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http://megalodon.jp/2009-0318-0311-17/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/315.html
教皇庁とフリードリッヒ二世ならびにその子との間の抗争,イタリア・ルネッサンス期におけるヴァチカンの異教化,宗教改革によるカトリック教会の分裂,反対宗教改革運動によって始められた,勝敗の決しない,しかしながらむごたらしい争い,18世紀における教皇庁の精神的無力と19世紀における積極的な反自由主義闘争というふうに,次々に不幸な事件が連続した。しかし,そして,いまわれわれの生きている,この決断を要する時期において,『キリストに合うバプテスマを受けて』「約束による相続人」<ガラテヤ人への手紙第三章27~29>となった西欧世界の全ての人間と,西欧的な生活様式を採用することによって,「共に約束にあずかる者」となり,『共に一つの体をつぐ者』<エペソ人への手紙,3:6>となったすべての異邦人とがこぞって,教皇に対して,"キリストの代理者”という(管理人注:12使徒はキリストを神とは言わず神の代理人としパウロはイエスを神としたがVICARIUS FILII DEIは神の代理の意味であろう)大変な称号にふさわしい行動を示すよう要求するのは,当然であり,正当なことである。
ペテロ(注参照)の師は,ペテロ自身に対して,「多く与えられた者からは多く求められ,多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」<ルカ福音書12:48>と言われたではないか。ローマの使徒に,われわれの先祖は,かれらの財宝のすべてであった西欧キリスト教世界の運命をあずけた。そして,「主人の心を知っていながら,それに従って用意をせず勤めもしなかった僕」が,当然の罰として『多くむち打たれた』<ルカ福音書,12:47>ときに,その打撃は"神の僕の中の僕”(Servus Servorum Dei・教皇の称号)に魂をあずけている。『男女の召使達』<ルカ福音書,12:45>のからだの上にも,おなじようにはげしく加えられた。たとえわれわれがカトリックであろうとプロテスタントであろうと,キリスト教徒であろうとなかろうと,われわれをこの窮地におとしいれた教皇は,そこからわれわれを救い出す責任がある。(管理人注:しかしその後のヴァチカンはグレゴリウス七世の大事業を台なしにしてしまった,致命的な勝利の陶酔におちいってしまっているのである)
教皇を中心とするキリスト教共和国(Respublica Christiana)は,人間の作った諸制度の中でユニークな位置を占めている。それは皇帝~教皇体制(教皇が皇帝に対して従属的な地位に甘んずる体制)の完全なる転倒であった。それはヒルデブラント(Hildebrand)<教皇グレゴリウス七世>の成し遂げた事業の偉大さを示すものであろう。ヒルデブラントとその後継者たちは教皇の支配するローマのためにアウグストウスやマルクス・アウレリウスの軍団が足を踏み入れたことのない,ライン・ドナウ両河のむこうの,西ヨーロッパの広大な地域を擁する帝国を獲得したのである。このように教皇制が勝利を得たのは,一つには歴代の教皇がしだいにその範囲を拡げていったキリスト教共和国の構成のおかげであった。それは敵意を呼び起こすどころか,その反対に信頼を起こさせるような構成になっていたからである。
キリスト教共和国の組織は,教会の中央集権および画一性と,政治の多様性および分権化との結合に基礎を置いていた。そして,精神的権力が世俗的権力の上位に立つということが,その構成原理の眼目であった。この時代の西欧キリスト教世界の君主と都市国家の大多数が,ほとんど異議なく教皇の至上権を承認したのは,当時の教皇が世俗的権力の領分の侵害を企てるおそれがなかったからである。このように政策としてまことに賢明な,世俗的野心や領土的野心に不介入の方針をとった上に,全盛期の教皇制は,ビザンティウムから教皇制のローマに譲られた遺産である行政能力を精力的に,かつ大胆に使用した。正教キリスト教社会がこの才能を,復活させたローマ帝国の亡霊に実体を与えるという離れ業に用いた。
教皇の張り巡らした蜘蛛の巣は,最初それが作られたときには,眼に見えないくらい細い糸で中世の西欧キリスト教の結束を保ち,部分にも全体にもひとしく利益を与える,強制のない統一を実現した。しかし,ヒルデブラント教会の没落は,ヒルデブラント教会を全盛に導いた美点のすべてが,教会の没落とともに正反対のものに転化したように見えたからである。11世紀に,キリスト教共和国をうち立てて,西欧社会を封建的無政府状態から救出しようとしたローマ教会の創造的人物は,今日,国際的無政府状態を解消して『世界秩序』を打ちたてようとしているかれらの精神的後継者と同じジレンマに立たされた。かれらの目的の本質は精神的権威を物理的な力に代えることであり,精神的な剣がかれらの無上の勝利をかち得た武器であった。
