんでしまったという。
思い当たることはあるのです。
その上司の奥さんが、結核で入院されていたのです。

間が抜けていたといえばそれまでだけれど、汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまいました。

同じ年のことです。
埼玉県大宮市に、山下奉文将軍の元副官で、陸軍大尉だった吉田亀治さんという方がおいでになりました。

吉田亀治さんは、自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を昭和27年11月に開園しました。
そしてそこに、沖縄戦の司令官牛島中将の墓を設け、さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司の司祭によって、鎮座式も行いました。

その青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の公演がありました。
演目は、もちろん「満州白衣天使集団自決」です。

この公演の際、吉田亀治さんは、松岡師匠から直接、堀元婦長が存命で、いまも看護婦たちの身元を探していること、命日になると、亡くなった看護婦たちが寄ってきて、お地蔵さんの建立をせがむことなどの話を聴きました。

すると吉田亀治さんは、松岡師匠を介して堀元婦長に面会し、地蔵尊の建立を快く引き受けてくださったのです。

埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれて亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。
なにやらすくなからぬ因縁さえ感じる。

資金面では、すべて吉田氏が引き受けてくれることになりました。
そうして大宮市の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための「青葉慈蔵尊」が建立されました。

青葉慈蔵尊
青葉慈蔵尊


地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。

(五十音順)
荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
看護婦長 堀喜身子

~~~~~~~~~~~~~

以上のお話は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただいたものです。

大島花枝看護婦のことについては、以前、
「満洲国開拓団の殉難」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html
という記事でも書かせていただいていますで、そちらもご参照いただけると良いかと思います。

またこの記事そのものは、昨年2月に三回にわけて当ブログに掲載させていただいたものを、今回、少し文章等を手直ししてお届けさせていただきました。

前回のアップのときもそうなのですが、今回も、心が死んだような状態になっていた8名の看護婦たちが、堀婦長の献身的な努力で、徐々に生気を取り戻した。そして、やっと、ようやく日本に帰れるとなったその日、晴れやかな笑顔で駅前に現れた3人は、残りの者を迎えに行くといって、覚悟の自殺をしてしまう。

ちょうどこのくだりを書いているとき、ボロボロに泣けてしまいました。

戦後の混乱、敗戦のショック、食べる物さえなく、餓死者まで数多く出した戦後の混乱期の中で、家族国家の住人だった日本人は、生きるのに精いっぱいの状態になりました。

そこへGHQが思想統制、言論統制を行い、日本人の精神構造の破壊工作という追い打ちをかけました。
その呪縛はいまでも続いています。

けれど、そういう過酷な時代にあっても、日本人としての心を失わず、必死に生きた堀喜身子さんのような方や、彼女をささえて献身的に努力してくださった松岡師匠のような方、そして自らの家の土地を進んで墓所にご寄進なされた吉田亀治元陸軍大尉のような方もおいでになりました。

