特にFacebookを使っていると、「こんなこと投稿したら、昔の友だちに嫌がられないかな」という気持ちを抱くことがありますよね。
そんなテーマで、ルッカさんが素晴らしい記事を書かれていたので、思ったことをつらつらと考えてみました。
投稿をためらう瞬間
そんな中最近思うのは、そういう【今の私】の発言することは、
もしかしたらそれは古い友人にとっては「変わってしまって少しうざい私」だったのだろうか?
私の発したある種の言葉が、他意はなくても無神経な無配慮な言葉としてダメージを与えてしまっていたのだろうか?ということです。
例えば僕もFacebook上で学生時代の友人とつながっているので、投稿するのを憚られる気持ちが芽生えたりします。「友だち」と購読者の数は5,000人を超えており、そのうち学生時代の友人は数十人程度ですが、それでもどうにも投稿する気になれないことがしばしばあるのです。僕が個人のFacebookアカウントをあまり活用していないのはそんな理由があります。
また、大勢の「友だち」や購読者の前で、普段は見せていない側面を見せることを、ためらうこともあります。例えば僕はクラシック音楽が大好きなのですが、昔はクラシックに関するツイートを投稿することを、どこか遠慮していたことを覚えています。
人は変わるし、多様なもの
最近はそういう迷いからは吹っ切れつつあり、少なくともツイッターでは自分をほとんどありのまま出せるようになりました。Facebookはまだ迷いがありますが、そのうちツイッターと同じような使い方になっていくのでしょう。
そもそも、人は変わっていくものですし、多様な横顔を持っているものです。それは当然のことなのです。変わってしまった自分を偽ってまで、昔の友だちに無理に接する必要はありません。
ツイッターなどでは、「隠れアカウント」を用意するのではなく、ひとつのアカウントで多様な側面を見せていった方が、気持ちが楽になるんじゃないかと僕は思います。
若い世代では二極化が進んでいる?
そして分人化できないことで「あの人の別な一面」が見れるという楽しさもあれば、「あの人」が自分の嫌いな人と仲良くしてるのを見せられる、というおもしろくなさもある。
でも「そういうもの」とわかれば、ある意味気をつけながらも「割りきって楽しく使う」という事もできるだろう。人の、自分に向いてない「分人」が目に入っても気にならなくなるだろう。もしかしたらデジタルネイティブで参加コミュのまだ少ない10代では、その辺はもう「見えてあたりまえの感覚」なのかもしれない。
ルッカさんも書かれていますが、僕よりも若い世代にとっては、「人は変わるし、多様なものだ」ということはほとんどデフォルトの事実なのかな、と思わされる瞬間があります。
一方で、逆に嫌われるのを恐れて、自分を偽りながら複数の仮面を使い分ける若者たちも増えているのではないか?とも感じます。
ソーシャルメディアを使うことで、人格を使い分けるか、芯を持って統合するかの、二極化が発生しているのかもしれません。
来るもの拒まず、去る者追わず
ソーシャルメディアを気持ちよく使っていくためには、「来るもの拒まず、去る者追わず」式の、人に対する適度な諦めが必要だと常々感じます。「友だち」だと思っていた人が、ツイッターで僕のことを悪く書いているのを見かけたりするたび、ホントそう感じます。僕はバカみたいに人を信じることができない人間になってしまいました。
人は変わっていきますし、場合によっては裏切られたような感じを抱くかもしれません。でも、他人はコントロールできませんし、振り回されるのもバカげた話です。
他人の目を気にして自分を無理に変形させるくらいなら、ありのままを発露し、自分自身の人生を生きるべきです。
自分の時間、自分の人生を、他人の人生を気にかけることに費やしてしまうのは損だと僕は思います。
このテーマは深くて、本記事では完全に咀嚼できていません。
ルッカさんの記事にもある通り、すべてのコミュニティ、すべての対象者に対して、一つの自分を見せるというのはかえって不自然なのも事実です。僕も奥さんといるときなんかはデレデレだったりしますし。
僕の場合は「SNS人格(執筆者人格)」は一つですが、家族や、中高生時代の友人の前では、やっぱり違う人格を自然と発露してしまいます。自分を偽っている感じはないので、悪いことではないと思っています。
ルッカさんも勧めていたこちら、ポチりました。SNSと人格の使い分けは面白いテーマだと思いますので、みなさんもぜひ考えてみてください。