しかし,物理的な力をたのむ既成の体制が,精神的な剣を無視して,平然としていられるように見える場合がしばしばあった。そして,そういう場合に,ローマの”戦闘教会”は,スフィンクスの謎に答えを与えるように挑戦された。神の兵士は,たとえ前進の停止という危険をおかしても、決して精神的武器以外の武器を使用してはならないのか。それとも,悪魔に対する神の戦いを,相手と同じ武器を用いて遂行すべきか。ヒルデブラントは,グレゴリウス6世に教皇庁の宝庫の管理人に任命され,その宝庫が絶えず匪賊の略奪に遭うのを見たときに,後の道を選び,軍隊を募集して武力で匪賊を追い払った。
ローマは,聖ピエトロの祭壇,つまり,教皇庁の宝庫の階段の所から始まり,次第に拡大してついに西欧キリスト教世界全体を巻き込むことになった武力闘争において,教皇が援助を求めたノルマン人のために略奪され,焼き払われた直後であった。ヒルデブラントと神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との武力衝突のクライマックスは,それから1世紀半以上のうちに,インノケンティウス4世とフリードリッヒ2世との間で徹底的に戦われた。インノケンティウス4世の時代になるとヒルデブラント自身がヒルデブラント教会を,結局,かれの敵~現世と肉体と悪魔~が,かれが地上にもたらそうと努めた神の国に打ち勝つことになるような方向に向かわせたのである。
政治家は,今も昔も,教師に心を明かさない。教会でさえ,教権組織が密議をこらして,聖ペテロをカイサルの座にすえ,それによって,そのために人々がキリストを愛し,崇拝してきた約束を人間のためにかち得ようと企て,教会の地上における支配を拡大するために,キリストの天国の掟を緩めた。<Bridges Robert・The Testament of Beautyより>
教皇制がいかにして,それが駆逐しようと努力していた,物理的暴力の悪魔に取りつかれる様になったか,ということを説明することに成功したとすれば,それと同時に,教皇制の美徳が,反対の悪徳に転化した他の諸変化の説明を発見したことになる。なぜなら,物質的な剣が精神的な剣に取って代わったことが根本的な変化であって,後はすべてその必然的帰結であるからである。教皇庁が軍国主義的になったのは,戦争は金がかかるからである。献身の精神は”神の国”Civitas Deiを通じて神自身に向けられているあいだは有益な創造力であったが,本来の対象からそれて,人間の手で作られた偶像に捧げられるようになるとともに,破壊的な力に変質したからである。<Study of History サマヴェル縮小版より要約・編集・解説>
(注)ローマ時代のモザイクでできた魚。魚座の象徴はイエス・キリストなのである。たとえば聖ペテロはイエスに出会う前の名前はシモンであるがガリラヤ湖には聖ペテロというスズメダイに属する魚がいる。学名は「Chromis simonis」という。これら魚座に関しては後に触れることにしよう。
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紀元前1600年頃クノックスで描かれたイルカと思われる(魚)の壁画。次の時代は魚座と暗示している。イエスの時代は魚座(PISCES)。
ギリシア語のイクテュスICQUS(魚)は、事実、キリスト教徒にとっては、表意文字と考えられていた。この5つの文字が、〈イエス・キリスト=Ihsou:V CristovV〉、〈神の子Qeou:〉、〈われらの救世主UiJovV Swthvr〉を表していた。
イエスがペテロについて語ったとされる「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」という言葉は、マタイ福音書が書かれたギリシャ語では、「つなぐ」と「解く」の意味が明確でない。 ヘブライ語では、「つなぐ」とは「縛る」「捕らえる」「禁ずる」という意味であり、「解く」とはその逆の意味、つまり「解く」「解放する」「許す」という意味なのである。そしてこれは、律法の解釈について使われる言葉で、例えば、ある人が行った行為について、その行為が律法に反しているか、反していないかを、祭司が律法の解釈によって判断を下す権威を持っていた。祭司による律法の解釈によって、禁じられることを「つなぐ」(つまり罪を犯したので捕縛すること)と言い、許されることを「解く」(つまり解放されること)と言ったのである。
つまり、イエスがペテロに与えた権威は、後継者としての権威ではなく、「天の国」すなわちイエス集団における祭司の権威なのである。 イエス集団を政治的に率いる役割は、イエスと同じくユダの血統を継ぐヤコブが引き継いだ。イエスは、王であり、預言者であり、大祭司でもあるので、その一部分をそれぞれペテロとヤコブが継いだわけである。では、イエスの預言者としての役割を継いだのは誰か。ヨハネである。