そしてそういう方々のおかげで、いまなお、私達は大島花枝さん以下32名の看護婦さんたちのことを、忘れずに今に伝えることができています。

いま、日本国家を解体しようとする人たちが政界その他に数多くいます。
けれど現実に国家が解体した実例が満州国です。
そこにいた人々がどんな目に遭ったか。
国というものが、いかに大切なものかも、本稿を経由してお感じいただけたら幸いに思います。

【後日談】
夫と死に別れた堀元婦長は、その後お二人の子を連れ、寡婦としてがんばっていましたが、松岡師匠の温厚さと誠実さにふれ、後年、お二人はご結婚され、堀喜身子は、松岡喜身子となられたそうです。

お地蔵さんが建立された青葉園は、いまもさいたま市にあり、その中央には青葉慈蔵尊がご安置され、いつもどなたか(お身内の方でしょうか)によって綺麗なお花が添えられています。

この物語を最初に当ブログでご紹介したとき、この話はつくり話だ、嘘だ等々と中傷する方やサイトがありました。
けれど私は思うのです。
なるほど私はその場にいたわけではないし、当事者でもない。ですから事実の有無は私にもわからない。
けれど、その物語はつむがれ、そこに大きなお地蔵さんが建立されている。
その日本人の真心は、忘れてはならない日本の心として、絶対に後世に伝えていかなければならないと思うのです。
浪曲になった話だから、嘘だ、そういう決めつけではなく、そこから何を学ぶかが大切なのではないでしょうか。


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※本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただきました。

満州国国都、新京


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コメント
日本人として知っていなければならない
どんなに辛かったか、悔しかったか…同じ女として体が震えました。むごいです。

仕事上、男性の欲望には男尊女非発言を当たり前のようにする方など、恐怖を感じる場面があります(非礼でしたらすみません)
戦後の教育に毒されているんだと思いますけど(>_<")

『日本人は悪いことをした』とゆう教育は廃止して、このようなお話(他国にひどい目にあった体験談や真実)を教育できたらいいのにと思います。
日本人として知っていなければいけないと思います!!
2012/09/30(日) 07:57 | URL | れいさき #-[ 編集]
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■第3回 3万年前の磨製石器が日本で発見されたということは
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腰の軍刀は竹光か
バシ―海峡の慰霊
戦没者の遺書
インパール作戦とパル判事
インパール作戦のこと
五族協和を目指した満洲国
南京の攻防
体験的歴史の真実
B-29との戦い
サンフランシスコ条約と日本
伊58潜水艦と原爆のお話
駆逐艦「雪風」の幸運
ケネディと駆逐艦「天霧」
終戦記念日における政府談話、日心会草案
広島市平和記念式典で読まれない もう一つの平和宣言
白梅の少女たち
特攻とテロリズム
三ヶ根山殉国七士廟
真の近現代史観
塹壕で母は生まれた
勝てた戦争
特攻隊員の思い
橋の上のホラティウス
張作霖と満州のお話
インパール作戦とパル判事
インパール作戦 続き
■満州従軍看護婦実話
(1)集団自決
(2)南新京駅
(3)青葉慈蔵尊
小町園の悲劇
大川周明 米英東亜侵略史
広島と長崎に落ちた原爆は種類が異なる
無条件降伏という国際的詐欺に騙され続ける日本
南の島に雪が降る
8月9日のソ連軍侵攻で起こったこと
女性の乗った特攻機 神州不滅特別飛行攻撃隊
パンプキン爆弾
ドクター中松氏の日本は負けていない
大東亜戦争開戦前の御前会議
真珠湾攻撃と人種差別
大艦巨砲主義
■戦陣訓を読む
