大田氏 山形氏
(撮影 / エスクリエイティブフォト)
■近代の構造的矛盾
大田 少し大きな話になりますが、私は近代の構造そのもののなかに、「反近代主義」を生み出してしまう要素が潜んでいるのではないかと考えています。近代の良い点、成功した点は間違いなくあるわけですが、実はその近代の長所や成功そのものが、弱点や難点を生み出す原因にもなっているという、ある種のジレンマのような構造になっているのではないでしょうか。
近代の「成功」とは、まず何より、人が簡単に死ななくなったということです。近代以前の世界では、人類は常に飢えや寒さや疫病に苦しめられ続けており、一言で言うと人間は「簡単に死ぬ」存在でした。乳幼児死亡率が大変高く、私がもともと研究していた古代の世界では、二〇歳になるまでに出生者の半分が死亡し、平均寿命は二五歳に満たなかっただろうと推計されています。
中世から近世になると、平均寿命は若干伸びましたが、それでも四〇歳から五〇歳程度にとどまっていた。ところが近代になって、国家福祉・経済機構・科学技術などが進歩することにより、人間はなかなか死ななくなりました。平均寿命は八〇歳くらいに伸び、一九世紀初頭に一〇億人であった世界の人口は、現在七〇億人を突破するという成長を遂げている。それは近代の長所であり、成功点であるわけです。
しかし、近代が成功した結果としての人口増加それ自体が、さまざまな難点を生み出すことになる。簡単に指摘すると、まず政治については、国家の人口が急速に増加した結果、政府が国民全体の意思を代表しているかどうか曖昧になり、議会制民主主義への不信が生まれてきます。同時に、マックス・ウェーバーが指摘したように、官僚機構が大規模かつ複雑なものになりすぎ、不条理な縦割り行政やタコツボ化が発生するわけです。こういった政治的現実に対してどういう欲求が生まれるかというと、現行の議会制民主主義や官僚制を廃止し、群衆の無意識的欲望を一挙にすくい上げようとするユートピア論、ティモシー・リアリーが「神経政治学」と呼んだものもその一つに当たるかと思いますが、そういうユートピア論が生まれてくる。
また、経済システムがグローバルなものにまで拡大し、誰もその全体像を見渡すことができなくなる。突発的な恐慌の増加、資源の枯渇、従来の環境の破壊という問題が生じ、ここから金融支配を過大視する陰謀論が跋扈したり、環境を破壊する経済システムを廃止せよという拝外主義的なナショナリズムやエコロジー思想が生み出されてくる。
そして科学技術、例えば医療について考えてみると、医療技術の発展は人間の寿命を延ばすことに貢献しているわけですが、それが延命のみを目的としており、死それ自体を対象化しないということが問題視されるようになる。死を直視せよ、死を科学せよという主張が現れ、死後の世界をファンタジー的に実体化したようなさまざまな宗教思想、ニューエイジであるとか、エリザベス・キューブラー・ロスが言い出したタナトロジーであるとか、そういう一歩間違えばカルトにいってしまうような、新たな死生観が生み出されてくるわけです。
山形さんは、新興国の地域開発を職業にされています。どこかで山形さんは、貧しい国で貧困にあえいでいる人々に対し、お前たちは一生貧しいままでいろと言うことはできないし、できる限り開発援助をするのが仕事なのだけれど、貧しい国がどんどん近代化されて豊かになってくると、世界全体としては資源枯渇という状況に直面するわけで、そこには深いジレンマが伴うということを書いていらっしゃいました。近代の構造そのものに存在する、こうした問題については、どうお考えでしょうか。
山形 その問題に対する標準的な答えというのは、資源枯渇論にしても環境破壊論にしても、これまですでに何度も言われてきたことだ、ということです。昔から石炭枯渇論が出たり、あるいは紙がなくなると言った人もいたんですけれども、そういうのが出てしばらくすると、新しい技術が出てきたり、市場のメカニズムで足りないものは高くなっていくので、何らかの代用品が生まれたりする。ですから資源枯渇論に対する答えというのは、「まぁ、何とかなりますよ」と言うしかない。
でも、そんな説明では相手も納得しないでしょう。「どう解決するんだ!」と言われたら「俺は今は知らないけれども、将来切羽詰まった人が何か考えるよ」と答えるしかないわけで。結局、平行線をたどるしかない議論になるんですね。
そこだけ見るとこっちに一理あるかもしれないけど、向こうの方だって、今は何とかするすべを持っていないという意味では正しい。ですから、両方の言い分に正当性があるんですよね。そこが辛いところではあります。
ただ、じゃあ成長するなと言えるか、どこかのスラムにいる人に「君たちの経済発展はそこで打ち止め」って話ができるかと。「これまでの成長重視の経済を見直さなきゃいけないんじゃないか」と言っている新聞記者に、「じゃあ、君たち明日から電気を使うのをやめてくれますか」って言うと、そうもしてくれないのでね。そうしたら、みんなが電気を使えて、ある程度生活水準が高くなることを目指さざるを得ないだろうと言うしかないんですよね。それができるのかと言われると、「これまでは何とかできていたから、今後もできるはずだ」という以上の答えは持ってないです。そこは、弱いところでもあります。ただ一方で、これまでは何とかなってきたというのもまた、事実ですから。
