「竹島が日本のものである」という客観的証拠は確かにありますが、韓国のものであることを示す文献がないわけではありません。むしろ「ある」と言ってもいい。白髪の歴史学者が埃まみれの書物をひっくり返せば、どこかしらに「竹島は韓国領である」と解釈されてもおかしくない文献は出てきます。
議論のベースが科学なら「竹島は宇宙創成以来、誰かのものであったことはないし、誰かのものになることはない」という結論に至れます。しかし歴史がベースである限り、どんな識者が集まって過去に遡行し話し合ったところで、意見が一致する事がありません。たとえ、夕食抜きで議論したとしても。
領土問題に関わらず、近接する国同士が、価値観や歴史認識を一致させることはないのが当然です。お高くとまったフランス人はドイツ人を田舎者だと思っているし、ローマ有するイタリア人はフランス人を成り上がりだと思っているし、原点であるギリシャ人はイタリア人をひよっこだと思っているし、欧州最大の大国であるドイツ人はギリシャ人をただのたかりだとしか思っていない。それでも、自国の認識を相手に押しつけることはなく、それぞれが最適解を目指して相互の経済連携を図っています。
竹島問題はもう、日韓いずれかが、相手の主張に100%納得することはありません。嫁姑問題と同じように。
だから日本は、日本が国際司法裁判所(ICJ)への付託するという、現代社会における一般的かつ妥当な手段をもって解決を図ろうとしています。
しかし、韓国はこれを拒否し、「日本も韓国と同じ認識を持つべき」と主張に終始しています。現在進行形の問題について日本の教科書の内容にまで口を出してくるのは、内政干渉甚だしく、お門違いと言わざるを得ません。
「認識が違う」ということをベースに今後どうすべきなのかを議論すべきなのに、「相手に自分と同じ認識を持たせる」ことがゴールだと思っている。それが、腰まで浸かった沼地を歩くみたいに議論が前に進まない理由です。
領土についても歴史に関しても、認識が一致することはありません。相手に「自分と同じ認識を持って欲しい」という主張が許されるのはせいぜい17歳までです。
相手は自分とは異なる認識を持っていることを認め、それを批判することなく、建設的な議論が必要です。たったそれだけのことができずに万が一に血が流れるようなことになるならば、あと百年だって棚上げした方がいい。
韓国でもちょっとしたインテリゲンチアならこうした構造を理解しています。でも、口に出せない空気がある。
つまり、表題の「認められない」のは能力の問題ではなく、空気の問題なのです。
翻って、かつての私たちも、正々堂々と公的な手続きに則って主張するのは苦手でした。いや、今でも苦手です。私的な感情と行為が優先されます。
韓国がかつての(もしくは現在の)日本に重なり、そこに少なからず同族嫌悪的な感情が生じている点が、また問題を複雑化させているのかもしれません。
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