云く、 ---------------------------------------------------------------- そうですか。一般的な著作や日蓮展等、そのようなところでしか文献を 目にすることが出来ない一般人にはそれは知らなかったです。 また、重書の写本というよりは、どうしても真蹟に着目点を置いてしま いがちですが、大石寺の重書の書写は、どの時代、どの方の書写のもの でしょうか。 ----------------------------------------------------------------
※この質問については初歩的な問題であり、新編御書の目次を見るだけで結論は明瞭であります。祖判の写本の数では日興上人のものが圧倒的で他門の追随を許さないものがあり、日目上人の「一代大意抄」などは珍重されてしかるべきであります。
また、研究教学書(富士宗学全書)の目次だけを見ても、いわゆる相伝書の類で百六箇抄以外のものはすべて大石寺に流伝していることがわかります。ただ百六箇抄については古伝が無いというのが実情であります。
創賊等が大石寺には何もない、と云っているのは富士宗学要集の編集後記に、日亨上人が他山の日源等の写本を使用し一考を加えて高芳をもって謄写した、と述べられているように他山の写本を使用してどのような経過を経て要集に発表されたかはまったく書かれていません。それが大石寺の写本と対照したのかどうか、それすら述べられておりません。
ただ、御本尊七箇之相承に関しては聖典や要集に発表されたものは研究教学書とまったく同じでこの書も分解して詳細に分析をするとおもしろい結果が引き出されます。
百六箇抄に関しては何時?、誰が持ち込んだのかまったく不明で、おそらく要山から輸入されたものではないかと考えられるし、有師は広く全国を歩かれているのでその可能性も考えられるが尼崎の隆門を高く評価されているところからその可能性は薄いとすべきなのか、史料が乏しいのでうかつに結論は出せません。
日淳上人は聖典に発表するさい、百六箇抄を百七箇≠ニしています。下種の第三の本文中の本迹勝劣の文を一箇として総じて百七箇となっています。新編御書では原型を重んじて百六箇としていますが、私じしんは日淳上人の説を支持して名目は「百六箇抄」としても数量では百七箇を支持するものであります。
云く、 ---------------------------------------------------------------- しかし。松木さんはやはり、どのような状態であっても大石寺に帰依さ れておられるのですね。文面からにじみ出ているようです。 提案なのですが、やはり、松木さんのいう気違い行為はもうお止めにな られては。 ----------------------------------------------------------------
※これは貴方の思い違いであり私に「反大石寺」の過剰な期待を持ったのではありませんか。(笑)、私は現在応顕寺の気違ひ℃膜盾ネどから大石寺の教義に大きな疑惑を持っているとともに、宗教そのものに対する冷徹な見方も失ってはいない。
宗教とは人間≠ェつくりあげたもので本来は雲の上にある神々の座はすでにロケットや人工衛星がぶっ飛ばしてしまった。仏教は現実的な自然世界を観察して現象世界の中に真理を見つけようとしたもので、本来の仏教では抽象的な現象についてはまったく問題としてはいなかったもので、たとえば霊魂とか死後の世界とかの質問にはブッダはまったく返答されていない。
ブッダ・ゴーダマがひたすら弟子に説いたのは修行の方基≠フみであり、四諦・十二因縁・八正道である。最後の涅槃にあたり阿難に示した最後の言葉も「ただ怠らず務め励めよ」である。
或は、弟子の一人ひとりが瑜伽(禅定)によって得られる悟りの世界が個々に相違することを認めていたのではあるまいか。または得られた悟りに甘んずることなくさらに真理を探りつづけることを教えたものと思われる。浄土系のさる僧侶が発刊した「仏陀」という書籍に「道の体系」という副題がついていた。私はこの「道の体系」という言葉がよく仏教の本質を表していると感じている。
私は本年、私の母の三回忌にあたり、三件の正宗寺院関係から断られ、最後に札幌正信会の行足寺の川田御尊師にお願いして三回忌を無事に奉修している。これも私の人生の流れなのだろう。
数十年ぶりに行足寺に行き、誰もいなかったので本堂安置の日達上人の御本尊を拝して唱題をあげているうちに自分が信心を始めたころのなつかしさがよみがえり、万感むねに迫るものがあった。
私は大石寺関係者からも異端扱いをされてきたし日正寺の幹部法華講員からも私を批判するむきがあったことを知っている。ただ、私に面とむかって議論をふっかけてくる者がいなかっただけである。(笑)、
「3・11」によって亡んだのは東日本だけではあるまい。最もぶっ飛んだのは大石寺も含む日蓮系≠ナはなかったか。
ネットでは立正安国論が盛んに沙汰され、日蓮宗祖の時代の正嘉の大地震が月刊誌に取り上げられたりしたが、日蓮系の宗派で安国論を通して世間に正法の是非を論じたものがただのひとりでもいるであろうか。
牛馬巷に倒れ死せる屍を物見と為し、の情景が現実に起きたのである。絶望と悲嘆にくれる民衆の中に飛び込んで宗祖の教えを敷衍する行者がひとりでもいたか。私も含めてである。
悲惨な境遇に追い込まれ、すべてを失ったどん底から、わずかな希望の一点を見つめて這いずるように立ち上がった多くの人々は日蓮の教えで立ち上がったのか。あるいはキリストや親鸞の教法によって生きる希望を見いだしたのであろうか。ハッキリ云うがそんにもの聞いたことがない。
すべてを失ったものは、もう失うものは何もないことを悟ったから絶望の淵から一歩のあゆみを進みだしたのである。それはほんの一歩の踏みだしだったが、しだいに歩みが加速して生きることに持った希望に確信をもち苦難を乗り越えだしたのである。
「3・11」は、すべての宗教の無力さを証明した大事件でもあったのである。
|
|