ただ若き日を惜しめ

綾にしき何かを惜しむ、 惜しめ君ただ若き日を、 いざや折れはなよかりせば 、ためらはば折りて花なし。 「草塵集」 佐藤春夫

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第4章 降伏軍使、搭乗員の人選

【 第4章 降伏軍使の人選 】

日本はそれまで一度も戦争に負けたことがなく、降伏軍使は初めての経験でした。この屈辱的な任務に対し、人選は困難を極めました。戦争が終わり、やっと死なないで済むとほっとしたのもつかの間、状況によってはなぶり殺しにあうかもしれない軍使を喜んで引き受けるものはいるはずがありません。

事実、8月10日からソ連軍の侵攻が始まった南樺太の真岡市近郊では終戦後も戦闘が続き、ソ連軍の急襲に対し17名の軍使を派遣しましたが、途中で制止せられ指示に従って武器を地上に置いた所を、突然自動小銃で乱射され、ほとんど全員が射殺されています。

河辺中将はその回想録で人選について、次の様に述べています。

「陸軍内で随員をとるために私をてこずらしたのは、指名された一部の者が「恥辱」のこの任務を引き受け
 ることを欲しないための拒否的な態度であった。
 彼らのある者はもはや「上官の命令」そのことすらも拒否して、自決するとも降伏軍使団の一員たるの任を
 免れようとする気持ちにあるのであった。
 もしも逆に景気のよい使者であったら、どれくらいの志願者があることであろうかと私は思った」。

後日、軍使となった軍人は万一無理な要求を押しつけられた場合の自決用として全員実弾を装填した拳銃を身に着けて出発する事になります。


【全権の人選】

8月16日朝届いたマッカーサーからの命令に基づき、海軍と陸軍をそれぞれ代表する全権の人選に入ります。

陸軍は、まず梅津参謀総長が適任と考え意見しますが、梅津大将は頑なに拒否します。

海軍側も、豊田軍令部総長を説得しますが、徹底抗戦派であったこともあり、拒否されます。

そこでマッカーサーの命令が、「降伏文書に調印する程度の高度の地位の人物」の派遣を要求されているのか、それとも比較的軽易な正式調印までの「予備的な打ち合せや書類伝達程度」であるのかを確認する必要が生じました。

参謀長クラスの高官を派遣すべきか、次長クラスで良いのか見極めをしようとしたのです。
8月16日にマッカーサー宛に問い合わせが発せられます。

イメージ 3
                           [海軍省(軍令部)]


「派遣軍使の任務範囲」に関する照会の回答が17日午後に届きます。


イメージ 1


この返信によって派遣軍使の任務が降伏文書への調印ではなく、陸海軍の情報伝達が主任務である事が判明し、次長クラスを派遣する事が決まりました。

この返信文の中で日本側の問い合わせを遅延工作と疑い、重ねて早期派遣を督促しています。

イメージ 4
                          [陸軍省参謀本部(市ヶ谷)]

陸軍は軍令部次長である河辺中将が全権として、また海軍は本来なら軍令部次長である大西中将が全権として赴くべきでしたが、大西中将が16日未明に自決していた為、海軍から全権は出さずに横山少将が首席随員として任命されました。
                 

【 軍使、随員の人選 】

イメージ 2

それぞれの回想録の中から、主な軍使のプロフィールを紹介します。

[陸軍中将 河辺虎四郎]

陸軍参謀次長。
陸軍の全権は梅津参謀総長が妥当と考え総長に意見するも断られます。
人選が難航する事による軍使派遣の遅れは、マッカーサーに不信感を与えてしまう事を憂慮し、意向を尋ねられた時に「私でよろしいと言われるなら行きます」と陸軍全権を引き受けます。
河辺中将の心配は正式の降伏調印の時に、天皇自らの出席を要求される事ででした。
この要求は絶対に受け入れることが出来ないものです。

[海軍少将 横山一郎]