(その1)
(その2)
(その2)
日米戦争の原因
ひうらさんの思ひ出
戦前という時代と新しい未来
支那事変は支那が起した
種類の異なる原爆
長崎へ投下された原爆の当初目標地点は北九州市


おススメ記事02
≪戦記≫
日本とパラオ歴史を超えた友情
エクゼターとエンカウンター
義和団事件とコロネル・シバ
アロハ・オエ
アッツ島の戦い
グアム島の戦い
タラワ・マキンの戦い
拉孟の戦い
騰越の戦い
占守島の戦い(1)ニチロの乙女たち
占守島の戦い(2)士魂戦車隊
回天の志
回天・後日談
戦艦大和出撃のメッセージ
勇敢で高潔で誰からも好かれた日本軍人
三宮事件 ■
日清戦争 ■
日露戦争 亡くなられた方の気持ち
日露戦争の勝利はアジアの偉大な救い
日本軍の蛮行 デビンティンギ事件
戦争の体験談
第二次上海事変
■南京攻城戦 (1)南京戦まで
(2)城内突入
(3)城内敗残兵掃討
(4)国際安全区内敗残兵掃討
石頭予備士官候補生の戦い
沖縄の二人の知事 泉守紀と島田叡
セヴァストポリの戦いと旅順要塞戦
天誅組に学ぶ、尊王攘華、尊王攘韓
サイパンの玉砕戦(1)
サイパンの玉砕戦(2)
アンガウルの戦い
ビアク島の玉砕戦
キスカ島撤退作戦
赤トンボの戦い
通州事件1
通州事件2
通州事件3
尼港事件
斉南事件
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真岡郵便電信局事件と九人の乙女たち
ノモンハン事件
盧溝橋事件
リットン調査団
重慶空爆
満洲国開拓団の殉難
沖縄の集団自殺の虚構
小野田寛郎さんが語る従軍慰安婦
南京大虐殺というデタラメ
慶長の爆弾三烈士
北条時宗と元寇
大津事件
天狗党の乱
天誅組に学ぶ、尊王攘華、尊王攘韓
刀伊の入寇と竹島
旅順要塞陥落
航空戦艦伊勢と日向の物語
久松五勇士
日清戦争のお話
重巡洋艦「熊野」の生きざま
阿片戦争と支那人の嘘吐き
二本松の戦い

≪台湾≫
台湾2・28事件
日本の台湾統治
日本の台湾統治の真実 ■
台湾・高砂義勇隊
日本人はとても素敵だった
カナダからの手紙
元日本人の歩んだ道~蔡焜燦
台湾の占領統治からの解放のこと

≪支那≫
支那人の残虐性
支那人の“避諱”観念と虚言
支那「日本支配工作要領」
相手が弱いとみるやつけこむ民族
支那に支配された国の実情
「日本は唯一の被爆国」に隠された嘘
支那の盗掘
カネを吸い取られ続ける日本企業
ロシアも怒る支那のパクリ
支那・文化大革命の恐怖
女真族と満洲の話
いまなお続く法輪功弾圧
停車場
カナダの悲劇 中国移民に占拠されたバンクーバー
支那人による日本買占めの恐怖
支那・国防動員法
支那の粉ミルク
恐怖の外国人永住者
華僑と植民地統治について
支那の中国漁船問題に思う
清き国、日本
中国人の語る中華思想
中華民族琉球特別自治区設立を許すな
支那を「中国」と呼ぶのは国辱
シナ人とは何か
南京の次は重慶
チャンコロは蔑称ではない
胡錦濤国家主席殿への公開質問状
支那が嫌われる七つの理由
中共による事実上の宣戦布告
法輪功弾圧
四度あった南京事件

≪韓国北朝鮮≫
韓国建国の英雄
韓国保守派の嘆きと憤慨
誇り高く生きる 洪思翊中将
李氏朝鮮の時代(1)
李氏朝鮮の時代(2)
閔妃殺害事件
李氏朝鮮時代の刑罰
在日朝鮮人
関東大震災の記憶
関東大震災と不逞朝鮮人の暴虐
朝鮮進駐軍の非道を忘れるな
警戒を差別とすり替える在日朝鮮人
従軍慰安婦問題
在日コリアンたちの本音
犯罪をしたら日本人になりすませ
民団の驚くべき活動
ダライラマの法話で見た韓国人の民度の低さ
下半身裸で水死する脱北女性たち
日韓併合のこと
檀君神話という韓国のデタラメ
李承晩と朝鮮半島の歴史
在日朝鮮人との付き合い方
和夫一家殺害事件
韓国国債など買う必要はない
朝鮮半島危機に備えよ
真の敵は国内にあり
日本が嫌いな在日朝鮮人は祖国に帰れ
韓国産食品に人糞が混入、米国は販売停止に
韓国人売春婦について
韓国に鉄槌を!
あきれ果てた韓国の五輪
剣道は韓国発祥と珍説を世界に宣伝?!
韓国人留学生の嘆き

≪その他の国≫