大田 極論を言えば、未来については、誰も正確に予見することができないわけです。そしてそれゆえに、未来に対するスタンスとしては、心理や性格に依拠する部分が非常に大きく、未来は分からないけれどもどうにかなるさという楽観的な性格を持った人と、分からない未来に対して過剰な不安を抱く人がいる。さらには、このままのペースで社会が動いていけば、何らかの限界に突き当たる可能性が高いわけで、未来に対して不安を持ってしまう人たちの方が、むしろ現代社会ではマジョリティになりつつあるのかとも思うのですけれども。
山形 そういう人々は、マジョリティにまではなってないと思います。口でそう言うのと、実際に何か行動を起こすというのは別の話ですから。確かに、そういうことを口で言う人は増えていると思います。また、メディアや知識人の論調は、そういう傾向に流されやすいところがある。でも、実際にそれで何かしようという人は、僕はそんなには多くないと思う。
ただ、確かに将来のことは分からないし、いずれ変わる部分があるのも確かです。その辺が、先ほど言った反近代的とか、反進歩的な発想を受け入れやすくしている土壌ではないでしょうか。これは、ポストモダニズムの問題やオウム真理教などの話にもつながってくると思います。
ですから、近代そのものというよりは、むしろ自分の漠然とした、将来このままでいったらヤバイんじゃないかという不安があると。と同時に、さはさりながら、自分がそれに対して何かすることはいまひとつ面倒だなという気持ちとの齟齬がある。そこで、皆なんとなく不安になっている。
そんなときにカルト的な話を聞くと、魅力的なんだとは思います。ですから、大田さんのおっしゃる近代の難点というものは、どこまで本当に存在するのかと。政治も重構造化しており、国民全体の意思を代表しているのかと言うけれども、もともとそういう心配をする必要が出てきたのも、近代の結果でしょう?
それまでは王様が権力者で、国民全体の意思はあまり考慮されませんでしたが、普通の人はそんなことは気にしなかったんですよね。逆に言えば、「国民全体の意思が代表されるべきだ」という話を近代がつくってしまったがゆえにこういう問題が出てきているという、マッチポンプのような現状がありますよね。
実際に意思決定とは、いろいろな妥協の結果ですから、百パーセント満足という人はおらず、皆が多少は不満を持つという状況になってくる。でも、俺の意思も反映してくれるはずだという夢を持たせているという意味では、近代の弊害というのはあるかもしれない。
科学に関しても、人々に明るい未来を約束しすぎているという面もある。民主主義で人々の意思が反映される「はずだ」と言いつつ、反映されていない。科学ですべて解決されると言いつつ、解決されていない。そのあたりに、難しさがありますよね。
とはいえ、「解決されるかもしれないけど、されない部分もあるからよろしく」というのでは、なかなか人がついてこない部分もあるだろうし(笑)。近代というものが、どのくらい現実的な期待を皆に抱いてもらうかというのは、多分いつも苦労しているところでしょうね。そこら辺が、オウム真理教みたいなものがつけ込む隙なのでしょうけれど。
大田 現状においてすでに困難に直面しているというより、これから恐慌が起こるかもしれない、資源が枯渇するかもしれない、環境が破壊されるかもしれない、といった数々の不安要素が散らばっており、そしてそこから、あらかじめすべての不安要素や不確定要素を払拭してしまおうという幻想的思考が生じてきます。過去にはナチズムの運動があり、日本ではオウムのようなカルトが生まれてきたように。そこから考えると、これまでの歴史のなかでは、さまざまな不安感を全面的に解消しようとして起こされた下手な行為こそが、むしろ大きな悲劇を生んでしまったと言わざるを得ないと思うのですよね。
山形 はい。社会主義しかり。(つづきは『サンガジャパン』vol.10で)
大田俊寛(おおた・としひろ)
1974年生まれ。一橋大学社会学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了、博士(文学)。現在、埼玉大学非常勤講師。専攻は宗教学。著書に『グノーシス主義の思想――〈父〉というフィクション』(春秋社)、主な論文に「鏡像段階論とグノーシス主義」(『グノーシス 異端と近代』所収)、「コルブスとは何か」(『大航海』No.62)、「ユングとグノーシス主義 その共鳴と齟齬」(『宗教研究』三五四号)、「超人的ユートピアへの抵抗――『鋼の錬金術師』とナチズム」(『ユリイカ』No.589)など。
山形浩生 (やまがた・ひろお)
1964年東京生まれ。東京大学工学系研究科都市工学科修士課程、およびマサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。大手調査会社に勤務するかたわら、科学、文化、経済からコンピュータまで、広範な分野での翻訳と執筆活動を行う。著書に、『新教養主義宣言』『要するに』(ともに河出文庫)、『新教養としてのパソコン入門』(アスキー新書)、訳書に『クルーグマン教授の経済入門』(日経ビジネス人文庫)、『雇用と利子とお金の一般理論』(ポット出版)、『貧乏人の経済学』(みすず書房)、『この世で一番おもしろいマクロ経済学』(ダイヤモンド社)、『さっさと不況を終わらせろ』(早川書房)ほか多数。
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