昭和15年から駐米武官として日米交渉に従事、英語に堪能。
特攻隊生みの親とも言われる中西中将の自決によって、代わりに首席随員を命じられ、海軍側の随員の選定を任せられます。
横山少将が懸念した事は一式陸攻の搭乗員が同じ海軍と言っても、指揮権を持たない横山少将の言う事を聞いてくれるどうかでした。
この為、海軍総司令部から「陸攻二機は横山少将の指揮を受けて全権委員一行をマニラ往復の輸送に当たるべし」との命令を出してもらいます。

[外務省 岡崎勝男]

重光外相から外務省調査局長に起用されます。
出発前に重光外相から「軍人だけやったんじゃどうなるかわからん、お前も一緒に行け」と、陸海軍の軍使が不必要に頑張って話を壊してしまわない様に指示を受けます。
ミズーリ号での降伏文書調印時にも随員として出席します。後に、吉田茂内閣官房長官、外務大臣等を歴任します。

[海軍軍令部 寺井義守中佐]

元飛行艇のパイロット、横山少将の信頼が厚く伊江島への飛行責任者として参加します。
横山少将の指示で飛行コースは寺井中佐が極秘に作成し、情報漏れを防ぐ為に出発直前に機長に渡します。
緑十字機の飛行と不時着の経緯について、詳しい情報を知っている事と思いますが、残念ながら現時点で私はその回想録を探し出す事が出来ていません。
戦後は海上自衛隊海将となりました。

[陸軍少将 天野正一]

天野少将(参謀本部作戦課長)は予定した参謀がどうしても納得せず、自分が代理になろうと決意します。河辺中将回想録には、「天野課長、不敏ながら随員に加えられたしと申し出て来る。
彼も涙を幾度か払い、予もまた天を仰いで胸迫るをこらえる。」とあります。

軍使の総数は17名となりました、連合国側は6名程度を想定していた様です。
この人数の中には、搭乗員の監視要員も含まれていました。
政府や参謀本部は、若い下士官で構成される搭乗員が厚木航空隊の反乱軍に呼応して飛行を妨害する事を恐れていました。
後に一番機の搭乗員は、伊江島への飛行中、常に厳しい監視下にあったと証言しています。



【 搭乗員の人選 】

17名の軍使一向を伊江島まで送り届ける為に、2機の一式陸攻を飛ばすことになりました。
2機飛ばす理由は、万一不足の事態が発生し1機が伊江島に到達できなくても、残りの1機で会議を成立させようとするものです。

その内の1機は横須賀航空隊が、もう1機は対岸の木更津航空隊から出すことになります。
降伏軍使の人数と名簿は文献から調べることが容易にできますが、彼らを伊江島まで送り届けた裏方であり一式陸攻の搭乗員名は、なかなか文献に登場していません。
搭乗員の回想録から名前を寄せ集めますと、以下の表のメンバーになります。
帰路に鮫島海岸に不時着するのは1番機です。
 
イメージ 6


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                   木更津離陸前の搭乗員11名の整列写真、後方は2番機。


【 横須賀航空隊1番機の人選 】

横須賀からの1番機の搭乗員は6名でした。
機長は、軍使のひとりである寺井中佐が直接推薦した大ベテランの須藤大尉が指名されました、須藤大尉は一式陸上攻撃機の教官を務める横須賀随一のパイロットでした。
人選はこの須藤大尉を中心に集められました。
さらに河辺中将の搭乗機となる一番機には飛行通訳として大西甫飛曹長が加わりました。

[須藤大尉]

須藤大尉は横須賀随一のベテラン操縦者で一式陸攻の飛行教官でした。
回想録の文面から真面目で実直な人柄が伺えます。
8月17日朝、横須賀航空隊飛行長から「生命の安全は保障できないが、重要任務を引きうけて もらいたい」との話がありました。
終戦になった後の話なので、返答に窮しますが飛行長からの重ねての要請があり引き受けることになります。
この時点では他の搭乗員が誰なのか、操縦する機種も分かりませんでした。
生還は期待できないとの事なので、身の回りの整理を行い、家族に連絡をした所、18日に長男が横須賀へ出向いて別れを告げました。