アンコール遺跡とカンボジア
ビルマの近代史
アフガンの地雷
二つのアメリカ
ハバロフスク事件顛末(1)
ハバロフスク事件顛末(2)
ハバロフスク事件顛末(3)
シベリアのトイレ
ウクライナ物語
地上の楽園のウソ
インカ帝国の滅亡
マサダ砦の戦いと尖閣問題
インドのジャンヌ・ダルク
セントルイスブルース
明治維新と南北戦争の不都合な関係
チベットの悲劇01
チベットの悲劇02
チベットの悲劇03
ガンデンポタン
日本の人がこの国に来てくれて嬉しい!
ブータンとダショー西岡
インドネシアと植民地統治
マレーシア国定中学校歴史教科書

≪憲法≫
日本国憲法という欺瞞
日本国憲法を否定せよ
Made in Occupied Japan
歴史的に無効な憲法の破棄を
二つの日本

≪教育を考える≫
愛国心を育てよう
教育における「父性」ということ
ボーイスカウトと郷中教育
仁徳天皇陵を大仙陵と呼ぶまやかしを許すな
武徳教育のすすめ
これでもあなたは日教組に子どもをまかせられますか
歴史教科書
尋常小學修身書
ねつ造史観の歴史教科書を許すな
鎌倉幕府の始まりと教科書の欺瞞
教育を変えるということ
子供達を壊す教育を許すな
堕胎と少子化問題
釜石の奇跡
母と子
「いじめ」雑感
大津市中学生自殺事件に思う
神話を学ぶ
神話を学ぶことの意義
歴史を学ぶことは民族の価値観を学ぶこと

≪メディア≫
やまと新聞を守れ
毎日新聞英語版のあまりにひどい報道
マスコミが反日になっている理由 ■
反日キャスターを許すな! ■
反日主義者たちの陰謀
≪反日左翼≫

国鉄と鉄道公安官
夢の超特急「あじあ号」 ■
弾丸列車と戦後左翼の利権 ■
国連という名の欺瞞
白旗の少女
プラスの言葉
反日左翼工作員にみられる共通の特徴
野麦峠と戦後左翼の欺瞞

≪核≫
核のお話2
核のお話
放射線の危険、誰が得をし誰が損をするのか
放射線は怖くない!ラッキー博士の小論文
広島の原爆被災者の記録
国賊的策謀が見えてくる
塩分と放射能
原発について
除染しなかった広島は女性の寿命が日本一

≪時事≫
尖閣を守れ
日本人が知らない資源のお話
750兆円の国家財源
最高の景気対策は国防にあり
地方行政とゴミ処理問題
小学生の妊娠
自国の防衛は自国で
日教組に立ち向かえ
外国人参政権
政治資金規正法
竹島問題の真実
夫婦別姓などもってのほか!
子供手当が在日外国人の母国に残した子供にも出る?!奴らを許すな
「日本派」の政治家
中国産新型エイズの恐怖
口蹄疫問題に関する衆議院の質疑の模様
口蹄疫は韓国の陰謀という噂の真相を問え!
尼崎児童暴行事件
売国土下座外交のウラ
都民の100人に1人が中国人
あなたの隣に中国人が。それでもいいですか?
すべては私たちの選択にかかっている
支那人に買い占められる日本の水
尖閣問題と国益
尖閣問題と琉球共和国
尖閣領域の中国漁船問題に思う
いまと似ている通州事件前夜
口蹄疫はまだ終わっていない
子宮頸ガンとセクシュアルデビュー
在日支那人の取締りを強化せよ
神社が燃やされている
沖縄県平和祈念資料館の展示見直しを要請する
被災地で頑張る自衛官
ヒゲの隊長大震災を語る
復興は将来世代のために最良のものを
電力一律削減は日本の産業を壊滅させる
悪質書き込みは即賠償
人権救済法案はた日本人差別法案
大雨と公共工事のお話
トルコ地震に寄せて
TPPは日本を崩壊させる
八重山地区歴史教科書問題
近未来の物語
思い切った良質の公共投資で景気回復を
客船コスタ・コンコルディア号転覆事故に思うこと
地方主権論は国を滅ぼす
日本の防衛は日本の手で
景気復活の要諦は日本の心を取り戻すこと
都市鉱山の回収は日本に巨富をもたらす
支那、韓国の本音
埋蔵資源と軍事力 総額200兆円の財政出動のこと
野田総理の尖閣買取発言は売国発言
片山さつき先生を守れ
民主党の猿芝居に騙されるな!
民主党のバラマキはなんのため?
日本は軍事力を強化せよ
日本を抜本的に建て直す
税と社会保障法案の成立と引き換えに解散を迫る真意

≪コラム≫
天壌無窮の神勅
天皇人間宣言という言葉のまやかし