つまり、イエスが十字架についた後は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人が一体となって指導し、3人を中心とする12使徒がイエス集団(天の国)を率いたのである。このことを理解して福音書を読むとき、イエスの言葉や弟子たちの言葉が新たな息吹をもって響いてくる。イエスが十字架についた後のペテロの行動は、まさしく天の国の祭司としての行動であったし、ヤコブの行動は王としてのイエスの後継行動であり、ヨハネは預言者としての役割を果たしている。
ところが、王でもなく、祭司でもなく、預言者でもない、パウロがその後のキリスト教の礎となってしまった。それにより、キリスト教は、イエスの正統を継いでおらず、パウロを継いでしまった。そのため「天の国」におけるキリスト教は、比較的正しい道を歩んでいる者さえ、天の国の神殿の「異邦人の庭」に入って祈ることを許されるにとどまり、「主の民」ではないことになる。
ただ、後にパウロ派(ローマ・カトリックとプロテスタント)によって編纂された『新約聖書』には記されていない、ペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人の後継者たちは存在した。そして、その後継は神とイエスによって脈々と引き継がれている。
1886年、フランスの考古学者たちがエジプトの上ナイルのアフミムという町に近い古代墳墓から『ペテロ福音書』を発見した。調べてみると紀元130年頃に羊皮紙に書かれたものだと分かった。そして『ペテロ福音書』には、4福音書と異なった記載が29ケ所もあった。一例をあげると、イエスを処刑に追いやったのはユダヤ人でも総督ピラトでもなく、ヘロデだという。そして100名の兵士を指揮してイエスを十字架にかけた隊長の名を、ペトロニウスと記している。 さらに1945年12月、エジプト南部のナグ・ハマディという小さな村の近郊の洞窟から、素焼きの壺に封入された4世紀のものと思われる52編にも上るパピルス文書が発見された。発見したのは村の近くで肥料用の腐植土を掘っていた農夫たちである。壺の中には、キリスト教史から抹殺された『ペテロ福音書』『トマス福音書』などの福音書の現物をはじめとする数多くのキリスト教文書が入っていた。
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これが20世紀最大の発見と呼ばれる『ナグ・ハマディ文書』である。しかしこれらも『死海文書』同様怪しいものである。
夏至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で白夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で極夜となる。これが666の正体に過ぎなければよいのですが。マヤ暦の始まりが3114年8月11日,終わりが2012年12月21日で丁度太陽の南下が止まる時です。3114年+2012年=5126年+α。何処へ疎開しようが来るのは第二のノアの洪水(地球津波)ですから逃げようがありません。覚悟を決めたほうがよさそうです。神学大全を書いたトーマス・アクイナスは「諸天体は地球のあらゆる出来事の原因である」と言ったそうですがアウグスティヌスもプラトンもニュートンもシェークスピアもどうも5200年周期説を知っていたようです。そういえばあのNHKでもやっていましたね。これが創作されたキリスト教の終末論であるならば人類はなんともあっけない終末を迎えることになる。そして魚座から水瓶座になる2161年にはまた人類創世神話をつくるであろう生き残りの子孫たちが再び何かを始めることでしょう。
キリスト教の原典はある超能力者によって創られたことは間違いないでしょう。その証拠に創世記6:7~8があります。「So the Lord said,"I will wipe mankind,whom I have created,from the face of the earth-men and animals,and creatures that move along the ground,and birds of the air-for I am grieved that I have made them"But Noah found favour in the eyes of the Lord」
「わたしは人を創造したが,これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく,家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔(英文では悲嘆に暮れるの意味)する。」しかしノアは主の好意を得た。
この時点でマヤの長周期5125年を知っていた人物がいたと言えるのではないでしょうか。そして現在第二のノアにあやかろうとパラグアイに土地を買って備えているお莫迦なシオニストたちがいる。そう考えて間違いないでしょう。
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