[大西飛曹長]

東京アメリカンスクールで英語を学び、ニューヨーク大学航空科に留学、帰国後に海軍に応召。南太平洋基地を操縦士として転戦します。
マッカーサーからの8月16日の指示の中に、派遣機との英語による対機無線通話を行い得るものとす」との命令により、横山少将の指示に基づき、16日夕方英語が堪能な大西は横須賀航空司令より軍用機に乗り込んで米軍機との電話交信担当を命じられます。
全くの片道キップで生還は全く期し難い任務との説明で、二時間の外出を許され家族との別れの機会を与えらます。

[大久保少尉]

横須賀航空隊陸攻分隊の大久保は、須藤大尉と同じく飛行長からマニラ行きを言い渡されます。片道だけで帰れないかもしれないとの説明を受けます。

[駒井上飛曹]

17日午前9時頃、須藤大尉から「降伏軍使を乗せて一式陸攻でマニラに飛ぶ、搭乗員は無事帰れるかわからない、命の保証も無い、君の副操を貸してくれないか」との申し入れがありました。
「重大任務なので主操の私が副操として行きます」と答え自身が引き受けます。
須藤機長からの「もし、こちらの条件が受け入れられない場合は戦争再開となる、搭乗員の自決用の拳銃を兵器庫より借用用意されたし」の指示に基づき用意し、死を想定した身の回りの整理をします。


【 木更津航空隊2番機の人選 】

2番機の主操となる河西飛曹長の回想録では、本人を含め5名の搭乗員名が挙げられています。
木更津航空隊が使用した機体はG4M1型であり、本来乗員は7名ですが機銃を全部取り外しており、射撃手が不要の為、当日の搭乗員は乗員は5名となりました。
高橋上飛曹、種山上飛曹、安念上飛曹は、日頃から河西飛曹長とペアーを組んでいる搭乗員です。

[河西飛曹長]

木更津飛行隊の河西は16日、輸送機隊長の森大尉を通して参謀室に呼び出されます。
「河西兵曹長、沖縄へ行ってくれ。」との話に思わずハッとして、戦争は終わったのになぜ沖縄なのかと、訝しげに航空参謀の顔を見ます。
「横須賀航空隊からも1機出る、飛行機の整備をしておけ、ダクラス(DC-3の意味)はいかんぞ、一式だぞ」と言われます。
横須賀航空隊からの機長が須藤大尉である事を知った木更津航空隊の河西飛曹長は、釣り合いが取れない事を心配して、上官である輸送機隊長の森大尉に同行を頼みます。

しかし、森大尉は「家内と子供を国に帰さなければならないので都合が悪い」と頑なに断り続けます。
森大尉はこの飛行が厚木航空隊の反乱軍に狙われている事を知っており、妻子の為にも死ぬわけにはいかなかったのです。

河西飛曹長は森大尉の態度に憤慨し、説得を断念します。
こうして2番機は河西飛曹長ひとりだけで操縦することになりました。

1番機と2番機の搭乗員人選で注目すべき点は、木更津飛行隊の2番機がいつも出撃を共にしているペアーで構成されたのに対し、横須賀飛行隊の1番機は寺井中佐の直接推薦した大ベテランの須藤大尉を機長とし、
搭乗員を寄せ集めた結果、木更津出発時点で初めてクルー全員が顔を合わせた人選であった事です。

結果として1番機には操縦士が3名、2番機には操縦士が1名というアンバランスな人選となりました。
さらに、1番機には海軍軍令部の寺井中佐が乗り込みます、寺井中佐も操縦経験があります。
万一、若い下士官の搭乗員が反乱を起こしたら、代わって操縦する・・・。
河辺主権が搭乗する1番機は何が何でも無事に伊江島へ到達させる体制でした。





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