持てる力のすべてを未来への建設に傾けて
帝国日本を語り継げ
保守は No War !!
動物農場
世界に誇る縄文文化
漆と縄文文化
巨視的に見る
縄文人と渡来人の相克
世界四大文明の嘘
中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想
魚沼産コシヒカリ物語
小麦のお話
小麦のお話2
大豆と満洲のお話
歴史に対する姿勢
伝書鳩物語
軍艦島のお話
新しいこの国のカタチのために
たった一度の敗戦で日本を失ってはならない
ブログの拡散効果
消えた歴史
日本の未来の枠組み
日本再生のために民度の向上を
元来日本社会は窮屈、でも窮屈ゆえに安心
「理論」と「心」と「都合」のお話
正しい万歳
近世のニッポン
伊勢神宮の式年遷宮
夏の怪談
文化は武器より強し
ヤプー人の伝説
犬種と人種
悪は断じて許さないという心が大切
大麻についての考察
ススキとセイタカアワダチソウのお話
秋の七草
階級闘争主義と信頼主義
日本の心をつたえる会
聖徳太子と十七条憲法
国連という名の欺瞞
石原莞爾「最終戦争論」を読んでの所感
石原莞爾「最終戦争論」
ある国の物語
マイセンのスープ皿
行間を読む
相貌認知
戦後世代は何をやってきたのか
人を大切にする経営
ラージャ・ダト・ノンチック元上院議員の言葉
歴史伝統文化に立脚しない革命は成就しない
語り、つたえよう!
求められる大改革
勁(つよ)くなる
日本を取り戻そう 鄭春河さんの遺稿
鄭春河先生の遺稿2「日本同朋へ」
亀井静香先生と面談してきました
ローハイド
日本の心をつたえる会について1
日本の心をつたえる会について2
日心会の価値について
勾玉のお話
批判ということ
横浜市歌
現場の使命感、現場の奮闘
着物の叡智
江戸の水道井戸
絵の具と戦争
皇后陛下 祈りの御歌
ニール・パスリチャ「Awsome(最高)」の3つの要素
桜餅のお話
和菓子のお話
日本解体のトラップ
影響の輪、関心の輪
階級闘争は共産主義の悪魔
歴史を学ぶ
先を読む
日本人はみんなどこかでつながっている
大国の発言、小国の発言
なでしこのお話し
メーリングリストを潰す方法
稲穂を見て
凛として愛
語り継ぐこと
栗のお話
越前恋水仙物語

父祖が築いてくれた国、日本
敵に警戒されるのは、正しいことをしている証拠
今年もお世話になりました
壬辰の年
鏡は化我美
誠と義
五常の徳
徳の概念と諱(き)の概念
聯合艦隊と連合艦隊
反日宣伝と日本人の対応
愛国心を涵養する名言集
河本準一と生活保護
通り魔殺人と日本の自殺
アイデンティティの形成
ダイエット飲料を飲むと太る
女子高生コンクリート詰め殺人事件に思う
日本の秘密をばらしたら
大麻と国益のお話
秀吉の朝鮮出兵
大切にしたい日本の四季
おハシと神代文字
東郷さんの檄文
西欧の保守主義と日本の保守主義
あるレジ打ちの女性
ライオンキングと日本人へのメッセージ
源平桃と壇ノ浦の戦い
美人画
うま味と日本人
トイレが個室であることの幸せ


(2012/8/15記事までを掲載)
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コメントをくださる皆様へのお願い
いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、とっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

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尖閣諸島問題について
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尖閣諸島に関する1972年の外務省資料(PDF)
http://www.worldtimes.co.jp/special2/senkaku/senkaku.pdf
尖閣問題について

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